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リストボタン私の灯を輝かし、闇を照らす神―詩篇18の後半

ここでは、詩篇18篇の後半部を取り上げるが、その前に前半の部分をも少し述べておこう。

…主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ …
主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
死の縄がからみつき
奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり(詩篇18の2〜6より)

わたしたちの神に対するイメージが、この詩の作者とはずいぶん違うことが2節から分かる。現代のキリスト者は神を岩としては思い浮かべることはあまりないと思われる。
日本のように、山野はいつも緑に覆われている風土と異なり、聖書の民の住んでいた地域は、緑のしげるところは少なく、砂漠のような大地が多く、露出する岩に接することが多い地域であったゆえに、この詩の作者は、不動の存在である神を岩とよんだのであろう。
神を、いかなることがあっても壊れない岩というものと結びつけて思い浮かべていたのである。
この詩の作者のおかれていた状況は、5〜7節に「死」という言葉が二回も書かれているように、生きるか死ぬかという非常に追い詰められた苦しい状態にあった。そのただ中からあきらめることなく、必死に神を岩として叫んでいる。
そこから、8節以降で、祈りに答えてくださる神の力が、躍動的な表現で書かれている。
この詩の作者に襲いかかろうとする悪の力に対して、神は天から降り、すべてをあげて救いのために降ってきてくださった。非常に力強い助けを経験したから、このように劇的な表現で言っている。
ケルブというのは天使のように翼のある不思議な動物のような、超人間的な力をもった存在の象徴であり、どこへでも行くことができる神の自由自在な本質を象徴的に表している。
そして稲妻や雹など、ありとあらゆるものを制御する力を持って、悪の力に対抗してくださると言おうとしている。
このようにこの詩の前半は、いかに神が悪の力に対して、勝利する力を持っておられるかということを作者が、霊的にリアルに体験し、また啓示されたことが書かれてある。
このような神の力の大きさ―目にみえる世界においても、また目に見えない霊的な世界にいても―を、もともと人間はごくわずかしか知らない。とくに、悪にうち勝つような力がこの世に存在するのだ、といったことももともと全く知らないのである。
だからこそ聖書を読む必要がある。聖書は一貫して、神の定めた時が来たら、悪の力を滅ぼされるということを述べている書物なのである。
具体的に神の大いなる力について16節までで書かれており、神がそのような力を持って、まさに飲み込まれようとしていたわたしを助けてくださった。敵には強力な力はあったが、神のほうがはるかに大きな力によって私を顧みて下さり、広いところへ導いてくださったのだ。
この世で悪がはびこるように見えても、その背後では神が悪の力を粉砕される。そのことをわたしたちはいつも確信しておく必要がある。

…主はわたしの正しさに報いてくださる。
わたしの手の清さに応じて返してくださる。
わたしは主の裁きをすべて前に置き
主の掟を遠ざけない。
主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
御目に対してわたしの手は清い。(詩篇18の21〜25より)

