リストボタン原発問題と憲法9条

この二つの問題は、共通したところがある。
ともに、非現実的だとして、多くの政治家たち、評論家、マスコミ、学校教育などでも、とくにこの近年は真剣に扱ってこなかった。
何十年という長い間、政権政党であった自民党と政府は、その間、原発の危険性と憲法9条の重要性について真剣に検討することもなく、葬り去ろうとしてきた。そしてそうした政治的圧力のもと、社会的にもこの二つの問題はごく一部の人が考えるだけという状況になっていった。
自民党が今度政権を取り返したら、まずやろうとしていることの一つは、憲法9条を変えるということである。
「…原発反対というと、左翼だとか、反体制だというレッテルを貼り、原発の安全性を問うということすら、非現実的だとして、社会の片隅に追いやられてきた。それが、原発の安全論争自体を萎縮させてきた。…」(毎日新聞4月10日)とあるが、憲法9条に対しても、それを守ろうとする考え方に対しては似た状況がみられてきた。
しかし、莫大な経費を使って武力を装備していくという現実的な考え方、それこそが、二度にわたる世界大戦を生み出したのである。
そして、増大するエネルギーをいかに危険があっても確保し、人間の贅沢な浪費は現実だとして認めていく考え方が、長大な地震帯のすぐ近くに、原発を50基を越えて林立させるという事態を生み出し、今回のような大きな悲劇と不安をもたらしたのである。
これに対して、キリスト教の根本の考え方は、まず神の国と神の義を求める、というものであり、目先の現実的な要求を第一にするというこの世の考え方と真っ向から対立する。
それゆえに、憲法9条の平和主義を守り、また、原発がある国だけでなく周辺の国々という広大な領域に大きな害悪を与え、さらに永遠に、子孫に重大な危険を残すようなエネルギー生産の仕方そのものに反対するのである。
そしてこの、まず聖書の真理にしたがって神の国を求めるということこそが、永続的な幸いを与えるという本当の意味での現実的なあり方なのである。

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