リストボタン神曲・煉獄篇第33歌

煉獄篇の最後の歌である。ダンテは煉獄の最後の箇所に なにを、どんな目的で置いたのであろうか。
最初に、ある時は3人、あるときには4人となって現れる天女たちが現れる。そのうち4人は、キリスト教の世界以外では、特別に重んじられてきた人間のあるべき姿を表している。それは、正義、英知、勇気、節制である。このうち、英知は、なにが永遠的な真理であるかどうかを見抜く能力であり、勇気とは正義に向かう力であり、節制とは、ギリシャ哲学では、ソーフロシュネー を日本語で節制と訳している。しかし、このギリシャ語は、理性的なこと、思慮のある状態を意味しているのであって、日本語の節制という語で連想するような、食事に節制をする、といった日常的具体的なことではない。万事において、理性的に判断できる力を意味している。
それゆえ、この4つの人間のあり方は、いずれも精神的な力が根底にある。正義も悪の満ちたこの世において、力なくしてはわずかでも実行できない。ソクラテスは、不正な現実の政治に対して勇気をもって正しいあり方を示したために、死刑になった。そのようなことをも恐れず覚悟して発言、行動することが正義であり、それは勇気と深くつながっている。
また、英知は、やはり何が価値あることなのかを見抜く力でもある。お金や長生き、安全のために正義を捨てることは英知的ではない。真の英知に生きる姿は、現実の悪に対して明確に否をあらわすことなのである。節制と訳されている言葉も、感情や欲望を理性的に支配していく力を意味している。
このように、ギリシャ哲学が最も人間のあり方として重要視していたのは、こうした理性的な力だということがわかる。
そうした4つのあるべき姿に対して、3つのキリスト教におけるあり方が新約聖書に示されている。これが3人の天女によって象徴的に表されている。
それが、信仰、希望、愛である。ギリシャ哲学におけるあり方がいずれも思索を伴う力であったのに対して、このキリスト教における究極的な人間の魂のあり方は、いずれも思索も力もないものにも与えられるものである。理性的な判断力がなくとも、また、病気の苦しみや罪の悩みにたちゆかないほどになっていてもなお持つことができるのが、このキリスト教における信仰、希望、愛なのである。力がないからこそ、信じて求める、自分は正義も力もないが、ただ信じて求めるだけで最善のものが与えられる、という希望、さらに自分には愛がない、しかしこれも心から求めるだけで与えられるのが愛である。 ギリシャ哲学での4つが人間の固有の力にあるのに対して、キリスト教の3つのものは、何もないところに神から与えられるものだという大きな違いがある。
こうした地上的、そして天上のあり方を指し示す天女たちが歌っていたのは、詩篇の賛美である。
… 神よ、異国の民があなたの民を襲い
あなたの聖なる神殿を汚し
エルサレムを瓦礫の山とした。… (詩篇79の1〜)

なぜこの詩篇の賛美が歌われていたのか、それは、当時のキリスト教会がやはり様々の闇の勢力が入り込んだために荒らされ、危機に瀕していたからである。ローマ皇帝はローマ法王にいろいろと領地を寄進したり、またフランス王がローマ法王に圧力を加えてローマ法王の座が、70年もの間、ローマからフランスのアヴィニョンに移されていたほどであった。こうしたキリスト教世界の混乱を天女たちが悲しみつつ歌ったのである。
それと同じように、神の愛と真理を象徴するベアトリーチェは、嘆きとあわれみの表情をもってこの賛美に聞き入っていた。
そして十字架につけられようとするわが子イエスを見つめる母マリアのような深い悲しみをたたえた表情となった。
しかし、その後教会や政治の不正への聖なる憤りと、そうしたすべてにうち勝つ神の力と約束を確信し、赤く燃えるように見えるほどに表情が変化した。そして、この世の現実の荒廃を歌った先の天女たちに答えて、次のように言った。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ 16の16)
これは 最後の夕食のときに主イエスが言われたことである。イエスはまもなく十字架にて処刑される。そして地上にいなくなる。しかし、しばらくすると、聖霊というかたちで再び会うことができるということを予告したのであった。
そのことは、実に喜ばしいことであり、いかに現実の世界や教会が腐敗しようとも、必ず再生するという確信がここにある。ベアトリーチェが顔を炎のように赤くしつつ語ったのは、この現実が時至れば必ず裁かれ、再生することを洞察していたからであった。
真理は、不滅であり、どんなに衰退するように見えても、それは一時的である。このことは、永遠の神、正義と万能の神がおられるということから、おのずから出てくることである。
煉獄篇第32歌で記されていた不思議な出来事の意味をベアトリーチェが説明する。
その内容は、ローマ皇帝が、キリスト教会に寄進をしてみずからの力を誇示し、言うままに支配しようとした。またフランス王もローマ法王庁をローマからフランスのアヴィニオンに移してしまうなど、権力にまかせて真理を踏みにじっていた。
こうしたこの世の混乱は必ずその時が来て、神の正義が行われる。ベアトリーチェは次のように、これからおきることを予告する。

