リストボタン放射線の見いだされた過程

3月11日以降、世界の歴史上で前例のない事態が発生した。歴史上でも最大級の大地震、そして大津波、さらに史上二番目といえる、原発の大事故という三重の苦難が襲ってきた。
そのうち、最も今後も長い間影響を及ぼすと考えられるのが、福島原発の大事故である。
この目には見えないが、人間の命にとって破壊的な力を持つ放射能は、どのような過程を経て見いだされれるようになったのか、簡単にその過程をふりかえってみたい。

この目に見えない放射線という現象に最初に気付かれたのは、1895年のX線の発見である。レントゲンは、真空放電管に高い電圧をかけ、黒い板紙で覆ったガラス管を放電させると、暗室内の白金シアン化バリウムが蛍光を発しているのに気づいた。それまで知られていない何かが放電管から出ているに違いないと考え、それをX線と名づけた。
それはからだをも透過して、写真に映すことができる、ということを見いだした。
ついで、ベクレルは、その翌年、蛍光を発生する物質に太陽光を当てれば放射線も発生するのではないかと考え、写真乾板を黒い紙で包み、その上に蛍光物質であるウラン化合物を付着させた。ところが、悪天候で太陽の出ない日が続いたため引き出しにしまい、数日後に取り出してみると、写真乾板が黒く感光していた。
 このことからベクレルは、ウランは他からエネルギーを与えられなくても放射線を発生する能力(放射能)があることを、発見した。
フランスのキュリー夫人は、ウラン以外のトリウムからも放射線が出ていること、さらに、それらとも異なる物質からも放射線を出すものがあることを突き止め、それがポロニウムであり、さらに、ラジウムという物質であることを発見した。1898年のことである。
そして、イギリスのラザフォードは、ウランから出ている放射線に二種類あることを発見した。それらは、α線、β線と名付けられた。 さらにガンマ線も見いだされた。その後、キュリー夫妻の娘のイレーヌとジョリオ夫妻は さらに別の放射線があることを見いだした。
そして1932年にチャドウィックは、その放射線をいろいろな物質に当てると、陽子が飛び出すこと、その放射線は陽子と同じ質量を持っていて電気的には中性であることから中性子と名付けた。
1938年、オットー・ハーンは、中性子をウランに当てるとバリウムができることを見いだし、それは、ウランがほぼ半分に割れたためであることを、女性科学者リーゼ・マイトナーが明らかにした。
これによって中性子がウランを分裂させて別の原子を生み出すことが判明した。
さらに、イレーヌとジョリオ夫妻は、その分裂のときに、中性子が新たに、2〜3個生み出されることも見いだした。
このことが、連鎖反応を起こすことの発見であった。
ここから、原爆や水爆、そして原発という道がはじまったのである。
このように、はじめは単なる科学的好奇心から生まれたものが、今日世界を揺るがす核兵器や原発という悪魔のようなものを生み出したのであった。
福島原発の大事故により、日本人は現在だけでなく、これから数十年という長い間、放射能のもたらす害毒を受けることになり、きめわて多数の人たちが、苦しみ、また悩まされ、あるいは農地から追われ、長い歳月の経験から造り出した農産物や、魚などが売れなくなり、また家族の分断が起きるという悲劇的な事態をもたらすようになってしまったのである。
こうした歴史的な過程を振り返るとき、人間の学問や知的探求心だけでは、決して本当の幸い、魂の平安は訪れないのがよく分る。
聖書に示された、愛と真実が無限に含まれている神の言葉の世界こそ、私たちの魂の探求の根源となり、究極的な目標とならなければならないということを指し示しているのである。


