人間に最も必要なもの―キリストの言葉
人には何が一番大切なのか、いろいろと表現はある。命が一番大切だとか、お金だとか、あるいは自分の親、配偶者、子供…等々。
しかし、最も必要なのは、キリストの言葉である、というようなことは日本においてはまず学校でも家庭でも、マスコミ、印刷物でも見たり聞いたりすることはない。
どうしてそのようなことが言えるのか。
それは、言い換えると最も私たちの弱点というのは何かを考えるとおのずからわかることである。
私たちは、ちょっとしたことでも動揺する。それは自分や他の人間という何か目に見えるものにすがろうとするからであり、常に自分の考えや欲望のとおりにしようとするからである。
また、ほかの人から認められたい、という気持ちは、誰にもある。その逆は、他人から見下される、無視されるということであるが、そのようなことをされるとだれでも動揺し、怒り、あるいは憎み、落胆してしまう。このことからも、どんなに自立しているとか、自信に満ちたというような人でもほかの人に精神的には頼っているという部分が必ずあるのを示している。
また、お金の力は、それがあると目に見えるものはたいていのものが得られるということから、強い力を人間に及ぼす。表面ではやさしそうな人が、ひとたびお金のことになると、意外な強い執着を示すということもある。
私たちの弱いということを思い知らされる決定的なこと、それは病気の苦しみや死の迫る事態にはどうすることもできないということである。高熱や、痛みのはげしい病気に陥ったらもう床についていることもやっとという状況になる。
最後に死がちかづくとき、その力は万人を呑み込んでいく。この力にうち勝つことのできる人はだれもいない。
このような人間の持つ本質的な弱さ、さきに述べた目に見える人間や金などに頼る、ということ、それをキリスト教では罪といっている。
死ということすら、罪の結果だと言われる。
そうしたさまざまの意味の弱さに勝利させるもの、それがキリストの言葉であるゆえに、キリストの言葉こそ最も人間に必要なものと言えるのである。
キリストの言葉は、このような人間の最も弱いところに力を与え、命を与えるものなのである。
そのような力を持つのは、キリストの言葉が、キリストと同質の神の力を持っているからであるし、キリストの言葉は、神のご意志を内に持っているからである。
そして神のご意志やその万能の力は永遠に変ることがないゆえに、つぎのように言われている。
…天地は滅びる。
しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。
(ルカ 21の33)
人間の方向転換、それはキリストの言葉を受けることによってなされる。
このことは、新約聖書で繰り返し記されている。
新約聖書で最初に記されているそのような記事は、漁師であったペテロとアンデレという兄弟に、湖で網を打っているという仕事の最中に生じた。イエスに従っていくなど、夢にも思ったことのないこと、毎日湖で朝から晩まで、しばしば夜通し網を打って漁をするという生活から、突然イエスという不思議な人物に従っていく、しかも漁師という職業をも捨てて、家族をもおいて従うなど、考えられないことであった。
また、マタイ福音書を書いたと伝えられる弟子マタイは、徴税人であった。現在の税務署の役人といったイメージとは全く異なるもので、ユダヤの人々を支配していたローマ帝国の手先となって同胞であるユダヤ人から税を取り立て、しかもしばしばそのときに不正に取り立てて金持ちになっていた人たちがいた。
また汚れた異邦人といつも交際しているということで、宗教的にも汚れたとされてひどく憎まれ、また差別されていたのが当時の徴税人であった。
そのような人が、ユダヤ人を救うイエスのあとに従うなど、到底考えられないことであった。しかし、そのようなマタイが突然変えられた。
通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのをみかけて、「私に従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ福音書9の9)
ここには、キリストの言葉がいかに力を持っているか、人間がどのような状況であってもただちに変える力を持っているか、しかも、変えられた人は、その直前まで何もそのようなことを期待も予想もしなかったのである。
このようにキリストの言葉、その語りかけは、人間の希望や意志、置かれた状況などいっさいを超えて働きかける力を持っている。
パウロは、彼の受けた啓示が(パウロの名を冠した書簡含め)、新約聖書の四分の一ほども占めているという点において、後世への絶大な影響を与えたゆえに、キリスト教歴史で最大の使徒といえる。
しかし、彼は、キリスト者になる前には、ユダヤ教の指導者として、キリスト教徒を迫害した。
…わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした。(使徒 22の4)
