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リストボタンふたつの太陽

福島原発の大事故以来、自然エネルギーの重要性がますます浮かびあがっている。その中で、最も世界的に今後とも重要なのが、太陽エネルギーだといえよう。
風力は、風の弱い、あるいはほとんど吹かないような地方では使えない。水力発電は、山がない平坦な国や雨量の少ないパレスチナのようなところでは難しい。地熱発電は火山や温泉のない地域では可能性が少ない。波の力を用いる発電は海がない国ではできない。
しかし、太陽のあたらない国はない。
太陽エネルギーの利用というと、太陽電池のように直接に電気に変えることや、太陽熱温水器で直接に熱に変えるようなことをすぐに思い出すことが多い。
また、核反応を用いるエネルギーというと、原発とただちに連想する。
しかし、実は、はるかな遠い昔から、人間は、核反応から生じるエネルギーを用い、また太陽エネルギーを貯えたものによって生きてきた。
それは、今の生活がなされているのは、みな太陽エネルギーによるからである。太陽がなかったら、たちまち冷えて氷点下の世界となる。(月の世界では大気がないから、太陽のあたらない裏側ではマイナス170度という凍りつく世界である。)
その太陽は、核融合(原子力発電は核分裂)という反応によって生じる莫大なエネルギーを放出しているのであって、それゆえに、人間も地上の生物たちもみな太陽の核反応のエネルギーによって生きているということになる。
それだけではない。私たちが日々食べている食物、米や野菜、肉、魚といったあらゆる食物は実は、太陽エネルギーが貯えられたものなのである。
今後、太陽エネルギーの利用が急激に増えていくにつれ、その他の分野も含め、ますます蓄電池の重要性が増大する。
だが、食物こそは太陽エネルギーが、実に効果的に貯えられたものなのである。
光合成ということはきわめて重要な化学反応であり、学校の理科教育で必ず教えられる。光のエネルギーを用いて、大気の二酸化炭素と地中から取り入れた水を結びつけてブドウ糖とする化学反応である。そのブドウ糖を数十万個も結びつけたものがデンプンである。また、そのブドウ糖をもとにして、地中から取り入れたさまざまのミネラルなどをも使い、タンパク質や、脂質などさまざまのからだを構成する物質を作っている。
私たちが米やパン、あるいは肉や脂肪などを食べると元気がでるのは、それらに埋め込まれている太陽エネルギーを用いているからである。
食事をしているとき、太陽エネルギーをからだに取り込んでいるのだ、体を動かしているとき、じっとしているときでも、心臓や肺、血液の流れなど多くのエネルギーを使っているが、それらはすべてもとをただせば、食物からきており、その食物に含まれるエネルギーは太陽エネルギーなのである。
このように、毎日の生活は、じつはあらゆる人間―ほかの生物も含め―太陽のエネルギーによって生きているということになる。
自然エネルギーの利用ということで、従来の大きなダムによる水力発電とは別に山の小さな川に水車を取り付けて発電する小規模な水力発電などもが注目されている。
こうした水力発電もじつは、太陽エネルギーを用いていることになる。なぜかというと、谷川の水が落下するエネルギーを使うのが水力発電である。その水を、何が高いところまで引き上げたかというと、それは太陽エネルギーだからである。
太陽の熱によって地上の水が蒸発し、大空まで引き上げられる。それが冷やされて雨となって降ったのが谷川の水だからである。
このように、原発の大事故によって一段と脚光を浴びるようになったが、太陽エネルギーそのものは、人間の生活と不可分に結びついてきたのである。
こうした科学的な意味での太陽の重要性は、その光がなくなったらたちまち生活できないということは子供でもわかるほどの明白なことであり、その存在はきわめて大きいのは、古代からすでに熟知されていた。それゆえ、世界のたいていの国々で、太陽を神のようにあがめるということが行われてきた。日本も天照大神というのは、太陽を神としたものである。
しかし、聖書ではそれほどに重要な太陽すら、さらに重要なもののしもべのようなものとなっている。
それは聖書の最初の創世記にすでに記されている。