リストボタン原発について
ー以前に書いた記事からー


原発がいかに危険であるか、今回の原発の歴史上二番目といえる大事故によって日本人、そして世界の多くの人々もあらためてその厳しい現実に思い知らされつつある。
私自身は、理学部化学科の出身であり、高校の物理や化学の教師として生徒たちにもしばしば原子力の危険性を語ってきた。そして、「いのちの水」誌(旧名の「はこ舟」時代をも含めて)にも、原発に関してその危険性を記してきた。
それらの記述は、今日のような切迫した状況のもとではなかったが、今日のこの状況にあって、日本全体、さらに世界の大きな関心事となっているので、参考にしていただいたらと、再度掲載することにした。
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原子力の危険性について(1999年10月 「はこ舟」誌)

今回の東海村の核燃料加工会社で生じた大事故(*)において、初めて原発関係施設からの放射線の危険が一般市民にも体験されることになった。
 原子力を利用しようとするとき、必ず生じるのが放射線である。そしてこれが特に問題となるのは、人間にはそれを知覚したり、守るための感覚が備えられていないということである。
 ほかの危険なものに対しては、人間(動物)にその危険を知覚し、それから身を守るようにできている。例えば、熱さについてはただちに熱さを知覚して、そこからからだを移動させたり、そうした熱いところに近づかないようにして身を守ることができる。
 また、刺のようなものに対してもそれが皮膚を刺す痛みによってその危険をただちに感じとって、わずかの痛みによって、その刺に刺される危険から身を守ろうとする。
 あるいは、寒さに対してもそれを感じて暖かくしようとするし、寒さの中に置かれると、ふるえるがそれは筋肉を収縮させて熱を発生させ、寒さから身を守ろうとするための現象である。
 また、毒虫の毒についても、刺されるとただちに痛みが生じてそれ以上刺されることから身を守ろうとする。有毒物質についても、苦さ、しびれ、痛みを感じて吐きだそうとするし、有毒ガスなら強い刺激臭などを感じて息を止めようとするなどして反射的に身を守ろうとすることが多い。
 このようにさまざまの感覚によって危険なものに出会ってもそれを感知し、それを取り入れることを避けるとか、そこから逃げることができるように人間(動物)は創造されている。
 しかし、放射線はこうしたものと全く違っていて、人間は防御する仕組みを持っていない。放射線を浴びても痛くもかゆくもない。これは、だれでも放射線の一種であるエックス線を病院で照射されてもなんら熱くも寒くもないし、痛みもないことでだれでも想像できる。
 もし、放射線を受けて吐き気がしたら、もはや相当の放射線を浴びてしまっているという状態である。だから、チェルノブイリ原発事故のときも、今回の東海村の事故の場合も駆けつけた消防隊員たちは、放射線事故だと知らされない限り痛くも熱くもないので大量の放射線を浴びて一部の者は取り返しのつかないことになったのである。
 人間の五感で、放射線を感じることができないということは、神が人間や動物を創造されたときに、放射線から身を守るような能力を与えていなかったということになる。それほど原子力を人間が用いるということは自然に反していることだと言えよう。
 しかも、ひとたび原子力を用いて発電をするということになると、そこから生じる廃棄物はプルトニウムのように、二万四千年も経ってもやっと、そこから発せられる放射線の量が半分になるにすぎないような物質もある。だから、放射線を出す量が初めの四分の一になるまでには、その倍であるから、五万年ちかくもかかることになる。これは、人間の生活の長さからいうと、ほとんど永久的といってよいほどに長い寿命をもっていることになる。
