リストボタン自然が放つ声―神からの語りかけ 詩篇19篇より

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。 (詩篇19の1〜5 )
 詩篇 第19編は最初から5節の途中までと、その後半から終わりまでとでは内容がはっきりと分かれているのがわかる。
前半は自然のなかに現れた神の栄光について書かれている。
 前半は、特に5節までは自然全体のことを言っている。自然のさまざまの事物のなかで、とりわけその永遠性や光を持っていること、決して落ちてこないといったことから、自然のさまざまのもののうち、星などの天体を代表として記している。
しかしここでいう、神の栄光を表し、そのはたらきを示しているというのは、単に天体や宇宙的現象だけでなく、周囲のなにげない植物なども含めているのが感じられる。
2節にある天と大空というのはほぼ似たようなことである。そのあとの3,4,5節からも分かるように、ヘブライの詩というのは良く似た意味を重ね合わせるように、畳み掛けるように表現するという特質を持っていて、それが独特の力を感じさせる。
それに対して、日本の詩歌(和歌、俳句)は、5・7・5の形で表すし、中国やヨーロッパの詩は、脚韻をふんでいるのが多い。
詩が、こうした独特の形式で表されると、同じような内容を散文で言うのとは全く違った印象を残す。
旧約聖書の詩(ヘブル語)は脚韻でも頭韻でもなければ、5、7、5のようなものでもない独自の形式をもって力強く語りかけてくるものとなっている。
 天の中に天体全部が含まれ、大空の中に雲や青い色や夕焼けや、あるいはさまざまの色合いすべてが含まれている。だから天と大空と言う中で、わたしたちの見る広大なもの、ささやかな色合いの空における現象など代表している。
この詩では、天と天体などは、神の栄光を物語って、御手の業をも示しているというふうに明確に自然の持つ霊的な意味について語っている。
他方、単に科学的な世界観というのは、偶然に天があり、太陽や地球が存在している、といったもので、霊的な精神的な意味があるのかといったことについては全く何も告げることはない。
日本の教育でも、例えば月に関しては、月の満ち欠けや上弦、下弦のこと、半月は左右どちらが光っているかという類のことは教わるが、その月の光が神の栄光を物語っている、あるいは神様の御手の業を示しているというようなことは全く教えられない。
このようにいくら科学教育が発達しても、肝心の天体を創造したお方がおられるということについては、全く教えられず、そのお方の力や清さや美しさ、これらを栄光と言っているのだが、そういうものは、ずっと知らないままで大人になってしまう。それらは絶えず私たちに物語っているにもかかわらず…。
自然は、神の栄光を物語っているという視点が教育や一般の書物では全くない。しかし聖書はこの詩はダビデによって書かれたとされ、そうすると三千年も前で、ダビデでなくとも少なくとも二千五百年以上も前から、目に見える神のごとき存在とも言える太陽や星というものも、単に強烈な光を放っているのでないということである。
聖書の記者には、自然は神の栄光を物語っているものとして、啓示されてきた。
植物を見ても、川の流れを見ても、夕焼けを見ても、神を知らされた者は、神の力、栄光をそれらに見る。
「栄光」とは何を意味するのか、この漢字の表現では分かりにくいが、原語では「カーボード」は「カーベード」という「重い」という動詞の名詞形である。本来「カーボード」というのは、「重さ、重み」という意味を持っている。(*)したがって「栄光」というのは「重み」というのがもともとの意味である。

(*)カーベードというヘブル語が、「重い」というそのままの意味で用いられている例として、「アブサロムの髪が重く…」(サムエル記下14の26)

