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エネルギーの源
原子力発電は、莫大なエネルギーの源だという宣伝によって多くの人たちはそれがよいものだと信じ込まされていった。原爆で何十万という人たちが死んだ国は世界では日本だけだ。 そのような恐るべきものだが絶大なエネルギーを平和的に使えるのだ、とくにいっさいの産業や日常生活、電車など交通機関などにも不可欠な電気エネルギーになるのだという宣伝、さらには温暖化の原因である二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーだ、しかも絶対事故は起こらないという偽りの宣伝で広く深く日本人には、原発はよいものだという考え方が浸透していった。
たしかに、相当のエネルギーを生み出した。しかし、それは数知れない素朴な田舎の人たちの心を金の力によって分断していくという多大の悪をも同時に生み出していった。
本来、きわめて危険なものであるゆえに、原子力に関することは厚いベールで覆っていこうとする傾向がつきまとっている。
その原子力のエネルギーは、原爆というかたちで莫大な人たちの命を奪い、またソ連ではチェルノブイリ原発事故以前にも、大規模な原子力災害が起きている。これも長い間秘密にされていた。
1957年ウラル核惨事として知られている。放射性物質である廃棄物を大量貯蔵していたものが冷却不能となり、大爆発をおこしたものである。
そして、地元の人たちは、深刻な放射能被害を受けている。自分たちのながく住んでいた村や町を追われ、家族にも亀裂が入り、人生そのものが変わってしまった人も数知れない。
さらに、チェルノブイリ事故以来、25年を経ても、大人の甲状腺ガンが増え続けている。
このように、原子力のエネルギーは、人間の心の平安を壊し、体の健康をむしばみ、村や町をも壊し、また付近の河川の清流をも破壊して死の川となしていった。
原発のエネルギーが及ぶところ、次々とこのように破壊が生じていった。
これに対して、神とキリストのエネルギー、言い換えると聖なる霊のエネルギーというのは、一つ一つが原子力のエネルギーとは逆である。
聖なる霊のエネルギーは、無数の人たちを結びつけてきた。聖なる霊こそは、敵対する人、悪をなした人に対しても恨まず、敵対しないで祈りをもってするという、天からのエネルギーを受けてきたからである。このような敵をも愛し、そのために祈る力、相手の重い罪をすら赦すことのできるエネルギー、それはいかなる人間も持っていない。
水は上から下に流れる。 下から上に流そうと思えば、エネルギーを使って押し上げる必要がある。
同様に、自分を侮辱、中傷したり、大切なもの(お金、財産、家族の命等々)を奪ったり、自分の身近な人を離反させたような人に対しては、そのような人を嫌い、あるいは見下すとか、憎むのが自然の成り行きである。会いたくもないし、思いだしたくもない、という激しい嫌悪感すら生じるだろう。
それゆえ、そのような悪しき相手がよくなるように、と心から願い、祈るというようなことは、到底人間にはできない。
そのようなことは、水を下から上に引き上げるような、強力なエネルギーを要するからである。
おびただしい水を高い山の上まで持ち上げて下に流すというのは、ただ太陽という途方もない巨大なエネルギーの塊の力があってはじめてなされる。
同様に、私たちが敵対してくる人たちのために心からの愛をもって祈る、ということは、霊的な太陽といえる神のエネルギーをいただかなければ到底できないことである。
そして、主イエスは、そのことが可能だと言われた。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」この言葉は、いかなる力を神が人間に与えることができるか、ということを意味しているのである。