…蛇が壊した器はいまはない。(*1)
その罪を犯した者に
神は必ず罰を与える。
教会をあらわす車に羽を残した鷲は、(*2)
いつまでも世継ぎがないということはない。…
私の目には未来がはっきりと見えている。
いかなる妨げをも超えて、星が上ろうとしている。(*3)

(*1)蛇とはイスラム教とされ、イスラムがキリスト教会を壊したという意味。その教会(ローマ法王庁)が、フランス王によってローマからアヴィニオンに移され、ローマにはなくなったということを指している。
(*2)鷲は、ここではローマ皇帝。羽とは、ローマ皇帝が、教会に寄進した領地などを意味する。
(*3)ここで星が上るとは、神のご意志に沿った新たな皇帝が現れること。

現実がいかに腐敗し、キリスト教会が混乱していても、神は正しい皇帝を起こすという確信である。そうした確信はときに覆されることがある。現実に予想したことが生じないで、悪しきことが次々と起こるということがある。ダンテもそのことを経験することになる。
それでも、キリストの精神を受けたものは、いかに予想外のことが起ころうとも、内に住んで下さるキリスト、あるいは聖なる霊が、新たな希望を目覚めさせてくれるのである。
ベアトリーチェは、そのように予告したあと、以前に見た不思議な木について述べる。それは樹の下方には枝がなく、上にいくほどに枝が繁っているという特殊な形をしている。容易には登れないのである。しかも葉も実も一つもないという異例の木なのである。
この木は、律法とローマ皇帝をも象徴していると言われる。かつては、安易にその実を食べて大いなる罪を犯し、神の備えて下さった安息の地から放逐された。
これは、律法というものは、人間の背きによってよきものをもたらすことができなかったということを表している。言い換えると、葉も繁らず、実を結ぶこともなくなったということを象徴したものである。それが再び葉をつけ、実を結ぶようになったのは、キリストが来られることによってであった。
さらにこの木はローマ帝国あるいはローマ皇帝をも象徴していると考えらている。これらは神の都として、また神の僕として特別に神に選ばれたものであった。しかし、彼らが神の真理に背いたがゆえに、葉や実は何一つない枯れた木となってしまった。そうしたローマの現状をもこの特異な木が示している。
また、ローマ皇帝という地位も本来は、神から権力を与えられている神聖なる地位であるにもかかわらず、それを自分の欲望のためにその木の実を食べようとする者には、必ずさばきがある。
神が植えた木の神聖さをわからせるために、煉獄に置かれた木は、簡単には上れないようにされている。
ダンテは、ベアトリーチェがこのようなことについていろいろと解きあかしても理解することが困難であった。ダンテはベアトリーチェに問いかける。

…私が切実に待ち続けていたあなたの言葉は、
理解しようと努めれば努めるほど,遥かに高く翔って私の視界を超え、とらえようと目を凝らすほど、見失ってしまうのはなぜなのですか?

キリスト教の世界、聖書的な真理の世界は、ダンテがかつては熱心に学んでいたアリストテレスなどのギリシャ哲学をどんなに学んでも、理解に近づけない。キリスト教以外の世界においては最も権威あるアリストテレスの哲学ですら、聖書とキリストの真理にはどうしても達することはできないというダンテの経験がここに見られる。
このことは、現代においてもそのまま言える。 現代の科学技術とか哲学、学問、慣習、伝統などいかにそうしたものをもって究極的な真理を究めようとしても到達は決してできず、それらの学問などを追求してもなおさら真理は見失ってしまう。
このことは、二千前に主イエスが言われていたことである。
…するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。(ルカ18の16)

 ダンテが、理解できないとの疑問を聞いたベアトリーチェは、次のように言う。
…お前たちの道が 実は神の道から、ちょうど
最高天でまわる天が地球からへだたっているほど、
離れている…(87行〜90行)

ダンテ自身は、彼の与えられた才能を十分に用いて真剣に思索し、学んできたアリストテレスなどの哲学であったが、それは、いわば地上の道であり、神の道とは相いれない。
ここに、哲学や科学的な思考、詩作、女性への愛…地上的なあらゆるものに関心を持って知的な探求と政治的な実践にも加わってきたダンテであったが、ようやくその限界を思い知らされたのである。神曲を読むと、じつにさまざまの地上のことが題材とされている。それほどこの世のことに深く関わってきたのがダンテであったが、そうしたことを通して、聖書の啓示がいかに深いものであるかを知らされていったのがうかがえる。
このことは、現代の私たちについてもそのままあてはまる。幼いときから学校教育を受ける。相当数の者が今日では大学まで進学する。それらはすべてダンテがその限界を深く悟ったこの世の道である。
日本においては、神の道というのがまったく教えられないばかりか、神そのものなどいない、というのが大多数の人間の気持ちである。それではどんなに大学で勉強を積んでも、企業や大学でいかに研究をしようとも、神の道には、いつまでたっても達することはあり得ない。
こうした応答を重ねているあいだに、一行は、二つの川が流れだしているところに近づいた。
一つの川の名前は、すでに煉獄篇28歌で出てきたレーテの川である。すべてを忘れる川、完全に忘れることができるのは、神の力による。
罪赦され、聖なる霊を受けなかったら、私たちは過去の悪しきこと、人から受けた不正、その人への反感、憎しみ、あるいは、自分への敵対行動によって苦しめられた等々の傷を忘れることができず、心に深く残ったままとなるだろう。
そうした傷が心のなかに満ちているという場合もあるだろう。
しかし、それらすべてを消え去るようにしてくださるお方、それがキリストなのであるが、レーテの川はそうしたことを暗示するものとなっている。
そして、もう一つの川、それはエウノエ(よい理性的な考え)という名であった。(*)