 今回のような事故が生じて、原子力を用いるということがいかに危険を伴うかを庶民も実感したにもかかわらず、政府は一向に従来の原子力政策を変えようとしていない。
 他方、ヨーロッパの状況はどうであろうか。
 スウェーデンでは、二十年ほども前にすでに「脱原発」の方針に転じている。一九八〇年に原発の国民投票で「二〇一〇年までに、全部の原発を段階的に停止する」と決議された。そのために、使用済み燃料の施設の建設や、最終処分のための研究などに八千億円もの巨額の費用を投じる予定になっているという。
 ドイツでは、昨年誕生したシュレーダー政権によって、原発を徐々に減らすという脱原発の方針が打ち出されている。そして、期限は明示しないが、原発を廃止するという方向に進むことになっている。
 また、昨年末までに三百万キロワット近い風力発電機が設置され、世界最大の風車大国となっているという。こうした姿勢は第二次世界大戦で敗戦となった日本とドイツが原子力に対する姿勢では大きく異なっているのがはっきりとしている。
 日本では、原子力発電に向かって、突き進むばかりであって、こうした風力や太陽エネルギーを本格的に用いる研究とかに力をわずかしか注ごうとしていない。風力発電の分野では、ドイツの百分の一にも達していないという。
 また、イタリアでは、チェルノブイリ事故の翌年に、国民投票で、八〇%が反対の意志表示をし、政府も原発推進を止め、計画中の二基も白紙に戻すことに議会でも承認されたのであった。フィンランドでも新規の五基の原発の計画は凍結となった。
 そしてスイスでも新規原発を十年間凍結することになった。そのほか、ベルギー、オランダ、ギリシャ、デンマークなどでもそろって、新規の原発建設計画は凍結された。
 フランスでも、「放射性廃棄物の健康と環境への害は数十万年、あるいは数百万年にわたって継続する」このような人間にとっては、永久的とも言える害をもたらす原発への依存度を少なくしていく方向へと向かっている。その一つの現れは、高速増殖炉の開発を中止することにし、世界最大の高速増殖炉である、「スーパーフェニックス」を廃止する作業が今年から始まっている。フランス政府は、これ以上原発を建設しないで、エネルギーを別の手段でまかなう計画を出したが、これは、それまでの原発は不可欠だとする大前提が初めて破られた例だという。
 高速増殖炉にしても、アメリカやロシア、ヨーロッパなど欧米の国々がみな中止、または廃止の方向に向かっていたのに、日本だけが、強力に推進という立場を崩さなかった。それが、「もんじゅ」のナトリウム漏れの大事故が生じてやっと、高速増殖炉に向かっていた方向を転換することになった。しかし、今度は、危険なプルトニウムをウランと混ぜて発電に用いる方法にかえて無理に使っていこうとしている。
 何度事故が生じても、今回もまた政府は原発推進の方向は変えないと断言している。こんなことでは、ある外国の研究者が、アメリカのスリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発のような大事故が生じなかったら日本の政府は原発の危険性に目を開こうとしないと言っていたが、本当にそんなことになりかねない様相を呈している。
 なぜ、日本人はこのように、現在および、将来の人間に対して永久的ともいえるほどの危険を持つ原発に対して鈍感なのであろうか。ひとたび大事故が生じると、はかりしれない放射能汚染や、犠牲者をつくることへの重大な罪の重さ、あるいは何万年もの歳月にわたって危険な放射線を出し続ける廃棄物を子孫にのこすことの罪の深さを認識できないのである。…(後略)