確かにそういうところがある。神の栄光とは、言い換えると「重み」を持っているということなのである。人間でも、真理をもった人間は重いという感じがすると言う。でも真理を持たないものは、どこか軽い。
例えば主イエスは、不正な裁判を受け、鞭打たれ、激しいののしりを受け、十字架で殺されることが決まってもなお、軽々しいことを言わず、動じることがなかった。
処刑後に復活され、聖霊として働かれるようになり、二千年も盤石の岩のように主イエスは、どんな戦争があっても、主イエスの存在というのは非常な重みがあって、不動の山のごとき存在として、この二千年間、王のなかの王、究極的な王 King of kings として君臨してきた。だからこそ、その教えや復活したイエスが使徒たちに語りかけた言葉が聖書となって、無数の人たちを支えてきたのである。
自然を見るときに、何の目的で創られたのか、何を我々に語りかけているのかという気持ちで受け取るのは非常に大事なことである。人間でも大画家が描いた絵をなんでこんなものをここに描いたんだろうかとか、何の意味でこの色をここにおいたんだろうとか、いろいろ詮索して考える。それよりも神様という無限に大きな大画家が、空全体に描いた風景や雲の形には、無限の意味があるはずである。
だが、ピカソが描いたと言ったら、何億でも出して買おうという人がいるにもかかわらず、ピカソとは比較にならないお方、ピカソにその絵の才能を与えた神、無限に大きい神が描いたこの大空にまるで感心を示さない人が圧倒的に多いのである。

…昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。(3〜4節)

このような表現は大多数の人たちにとって、何のことなのかととまどうのではないか。こんな表現は、聖書全体を通じてもほかには見当たらないし、文学や哲学などでも見たことがない。
昼、夜、語る、知識などどこにでも使われている言葉を用い、このようにだれも表現したことのない内容が言われている。こうしたところに、啓示の詩であるのがうかがえる。
啓示、それは神から示されたことである。人間がその想像力で考え出したとか、科学的に考えて結論したというのではない。
この詩の作者はたしかに、昼も夜も、ある何かが、心臓が血液を体内に本人が気付かぬうちに送り出しているように、語り伝えられていることを神からの示しによってはっきりと知らされていたのである。
昼は太陽が輝き、大空は青く、白い雲が浮かんでいる。夜は月や星が輝くほかは何も空には見えなくなる。何かが語られているのだ、などと思う人はまずいない。だからこそ、そんなことを詩や文にする人、科学的にそんなものがあるなどと研究する人もいなかったのである。
地上には、戦争あり、飢饉あり、病気あり、あらゆる悲しみや苦しみが各地でみられる。それは現在のように科学技術が発達してもなお、そうした状況は止むことがない。そのような闇と混沌のなかを貫いて、昼も夜も神の無限の力とその働き、栄光が、脈々と発せられ、語り伝えられ、真理にかかわる知識が送られ続けている。
ここで注目に値するのは、天にある太陽や星、月、さらに大空に展開されている青空、白い雲、さまざまの吹き方をする風、夕焼け、雷、稲妻、現象等々、さらには、地上のさまざまの植物たち…それらはみな人間に語りかけている存在なのだということである。
空の星や、月の輝き、青い空や雲などを見て美しいと思うのはたいていの人の感覚である。
しかし、この詩の作者は、単に見て美しい、ということを言っているのではない。作者は、そうした自然の中に神の言葉を聞き取ったのである。
しかも、昼も夜も、人間が聴こうと聞くまいと、昼夜を問わず語り続けている、という自然の本質的なすがたをここに描いた。神の言葉を語り続ける自然、それをこの詩のように、独自の表現と構成で歌ったものはほかにない。
創世記の最初に、神が天地万物を創造したと記されている。これは、啓示として受けたのである。古代の民族はみなさまざまのものを神々として崇拝、礼拝していた。唯一の神が万物を創造したなど、到底考えつくことではない。それゆえ、歴史上では特別な天才とみなされているプラトンやアリストテレスのような人であってもなお、この世界、宇宙に、唯一の神、万能の神がおられる、ということを見いだすことはできなかった。
神によって創造された天体も含めた自然、これは単に存在しているだけだ、というのが大多数の人の受け止め方である。しかし、この詩の作者は、創造されたさまざまの自然が、神の言葉を語り続けているという啓示を受けていたのである。
そして、その自然は、神が創造されたのであるから、神のご意志を昼も夜も語り続けているということになる。
他方、「主は眠ることはない、昼も夜も守ってくださっている」という詩篇がある。(121篇)
そして聖霊という風となって私たちの魂に吹きつけておられる。
こうしたことはすべて、表面的にはまったく神などいない、神の語りかけなどないように見えるなかにあって、休むことも途絶えることもなく、さまざまのものを通して語りかけておられる神の姿が浮かび上がってくる。そして神は愛なのであるから、その語りかけも愛によってなされている。
私たちがなすべきことは、そのようなさまざまの手段を用いて語りかけて下さっている神からのメッセージを心を開いて受け取ることなのである。


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