 これらの経験を基にして、作者は、神の御性質を記す。神は自分が真剣に信じて歩もうとしたら、その正しさにおいて報いてくださる。私たち自身が精一杯、清くあろうとすれば、神もそのようにしてくださるということである。
神はどういう本質であるか、それは、わたしたちの姿勢で非常に大きく変わって見えてくる。
この世においては、正しく歩んだからといって職場や周囲の社会がそれを認めてふさわしい待遇をするなどというようなことはなかなか見られない。
現在大きな問題となっている原子力発電のことにしても、それがいかに危険であるか、何十万年でも管理の必要がある放射性廃棄物の処理の方法がない、大事故のときには広大な領域に人たちが住めなくなり、生活も仕事も農地などもすべて失われていくこと、などなどをはっきりと述べるなら、企業や大学、その他の研究所からも相手にされない。
京大の原子炉実験所において原発に対してもはっきりとその危険性、問題点を指摘する研究者が少数残ってきた。しかし、彼らは何十年も助手(現在は助教という呼称)のままの地位に据え置かれた。京都大学は歴史的に自由な精神が流れてきたゆえに、彼らが、外部の原発訴訟に加わって、政治的、社会的な運動にも加わったりしても、なお大学の研究者という地位は奪われることはなかったのである。
正しい道を最も明確に歩んだのは主イエスであった。イエスは、周囲が認めるどころかこの世から葬り去ろうとする勢力によって最終的に処刑されてしまった。
このように、正しい生き方にこの世で報いられる、ということはこの世では基本的には保証されるとはかぎらない。それどころか逆に憎まれ、捨てられることもしばしばある。
しかし、神こそはそのような濁ったこの世において、唯一本当に頼ることのできるお方であり、私たちが正しく歩むときには、必ずよき報いをくださる、という真理をこの作者は体得していた。
よい報い、それはじっさいに当時としては、羊や山羊、牛といった財産をふやしてくれることもある。しかしそれ以上に、詩篇23篇で記されているように、乏しいことがない、神の目に見えない賜物によって満たされる、ということなのである。
しかし、問う人がいるだろう。私たちは本当に「正しい道」を歩けるのか? と。
歩けない、だからこそ、キリストが来てくださって、私たちのそうした弱さ、醜さを担って死んでくださった。ただそれだけを信じるだけで「正しい道」を歩んでいる者とみなしてくださるというのである。
それゆえ、幼な子のような心をもってキリストの十字架を仰ぐと、だれでもが正しい道にあるとみなされ、この詩篇で言われているように、その正しさに報いてくださる。その報いとは、聖なる霊をくださり、神の国をくださるということである。
一般の人はもちろん、キリスト者であっても、旧約聖書にある不可解な表現や古い時代の出来事や人名、国名などがよく出てくるので、これはもう古い時代のことで、我々とは関係がないものだと考えてその背後にある深い流れ、キリストに通じている霊的な真理に気付かないで読み過ごしてしまうことがよくある。
この詩においても、ひとつひとつの言葉の奥にある真理に耳を傾けるとき、新約聖書の時代に流れているものと同じものがあるのを感じ取ることができる。
私たちの神に向き合う姿勢に必ず答えてくださるのが、詩篇の作者が実感していた神であった。そのことを、さらに表現を変えて述べているのが次の言葉である。

… あなたの慈しみに生きる人に
あなたは慈しみを示し(*)
全き者には、全くあられ、
清い人には清くふるまい
心の曲がった者には背を向けられる。
あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。(26〜28節より)

(*)「慈しみに生きる人」 原語のヘブル語では、ハーシード。ヘセド(慈しみ)という言葉と語源的に同じなので、新共同訳では「慈しみに生きる人」と訳している。 しかし、この言葉は、忠実な、真実な、という意味を持っているので、英訳では、To the faithful you show yourself faithful(NIV)、あるいは With the loyal you show yourself loyal(NRS)のように、「(神に)真実、あるいは忠実な者には、神はご自身が真実であることを示す」などと訳しているのが多い。
また、「全き者」の原語は、ターミームで、「欠点のない、完全な、献身的な」、英語では、perfect、blameless、 wholehearted などと訳される。 口語訳では「欠けたところのない」、関根訳や新改訳は、「全き」と訳している。 新共同訳ではこの語を「無垢な」と訳されているが、この訳語は、現代の人々にとってはほとんど使われない言葉である上、「(神が)無垢に(ふるまう)」というような表現は一般にはまず使われない表現である。

