震災1年の今思うこと 後藤 直子(仙台市)
1年前の3月11日、ワックスがけをするため、机や椅子など教室のものを運び終え、さあ床ふきをしようかというときに地震が起こりました。通常なら、机の下に隠れなさいというところです。それが何もないことのぞっとするおそろしさ。泣き叫ぶ子どもたちにとにかく姿勢を落として教室の中央に集まるようにいい、揺れがおさまるのを待ちました。横揺れもひどかったですが、下から突き上げてくるようにも感じ立っていられませんでした。途方もなく長く感じました。ようやく揺れがおさまったのを見計らって、子どもたちをグランドに出しました。人数確認をし、保護者が迎えにきた児童は次々と帰しました。雪の降る寒い日で、余震もおさまらず、子どもも保護者もまっ青な顔で緊張した面持ちでした。雪が降り続き寒いので迎えに来ない子どもたちを校舎に入れました。しばらくすると校舎のすぐ下まで津波がきていることがわかり、校舎の3階に避難しました。私が勤務する学校は海岸からはかなり遠かったので目を疑いました。何かとんでもないことが起こったのだけは感じました。姉からのメールに気づき、とにかく無事とだけ伝え、いろいろ調べるうちに切れて使えなくなってしまいました。停電だったので充電できず、夜はろうそくのあかりだけで真っ暗でした。あちこち浸水して道路が普通になり、親がなかなか迎えにこれず、真夜中にいらした父兄もいました。何人かの児童は学校で一晩過ごしました。体育館からマットを運び、保健室の布団などを使ってできるだけ寒くないように気をつけました。夜になると近くの新日本石油工場が爆発炎上しているようで、時折ボーンボーンと爆発音が聞こえ、空が赤黒くなりました。子どもには見せられないのでカーテンをしめ、ゲームをしたり、おしゃべりをして気を紛らわせ、子どもたちを早い時間に寝かせました。幸い次に日には全員家族が迎えにきたのでよかったです。
次の日の朝、仙台の自宅に帰りましたが、あちこち浸水して不通になっており、迂回して迂回してなんとか仙台にたどり着きました。ドアを開けたら、食器戸棚が倒れており、部屋はぐちゃぐちゃに散乱していました。カセットコンロや毛布など役に立ちそうなものを持ってまた学校に引き返しました。いつもの道路は通れないので迂回しながら行ったのでどこをどう通っていったかわかりませんが、とにかくなんとか学校に着いたら、学校は危険なので役場に移動とのことで役場に行きました。持ってきたものを渡し、女子職員は帰っていいとのことだったので、また仙台に引き返しました。それから何日も電気、水道がとまり、幸いプロパンガスだったのでガスは使えましたが、今のガスがなくなったら、次はいつ入るかわからないから、大事に使ってくださいと言われました。暗い部屋の中でろうそくをたくさん灯して、これからどうなるんだろうとぼんやり考えていたように思います。
その後は、給水に半日かかり、食料を買うために何時間も並び、最悪だった給油のためには7時前には並び、帰ったのはお昼という日々でした。生きるための日々でした。“生きてる!”。それがどれだけ大事か実感しました。電気がついて明るくなったとき、涙が出るほどうれしかったし、水が出たとき、水がどんなに大事か身にしみました。当たり前のことがどれだけ大事かしみじみ感じました。震災後は生きるためだけに過ごしていたような気がします。独立学園の創設者の鈴木弼美先生が「平凡が一番だよ」とよくおっしゃっていたことを思い出し、若い時はそうかなあ・・・などと思ったものでしたが、やっぱり校長先生の言うことは本当だったと実感しました。平凡な当たり前のことが、どれだけ大事でどれだけありがたいことか。その大切なことをいかに見逃してきたことか。日常をもっと大事にしようとつくづく思いました。生活に追われた日々でしたが、いつだったか覚えていませんが、明るい陽のさす午後、無性に聖書が読みたくなりました。聖書をパラパラめくり目に入った聖句を次々に読んでいきました。砂地に水がしみ込むように心の奥底にすうっと入っていくようでした。泣きそうになりながら読んでいました。読んでいるだけでよかったです。聖書の言葉ってこんなにも温かかったのかと改めて実感しました。そうして元気と勇気をいただいて、震災後の日々を過ごしたように思います。
