二つの目に見えない力 ー原子力と聖霊
3月11日の大地震、大津波の被害も甚大で、現在もなお、15万人以上の方々が、不自由で苦しい避難所で生活しておられる。家族の一部またはその多くが波に呑み込まれ、家は失われ、職場もなくなり、茫然とした状態で生きておられる方々がたくさんおられる。
それだけでも、日本の歴史で最大級の大被害であるのだが、それに加えて、福島原発の問題が発生した。これもまた、チェルノブイリに次ぐ、歴史的な大事故となった。
国連放射線影響科学委員会のワイス委員長は4月6日、ウィーンで記者会見し、福島第1原発の事故について、「スリーマイル島原発事故よりはるかに大規模なのは間違いない」と述べ、さらに、同委員長はスリーマイル島原発事故では放射性物質はあまり放出されなかったが、「今は世界中の大気に放射性ヨウ素の痕跡がある」と説明したという。
原発の問題は、つきつめれば、目に見えない巨大なエネルギーの暴発というだけでない、その根本問題は、人間に有害な、目には見えない莫大な放射能の問題なのである。 放射能がなければ、阪神大震災の復興のように、数年で目ざましく復興し、次々と新たなビルは建てられ、被災地での生活も回復していく。
東北地方の多大なる被災を受けた地域も着実に道路から瓦礫は取り除かれ、水道、ガス、電気も復旧しつつあり、食料はより改善され、仮設住宅は建設がはじまっているし、政府からの支援のほか、一千億円を越える一般からの巨額の義援金の配分もそのうちになされるであろう。
さまざまの大切なものを一度に奪われた人たちが受けた心の傷、深い孤独、悲しみはいやされることがないと思われるが、少なくとも設備や生活面での復旧は着実になされていきつつある。
それに対して、原発の被害とその危険性は日増しに増大していく一方である。避難勧告も最初は10キロ、ついで20キロ、さらに30キロの範囲へと避難範囲は広がろうとしている。
放射能汚染も大気から、水、土、そして海と広がり、外国への影響すらも生じている状況となっている。韓国では、雨が降ったのでそれに含まれる放射能から子供たちを守るために、130校ほども臨時休校になったという。
原発が生み出す莫大な放射能は、数年程度ではなくなることもないし、撤去することもできない。
東京電力の榎本聡明顧問が毎日新聞のインタビューで答えた内容が、一面トップで掲載されていた。それによれば、原発の使用期限を超えたときには、原発を廃棄する(廃炉)必要があるが、そのためには、20年〜30年という長い年月を要する。
今回の福島原発では、損傷した核燃料を取り出す専用の装置を開発してそれを作ることから始めなければならないから、廃炉を終えるには、それ以上かかることは確実だという。
つまり福島原発の最終的決着は2、30年以上かかる見通しだ、と報道されていた。(毎日新聞4月8日朝刊、榎本氏は、今回の事故のあった原発の試運転など、勤務経験ある技術者。)
さらに、これらの廃炉にしたその後の膨大な廃棄物はどうなるのか、20年〜30年先の廃炉のあとがまた解決方法がいまだに決められない状況なのである。
それら廃棄物の最終的な処理というのも、莫大な量の放射性物質をどこかに持っていくしかない。しかし、どこかに持っていっても、そこで放射能をなくすることもできないのである。
地中深く埋めるということしかできない。しかし、その場所も狭い日本で受けいれるところはどこがあるだろうか。ドイツやスイスなど地下660メートルから1200メートルなどの岩塩や堆積岩などの深いところに処分する計画がある。
日本でも、地下300メートルほどに埋める候補地を募った際、高知県と徳島県の境界に近い高知県東洋町の町長がその話しを受けいれようとした。それは、2006年のことであったが、住民の強い反対でそれは中止となったことがあった。
しかし、そのような地下に広大な処分場所を作るというが、そんなところを数十万年も管理しなければならないのであり、そんなことが可能なのか、そのような途方もない長い年月に何が起こり得るのか、だれも分からない。
何万年をも越えて、いわば永久的に未来の子孫にそのような重い負担をかけつづけること事態が、自分と関係のない人間に対してはどうなってもいいという姿勢であり、未来の人間に対する犯罪行為だと言わねばならない。
アメリカのスリーマイル島の原発事故では、事故の16時間後に冷却がはじまったし、チェルノブイリ事故でも、事故発生から10日後には、冷却がはじまった。
しかし、福島原発では、一カ月経っても冷却機能は回復していない。このまま冷やし続けなければならない。
大気中に放出された放射性物質は、風で遠くまで運ばれる。雨が降れば、その地点に高濃度の放射性物質が地上に落ちていく。チェルノブイリでも800キロ離れたところでも強い放射能が計測された。