(*)1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。この反応は約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡し、667名の被曝者を出した。
た。国際原子力事象評価尺度はレベル4で、周辺の多数の住民が緊急避難を強いられた。
この事故は、わずか 1ミリグラム(1000分の1グラム)のウランが燃えただけの反応であった。核分裂反応はふつうの物が燃えるという化学反応と比べると、100万倍ほども大きいのである。
なお、JCOとは、茨木県東海村にある住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オーのこと。
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人間の力の過信(原子力発電のこと)2004年8月 「はこ舟」第523号

関西電力の原発、美浜三号機の配管破断事故で、死者四人、負傷者七人という日本の原発史上最大の事故が生じた。そうした事故はアメリカで、一九八六年にすでに生じており、美浜三号機と同様に、配管が破断して高温の蒸気が噴出し、四人が死亡、八人がやけどをしたことがあった。
しかし、その後関西電力は報告書で、「日本の原発では徹底した管理が行なわれており、そのような事故は生じないと考えられる。また、配管が磨耗して薄くなってしまっているかどうか膨大な箇所の検査をした」という内容の報告書を国に提出していたという。
かつて、阪神大震災のときにも、その一年程前にアメリカのロサンゼルスでの大地震で高速道路の橋桁が崩壊したとき、日本の技術者は、日本ではあのようなことは決して起きないと自信にみちた調子で語っていた。しかし、現実にはそれよりはるかに大規模に高速道路の橋脚が倒壊し、橋桁が落下して甚大な被害が発生したのであった。
今回の原発の事故に、アメリカのスリーマイル島原発の事故のように、さらに別の安全システム上の事故が重なったなら、重大事故である炉心溶融(*)ということにまでつながりかねない重要な事故であった。
このように、科学技術への過信は場合によっては取り返しのつかない事態を招くことになる。
多くの科学技術者や、それを用いる政治に関わる人間たちは、人間のすることはすべてきわめて不完全であるという基本的な認識ができていないことがしばしばある。今回の破断事故も、破断したところが点検リストに入っていなかったということであり、ほかにもそうした点検リストからもれている箇所が多数見つかっている。
厳密に正しく検査をしようとすれば、膨大な数の点検をしなければいけないのであって、それらを完全にするかどうかは、下請けの会社の誠実さにもかかわっている。いくら電力会社の首脳部や技術者が命令したところで、最終的に保守点検をするのは人間であり、その人を動かすのも人間であり、その人間は疲れも生じるし、勘違いもある。またときには嘘もつくし、安楽を求め、楽に収益を得ることを考える傾向がある。
それゆえ、どんな精密な科学技術であっても、個々の人間のなかに宿るそうした不真実な本性があるかぎり、今後もいかに検査などを徹底すると言ってみても、絶対安全などということはあり得ないのである。
このようなことはごく当たり前のことであり、だれでもわかっているはずのことであるが、いつのまにか、「絶対安全」だとかいう言葉が発せられるようになっていく。そして事故が起こってからいろいろの間違いや手抜き、嘘などが発覚する。
もしも、日本の原発でチェルノブイリのような重大事故が生じたら、日本では人が狭い国土に集中しているために、死者や病人がおびただしく発生し、国土は放射能で汚染され、大混乱に陥って農業などの産業、経済や交通などにも致命的な打撃が生じることが予想されている。
また、日本ではロシアのように別のところに大挙して移住するところもなく、住むところもなくなる人が多数生じるという異常事態になるであろう。
だが、日本ではそんなことは生じないなどと、何の根拠もないのに、断言するような電力会社や科学者、技術者、政治家もいる。しかし、過去の原発事故の歴史や、今回の事故を見てもそのような断言は虚言に等しいといえる。
そうした綱渡りのような危険な原発を止めることを真剣に取り上げ、そのためにはどうすればよいのかということを真剣に考えていくべき時なのである。
人間の弱さがこうした社会的な問題にもその根底にあり、その弱さや不真実、利益、金第一主義といった本性をいかに克服できるのか、それが根本問題である。
このような人間の奥深い性質に関わることは、どんなに科学技術が発達しても少しも変えることはできない。
社会的な汚れと混乱を声高(こわだか)に非難してもそれを言う人自身のなかにも同様な汚れ、罪がある。
現代の科学技術は、はるか数千年の昔に書かれた創世記にある、バベルの塔を思い起こさせる。

…彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。」(創世記十一・4より)