4月には同じ七ヶ浜町でもっとも被害が大きい小学校に移動になりました。町の半分は瓦礫の山でした。田んぼの中に車や家の屋根が流されていたり、建物がすっかり流されて土台しか残っていない家がたくさんありました。胸が痛む光景でした。昨日まであったそれこそ平凡で幸せな毎日があっという間になくなってしまったことに言葉がありませんでした。通常の学校業務の他に、震災関連の雑多な仕事が山ほどありましたが、被災した方々のことを思えば黙々とやるだけでした。子どもたちのやさしさや明るさが元気の源でした。
あっという間の1年でした。私自身の生活はすっかり通常に戻りましたが、被災した方々の生活はこれからが本格的な再建だと思います。何もできない者ですが、被災した方々の幸せを祈らずにはいられません。3月20日に台湾のオーケストラとマーラーの『復活』を歌います。祈りを込めて歌いたいと思います。
(この文は、今年1月発行の「野の花」文集に掲載されるものであったのですが、送付が遅れたのでここに掲載しました。大震災から1年余りを経ましたがつねにその記憶を新たにしておきたいと願います。)
関東、中部地方のキリスト教集会を訪ねて
今回、キリスト教横浜集会にてみ言葉を語る機会が与えられ、その前後を用いて、横浜以外の各地にても、み言葉の集会や訪問をする機会が与えられた。期間は、3月24日〜30日であった。
3月24日(土)は、 静岡では、石川昌治さん宅の家庭集会。高齢かつご病気を持たれている石川兄も1時間程度ならとのことで、集会に参加され、以前からの人たちとともに、春休みであったので、石川さんの長女の恵子さんが、仙台から二人の子どもさんたち(独立学園高校生と中学生)をつれての帰省中で、その方々も参加された。老年の方々には、いっそうの主の支えを、そして若い方々は、主イエスへの信仰が強められるようにと願った。
そのあと、「祈の友」の足立夫妻宅。足立姉は、ご病気をかかえての参加で、主によって支えられているのを感じた。少し遅れて、前の「祈の友」主幹の稲場満さんの娘さんである浅野姉も加わり、祈りと賛美をまじえての交流が与えられた。稲場 満さんは現在は天に帰られているが、その信仰と「祈の友」へのご奉仕は今も形をかえて生きていることを思って感謝であった。
次の清水聖書集会では、西澤さん宅での静かな集会が与えられた。北田康広さんの讃美歌CDの一部をも聞いてもらって、多くの賛美をともにすることができた。聖書はエペソ書からパウロの祈り―キリストの愛を知るということを学んだ。そして「キリストの愛に触れたその時に」という水野源三の賛美もともに歌った。
25日(日)の主日礼拝は、何年ぶりかのキリスト教横浜集会。聖書における信・望・愛ということで聖書からのメッセージの一端を語らせていただいた。
キリスト教の集会や礼拝において、信仰、希望、愛という三つが語られるときは、ほとんどTコリント13章13節に関してであるが、今回は、聖書全体から見てこの三つがいかに記されているのか、中心にあることを取り上げて語った。神とキリストへの信仰、そこから生まれる希望そして、神の愛という三つのものこそは、いつでもどこでも、だれでもがその意志さえあれば、それを求めて、使うことができるようにと神は備えて下さっている。
今回の集会で、友人と共に、あるいは息子から、また人からすすめられてこのようなキリスト教集会に初参加という方は、3人ほどおられた。また学生5人が参加されたのも感謝であった。参加者は30数名。
また、遠い鹿児島からの参加者もあった。参加者がそれぞれに今後とも、主イエスによって導かれ、この日本で最も欠けている唯一の神とキリストへの信仰が広まり、多くの人たちが本当の平安を与えられますようにと祈った。
25日(日)の午後は、昼食と交流会。
その日の横浜集会のあと、4キロほど離れたホーリネスの教会で、原発とキリスト教の関連の話を依頼されていたので、そこで二時間ほどの話し、その後の質問などを受けた。去年の8月に出版した「原子力発電と平和」(吉村孝雄著)の読書会をその教会の婦人会ですることになったので、横浜での集会場から近いので、立ち寄ってほしいとの依頼によったもの。
その教会の牧師夫妻や婦人会ではあったが、とくにその日は、原発とキリスト教の話だということで、男性の参加者も数人見られた。依頼された方は、かつて小松島女学校(現在の小松島高校)に徳島市から通学していたとのことで、原発の本で吉村孝雄の住所が小松島市となっているので、その本にも関心を強めたようで、いろいろと不思議な導きだった。
