リストボタン終わりの始まり

これは、チェルノブイリ原発事故の5カ月ほど後に、ヨーロッパで開かれた原発に反対の国際会議で配られた印刷物に書かれてあった言葉だという。
それは、チェルノブイリ原発の大事故によって、原発は安全だといって増設しようという動きが終わりを告げる、そういう意味での終わりの始まりだ、というのが本来の意味であっただろう。
専門家の知識をもってはやくから原発の危険性を一貫して訴えていた高木仁三郎(*)はその国際会議に参加して、この言葉は、「人類の終わりかも知れない。人類生存の終わりが始まっている ? チェルノブイリの事故はまさにこのことを印象づけた」と記している。

(*)1938生〜2000年。物理学者。高木仁三郎著作集 第一巻248頁。

終わりの始まり、このことは、聖書においても古くから記されている。世の終わりということである。 旧約聖書においては、それは主の日という表現でいろいろな預言書(*)に記されている。

(*)アモス書5の18、エレミヤ46の10、エゼキエル30の3、イザヤ13の6、オバデヤ1の15、ゼカリヤ14の1、ゼパニヤ1の7など。

ああ、恐るべき日よ
主の日が近づく。
全能者による破滅の日が来る。…
主の日が来る、主の日が近づく。
それは闇と暗黒の日…
(ヨエル書2の2)
主の日は、このように真実なもの、正義そのもの(神)に背き続ける勢力は滅ぼされる日として記されている。破滅とか闇の日などというといまわしい日のようにみえるが、この日は、人間をおびやかし、滅びへと引き寄せる闇の力、サタンの力が永久的に滅ぼされる日なのであって、本来はだれもが待ち望むべき日なのである。
人間が苦しみ、不幸に陥るのはすべて闇の力によるからである。
それゆえ、この預言書においても、キリストの時代を予告する喜ばしいメッセージが語られている。
…その後
私はすべての人にわが霊を注ぐ。
あなた方の息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。(*)
その日、私は
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。…
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書3の1〜5より)

(*)ここで夢や幻を見ると訳されているが、単なる夢、幻はじっさいにないものが仮に見えることである。幻は、単なる睡眠不足とか何かのショックを受けてふだんは見えないものが一時的に錯覚として見えることであり、そんなものを見ても何ら価値がない。ここで言われているのはそのような無意味なことでなく、それまで全く分からなかったこと、神の世界の真理がまざまざと霊の目で見えるようになる、啓示を受けるということを指している。

このように、この預言書においては、主の日は悪の力が滅ぼされる日であるとともに、まったく新たな世界が到来するということとして描かれている。それは聖霊の注ぎということである。
このことは、聖書を受け継いできた民にとって画期的なこと、考えられない出来事なのであった。神の霊が注がれるのは、祭司とか王、あるいは特別に選ばれた預言者などごく少数の人たちだけであった。 しかし、この預言者が神から示されたことは、そうした職業的な区別や男女、老若、地位の高さなど一切と無関係に注がれる新しい時代が来るということなのである。
どんなことでも、差別あり、また区別がある。
運動のできる人、できない人、また学問的なことがよくわかる人、分からない人、たくみに器械をあやつる人、まったく器械が苦手な人等々実に多様であり、みんなに与えられるなどというものはない。神との関係で最も大切なもの、神の霊を直接に与えられるということはとりわけ極めて限定されているのが当然であった。
しかし、この預言者が神から啓示されたのは、その最も重要な神の霊が、どんな人にでも与えられるというのである。これこそ、人間にとっての最大の革命であり、そのような新しい時代の到来が必ずある、というのである。
この預言者は、終わりの始まりをはっきりと知っていたと言える。裁きが下るだけのお剃るべき日、またよきものはごく一部にしか与えられないということ、そうした古き時代が終わりを告げて、新たな時代が始まるということなのである。
そしてこの「終わりの始まり」は、じっさいにキリストが来られてから現実に始まった。
悪の力を終わらせるということが現実に一人一人の魂の内になされる新たな時代となった。それが魂の内なる悪、罪の力を滅ぼして、そこにキリストが住んで下さる、聖霊が注がれるということである。
罪の力、悪の力は、確かにその終わりの時を迎えているのである。
主イエスが福音伝道の最初に言われた言葉、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」は、こうした古き時代の終わりが始まったことを告げる言葉でもあった。
神の国とは、神の王としての御支配であり、その支配は悪の力を滅ぼし、闇の力に苦しめられているものを救いだすことである。
聖書において、終わりの始まりは、決して絶望ではない。逆に主イエスの言葉にあるように、それまでの闇の時代が終わり、神の国が近づいたということの始まりでもある。
主イエスは、「天地は滅びる。しかし私の言葉は決して滅びない」(マタイ24の35)と言われた。
天地は終わりを告げる時がある。しかし、決して終わることなきものがある。それが神の言葉であり、キリストの言葉であり、それらの言葉を生み出す神ご自身であり、神の国である。
聖書の最後にある黙示録、それはまさに終わりの始まりを記した書物である。実にさまざまの混乱や闘争、飢饉、地震などが生じるが、それらの始まりであるとともに、またそれら一切を超えた新しい天と地の始まりを最後に記している。
私たち一人一人も生まれ落ちたときからすでに終わりが始まっていると言えよう。しかし、神とキリストを信じるときには、その終わりはまた新たな生命、永遠の命の始まりへと続いているのである。


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