いつでもどこでも働かせるものとしての信・望・愛
私たちの日常生活では何かを使っている。衣食住の全体にわたって、常時いろいろなものが必要である。それらはみな当たり前のことだが、費用がいる。
そして使えば使うほど古くなり、使えなくなる。廃棄するとみなゴミとなって全くの不要なもの、有害なものとなる。
しかし、お金も要らない、ゴミも全くでない。しかし、いつでも使えてしかも費用も要らないというものがある。
こんなことは、かつては考えたこともなかった。
しかし、キリスト教に触れ、聖書の世界を耕すにつれて、このようなことは実はきわめて重要なことだとわかるようになってきた。
それは、信・望・愛である。
起きてすぐに使えるものそれは、神への信仰を新たにして、今日も守り、なすことを導いてくださいと祈る。それは神への信仰を使うことであり、神の真実(*)にまかせることである。
(*)信仰という原語(ギリシャ語)は、ピスティス pistis で、これは多くは「信仰」と訳されるが、元の意味は「真実」。いくつかの箇所では、そのように訳されている。神を信じるとは、神を真実とするという意味を含んでいる。
だれでも何らかの心の悩みや重荷、問題を抱えているし、人によっては耐えがたいような苦しい病気のさなかで入院中という方々もおられる。そのような時、私たちは、医学、薬学、あるいは家族に頼る。
しかし、病気や問題が深刻になるほど、どうにもならないことも多い。人間の心を変えたり、死が近い人の心の不安を変えるのは、単なる慰めや介護ではできないことである。
そのようなときにも、もし信仰をしっかり持ち続けているなら、私たちは、希望を持つことはできるであろう。希望がいよいよもてないようなとき、それでも神の存在に向って叫ぶことができる。
もし、神の存在をまったく信じていないなら、神に向って、叫ぶなどということはあり得ない。
だから、旧約聖書のヨブ記において、財産の喪失、家族の突然の死、妻からの侮辱、肉体の激しい病気等々によって追いつめられたヨブは、あまりの苦しみに、死を望んだが、それでもなお、それは神に向っての叫びであった。
「神様、どうか私を打ち砕き、御手を下して滅ぼしてください!」(ヨブ記6の9)
主イエスの、死の前の十字架の上での叫び、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」 という叫びも、それは神に向ってであった。
神への信頼の細い糸すらも切れようとする、そのような危機的状況であっても、なお神という存在を信じてそこに向って叫ぶ、それこそ、究極の信仰である。
だが、そのような死に近づくほどの苦難にあったら常にそのような叫びになるとはいえない。ステファノという最初の殉教者は、撃ち殺される直前になって、天が開け、神と復活のキリストがありありと見えたと記されている。そして自分に向って悪魔のように襲いかかる人たちへの祈りによって地上の命を終えた。
このように、苦しみ続けるにせよ、あるいは天が開けるにせよ、そこにはともに神への信仰がある。揺らぎつつ崩れ落ちようとする魂にも、神の存在を信じて叫ぶという信仰が残されることが可能なのである。
このような恐るべき苦難が、迫害という形でふりかかることも歴史的にはさまざまの国々で見られた。そして無惨にも動物や人間の迫害の餌食となった人たちもいる。しかし、彼らはキリストのように、その死の後には神の国へと導かれ、霊のからだとなって復活したのである。
このような聖書の記述を知り、神の深い愛と全能を知るほどに、私たちは希望を持つことができる。全能の神ゆえに、私たちは今の困難もきっとその愛と、万能の御手によって解放してくださるであろうという希望に導かれるからである。
使徒パウロも、すでに信仰の最初から、神への希望を持っていたゆえに、各地へと命がけの宣教へと導かれていった。しかし、それでも、復活させてくださる神に全面的に信じ、その神への希望を持つようになったのは、かれが死の危険に直面してもう助からないと思ったときであった。
…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Uコリント1の8〜10)
このように、パウロにおいて、以前から持っていた神が万事をよくして下さるという希望は、死が間近に迫るほどの状況において、さらに強められたのがわかる。
最もよいものとしての信・望・愛、それはこのように、追いつめられた状況になってもさらに、増え広がることが暗示されており、これら三つはいつまでも続く、という言葉に言われているとおりである。
このような特別な状況でなくとも、日毎の生活で、毎日出会う人にも、信仰と神からの愛によってその人たちに主の平和がありますように、と少しでも祈る心をもって対することはできる。
また、新聞テレビなどで、さまざまの出来事、事件などを見聞きするにあっても、そこに見られた人々の苦しみや悲しみを見て、少しでもそこに御国がきますように、と神の御手を信じて祈ることはできる。祈らないよりは、わずかでも祈りの心をもって対することがよい。それは、そのような心を持って対することは、隣人を愛せよ、という神の御心にかなったことだからである。
また、周囲の自然―樹木、野草、あるいは空の雲や青空、夜空の星々―一つ一つを単になにも考えずに見る、一瞥するだけでなく、そこにも神の万能を信じて、神の愛をも信じて、それらが愛をもって創造されていると受け取ること、私たちに向けられた愛によって創造されているのだと信じること、そこに信仰と愛を働かせることができる。
そしてそのような大空の広大さや星々の永遠を見て、神の大いなる力への信頼を新たにして、希望を持つことへと導かれる。
このようなことはほんの一例である。
こうしただれの前にも次々と現れる出来事の一つ一つを無視し、あるいは無関心に通りすぎるか、それとも信・望・愛を少しなりとも働かせるか、それはお金も権力や学歴や経験すらも関係のないことであり、いま私たちがそのように信・望・愛を働かせようとするかどうかにかかっている。
そしてそのように小さきものを相手にして、神の国にある信・望・愛を働かせることは、さらなる祝福につながる。小さきものに忠実なものには、大きなものを管理させようと、主は約束されたからである。そして、その祝福は他者へと及んでいく。神の国のものは、使えば使うほどに増えていく本性を持っているからである。