この素朴な言葉を表面的に読むだけでは、単なる神話か、昔の空想的物語にすぎないと思う人が多いだろう。しかし、創世記は随所に以後数千年にわたって真理であり続けるような内容が、それとなく秘められている。
ここでも、数千年前のメソポタミア地方で最も貴重な技術的産物が、大きな塔であった。それがバベルというところにあったために、バベルの塔というように言われるようになった。
当時の技術がすすんで、石の代わりに、自然にある土を用いて建築材料とするレンガを造り出し、アスファルトをも得て、高い塔を作り、天にまで届かせようと考えたという。
現代でこれにあたるのは、科学技術のさまざまの産物であり、それらは、人類を破滅に導くような核兵器や、クローン人間を造るとか、自然界にない動植物を造り出すことなど、危険なものも今日では数多く現れている。人間の精神まで、科学技術が進んだら左右できるのではないかなどということすら言われている。
しかし、そうした科学技術とその産物はいかにもろいものであるか、また人間がそうした科学技術の産物に頼り、それらは絶対安全だなどと言い出したとき、人間がみずからの醜さ、弱さや無力を忘れて、何となく神の座に座っているのと同様である。
私たちはつねにまず第一の出発点は私たち自身にあることを知り、私たちの内部のそうした不純、罪を赦され、清められ、そこから新しい力を受けるという原点に立ち返ることこそが、基本になければならないと思う。
キリストが来られたのは、まさにこの最も困難な問題の解決のためなのであった。
自分自身がまず、そのようにして内部の罪から解放され、神の国のために生きるようになっていくこと、それが私たちのなすべきことであり、また信仰によってなすことができることである。
この世の全体としての状況は、最終的には神ご自身が導かれるのであってそれを私たちは信じて生きることが求められている。
キリストが人間の罪の赦しため、罪の力から引き出すために地上に来られたという意味は、現代の世にあってますますその意義を深めているのである。

(*)炉心の核燃料が融点を超えて溶融する原子炉の重大事故。一九七九年三月に米国スリーマイル島2号機で起きた事故では、原子炉炉心の約半分が溶融した。さらに一九八六年にソ連のチェルノブイリ原発で起こった原子炉の炉心溶融(メルトダウン)は、全ヨーロッパに放射能をまき散らした。

この事故以降、この原発周辺の広大な地域で、数万人が放射能に関係のある病気で死亡している。この事故によって生じた甲状腺ガン患者は二千人近いと言われている。またこの原発事故により広島原爆の六〇〇倍ともいわれる放射能が北半球全体にばらまかれ、広大な地域が汚染され、数多くの人が放射線を受けることになった。
被災三国(ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)だけでも九〇〇万人以上が被災し、四〇万人が移住。六五〇万人以上が汚染地に住み続けている。
福井県の原発で炉心溶融のような大事故が生じると、京阪神の大都会をすぐ近くに控えていることから、 ロシアのチェルノブイリ事故をはるかに上回る死者と、一〇〇万人を越えるガン患者が生じるとも想定されており、その場合の被害の甚大さは、阪神大震災などとは比較にならない。
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二種類の残り物 ー原発の廃棄物の危険性 (「いのちの水」誌 2007年3月号 )

徳島県に隣接する美しい太平洋に面した高知県東洋町が、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の調査に応募した。その説明でそのような施設は科学技術を駆使して造られるから安全だということが繰り返しいわれる。
しかし、阪神大地震のちょうど一年前(一九九四年一月一七日)にアメリカのカリフォルニアで大地震があり、高速道路の橋桁が落下した。そのときに、日本の土木技術がすぐれているから、あのようなことは日本では生じ得ないと、土木工学の専門家が確言していたものであった。
しかし、そのような専門家の予測は見事にはずれて、高速道路の橋桁の大規模な落下が生じた。
このように、専門家が言ったとしても、信頼できないことは多くある。計算上は生じないといっても、実際に工事にかかわるのは、人間であり、耐震工事の手抜きや、最近あちこちの原発で発覚した、重大な臨界事故隠し、データ捏造や記録の抹消などでわかるように、人間が弱い不正な存在であるゆえに、安全だなどという断定をすること自体できないことなのである。
日頃の生活でゴミは多量に出てくる。そのゴミはほとんど高温で燃やしてしまうことで処理できる。コンクリートの建物などは、埋め立てなどに使ったりもする。それらはそのうち風化して土に帰っていく。
しかし、まったく異なる困難を持っているゴミがある。それが原子力発電所から大量に生み出される高レベル放射性廃棄物である。それは、原発の使用済みの核燃料から、プルトニウムを取り出した後に残るさまざまの物質(*)である。

