希望の源としての神
だれでも、未来への希望がある。子どもに大人がよく何になりたいか、と尋ねると野球の選手とか保母さんとかパン屋さんになりたいという。
幼い子どもの希望だけでなく、生きているかぎり私たちは、何らかの未来への希望を持っている。
○○へ行きたい、もっと○○が欲しい、健康が回復してほしい、よい家庭、心の通う友だち、あるいは、いま何らかの病気や悩みを抱えている人は、その苦しみから解放されること…等々、子どもから大人まで、そして病弱な人から健康な人まで、すべてよりよいものを求め、願う希望を持っている。
しかし、そうした希望は、実現できるという保障はなく、願いであり、夢のようなものであることが多い。
このような希望ではなく、必ずかなえられる希望というのを聖書は約束している。すでに、旧約聖書の古い時代、今から3700年ほども昔に、アブラハムは神から呼び出され、あなたは、郷里を捨て、友人、親族から離れて私が示す地に行きなさいと命じられた。
アブラハムは、その遠いところ、全く未知のところへと神の言葉を信じていくことになった。彼は乳と蜜の流れる地と言われるよき土地を与えられると信じて旅立った。
このように、神から与えられる希望は、強い力で迫ってくる。人間が思い描く希望は、夢のようで、実現に至らせる力はなく、さまざまのこの世の力によって壊されていくことが大部分である。
しかし、人間を超えた力を持っておられる、全能の神に由来する希望は、いかにこの世の出来事が起こって妨げようとも、壊れることがない。
それは信仰から生まれる希望である。全能の神を信じない場合にはそうした強い希望は生まれない。
神は無から有を生み出す、それと同じように神は希望の無いところに、それまで全く考えることもなかった希望をも生み出すのである。
アブラハムには、昔からの土地でずっと生活するということしかなかった。しかし、神はそのような彼に、まったく新たな希望、考えたこともない希望を与え、新たな生活へと導かれたのである。
さらに、アブラハムはその後、神からあなたの子孫は夜空の星のようになる、と言われた。神の全能を完全に信じるところまでいっていなかった彼であったが、その神からの言葉は、未来へのともしびとなって彼の希望となり続けた。
そしてその神の約束は、アブラハムだけでなく、その後の子孫にもずっと希望であり続けた。
このように、聖書における希望は、神から来る。全能の神が、あらゆるこの世の妨げをも超えて実現することを示されるゆえに、その希望は必ず実現するという本質を持っている。
この希望は、聖書全体に見られるが、とくに詩篇や預言書においては、いかなる現実の闇や困難をも超えて、神が希望を与えることが記されている。
そうした不滅の希望をさらに完全にしたのがキリストの到来であった。キリストは私たちが心の弱さのゆえにどうにもならない現実をも見据えて、その弱さや醜さを我が身に担って下さった。そこに、その弱い現実から解放されるという希望が生まれた。これは人間の根源にかかわる希望であった。
そのために、十字架は世界中で希望のシンボルとなった。十字架はキリスト教のシンボルと思われているが、それは単なるキリストの教えを表すのではなく、実は大いなる希望を指し示すものなのである。そこに私たち弱いものへの招きがあり、赦しがある。神の愛がある。神の愛こそは、希望の究極的な源だからである。
そうした愛が、地上の生活においてどうしても回復できない私たちの苦しみや悲しみ―それは愛するものの死であり、また人間関係の分裂、また取り返しのつかない罪、自分の病気の耐えがたい苦しみ等々を最終的に解決してくれるものとしての復活が与えられている。
復活こそは、十字架とならんで人間の究極的な希望となっている。死の力、それはあらゆるものをのみこんでいく。どんなに親しい人、愛で結ばれた人間同士も死によって引き裂かれる。深く結びついているほど、魂には深い空洞が生まれる。その回復しがたい傷をいやすもの、それが復活である。
私たちはただ神とキリストを信じるだけで、復活させていただける。霊のからだ、完全なからだとなって、しかも愛の神の御前にて復活させていただき、いっさいの涙や悲しみから永遠に解放される。これは究極的な希望である。
この希望がなかったら、人間がこの世に生きることは次第に希望が壊れ、消えていくしかない。火が一つ消え、また一つ消えていくようなものでしかない。
復活させていただけるという希望こそは、生きることが絶望的な状況であってもなお闇に輝く星のようにさらに強くよみがえってくるのはつぎのような箇所からもわかる。
…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Uコリント1の8〜10)
普通、希望という言葉の内容は、よい生活、楽しく幸いな生活であろう。地位や経済的豊さ、人間関係のよさなどもみなそれである。だから、そうしたものがすべてなくなる死というものは一切の希望がなくなることだと思われている。
しかし、聖書においては、その死ということに直面して最も強い希望が芽を出してくる。それがここに引用した復活への希望である。ただ、神の全能とキリストの愛を信じているだけで、私たちは必ず復活させていただける。キリストの栄光のような姿として。 (フィリピ書3の21)
さらに、希望がまったく消えたと思われるようなとき―主イエスも十字架上で、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!との深い叫びを出された。
しかし、それでもなおこのように神に向って叫ぶというところに、希望の光が残されていたのがわかる。
人間は肉体を持っているゆえに、そのからだが途方もない苦しみにあったときには耐えられない。考えることもできない。ただ叫び祈るだけとなる。それでも、神は、見放したのでなく、たしかに側におられたゆえに、キリストは復活された。
人間の側でどんなに希望がないように見えても、なお神は求めるものの近くにいてくださるのだという希望がここにある。
こうしたすべての希望は神に由来する。希望の神、と言われているとおりである。
…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、
聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマ 15の13)
愛の神、真実な神、正義の神であり、慰めと励ましの神であり、そして希望の神なのである。
信仰こそは、それらの出発点にあるからこそ、喜びも魂の平和も信仰から来る。そして、その信仰によって与えられる聖霊が、望みなきところであっても、希望でみちあふれさせてくださるということを使徒パウロは知っていた。
これは、単なる学問や思索によるのでなく、直接に主からの啓示と聖霊が与えられたことによって、このような確信が与えられていたのである。