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「すべて」が良きに」
この世ではすべてが良きになる、などということは到底考えられない。そんなことは考えたこともない、という人が圧倒的に多いだろう。
しかし、聖書においては、この一般的には、非常識なようなことが、しばしば記されている。
それは、すでに聖書の一番最初の創世記から見られる。
兄弟たちに殺されそうになり、遠いエジプトに売られてしまったヨセフについてかなり詳しく記されている。そのような悲運に遭っても絶望することなく生きていたが、その過程においても無実の罪で牢獄に入れられたりいろいろと苦難が襲ってきた。 もうそのまま暗い牢獄で病気になり、衰えて死んでしまうかもしれないと思ったかもしれないが、そのような状況に神が働いて下さり、神の与えた能力を使って、王のふしぎな夢の意味を解きあかし、それによってエジプトは厳しい飢饉を逃れることができた。
さまざまのことが生じて、自分をかつて憎んだ兄弟たちが食料の購入のためにエジプトまでやってくるという機会を通して、ヨセフはかつての兄弟たちだと分かり、兄弟たちも自分たちが殺そうとした弟だと分かって非常に驚いた。 そのような状況にあったが、ヨセフは、彼らをゆるし「あなた方は、わたしに悪をたくらんだが、神はそれを良きことに変えて、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった。」(創世記50の20)
このように、創世記という重要な書物の最後に、神が悪の力を変えて、善となすことが記されている。
聖なる霊を最も豊かに受けた使徒パウロは、その最も重要な書物において、次のように言っている。
「神を愛する者たち、その御計画に従って召された者たちには、すべての事が益となるように共に働くということを私たちは知っている」(ローマの信徒への手紙8の28)
神を信じ、愛するというだけで、病気や事故、人間関係の壊れること、仕事がうまくいかないこと等々あらゆる悪しきことがふりかかってきてもなお、それらが共に働いて益となっていく、このようなことが事実ならば、いっさいのこの世の問題の解決がなされるということになる。
さらに、これに続く箇所において、つぎのような「すべて」ということばが出てくる。
…私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方(神)は、御子と一緒にすべてのものを私たちに下さらないはずがありましょうか。…(同32節)
神はキリストを人類すべてのために十字架にかけてまで、罪を担わせて赦しを人間に与えようとされた。そして、「すべてのもの」を私たちにくださるという。
このようなことは、何を意味しているのだろうか。大多数の日本人はこのような箇所を目にしてもほとんど素通りしてしまうのではないか。すべてのものが与えられるなど、考えられないと思われるからである。ただキリストを信じるだけで、すべてのもの、例えば健康や家族、お金、家、社会的地位、仕事上の成功…等々が与えられるなど、到底信じがたいからである。
しかし、これは聖書独特の表現なのである。本当に必要なもの、一番大切なものすべて、ということである。お金や健康、家…というのは、人間が本当に必要なもの、一番大切なものとは言い難い。それがあっても、人間の本当の魂の平和や喜びは与えられないからである。
一番大切なもの、それは信仰と希望と愛、あるいは、神からくる喜び、平安、力、真実…等々である。そうしたすべてが与えられるということなのである。
言い換えると、神の御手のうちにあるよきもの、神の御支配のうちにあるものであり、「神の国」ということもできる。
神の国が与えられたら、それはすべてのものが与えられたと、実感できるであろうから。
それゆえ、主イエスは、新約聖書の最初の部分に記されている山上の説教の冒頭に、
「ああ、幸いだ、心貧しき人たち! その人たちに神の国が与えられるからだ」
と言われたのである。
このような、「すべて」は、ほかにも見られる。
…いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 (一テサロニケ5の16〜18)
いつも喜べ、とは、すべての時に喜べということであり、絶えず祈れも、すべてのときに祈れ、を意味する。喜べないときにも、祈れないときにも、また感謝できないようなときにも…。