(*)それらは、ストロンチウム九〇(半減期28.8年)セシウム一三七(30年)という比較的半減期が短いものもあるが、アメリシウム二四一(430年)、ヨウソ一二九(1570年)プルトニウム二四〇(6564 年)、プルトニウム二三九(24000年)セレン七九(6万5000年)、ジルコニウム九三(153万年)、セシウム一三五(230万年)等々。半減期が一〇万年以上のものが六種もある。

そうした放射性物質には、外部に出される放射線の量が半分になるまでに、数千年から数十万年といった我々の生活で考える時間をはるかに超えた年月がかかるのが多く含まれている。そのような物質を大量に生み出していくこと自体、はるか後の子孫まで重大な問題を残していくのであり、間違ったことである。
こうした放射性物質を三十年〜五十年間、地上で発熱や放射線の半減期が短いものが減衰するのを待ってから、ガラス固化体とし、地下三百メートルに埋める。それは大規模な地下坑道を掘ってそこに埋めていくという巨大な事業となる。
このような施設が造られるなら、その長い期間に大地震が生じたりすると、次第にその坑道が壊れ、あるいは地下水がしみ込み、どのようなことが生じるか分からないのである。検査するといっても内部に人間が入れないのであり、地上から深い穴を掘って調べるしかない。そのような調査をしたところで、一部しか分からないし、その穴をあけることで、地上に放射性物質が漏れ出る通路を造ることになって新たな危険性も生れる。
また、そうした放射性物質を原発から船や陸路で運搬するときに、何らかの事故、テロなどが発生してそれらが外部に放出されるとすれば、重大な事態となるだろう。また、そのような長期にわたる巨大な工事がなされているときに、大地震が生じて、埋設工事中の施設が破壊されるなら、大量に放射性物質が放出されることになる。
このような危険な大工事を、一部の専門家は、安全だなどと主張しているのには、驚かされる。いったい誰が何万年も先のことを保証できるというのであろうか。そのような根拠のないこと、非科学的なことを一部の科学者が政府側の立場に立って言うのである。
エネルギーをたくさん使うのは、自然のなりゆきのように前提してから、こうした危険な原発の増設をしてきた。
しかし、今月号の別稿で述べたように、食物一つとっても、日本では、毎日三百万人分もの食品を捨てていることになるというし、年間千百万トンを越える膨大な量の食物が捨てられているという。それはそれらを製造、運搬するときに使われた多量のエネルギーをも無駄に消費していることになる。
このようなエネルギーの無駄は他にも数知れずある。原発のこうした永年にわたる危険性を考えるとき、このようなエネルギーの膨大な無駄遣いをなくする方に力を注ぐべきなのである。
そしてこのようなエネルギーの無駄は、生活の贅沢化に伴っている。その贅沢化の根源はやはり物質によって心の満足を得ようとするところにある。
こうした根源的な心の問題は、物質でなく、目には見えない霊的な賜物によって満たされることがなかったら、いくらエネルギーの節約などを強調されても実行が難しい。キリスト教の真理は、魂に深い満足を与えるのであり、それゆえにおのずから質素な生活に満足できるように仕向けていく。その意味で、こうした現実のエネルギー問題の根源にある人間の欲望と満足の問題の究極的な解決の鍵を握っているのである。
聖書(福音書)に六回(*)も繰り返し記されている記事、それは五〇〇〇人のパンの奇跡といわれるものである。わずか五つのパンと二匹の魚を主イエスが祝福すると、五〇〇〇人もの人たちが満たされたばかりか、その残りを集めたら十二のかごにいっぱいになった、というものである。