このような、キリスト教徒への憎しみに燃えていた人間がなぜ突然にして変えられて、キリスト教の最も重要な伝道者となったのだろうか。
パウロは、律法による義を否定し、ただ信仰による救いを宣べ伝えた。そこからユダヤ人が救いの必須の条件とした割礼を、救いに対しては無意味なことだとしたり、異邦人にもユダヤ人と同じように救いが与えられるとしたから、キリスト教はユダヤ人が代々重んじてきた宗教を破壊するという考えを持っていた。
しかし、パウロが変えられたのは、そうした誤った信仰や教義を説明によって納得させられたからではなかったし、最初の殉教者となったステファノの驚くべき死のときの、殺意に燃える人たちへの祈りをもってした平安な姿を目の当たりにしたということでもなかった。
ただ、天よりの光とそれとともに語りかけられたキリストの単純な言葉だけで足りたのである。
「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。」(使徒9の4) (サウルとはパウロの前の名前)
もし、この言葉を、一人のキリスト者がパウロに向かって言ったとしても、全く何の変化ももたらさなかっただろう。ステファノの驚くべき殉教を目の前に見てもなお迫害の心は変わらなかったのであるから。
しかし、何を言うか、という問題でなく、いかなる力をもって言うか、が決定的なのである。
単に多弁を弄することなら、本をたくさん読んでいる人、いつも大学の教師のように研究的な生活をしている人なら、多くの知識や論理的分析、学者の引用などを用いていくらでも多くのことを連ねることはできよう。
しかし、それらをいくら重ねてもだからといって、他者を変革する力はない。
このことは、旧約聖書の最も長大な詩のかたちをとった文書であるヨブ記にも見られる。そこでは神をおそれ、神からの祝福を受けて、平和な生活を続けていたヨブという人に突然に災難がふりかかり、財産も子供の命も失われ、さらには自分も、苦しくて耐えがたい悪性の病気になり、日夜うめくようになる。妻からも、神をのろって死ね!とまで言われた。そのとき、友人が何人かやってきてその苦しみを結局はヨブの罪へのさばきなのだとたくさんの言葉を連ねて説得しようとする。
しかし、ヨブはそれらに一つ一つ反論し、自分はこのような苦しみを受けるような悪しき罪を決して犯していないと強く主張する…。そうして長い時間が過ぎ去っていった。ヨブの苦しみはいやされず、友人たちの宗教的な雄弁も論理的な主張も何の力をもヨブに与えることができなかった。
しかし、その長い膠着状態を経て、神が語りかけた。それはまったく彼らが延々と論じ合ってきたような、宗教的な議論でなく、いかにしてヨブがそのような苦しみを受けるのかという説明も全くなかった。
神が直接に語りかけた内容とは何か、それは、大空の太陽や、星々、夕日や夜明けの現象、また地上のさまざまの動物の驚くべき行動等々、万物がいかに人間の力を無限に超えたものであり、神の無限の英知によって創造されたのだ、ということを語りかけるものであった。
ただその神の言葉によって、長い苦しみとまた人間の複雑な宗教的議論によっては一歩も進まなかったヨブの魂が根本的に変革されたのであった。
これは、神の言葉の力、言い換えるとキリストの言葉の力を指し示すものである。
私たちもまた、どんなに人間的な説得や議論を重ねても変えられない本性がある。愛や真実の尊さを知っているつもりであっても、その愛や真実を貫くことができない。
そのような固い本性を根本的に変える力を持つもの、それがキリストの言葉なのである。
そのキリストの言葉が持つ変革の力を表す記述は何カ所もあるが、それらのうちのひとつであるハンセン病(*)の人がいやされた記事がある。
…大勢の群衆がイエスに従っていたが、その中から一人のハンセン病の人が、イエスにちかづいて「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。」と言った。
イエスは手を差し伸べて「清くなれ」と言われると、たちまち、ハンセン病は治った。(マタイ8の2〜3)
(*)ハンセン病とは、以前はらい病と言われていた。らい病に似た症状を持つものもらい病とみなされたことがあるのは、旧約聖書でも、いやされたものがあるのが記述されていることでわかる。ハンセン病は日本でも非常に恐れられていたが、1941年にプロミンという化合物がハンセン病に特効があることが見いだされ、日本においてもようやく太平洋戦争後になって、その特効薬が使われるようになって劇的にハンセン病は少なくなっていった。
この清くなれ、という主イエスのひと言の力、それはたんに古代のハンセン病という、宗教的にも汚れた恐ろしい病気のいやしだけにあてはまるものならば、現在の私たちには無縁のものと思われるだろう。
