「君が代」と元号について
学校での入学、卒業などの式のとき、「君が代」を歌うことがいっそう強制されるようになった。そして、大阪では、「君が代」斉唱のとき、不起立を3度繰り返すと免職にまでされるという。
教員が、その生徒に対する教育の熱意や愛によって評価されるのでなく、単に「君が代」斉唱のときに起立するかどうかといったことで決定的な評価を受けるなど、実に不可解なことである。このようなことは、教育の核心を知らない人たちが考えることである。
児童、生徒たち、とくに勉強が十分にできない、行動がよくない、家庭状況が恵まれない、病気がちであったり、孤独であるといった生徒たちにこそ、心をこめて対処し、また勉強や何らかの特技のできる者たちはさらにそれをのばすようにつとめること、そうしたことを一人一人の生徒たちに時間とエネルギーを注いでかかわることこそ教育で最も大切なことである。
そうしたことを問わずして、単に上司の命令に機械的に従う、という点で免職にまでなるほどの重要な評価をするなどは、真に独自の生徒への愛から教育にかかわろうとする教師を排除する傾向を生み出す。
「君が代」のような問題の多い歌を、強制的に起立させ、形式的に歌わせたからといって、国を愛する心が育成されるだろうか。国とは、国土、国民、主権からなるが、その中心は国民であり、人間である。
「君が代」のような意味の不可解な歌を強制的に歌わせて、日本の人々が互いに敬愛するようになり、この国土を愛するようになるだろうか。
日本の国を愛するということは、日本が優れているのだといった誇りを持つことではない。そのような誇りは自慢に通じ、また他国の弱点をみて見下すことにつながりやすい。
日本の国を愛するとは、日本にいる人々がどんな人であっても、よりよくなるように―真実さや愛、正しいことへの感覚―がより深くなるようにという心を持つことである。 そうした心が根本にあれば、その人々が住む国土をも大切にするのはごく当然のことになる。
「君が代」の歌詞(*)については、その意味をわざわざ、本来の意味を曲げて、「君が代」を象徴天皇の代だから国民の代、国民全体のことだとか、国をあらわすなどと無理やり説明してきた。そもそも、歌を歌うときにそんなこじつけを考えていったいだれが歌うだろうか。そのようにして歌わせられる歌にどんな利益が、生徒たちの魂に与えられるのであろうか。
(*)これは、「古今和歌集」の賀歌に含まれる。ここでは、「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」となっている。「君が代は…」ではじまる歌詞は、「和漢朗詠集」にみられる。ここで「君」とは、恋人、支配者、天皇などいろいろに解釈されるが、戦前の修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と、明確に天皇の支配する代が永遠であるようにという意味だと記された。
「君」とは、二人称単数であり、相手の長寿、あるいは支配が永遠であるようにという祝いの歌というのがもともとの意味であったと推定できるのであり、国民全体の祝福を祈り願うという発想はみられない。
なぜ、「君が代」に対して不起立の教師がいるのか。それはその歌詞が、天皇の支配の永遠をうたうものとして教育され、そのように歌われてきたものだからである。だからこそ、戦前は徹底して軍国主義に用いられたのであった。
近年は、マスコミも「君が代」の歌詞それ自体が問題だということをあまり取り上げなくなっている。
もし、国歌の歌詞が、自由と平和、国民の互いの敬愛や真実を重んじる内容であるならば、いったいだれがそれを歌うのに反対するだろうか。
学校には、校旗や校歌があるように、国があれば、国旗があり、国歌があるのは当然だと言えよう。
しかし、肝心なことは、その国歌の内容である。単なるメロディーが国歌でない。まずその歌詞が重要で意義深いものであるからこそ、それにメロディーをつけて歌とし、その歌詞に記された内容を広く共有しようとするのである。
メロディーが根本でなく、歌詞が根底にある。その歌詞を生かすためにメロディーが付けられるのである。本来、「君が代」のような、天皇の支配の永遠を願う内容の歌は、戦後廃止して、新たなものを公募するべきであった。
現在、ますますグローバルな時代になっており、世界に向って開かれた歌詞である必要性はいっそう大きくなっている。「君が代」を歌わねば処罰するなどという無意味なことをするのでなく、歌詞やメロディーを世界の平和、自由や真理にかかわる歌詞とそれにふさわしいメロディーを配することに力を注ぐことこそ重要なのである。そうすれば、そもそも権力で強制とか起立しないものを免職にするなどまったく必要なくなる。
現在の「君が代」は、その歌詞を十分に検討したうえで、日本の国歌としてふさわしいと、どれほどの人が考えるだろうか。そもそも「君が代」の歌詞は何を意味しているのかを知らずに歌っている児童、生徒たちが、圧倒的に多いと思われる。
それはちょうど、現在の日本の元号(一世一元制)の意味、何のために、いつこの制度が作られたのか、その目的と成立の状況を知らずして、日本の伝統だなどと思って、昭和とか平成を使っている人の意識と似たものがある。
