外見では以前とまったく変わらない緑の大地、しかし、そこに住めない状態になっている地域が広がってしまった。
原子力発電という現代科学の最も高度な産物ともいえる装置がひとたび大事故を起こすと、取返しのつかない事態が生じてしまう。
しかし、除染ということが、何か簡単にできることのように思わせている。ブルドーザーで運動場の土を取り除いて隅に置くとか深く掘ってそこに埋め、その上に下の土地をかぶせるといったやり方がなされて、そうしたことはニュースでもよく報道されている。
除染の困難さについて、じっさいに福島でその作業にも関わっている福島大学のある教師がつぎのようにその困難さを語っている。
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除染するほど「住めない」と思う
5月から福島大学の同僚や福島市民の方々と一緒に福島県内の除染に取り組んでいます。最初は、通学路や子どものいる家から作業を始めました。
政府は「除染すれば住めるようになる」と宣伝していますが、それは実際に除染活動をしたことのない人の、机上の空論です。
現場で作業している実感からすれば、除染に関わるたびに、「こんなところに人が住んでいていいのか」と思います。原発から約69キロ離れた福島市内ですら、毎時150ミリシーベルトなんて数字が出るところがあります。信じられますか?
今日もその道を子どもたちが通学しているんです。30マイクロシーベルトくらいの場所はすぐ見つかります。先日除染した市内の民家では、家の中で毎時2マイクロシーベルトを超えていました。つまり、家の中にいるだけで年200マイクロシーベルト近くを外部被曝する。これに内部被曝も加味したらどうなるのか。しかしそんな家でも、政府は特定避難勧奨地点に指定していません。
そして、どんなに頑張って除染しても、放射線量はなかなか下がりません。下がっても雨が降ったら元の木阿弥です。一回除染して「はい、きれいになりました」という話じゃないんです。
今、私の妻子は県外に避難していますが、電話するたびに子供たちが「いつ福島に帰れるの」と聞きます。故郷ですからね。でも私には、今の福島市での子育てはとても考えられません。
そんな私が除染にかかわっているのは、「今しかできない作業」があり、それによって50年後、100年後に違いが出てくると思うからです。多くの人が去った後の福島や、原発なき後の地域政策を想像しつつ、淡々と作業をしています。歴史家としての自分がそうさせるのでしょう。
結局、福島の実情は、突き詰めると、元気の出ない、先の見えない話になってしまいます。
でもそれが現実です。人々は絶望の中で、今この瞬間も被曝し続けながら暮らしています。こうして見殺しにされ、忘れられようとしているわが町・福島の姿を伝えたいのです。そうすれば、まだこの歴史を変えられるかもしれない。今ならまだ……
(荒木田 岳(たける)福島大学行政政策学類准教授。専攻は日本政治史。「週刊朝日11月4日号」)
どうしても取り除けない。除いたと思ってもまた汚れている。除染作業そのものからも、放射性物質が相当周囲に飛散してしまう。しかも、除染してできた放射能を含んだ水や土地、枯れ葉、用具その他は燃やしても拡散するだけであるし、他に持って行ってもそこでも残り続ける。そもそも、大量の放射能を含んだ物質をトラックや貨車、船などに積み込むまでのさまざまの作業のうちに大量の放射能が飛散する可能性があり、そうした作業工事中に台風や大雨、地震などがあればたちまちそうした放射能が多量に付近に漏れだす。また移動や運搬のときの危険性もある。そうした運搬するトラックなどの交通手段が事故を起こしたりすればその付近がまた相当な汚染地域となりかねない。
この放射能によって汚されたものはいかにしても、それらがなかった状況と同じにはならない。半減期が何万年、いや百万年も超えるものがあるからである。
このような途方もない困難さ、それは核分裂を使うということはほんらい人間がしてはならないことであったからだ。このほかのいかなる事故や薬品公害などにもあり得ない困難さは、人間がこの核分裂を用いる道を断念する以外に道はないということを指し示すものである。
黙示録に記されているあたかも現代の原発事故を見抜いていたような記述がある。
…松明のように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川の三分の一と、その水源の上に落ちた。その星の名は「苦よもぎ」という。水の三分の一が毒を持つようになって、そのために多くの人が死んだ。…(黙示録8の10〜11)
原発の中心にある、原子核の分裂反応は、本来(天にあって)人間が扱うべきものではなかったもの、秘められたものであったと言えよう。それを破ったために、原爆、水爆などの恐るべき破壊兵器や、大事故が起これば取返しのつかない悲劇を次々ともたらし、さらに100万年も管理が必要となり、人類にとってまさに終わることのない難問となってたちはだかってくる。
このような特別な困難、それは神の明白ないましめを破った人間の記述を思いださせる。それは聖書の最初に記されている、アダムとエバが食べてはいけない、といわれていた木の実を食べてしまう。それを食べると必ず死ぬと神は言われた。
そこから人間は神に背いて魂がどんなにしても純粋な良きことができなくなった。どうしても自分中心、自分の考えや欲望に従ってしまうようになった。それは、外見では生き生きしているようであるが、その内面の奥深くを見るときには、死んでいる。
パウロはすぐれた素質と律法に関する特別な教育を受けた当時のエリートであった。しかし、そうした教育や育ちによってもどうすることもできないものが自分の内にあることを知っていた。そのような状態が、「死のからだ」であるという自覚だった。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
(ローマ 7の24)
真実な道、正しい愛のある道、そうした神の御心に沿った道からいつもはずれて人間的な考えや感情に動かされてしまう私たち、その罪はいかにしても除くことができない。どこからともなくまたあらわれる。
この困難さは、放射能の廃棄物の困難さとどこか共通するものがある。
人間の中にある罪は、いくら除いたと思っても除けない。何千年経っても同じである。 そのような強固な力をもっているものを除くのは一体あるのか。そんなものはない、というのが大多数の人間であり、世界中でそうした状況であった。
しかし、今から数千年も昔に記された旧約聖書のなかにすでに、そのような状況を打破する道が備えられていることが示されている。
…闇の中を歩む民は、大いなる光を見、
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書9の1)
これは、使徒パウロが深く嘆いたこと、自分は闇にあり、死のからだである、という状況から救いだす光が訪れることが預言されていると受け止めることができる。
現実に福島にいる放射能の高い土地に住まねばならない人たち、除染は当然していかねばならないし、そこから出てくる放射能をもった土や水、枯れ葉などを埋める地域を設定することも重要不可欠なことである。
しかし、それとともに、魂に力を与えられていなかったら、そうした放射能からくるストレスによっても弱められていく。その魂の力を得るためにこそ、罪の赦しとあらたな聖霊による力が必要になる。
持続的に行政により効果的な除染を求めていく力、そしてそれでもなお残る放射能との目に見えないたたかいに耐える力、移住やそれにともなういろいろな困難、偏見、人間関係の変質や崩壊等々、今後も当事者だけが味わっていかねばならない困難がある。
そうした難しい状況に耐えていく力、そしてそのような困難の彼方にはきっと主が最善にしてくださるという信仰による希望を持ち続けること、そこにあらゆる状況に置かれた人の唯一の道がある。まことに、信仰、希望、そして神の愛はいつまでも続くからである。