しかし、この主イエスの言葉の力は、どんなに罪で汚れても、また病の苦しみがあっても、そして最終的に私たちの命を奪う死がちかづいている状況においてもなお、キリストの言葉が与えられるならば、その人の魂は清められ、またさまざまの束縛からも解放されるということを意味している。
さらに、死の力にもうち勝つということも記されている。
ユダヤ人の会堂は、安息日ごとに集まりそこで律法が朗読され、礼拝が行われる重要な建物であった。その会堂の責任者の娘が死にそうになった。会堂長は、周囲にたくさんの群衆がそばに集まっていたのに、恥も外聞(がいぶん)も捨ててイエスの足もとにひれ伏して言った。
「どうか家に来てください。そして娘に手を置いて下さい。そうすれば娘は生きるでしょう。」(マルコ5の23)
このような真剣な態度は、イエスへの信頼(信仰)が真実な魂の姿であったことをうかがわせる。
しかし、娘は死んだと連絡があった。それにもかかわらずイエスはその娘のところに出向いて、そこで娘の手をとり、「タリタ・クミ」(娘よ、起きなさい!) と言われた。
ただそれだけで、死の世界からその娘はよみがえったのである。
ここにも、キリストのひと言がいかに力を持っているかを指し示している。
こうしたキリストの言葉の力に対し、人間の言葉は、人の心を汚し、混乱に陥れることが実に多い。人のなぐさめも時には力となるが、一時的であるし、場合によっては不適当な言葉があるとかえって苦しむ者には、負担となることもある。
キリストの言葉は、そのまま神の言葉である。神の言葉の絶大な力は聖書全体のテーマであり、それゆえに、聖書の最初からそのことが記されている。
天地創造されたとき、闇深く混沌であったがそこに光を存在させ、美しい秩序を与えたのが神であり、キリストなのである。そのことは、新約聖書の時代になって深く神の啓示を受けて示されたヨハネやヘブル書の著者がその第一章に書いている。
ヨハネ福音書では、キリストは地上に生まれる以前から存在していたのであり、そのキリストのことを「ロゴス」というギリシャ語で表している。ロゴスは、ギリシャ語では 「言葉」や「宇宙を支配する理性」といった意味を持つが、とくにヨハネ福音書では、人間のかたちをして生まれる前のキリストをロゴスと称した。ここにも、キリストこそは力ある神の言葉そのものである、ということが暗示されている。
ヨハネは、「万物は言(ロゴス―キリスト)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とその福音書の冒頭に書いているが、それほどこのことは重要な啓示だったのである。
人生の荒海のなか、絶えず私たちは動揺させられている。そのような弱い私たちへのメッセージが次の記事である。
イエスが弟子たちとともに舟に乗って湖の向こう岸に渡ろうとした。 イエスはそのうち眠った。
そのとき激しい風が吹き荒れ、舟が沈みそうになった。
そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうだ!」と叫んだ。
イエスは起き上がって、風と荒浪とを叱った。そうすると静まった。(ルカ 8の24より)
このような記事は、いずれも初めて聖書を読む場合には、単なる昔の奇蹟物語として何ら深い意味もないものとして読み過ごしていくことが多いのではないだろうか。嵐や大波がだれかのひと言で静まるはずがないと。
しかし、聖書にはこのように単なる昔話と思われるような奇蹟の記述も、いずれも現代にもそのままあてはまる事実であることが圧倒的に多い。
この湖の嵐の記事も、だれもが出会う人生の荒波と大風に吹かれて苦しみ嘆くという体験とそれを静める力を記しているのであり、無数の人たちによって証しされてきたことなのである。
人間のひと言でなく、キリストのひと言が語りかけられるならば、私たちの魂はたしかに静まるし、立ち上がる新たな力を与えられる。 主の祈りにある、「御国がきますように」という祈り、それは御国にあるキリストの言葉がきますように、私たちの魂に語りかけられますように、という願いをも含んでいる。
こうした聖書にある記述のほかに、私たちを取り巻く自然の風物も、しばしばキリストの言葉を運んでくれる。主イエスご自身が、「野の花」を見よ、空の鳥を見よ、と注意をうながされた。
野草や樹木のひとつひとつをよく見るときには、そこにその創造者である神とキリストの言葉が刻みつけられているのに気付くのである。野草の花々のその繊細さ、美しさ、それはそのような清い世界を見つめよ、との神の言葉が含まれているし、空の青さや白い雲、あるいは吹きわたる風、そして流れ続ける渓流のすがたやその水音なども、夜空の星々の神秘な輝きなどとともに、天の国からのメッセージをたたえているものであり、心静まって聴こうとするときにはたしかに神の声、キリストの語りかけを実感する。
キリストの言葉があるところ、主の平安あり、主の喜びあり、また神からの力がある。
私たちも日々、主からの語りかけを待ち望む。そしてすでに語られた聖書に記されている言葉がふたたび私たちに生きて語りかけられますようにと願っている。