(*)これらの記述には、五千人が四千人、五つのパンと二匹の魚が、七つのパン、など若干の違いがある。

これは、表面的に受けとるとおよそあり得ないことのように見える。しかし、実はここに深い真理が隠されている。だからこそ、繰り返しをいとわず、筆記用具や紙などがきわめて貴重であった時代であるにもかかわらず六回も書かれているのである。
神の真理は、ひとたび主イエスの祝福の手に触れると、それは無数の人たちを満たすことができるし、そのように満たした残りのものにも、その祝福の力は完全に残っているというのである。
それが「残ったものも十二のかごを満たした」という意味なのである。そしてたしかに、主イエスの時代の人々を満たした真理はいくら使っても使っても変質したり消滅したりせず、二〇〇〇年を経た現在でも、無数の人たちを満たし続けているのである。
それに比べると、人間が創り出した原子力発電所においては、使ったあとの「残り」が、何万年、何十万年も危険性を持ったものとなり、ひとたび大地震などや事故など予期できないことが起こると悲惨な事態が生じる。 ここにその違いが歴然としてくる。
この二種類の「残ったもの」の大きな違い、それこそは、神が私たちをどちらの方向に招いているかを象徴的に示しているものと言えよう。
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リストボタン原発の危険性について (「いのちの水」2007年7〜8月号 題558号)

七月には、予期できないことが政治や自然現象、科学技術の方面で生じた。しかし、その中で、とくに将来的にも重大な問題をはらんでいるのが原発と地震の関係である。
今回の新潟県中越沖地震において、新潟柏崎原発では、現在までに変圧器の火災や放射能漏れなど重要度の高いトラブルが六十件余り発生したが、その後、さらに、床の変形や蛍光灯の落下など比較的軽微なケースも含めると、トラブルの総数が一二六三件にものぼったという。
とくに注目すべきは、原子炉の真上にある重さ三一〇トンというクレーンの部品が破断していたことで、この原子炉はたまたま定期点検中で稼働していなかったから、大事故に至らなかったが、もし稼働中であったなら、そしてクレーンで核燃料の交換などのときに破断していたら、はるかに重大な事態が生じていたかも知れないのである。
また、事故への対応が遅れたのは、停電があったからだというが、このことについても、専門家は次のように言っている。
「今回、柏崎はチェルノブイリに匹敵する事故が起きてもおかしくない、危機一髪の状況にありました。火災がおきたこと自体も世界で初めてのケースで、世界中に打電されましたが、さらに危ないことが起きていたのです。原発内での停電はたいへん危険なのです。
停電のせいで、冷却水を動かすポンプに何らかの支障が発生した場合、冷却水は一気に高温になり、放射能はあふれ、大事故が起きることになります。」(京都大学原子炉実験所・小出裕章氏 、「週刊現代八月四日号」)
この小出氏は、毎日新聞でも、次のように今回の事故のうち、とくにクレーンの部品が破断していた事故について次のように述べている。
「使用中に地震が来ていたら、大事故につながった可能性がある。燃料が落下すれば、破損して放射能もれにつながるし、使用済み核燃料プールに重いものが落下すれば、燃料を収めたラックが破損して、臨界事故(*)になる可能性もある。」(毎日新聞七月二五日)

(*)臨界事故とは、核分裂が制御できなくなって、放射線や熱が外部に放出され人体や機器の損傷がおきる事故をいうが、それが大規模となるとチェルノブイリ事故のような大惨事となり、広大な地域が汚染されて人間が住むこともできなくなり、とくに日本のような狭い国土であれば壊滅的な打撃を与えることになる。