ここで作者が自分の受けた霊的経験を語っている。この箇所はしばしば取り上げられるが、実はこれらは21節からつながっている。全き人には全き神に見えてくる。私たちは全き人、完全な人などにはなり得ないが、英語訳にあるように、神に対して真実であろうとするときには、神ご自身もその真実な姿を表してくださるということである。
さらに、清い人には清い神としてうつってくる。心の曲がった人には、曲がったものとして見えてくる。
このようにわたしたちのほうでの心の姿勢が悪いなら、神も悪いもの、曲がったものとして見えてくると言われている。
これは、人間や、周囲の自然に対しても言えることである。私たちが、誰かとかかわるとき、その人から何らかの利益を得ようという曲がった考えを持って接するとき、相手の人が、自分の思うままにならない曲がった人のように見えてくるだろう。
周囲の自然について私たちが幼な子のような心で愛をもって見つめるなら、毎日見る空や雲、青い空なども私たちへの愛をもって語りかけてくるように感じる。
神はたしかに私たちの考えとか気持ちとか関係のないところから働きかける。
私自身、キリスト教にまったく関心のないところに、神のほうから働きかけてくださった。しかし、ひとたび神がそのように近づいてくださったあとは、私たちのほうから常に神に向かおう、神を仰ぎ臨む、主に結びついていよう、とすることが重要となってくる。
主イエスも、求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる、と人間の側からのはたらきかけの重要性を言われた。
さらに、最後の夕食のときの長い教えの際にも、主イエスも、「私につながっていなさい。そうすれば私もあなた方につながっている」(ヨハネ15の4)と言われた。
このように、私たちがどのように神を見つめるか、神のことを信頼するか、愛するか、といったことによって、神はその本質を表してくださる。まっすぐ神を見れば、神もまっすぐ見てくださる。私たちが神を愛しようとするとき、神も私たちを愛してくださっているのが分かってくる。
主イエスも、まず神の国と神の義を求めよと言われたし、一番大切なことは、神を愛すること、それと隣人を愛することだと言われた。まず神の国を求め、神を愛しようとするときには、必ず神が答えてくださる。その神の国を与えてくださるし、神が私たちを愛してくださっているというのが実感できるようになる。
だから神はいない、神など信じても何もならないと思っている人には、神はその本当の姿を示してくださらない。歪んだ神しか見えないのだ。
これは人間同士でもある程度同じことが言える。わたしたちの心がねたみや憎しみなどの感情があれば、誰を見てもそうなる。
だから、神は真実なお方だと信じようとしない者には、運命が自分を迫害しているんだとか、万事が悪く見えてくる。
このようにわたしたちの心のあり方で、周囲のものの見え方がずいぶん違ってくる。だから主イエスが言われたように、幼子のような心でなければ、神の国に入れない。
この幼子のような心というのは、まっすぐに見よということで、まっすぐというのは、清いということでもある。幼子のような心とは、努力などでは持つことができないのであって、ヨハネによる福音書では新しく生まれ変わらなければ、神の国は見えないと言われている。
また人間だけでなく、自然に対しても言えることで、わたしたちの心が澄んでいれば、自然もいっそうわたしたちに入ってくるが、汚れた心であれば、いくらきれいな花が咲いていても、星が輝いていても何にも入ってこない。このように26節からは、わたしたちの心のあり方と神が関わっているんだと言おうとしているわけである。
このように、人間や社会、あるいは歴史、それから自然を見るときにも、私たちの魂の状態がまず根本的に重要だということになる。このことを、主イエスは次のように言われた。

…目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。(マタイ6の22)

外からの(神からの)光を受けるために、目が霊的に澄んでいるなら、神からの光は十分に入ってくる。しかし、濁った目をしているなら、神の光は入ってこない。人間はもともと光を持っていないから、澄んだ目を通して入ってくる神の光がなかったら、人間の魂は闇となる。
そして、ここで言われている「澄んだ」目(*)とは、原語のギリシャ語では、「単純な」目である。

(*)澄んだ、と訳されている原語(ギリシャ語)は、ハプルース haplous。この語は英語の simple と語源的には共通である。ha-が強調されると、si-のように、 s に代わることがある。例、 halas(塩)→salt。

単純な目とは、神だけにまっすぐ向かう目である。ほかの利益や他人の思い、自分の欲などを見る複雑な目でなく、幼な子がまっすぐに母親を信頼して見るような目である。主イエスも、幼な子のような心の重要性を言われたのも同じである。