(*)エウとはギリシャ語で 良い という意味の接頭語、ノエは、ヌースに由来する言葉で、理性を表す。

この川の水を飲むことによってダンテは、良きものが思いだされるようになる。この世には悪しきものが満ちているから、よいことより悪しきこと―他人や自分の―が思いだされるということが多い。しかし、エウノエの水を飲むことによってよきものが限りなく浮んでくるように変えられる。それゆえにこの水はいくら飲んでも飲み飽きることがないと記されている。
これこそ、新しい命である。この水を飲んだときダンテはどのように変えられただろうか。
新緑の木の葉を新しくつけた若木のような清新なすがたとなった。
 新緑、新しく、清新なというように、日本語訳でも新しくされるということが繰り返されているのがわかる。
エウノエの水を飲むことによって、このようにそれまでのあらゆる汚れや魂のなかの暗いものなどすべてが洗い流されていく。
私たちも、またこのダンテと同じように―たとえその程度は少しであっても―新しくされ、清新な緑、希望の色をまとわせていただくことができる。 キリストのような栄光に輝く姿とはまさにそのことである。
そのような清めを魂のうちに十分に受けたダンテは、星々をさして昇ろうとしていた。
煉獄篇もまた、星々(stelle)という言葉で終わっている。
私たちの日々も生涯のミニ版であり、もし真剣に神とキリストを見つめているときには、日々新しく、新緑のようにされて、星々―高みにおられる神、神の国―を目指す歩みを続けるものとなる。


水野源三の詩 から(*)

平和

住む国も
話す言葉も
考える事も
それぞれ異なる
何十億の人々が
父なる神さまの
みもとに立ち返るように
朝に祈り
夕に祈る

(*)水野源三(一九三九〜一九八四)九歳のときに、赤痢にかかり、命はとりとめたが全身が動かなくなり、言葉も出なくなった。後にキリスト信仰に導かれ、まばたきをもって、母親が示す五十音図の単語を示して詩を作るようになった。この詩は、「み国をめざして 水野源三第四詩集」262頁より。

・祈りは個人的なこと、身近な人に向けられたものもあるが、他方、この詩のように、狭い部屋で寝たきりのようになっている状態にあっても世界の人たちが神のもとに立ち返るようにと祈ることができる。
主イエスが、「御国が来ますように、神のご意志が天に行われているように、地上でもおこなわれるように」と祈れと教えられた。その主イエスの祈りの精神は、この詩においても流れている。
私たちもまた、その祈りの心がいつも流れているようでありたいと願う。



百舌は
秋の朝を喜び
赤とんぼは
秋の空を喜び
こすもすの花は
秋の陽差しを喜び

秋にやさしくやさしく
包まれている私は
神さまの
恵みを喜ぶ

・寝たきりの身ゆえに、窓から見える数少ない風物からではあるが、作者は秋の自然から喜びの声を聞き取った。多くのものに触れたからといってより多くの神からのメッセージを聞き取るということではない。どんなに小さくとも、狭い範囲であっても、神とともにある静けさがあり、聖なる霊が宿っているときには、取るに足らないような身近な自然、日常的な事物からも神による喜びを聞き取ることができる。

○芭蕉の俳句から

閑かさや 岩にしみ入る蝉の声

・この俳句は、すでに学校教育でも広く取り上げられているからだれでも知っていると思われる。
この俳句が作られたのは、芭蕉が、山形県の立石寺を訪ねたとき、夕刻であった。
「…岩に巖を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに…佳景寂莫として心澄みゆくのみ覚ゆ。」とある。
このような自然の深い静まりのただなかに蝉が鳴いており、それは付近一帯の岩にしみ入っていくのを実感したのであろう。
このような昔の詩人が作った俳句は現代の自分とは関わりあるものとは思われていないことが多い。
しかし、岩にしみ入るとは、そのような山中の特殊な場合だけでない。
私たちの心も岩のようなもので本来なかなか良きものが入っていかない。しかし、そこに主にある静けさがあるとき、岩のごとき魂にも周囲の自然から、また聖書のなかから、あるいはキリスト者の集まりの中からもさまざまのよきものがしみ入ってくる。


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