リストボタン偶然と原発事故

今回の福島第一原発が最悪の場合は、どうなっていたか。それは以前にも「いのちの水」誌で触れてきた。そのようなことを言うことは、煽ることだなどといって政府や科学者たちは意図的に隠してきたが、ようやく1年近く経ってから公表された。
それは全国紙にも掲載された。つぎは朝日新聞に今年2月に掲載されたものである。

… その最悪の事態については、すでに去年の原発の大爆発の2週間ほど後に政府で作成されていた。水素爆発が次々と生じると、原子炉から大量の放射性物質が放出され、原発敷地内での冷却作業ができなくなる。その結果、原子炉の核燃料と使用済み燃料が溶融をはじめ、さらに大量の放射性物質が飛散する。
そうなれば、強制移転の地域が170キロ以上になる。自主的移転を認めるべき地域が250キロ以上に拡大する可能性が生じる。最悪の場合、首都圏の3千万人が避難という事態となる。…。

このような予測を知らされた当時の内閣官房参与の田坂広志(原子力工学の専門家)は、駐車場に出て空を見上げた。そして「自分は映画を見ているのではないのだ…」と現実の深刻な事態を受け止めたという。
このような映画でしかあり得ないと思われていた事態になる可能性が現実にあったのだ。それを回避できたのは、偶然にすぎない。さらなる水素爆発や大地震が生じたり、津波がさらに襲ったりしたら、そのような最悪の状況になり、日本は壊滅的な打撃を受けただろうと考えられている。
当時の首相が、最悪の事態になると、東日本はつぶれる、といったとかいうが、東日本どころでなく、そのような事態になれば、3千万人という膨大な人間が避難しても、日本で住むところがなく、日々の食生活から、はじまって政治や経済も産業も交通も、あらゆるものが大混乱となっていただろう。
田坂は、そうならなかったのは、「事態を把握して事故の拡大を押さえ込んだというより、幸運に救われたのだ」と振り返った。
そして政府の中枢にある一人は、「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」と証言したという。
科学技術や政府の対応といったものが救ったのでなく、究極的には、人間のわざを超えた偶然、あるいは幸運、さらには「神様の守り」があったからだとまで言わせるほどに、人間を超えた運命の手が働いて、そのような破局へとは至らなかったというのである。
こうした偶然、幸運は、東海第二原発にも見られた。この原発は、日本初の百万kW級の原発であり、これが大事故になると東京の中心部(東京駅)まで、115キロほどしかないから、東京の全域が避難せねばならなくなる。
福島第一原発の4基の大事故があったから、この東海第二原発のことがほとんど報道されなかったが、この東海原発も危機一髪であった。
辛うじて冷温停止がなされたのであって、あとわずか70センチほど津波が高かったら、防潮壁を乗り越えて、福島原発のような炉心溶融に至っていたという。
それまでの防潮壁は高さ4・9メートルであったが、スマトラ沖大地震の後で、その防潮壁の高さを1・2メートル高くした。その結果新しい防潮壁は襲いかかった津波より、わずか70センチ高かったために、全面的に非常用電源が水没しなかった。
さらに、非常用ディーゼル発電機の冷却ポンプ3基のうち2基は、大地震のわずか二日前に、止水工事が完了していたので、浸水を免れたが、まだ終わっていなかった1基は、ケーブル用の穴から海水が侵入して水没し、使えなくなったため、冷温停止までに三日半を要したという。
この記事は、「首都圏を救った70センチ」というタイトルで掲載されたが、わずか70センチが途方もない被害を首都圏に与えるところであったし、止水工事が二日前に終わっていたがそれがもし終わっていなかったら、やはり非常用ディーゼル発電機がみな動かなくなっていた。
このような、綱渡りのようなことで首都圏3千万人の避難というかつてだれも経験したことのない事態が起こらなかった。
さらに、その高めた防潮壁も、石巻や仙台などで多く見られたような船や自動車など漂流物が衝突していたら崩れ落ち、そのために、非常用ディーゼル発電機すべてが水没し、原子炉が冷やされなくなり、炉心溶融という最悪の事態になっていたという。
原子力安全・保安院幹部も言ったように、「薄氷の冷温停止」だったと記されている。(毎日新聞2012年3月1日)
また、東北電力女川(おながわ)原発でも、重大な被害があった。
この女川原発の建設において、当初は現在よりももっと低い位置での設計となっていたが、当時の責任担当者がより安全性を考慮し、当時は 過剰といわれた14.8mの高台での設置となった。
これが福島原発のような致命的な事態とならなかったことにつながった。
しかし、この担当者は、費用をかけすぎたということで後に、左遷されたという。
去年の大津波で2、3号機では、原子炉建屋内のポンプやモーターを冷やす冷却系に海水が浸入した。うち2号機は熱交換器室の設備も浸水。外部電源の給電で運転に支障はなかったが、非常用発電機3台のうち2台が起動しなかった。
福島の大事故がなかったら、これだけでも、相当深刻な事故として報道されたはずの出来事であった。
過剰といわれたほどに高台に設置してもなお、このように非常用発電機の過半が使えなくなったのであり、もし、この特別な担当者がいなくて、最初の予定どおりに建設されていて、地震で福島のように外部電源も断たれていたら、やはりこの女川原発も炉新溶融を起こす事態となっていた。
このように、福島第一原発だけでなく、女川原発も、東海第二原発も、あと少し大きい津波が襲っていたり、地震がもう少し強く揺れていたら全く状況が違っていて、これは三カ所で、取り返しのつかない大事故が発生していたのであった。
これらすべては、一般的には、「偶然」であり「幸運」である、というしかない。
しかし、神を信じる者にとっては、偶然という言葉はない。
そのような最悪の事態にならなかったのは、神の何らかの深い意図によってそうならなかったのだというほかはない。
それは、確かに大いなる警告である。そして待たれているということである。運がよかった、運命が助けてくれた、というようにだけ受け取るのでは不可であって、日本人が本当に真理なる神に立ち返ることを待って下さっていると感じるのである。
このような、薄氷を踏むような事態、それは神の警告が迫っているということを暗示していると思われる。
主イエスが、「目を覚ましていなさい、いつそのとき―主が再び来られるとき―が来るかわからないからである。」(マタイ24の44)と言われたとおりである。
主のとき、それは究極的な救いのときであるとともに、さばきのときでもあり、私たちが魂の目を覚まして日々の歩みを続けるべきことを示している。


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