決して同心円のようにいつも薄まるわけではない。
原発の事故によって、たくさんの人々の生活が破壊されつつある。田園地帯や平和な市街地も広い領域で住むことができなくなった。農業も酪農などもできなくなり、漁業も、そしてそこでの平和な一つ一つの家庭の生活も破壊されていった。
さらに、もし原発の冷却がうまくいかないときには、燃料棒が溶けて原子炉圧力容器の下部にたまり、それが高温になっていくときには、溶けだしてその圧力容器をも溶かし、その外側の原子炉格納容器へ落ちていく。そしてそこに水があれば、水蒸気爆発を起こして、膨大な量の放射能ープルトニウム239のような半減期が2万4千年という人類の生活の時間からいえば、永久的に消えないともいえる危険物質が外部に拡散されることになる。このプルトニウムや、半減期30年ほどのセシウム137、半減期約29年のストロンチウム90などの大量飛散こそが、最も重大な事態である。
プルトニウムは、呼吸によって体内に入ると、発ガン性が非常に強く、400万分の1グラムという極微量が許容量だという。(「元素の小事典」高木仁三郎著 岩波書店)
プルトニウムは、25万分の1とか、50万分の1グラムといった極微量でも、ガンを引き起こす。プルトニウムを静脈注射したとき、その毒性はサリンを上回り、青酸カリに匹敵する。犬の動物実験では、プルトニウムの致死量は、0.3ミリグラム/Kgであるから、犬と人間とは違うが、おおまかにいえば、体重50Kgなら、0.02グラムほどで急性の重金属中毒を起こすという。そして、プルトニウムは肺に留まり続け、非常にゆっくりとしたはやさで血管へと移行し、最終的には骨ガンや肝臓ガンをも引き起こす可能性があるという。
(神奈川大学教授 常石敬一教授、京大の原子炉実験所元講師の小林圭二氏などによる。これらの記述は、「プルトニウム」56頁 講談社刊、「週刊現代」4月12日号などによる。)
これに関して、NHKニュースの解説者が、プルトニウムは重くて遠くに飛散しにくい、そしてまた決まり文句のように「安全だ」を繰り返していた。
しかし、このような解説の仕方は、一面的である。
プルトニウムは重いことはたしかだが、それが微粒子になると、1000分の1ミリ〜1万分の3ミリ程度となり、これはインフルエンザウイルス(1万分の1ミリ)よりも少し大きい程度の微少なものであるから、遠くまで運ばれる可能性は十分にある。セシウムはさらに遠くまで飛散するから それらによって、関東の広大な地域が汚染されることとなるだろう。
例えば、もし冷やすことができなくなったら―例えば、いまのような作業している近くで大地震が起こったようなときである―そのときには、いまの冷やす作業もできず、最悪の事態が生じる可能性が高くなる。
こんな、危険なものを、しかも世界で最も大地震が生じる頻度が高いような地域で、54基も造り続けてきた。
破壊された4つもの原発は廃炉が確定し、さらに5号機、6号機も廃炉とする可能性があるとのことであるから、それらを合わせると、これまた歴史上で初めての膨大な量の高濃度汚染物質の廃棄という大問題が生じる。
これもまた解決の方法がない。 最終処分した放射性物質を埋めておく場所も、方法もないからである。青森の六ヶ所村での再処理工場でも、そこで再処理した廃棄物をどこに埋めるのか、その場所すら決められていない。どこの県も何十万年も厳重に保管せねばならないような恐るべき廃棄物を自分の県に持ち込もうとするところはない。
沖縄の基地を引き受けるという県は、何十年たってもどこにもない。放射性廃棄物は、米軍基地よりはるかに危険性が大きいのであるから、そのような場所を引き受ける県など簡単に現れるはずはない。
これからも、終わることのないように見えるほどの難問が原発にはつきまとう。
これらすべては、原子力発電というものが目に見えない放射線を出すこと、しかもきわめて多量で、しかも永遠的といえるほどの長期間出し続けるからである。
原子とはもともと、英語の ATOM という言葉は、「分けられないもの」という意味からきている。(*)
人類の何十万年という長い歴史で、この原子を破壊して莫大なエネルギーを取り出すということは、ごく最近のことである。ずっとそれは強固な原子核のなかに秘められたエネルギーとして取り出すことはできなかった。それを人間が、中性子を用いて原子を壊して破片としたり、別の原子に変える方法を見いだした。そしてそれがかつてない大きなエネルギーを取り出すことにつながった。
(*)原子とは、英語でアトム atom というが、これは、ギリシャ語でatomos(アトモス)に由来する。a は否定を表す接頭語。tom は テムノー temno(切る)あるいはトメー tome(切ること)に由来する。
