安全だという虚構
原発の報道において、絶えず繰り返し言われているのが、「安全だ」ということである。「ただちに」影響はない、などという言葉も同様である。大気中に拡散され続けている放射線物質、水道水、農作物などの摂取の報道にも常にこの言葉がついてまわる。
許容基準の100倍の放射性物質を含んだ水を大量に放出し始めたときにも同様である。
魚介類、海草などについての報道でもやはりこの言葉が使われている。
いたずらに不安をあおってはいけない。原子力や放射性のことについて科学的な知識をほとんど持たない一般の人たちを不安に陥れるだけだ、ということもよく言われる。
しかし、原発の事故で最も恐るべきことを、事故以来一カ月になろうかとしているのに、NHKなどのテレビなどの放送では全くといってよいほど触れてこなかった。
先ごろようやく最悪の事態として、さらなる水素爆発と言っていたが、しかし、その水素爆発または、水蒸気爆発を起こしたらどうなるのか、ということには触れない。
しかも、それは原発に関してずっと以前から今回のような事故の生じる可能性を一貫して、その職業的な地位も犠牲にして主張してきた原発の専門家たちなどもはっきりと言っていることである。
それは、冷却がうまくいかない場合、高温のために燃料が溶けて圧力容器の底にたまり(すでにかなりが溶けてそのような状態になっているとみられている)、その容器をも、またそれを包む格納容器をも溶かして、おびただしい放射能をもった物質が外部に放出しつづけていくことであり、それを止めることができなくなってしまうことである。
さらに、そこに水があればその水と水蒸気爆発を起こして、格納容器ごと吹き飛ばしてしまう。そうなると、燃料のなかにある膨大な量の放射性物質、しかもきわめて高い放射能を持つ物質が広範囲に拡散されるということである。
ことにその中に含まれるプルトニウムは、大気に微粒子となって拡散されると、きわめて微量でも、それを吸入すると強いα線を出すためにガンになる可能性が大きくなる。そしてそのプルトニウムの半減期は2万4千年であり、5万年ほども経過してもなお、4分の1にしかならない。人間の生きる時間の長さを考えるとこれは永久に残るといえる長期間である。
そのようなことが生じるなら、数千万の人たちがいる東京を中心とした関東一帯はもちろん、中部地方からさらに、直線距離で福島原発から580キロほどの大阪を中心とした関西もその放射能の影響を大きく受けることになる。
チェルノブイリの事故のときには、放射性物質は、決して同心円状でなく、風向きと雨の降り方によって非常に偏った分布となった。500キロ離れても高い放射線量を示すところもあったが、150キロ程度の距離でもそれほど多くの放射線を受けていないところもあった。
8000キロ離れた日本でもその放射線の影響を受けた。
こうした、アメリカやソ連の原発の大事故があり、それ以前にも、イギリスの原子炉事故(1957年ウィンズケール炉)、ソ連の放射性廃棄物の管理がずさんであったために生じた大爆発事故(1957年)、また、1999年に起こった東海村JCO臨界事故では、死者2名と667名の被曝者を出した。(JCOとは、茨城県東海村にある住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設。)それ以外に、さまざまの事故が発生してきた。
それでもなお、推進する経済産業省、政治家、電力会社、原子力にかかわる学者たちは自分たちの利益を第一として、「安全」だ、を繰り返してきた。
このような発言は、次の聖書の記事を思いださせる。
…皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、あざむいて言う。
彼らは、手軽にわが民の傷をいやし、平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6の13〜14、同 8の11)
預言者とか祭司を、政治家、御用学者、役人、電力会社などに置き換え、彼らは、手軽に、原発の安全を説いて、心配はなにもないと言い続けた。平和を「安全」と置き換えて読むことができる。
このエレミヤの言葉は、今から2500年以上も昔に言われたのだが、現代の問題でもある。
私たちは、本当の安全、平和というものは目に見えるもの、この世の地位の高い人間たち、肩書の立派な人たちの言うことでなく、数千年前から、いかなる時代の変化にも変ることなく流れてきた永遠の真理、聖書の真理にこそ聞き従いたいと思う。