26日(月)八王子市の多摩集会。(永井宅)ふだんは多摩集会に参加していない人も参加、そのなかには、ネパールから大分前に日本に来て、いろいろ苦しい目にあってきた女性も見えていた。集会のあとの懇談では、その人も今までの日本での生活の困難さを語られた。
またある方は、将来の日本は年金など少なくなり、原発の廃棄物の難題もあり、どうなるのかとその不安を出された。 それに対して、主はあらゆる時代に、「明日のことを思い煩うな。ただ神の国と神の義を求めよ。そうすれば必要なものは添えて与えられる」と約束された。日本に本当に必要なのは、こうした神への素朴な信仰で、将来に不安を思うより以上に、キリスト者は、唯一の神への信仰が日本人に広がることこそを願い祈っていくことの重要性をお話しさせていただいた。
27日(火)山梨県南アルプス聖書集会。(加茂宅)主題は、「勝利を与える主」。
この集会には、もう6回ほど訪問させていただいた。去年は加茂さん宅の都合が悪く、30キロあまり北にある山口さん宅での集会であったが、そのときに初めて参加された野辺山の青野さんご一家が今回は、自宅から片道50キロ以上ある加茂宅の集会にも参加された。そして、その青野さん宅に農業実習に来ている学生さん、青野さんの二人の子どもさんも参加されて主の導きに感謝であった。
み言葉がなかったらこのように集まることはなく、神の言葉が持っている引き寄せる力に感謝した。
28日(水)長野県の上伊那聖書集会。(有賀宅)この集会にも初参加のご夫妻が二組参加されていた。老齢のご夫妻は百キロあまり離れた遠くからの来会であった。また、若い母と子で参加された方も、ふだんの日曜日の礼拝には参加されないが、私が出向くときの集会には参加されるとのことだった。そして都合で終わり頃に参加されたご夫妻もあったが、それぞれに健康の問題その他を重荷として持っておられる方々も多く、主がそうした重荷を持つ者は私のところに来れ、休みを与えようといって下さっている呼びかけを思い起こしたことであった。
さらに、そのあとは、そこから40キロ近く南の松下宅・家庭集会。そこにも初参加の方々がおられて、そして130キロもの遠くから、家族三人で参加された方もあった。20歳未満だと思われる娘さんは初めての参加であったが、片道でも何時間もかかるところに聖書の集りのためにご両親と参加されることは、その背後での主の御手のわざを感じたことだった。また、いろいろと苦しい問題をかかえていて自分が一番ふしあわせだと思っていたが、そうではなくいろいろな方々がさらに苦しい状況にあって神を信じて耐えて進んでおられることを知って、励まされたと言われる方もあった。そうした高年齢の方や年若い方、それぞれが主によってその心の孤独や苦しみをいやされ、またこれから大人となって数々の誘惑にも直面するにあたって、神とキリストへの信仰へと導かれるようにと願った。
29日(木)岐阜、愛知の「祈の友」の方を訪ねた。高齢となって生活の困難が押し寄せてくるとき、とくに親族も遠い場合の困難さを知らされる。また他方では、高齢となりつつも、パソコンを使って、文を書いて投稿したり、メールを用いたりと可能な方法で動く範囲が次第に狭まってくる状況にあって努力されている方もあった。
30日(金)岐阜県内の「いのちの水」誌の読者の方や、さらに 京都在住の複数の教友を訪問する機会が与えられ、夜無事に帰宅できた。訪問先の各地の方々や徳島聖書キリスト集会員の絶えざる祈りと支えによって、さらに主の守りと導きによって今回の旅を終えることができたので、そうした方々に深い感謝を捧げたい。
今回の、横浜での主日礼拝の特別集会を中心とした県外の集会での聖書講話や「いのちの水」や「祈の友」にかかわる方々への訪問によって、み言葉の持つ力を改めて知らされた思いだった。私の目的は神の言葉の無限の豊さ、その力を伝えること、そして集まった方々も、何らかのかたちで、人間的な話し合いや思い出話でなく、それらを超えたもの―神の言葉を求めて参加されたのだと思われた。
主が、うつろいゆく人間の意見や議論を超えた永遠の真理であり続ける神の言葉を今後とも、各地のキリスト教集会の方々に注ぎ、そこからまた周囲の世界へと流れ出ていきますようにと願ってやまない。