物質の究極的な粒子であり、それ以上分けることができないと考えられていたのでこのような名前がつけられた。しかし、原子は、さらに原子核と電子によって成っていることが明らかになり、さらにその原子核も陽子や中性子から成っていることも判明した。
そして、その原子核が壊れるときに莫大なエネルギー、通常の物を燃やしたりする化学反応のおよそ百万倍ものエネルギーを放出することも明らかになった。
そしてそのような巨大なエネルギーを取り出すということも、ヒトラーの率いるドイツに勝利するためという目的のゆえに、アメリカに亡命した優秀なユダヤ人物理学者たち(*)を中心として何十年もかかると言われていたことがわずか数年で可能となった。
(*)1939年、アメリカに亡命したユダヤ人物理学者のシラードは、同じくユダヤ人であったアインシュタインの署名した信書をルーズベルト大統領に送った。その信書のなかで、非常に強大な新型の爆弾が作られることをのべている。その後イギリスからもユダヤ系の物理学者フリッシュたちの考えによって核兵器が造りうることが明らかになっていき、それによりアメリカが、原爆をつくることへとつながった。
このように、ヒトラーのユダヤ人への大迫害があったため、アインシュタインやほかの優れたユダヤ人科学者がアメリカに渡り、彼らが中心となって原爆がつくられるようになった。
もし、ヒトラーがあのようにユダヤ人を迫害しなかったら、このようにドイツにいたユダヤ人の優秀な科学者も原爆をつくることにはならなかっただろう。 また、原発も、当時はエネルギーが足りないということではなくて、原爆の材料を製造するために原子炉がつくられ、その機能を維持しておくために、平和利用という聞こえのよいかたちにして原発に転用したのであった。原発がこのようにできてしまったのは、軍事目的を後方支援するためだったのである。
現在の原発の問題をさかのぼっていくと、このように意外なことにつながっていく。
原爆や水爆などの核兵器、それは、軍事兵器としてだけでなく、このように、その時だけで終わらず、はるか後の世代にまで、重い影を残していくことになった。
こうした原発、放射能に関することは、知れば知るほど、その困難な事態がわかってくる。それらを単に知るだけでは、私たちは希望の道が見えてこない。
原子力そのものが、エデンの園で言われていた「禁断の木の実」であったと感じている人は多い。
「その実を食べる者は必ず死ぬ」 (創世記2の17)
これは、単に科学や技術にかかわる知識だけでは、死に至るという深い意味をたたえた言葉である。
このような状況にあって、私たちにはエデンの園に植えられていたと記されてしいる、もう一つの木の重要性が浮かびあがってくる。
それが「命の木」である。 (創世記2の9)
この命の木のことは、その後の聖書では不思議なほど現れてこない。(*)
(*)旧約聖書の格言集に「正しい者の結ぶ実は命の木である。」(箴言11の30)のように、創世記の記す意味とは違ったように使われている箇所が若干ある。
旧約聖書は1400頁もあるにもかかわらずである。
それがようやく現れるのは、聖書の最後の書、黙示録である。
…耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞け。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
(黙示録 2の7)
…川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 (黙示録 22の2)
この世の目には見えない悪の力に、信仰により神の力によって勝利する者には、命の木の実が与えられるという。言い換えるとそれは神の命、永遠の命が与えられるということである。
そして、その木の葉があらゆる国の人々の病をいやすという。木の葉にこのような象徴的な意味が与えられているのは、聖書ではこの箇所だけである。人間は、単なる知識や技術だけでは死に至るのを防ぐことができない。死からの勝利、それは命の木の実を食べ、その木の葉によってあらゆる病ーからだの病を持たない人も何らかの心の病、罪を持っている―がいやされるという。
これはまた、主イエスが言われた、「私が与える水を飲む者は、永遠のいのちが与えられる。イエスを信じるだけで、命の水がその魂のうちからあふれ出る」(ヨハネ福音書4の14、7の38)ことを言い換えたものである。
このような永遠の命あるいは、いのちの水と言われているものこそ、この世界に存在する、もう一つの目には見えないが巨大な力を指し示している。
それは神であり、聖なる霊である。
この目に見えない力こそは、過去数千年にわたって人類をその根底において変革し、歴史を動かしていくという強力な力なのである。