また、この柏崎地域の原発は、一〇〇万キロワットを越える大型のものが七基も並んでいるという世界で最大級の原発地域であるのに、地震対策が最初から不十分であったことが指摘されている。東京電力はこの原発を建設する前の調査で、今回の地震を起こしたと考えられる断層の一部を見出していながら、耐震評価の対象からはずしていたという。
そして、実際にこの原発の地下二〇kmには、今回の地震を引き起こした活断層が走っていた。また、耐震強度をマグニチュード六・五としていたが、それは今回の地震の強度の六・八以下であった。
また、地震の揺れの強さを示す加速度についても、柏崎原発は八三四ガルを想定して設計されていたが、今回の地震は二〇五八ガルという驚くべき高い数値であり、想定をはるかに上回っていたという。(毎日新聞七月三一日)
このように、科学技術とか、それによる人間の予想などというものはしばしば自然の広大無辺の現象を予見することはできないのである。にもかかわらず、科学者、技術者は、こうした実際の事件や事故が生じないかぎり、絶対に大丈夫だとか、大事故はあり得ない、それは科学技術を知らないからだ、などといって本来自分たちが決して予見できないものをあたかも予見できるかのように説明してきた。
もし今回も、原子炉の運転中にもっと大きい地震に見舞われていたら、クレーンの破断事故は、どうであっただろうか。燃料が落下したりして、放射能を持った物質が大量に外部に拡散し、あるいは臨界事故となり前述の小出氏が述べているようなチェルノブイリ級の大事故につながっていたかも知れないのである。
そんなことはあり得ない、などとよく原発推進派の学者や政治家は言うが、今回の事実でもはっきりしたように、そうした学者や政治家たちの言うことはまるで信頼がおけないのである。
前述の小出氏たちが作成した京都大学原子炉実験所が作成した「日本の原発事故 災害予想」」という文書には、大事故となった場合には、今回のケースなら、柏崎市では人口の99%までが死亡し、近隣の市街地でも放射能の強い影響のために、半数が死亡する、さらに、関東、東海、近畿という日本の中心部全体にわたって数十万という人たちがガンで犠牲になり、放射能の影響は東北にまで及ぶといった予想がたてられているという。
たしかに、チェルノブイリ原発事故がいかに国を超え、世界的に広大な被害をもたらしたかを考えると、チェルノブイリとは比較にならない大人口が密集した日本であるから、これは決して誇張したものでないことがうかがえるのである。
チェルノブイリ事故では原発から三百kmも離れた地域にまで高度に汚染された地域が広がり、事故原発のすぐとなりにあるベラルーシ共和国では、高濃度に汚染された地域に住む人々は四百万人にも及んでいた。
柏崎原発から東京まで直線距離では二百数十キロほどしかない。原発の大事故という事態になれば、一つの市や町が被害を受ける、といったこととは比較にならない状況となって日本中が大混乱となるであろう。
そんなことは起きない、地震にも万全の対策をしてあるのだ、などとよく言われてきた。原子炉本体を入れてある建物は、大事故が絶対に生じないように最も強固に安全に設計してあるはずである。
しかし、その重要な建物のなかのクレーンに破断事故が生じていたということは、人間のすることがいかに現実に対応できないかを証明したものとなった。
しかも、今回の地震がもっと大規模であって、原子炉の破壊などが生じていたら、このような恐るべき予想が現実に生じたかも知れないのである。
環境問題で二酸化炭素の排出を抑えるために、原発が再び建設を増大させようとする機運がある。しかし、 今回は地震に対するもろさに限って書いたが、原発から大量に出てくる放射性廃棄物の処理という困難な問題や、原発の増大によって核兵器が作られる危険性が同時に増えていくという難しい問題などを考えると、原発には本質的危険性を深く内在させているのである。
そして人間の科学技術や政治の力などをはるかに超える自然の災害の前に謙虚になるなら、人間がどんなに科学技術で安全だと保証しようとも、そういう保証は到底信頼できるものではない。科学技術そのものが大いなる限界を持っているうえ、そうした機器類を扱うのは人間であって、その人間はどんな過ちを犯すか分からない弱いものであるからである。
アメリカのスリーマイル島の原発の大事故、チェルノブイリの原発事故なども、機器類の問題とともに、人間の操作ミス、判断のミスが深くかかわっていたのである。
原子力発電においては、一度大事故が生じたら、取り返しのつかないことになるのであり、いかに困難であっても原発を次第に減らしていく方向へと向かうのが、この問題に対するとるべき道なのである。


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