一世一元制のもとでの元号の制度、それは古来からの伝統でなく、明治政府が天皇の神格化を国民に浸透させる手段として考え出したものなのである。(元号そのものは、中国の漢の時代に行われていたものを取り入れたものである。)
それ以前は、元号は天皇が時世の状況により、また一種の迷信によって、飢饉や外国の船などのトラブルがあれば元号をかえるということで、一世一元ではなかった。
一世一元のように、個人の人間の名前を時間を表すときに用いるなど、全世界で全く行われていない不都合なことである。(*)
いったい平成などといって現在のグローバルの時代に通用すると考えているのだろうか。現在の天皇が死去するとともに、膨大な数の文書、印鑑、コンピュータ、カード等々を造り替えねばならなくなる。その費用は莫大なものになるだろう。
(*)昭和天皇というとき、昭和というのはヒロヒト天皇の個人名である。天皇が在世時は、ヒロヒトという名前があるにもかかわらず、それを用いずに単に天皇陛下、あるいは今上天皇(きんじょうてんのう)などという。 昭和という名前は、死後の贈り名(諡 おくりな)であるから、死後は、昭和天皇といって昭和というのが天皇の名前として使われる。
何の為にそのようなことを続けるのだろうか。天皇の名前を刻みつけるということをいまだに多くの政治家などが考えているからであり、それはまた、日本人の多くが元号制度制定の目的や意味を知らないからに他ならない。
私がかつて教員であったとき、転勤先の高校ではすべての文書や生徒の提出物にも、元号が使われていた。しかし、その元号の意味の問題点を詳しく歴史的に指摘していくと、はじめは全く元号の問題点を知らずに、私がキリスト者であるから、元号に反対しているのだと非難していた人たちも、詳しく元号の成立と問題点、その意味を知るに及んで、ほとんどだれも反対しなくなって、多くの教員や生徒が元号でなく、西暦を使うようになった。
元号の無意味は、例えば、次のようなことを考えればすぐにわかる。 徳島県では現在、飯泉という知事がいる。彼が知事になったとたん、県下のすべての公文書から教育その他のことまで、みな飯泉元年というように言い換えるなどという法律を制定するといったら、いっせいに非難され正常な判断でないと即座に相手にされないだろう。個人の名前を国民の時間を数えるときに使うなどまったく無意味かつ有害だからである。それゆえに、世界で数々の特異な支配者が現れても、自分の名前で国家全体の公文書などの時間を基準に数えるなどということは前例がない。しかし、日本だけが、そのような無意味なことを現在も続けている。(外務省の公文書だけは、以前から西暦。元号では通用しないからである。)
「君が代」についても、本当に生徒たちがその歌詞の意味を知ったなら、心から歌えるであろうか。その意味を学校教育でまったくといってよいほど教えてこなかった。「君が代」を歌わせられた経験はだれでも思いだすであろうが、その歌詞の意味を十分に教えてもらったという人は戦後生まれの人たちはごく少ないと思われる。 この「君が代」の歌と歌詞は、歴史的にどのような起源があり、いかに用いられてきたのかを教えられたという経験は日本の現在の戦後生まれの人たちにはほとんどないはずである。
現在の日本、それは精神的な支えとなるものを持っていないということが、これからますます根本問題となってくるであろう。人々は急速に老齢化し、日本の農業、工業など産業は中国やインド、あるいはその他の国々の動向によって大きく変容していく。大地震の頻発するこの狭い国土に原発を密集させたために、今後50年、100年とそのために、大きな犠牲をはらっていくことになるであろう。
こうした日本がかつて経験したことのない状況にあって、個々の人間の根底にかかわること―真理や真実、正義といった感覚を鋭くしていくことこそ、肝要である。
そのためには、聖書やギリシャ哲学のような人類の根源にかかわる真理を学ぶこと、あるいはそうした真理を体得したダンテやトルストイ、ガンジーといった思想家たちの精神を取り入れることこそ重要なことである。 真理こそは、最も国際的であり、普遍性があり、永遠的なものである。
だが、日本の保守的政治家や東京、大阪といった大都会の知事、市長たち、教育関係者たちが考えることは、「君が代」のような古代の祝い歌を、つごうのよいように歌詞解釈をして、強制的に歌わせるとか、単なる成績を最大事のようにして競争させるなどといったことに大変なエネルギーを注いでいる。何と的外れなことをやっているのかと思う。そんなことは国際的な人間を育てることには何の関係もない。
そんなことを考えていたなら、ますます日本の前途は危うい。主イエスが言われた言葉(マタイ23の23)を少し変えると、それはそのまま現代のこうした政治家たちにあてはまる。
…ああ、ものの見えない指導者たちよ、形式的なことには熱心で、「君が代」は法律まで作って歌わせようとする。しかし、あなた方は最も大切な、正義、愛、真実はないがしろにしている。これこそ、行うべきことである。