このような一般の常識では考えられないようなことがなぜ言われているのか。それは可能なのだろうか。
主がともにいるときには、可能となる。だからパウロは、繰り返し「主にあって」(*)という言葉を使っている。
主にあって、とは主の内にあること、霊である主のうちに留まっていることであり、主とともにいることにほかならない。
(*)「主にあって」あるいは、「キリストにあって」という表現は、パウロ書簡において164回も使われている。アドルフ・ダイスマンの「パウロの研究」199頁、なお著者はドイツの著名な神学者。)
主は私たちの内に入ってきて下さり、力を与え、喜びや平安を与えてくださる。また私たちは、世界に霊的に存在しておられる主のうちに生きている。
このことは、ちょうど空気と我々の関係のようである。私たちは空気を取り入れその空気に含まれる酸素によって食物を体内で燃焼させて力を得ている。他方私たちは空気のなかに生きている。
いつも喜ぶことができるためには、人間的なこと、思ったとおりになるとか、欲しいものが手に入るといったことを考えているとそのようなことはあり得ない。
…これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(ヨハネ 15の11)
ここで言われているように、「わたしの喜び」、すなわちキリストがもっておられる喜びで私たちが満たされるとき、初めてこのようにいつも喜び、いつも感謝できるようになる。
パウロは、「古い自分は死んで、キリストが活きておられる」とも言っている。
主イエスご自身も「私のうちに留まっているならば、私もあなた方の内に留まる。そしてあなた方は豊かに実を結ぶ」と言われた。
実を結ぶ、これはすなわち、敵をすら愛し祈る心であり、困難のときにも必ず主がよきにしてくださるという希望であり、信頼の心である。また、いつも神と結びついていようとすること―絶えず祈りの状態にある心であり、よきことも悪しきこともみな良いことに変えられるという確信ゆえの感謝できる心である。
こうした「すべて」について、私たちは次の箇所も関連して思い起こす。
…愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(Tコリント13の7)
ここでいう愛とは言うまでもなく、人間の愛でなく、神の愛である。そのような愛は、神に由来するがゆえに、あらゆることをも希望をもって、神が必ず良きになされるという信仰をもって受けいれ、耐える。
あきらめでも、空想でもない。悪しきことが生じてもその背後に必ず神の大いなる御計画がある、悪の力は必ず最終的には滅ぼされる、人間のうちに宿る悪は、時至れば必ず、神によって裁かれる。世の終わりにはこの世界から悪そのものが一掃される、という確信―それこそはすべてが良きに変えられると信じるということであり、そのゆえに、すべてに耐える。
詩篇において、「主はわが牧者。私には乏しいことがない。」(詩篇23の1)と言われている。これは驚くべきことである。主が私を導いてくださるお方だと確信し、じっさいに導かれているときには、乏しいことがない、言い換えると、すべてが満たされるということだからである。
それをさらに詳しく詩的に表現したのがこれに続くことばである。
…主は私を緑の牧場に休ませ、憩いのみぎわに導かれる。
死のかげの谷を行くときもおそれることがない。…
これはたしかに、魂が本当に必要なもの、大切なものすべてに満たされている状態を示すものである。
この詩は三千年ほども昔に作られたと考えられるが、この三千年という間、愛と真実の神に導かれることこそ、究極的な幸いであるという真理は変ることがなかった。
聖書の巻頭のことば、はじめは、すべてが闇と混沌だったという。しかし、そのなかに神のことばによって光が創造された。それによってすべてが変わった。
現代の私たちにおいても、まさしく闇と混沌がいたるところに満ちている。それを根本的に変革するのは、まさに神の言葉である。光あれ! との神のひと言である。
それを受けるとき、私たちはすべてに満たされるからである。
原発、その放射能ゆえに、それはすべてのよきことを破壊していく。そして今後も、何十年という間、地元福島の人たちを中心として重い荷物となり続けるであろう。
そのような闇と混沌にあるゆえいっそう、原発とは逆に、すべてを良きにしていくキリストの真理が日本人に知らされるようにと願い続ける。