…はじめに神は天と地とを創造された
地は混沌であり、やみが淵のおもてにあり、神の風が水面を吹きつのっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
神はまた言われた、「天に光があって昼と夜とを分け、地を照らす光となれ」。そのようになった。(創世記1の1〜15より)

ここで意外なのは、まず闇と混沌なただなかに、「光そのもの」が創造され、ついで植物がその光によって育つように創造された。そして太陽の創造は、その後なのである。このように、聖書においては、明確に太陽は、神秘的な神々などでなく、植物のような被造物の一つにすぎないとされている。
ここには、目に見える太陽そのものがいかに絶大なはたらきをしているとしても、それにもかかわらず、その大いなる太陽にその光や熱を与える存在こそ、根源なのだ、という明確な認識がある。
言い換えれば、肉眼では見えない霊的な光こそが重要であり、その光を創造した神こそが究極的な存在だということを示している。
太陽は目に見える世界を照らし、熱を与え、あらゆる植物や生物のいのちを支え、成長させている。
それと同様に、目に見えない光、霊的な太陽というべきものがあるのをこの聖書の最初の記述は暗示しているのである。
聖書の重要な内容のなかに、預言書がある。それらの言葉を神から直接に受け取ったのが預言者である。時代の大多数の人たちが混乱し、なにが本当に重要なのかわからなくなって、隣国エジプトという大国の軍事力に頼ったり、近辺の国と同盟したり、真の神ではない、人間の造り上げた神々に頼ったりという混沌と闇にあって、神の光と言葉をはっきりと受け取り、人々に命がけで語り続けた人たちである。
彼らは、通常の人間よりはるかに深く、明確に神の言葉を聞き取った。それゆえに、だれもが不動のもの、永遠のものと思い、周囲の国々もまた神々と思っていた太陽すらも、変質し、限界があることを知らされていた。
目に見える世界の絶大な力の根源である太陽、そのようなはたらきを目に見えない世界に持っている存在こそは、霊的な太陽である神なのだ、ということを預言者は神から示されていた。
…昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。
あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。
主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。(イザヤ書60の19〜20)

ちょうど、目に見える太陽が、あらゆるものを支え、生かし成長させていくように、霊的な太陽たる神は、私たちのいっさいを支え、成長させるものなのである。
そしてその霊的な太陽が人間のすがたをとってこの世界にきてくださるということもまた、預言書に記されている。

…しかしわが名を恐れるあなたがたには、正義の太陽がのぼり…その翼には、いやす力がある。(マラキ書 4の2)

主の名(主ご自身)を敬意をもっておそれる者には、正義の太陽たるキリストが来られる。キリストが注ぐ聖なる霊は太陽の光が四方に瞬時に届くように、翼のごとく、自由にあらゆる方面に行き渡る―それゆえにその光を翼と表現している。その光はいやしの力、罪からのいやし、病のいやしの力を持っているという。
光を翼とたとえているのは聖書のなかではこの一カ所である。それほど、この旧約聖書の最後の書の著者である預言者マラキは、キリストからの光がつばさのように世界をかけめぐるのが啓示されたのであろう。
そしてこの預言者から、450年ほど後に、じっさいにキリストが現れた。
そして、主イエスは、「私はいのちの光である」と言われたが、それはまさに霊的な太陽であることを宣言されたということができる。
私たちの体は、太陽エネルギーの貯えられた食物によって支えられ、また霊的な部分、魂といったものは、目に見えない太陽といえる神とキリストによって支えられているのである。
そして、揺れ動く地上のエネルギー政策や原発から生み出される数々の問題に巻き込まれることなく、いかなる動揺も混乱も闘争もない永遠的な存在たる太陽―神とキリストこそ、私たちの究極的な希望と力の源なのである。

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