…主よ、あなたはわたしの灯を輝かし
神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができる。
神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる。(29〜31節)

人間の魂には小さくとも灯(ともしび)のように燃えているものがある。何かをどこまでもやり抜こうとする気持ちや、何か良いことを思っているというのは、大なり小なり子どものときから、何か良きものが燃えているということが誰にでもある。
だから人のために良いことをしたら、なんとなく嬉しいとか、悪いことをしたりうそをついたら何か心が穏やかでないとか、誰でも本来感じる。小さい灯のようなものは誰の心の中にもあるが、それは多くの場合成長するとともに消えていく。
しかし、神を信じ、神からの力を受けるときには、その小さい灯を燃やし続けてくださる。いよいよそれが明らかになるようにもしてくださる。この内なる灯がいつも燃えているか、それとは別の火が燃えているかが大事である。神によって燃やされる火、人間の心には神が灯を輝かせてくださるのだが、それが消えてしまうと今度は良くないものが燃え出すことがある。 そのような火によって、まちがったことに情熱を注ぐようになったり、してはいけないことに関わったりするようになる。
良きともし火、それは自分が考えたり努力したり、その火を作ろうとするのでなく、神が与えてくださる。だからこそわたしたちは神の光を待ち望むのである。
神によって私たちの内なる光を強めていただくとき、周囲にある敵軍(現在の私たちにとっては、目に見えない悪の力)を打ち破ることができる。主イエスは、「私はこの世に勝利している」と言われたが、その勝利を私たちも受けることができる。
神の道こそが完全であって、「主の仰せ」というのは神の言葉のことであって、それは火で練り清められているとある。人間の言葉は良くないものが混じっていて、真実というのはなかなかありえないが、神の言葉は清められて、あらゆる不純物を含んでいないということを金属の精錬にたとえて言っている。

…主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ…
あなたは救いの盾をわたしに授け/右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる

 そして再び最初にあったように神こそは岩だ、力と言っている。そして具体的に足を鹿のように速くして高いところに立たせてくれるとある。戦いとは悪との戦いであり、そのときに力をくださる。

…主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。(47)
とくに、命の神と言われているのは、この詩のはじめの部分に書かれてあった「死の縄がからみつき、陰府の縄がめぐり、死の網がしかけられている」(5〜6節)と関連している。まさに死ぬと思われるほどの苦難に直面していた人に、命を与えてくださったと言っている。
岩なる神、この詩の終わりの部分にも、ふたたび神がわが岩であるという表現がある。初めから最後まで、何度もこの言葉が出てくる。
いかなる困難にあっても命を与える神であるゆえに、詩の最後に、そういう岩なる神をたたえよ、国々の中で感謝をささげ賛美をしますとある。 
 このように18編全体は、この人自身が非常に苦しいところに追い詰められたところから必死で叫ぶことにより、神の力をまざまざと啓示され、しかも体験したということである。このわたしたちすべての人に当てはまる霊的な経験を、このようにしてはっきりと示され、それを詩という形でみんなが共有できるようにしたという構成になっている。
いつの時代でも、わたしたちにも何らかの悪によって、しばしば苦しめられたり攻撃されたり、つぶされそうになったりする。
そんなときにこの詩人のようにわが力、わが岩なる神と叫び求めることで、例え死の縄がからみついてもそこから救い出してくださる。そういう経験をわたしたちも与えられるのだということをこの詩から知ることができる。
 詩篇が分かりにくいというひとつの理由は、私たちがそこまで追いつめられていないからである。死の縄がからみつき…と、本当に死にそうだというくらい苦しいときに立って初めて、この詩の世界がようやく少し実感できてくるのであろう。
そういう意味で詩篇というのは、深い祈りと体験の書物だということが分かる。
苦しみによって魂が耕されていくほどに詩篇の内容が実感されてくる。
詩篇が書かれたのは、二五〇〇年から、三千年ほども前になるが、そうした長い時間を超えて、現代の私たちの心に響いてくるものがあり、深い共感と力を与えられる。

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