私たちが今あるのは
私たちが今あるのは、何者のおかげによってであるか。日本でよく言われるのは、ご先祖様のおかげという言葉である。先祖がいたから私たちはあるのだ、だからご先祖さまを大切にまつらないといけない、というように言われることを多く耳にする。
しかし、私たちが存在するのは、先祖が単にいただけでない。その先祖が生きていけたのは、その人たちの周囲のいろいろな人たちの衣食住全般にわたる働きによってである。
例えば、主食となる米や麦、それは農業の人によって生産される。そうした仕事にかかわる人がいなかったら生きていけないし、その農業のためには、水路を造り維持しる人がいなければ農業はできない。
また現代なら、農産物を運搬して購入できるようにするためには、車やそれを作っている会社、そして車一台を製造するには、鉄鋼メーカー、塗料会社、ゴム会社、電気関係の会社…等々実に多数のさまざまの会社が関係している。
そして販売する店も必要である。農業だけでなく、衣服、住居、農機具、耕作のための道具等々があって初めて生きることができる。
病気になったり大きな怪我のとき、医者や薬により、また誰か他人の助けがなかったら生きていけない。
先祖だけを大切にということが、無意味であることはこのようなことを考えても直ちにわかることである。
さらに、先祖というと何か自分の血筋につながっている人ということで、何となく祖父母やそのまた祖父母といったものを思っている場合が多い。しかし、そうした先祖は実はきわめて多数存在するのである。
自分の両親は二人、そのまた両親は二人だから、二代さかのぼるだけで、4名の先祖がいる。さらに3代前になると、4名のそれぞれに両親がいるから、8名、さらにさかのぼると、16名となる。これを、30代さかのぼるとどれほどになるだろうか。
10億7千万人ほどになる。
4代さかのぼっても16人にしかならないのに、どうして30代で10億人もの先祖の数になるのか、といぶかしく思うなら、じっさいに計算すればわかることである。(*)
(*)なお、高校の数学でならう対数の知識があれば、簡単に概略の数字は出てくる。
1世代さかのぼると2人の親がいることになる=2の1乗
2世代 4人=2の2乗
3世代 8人=2の3乗
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30世代 X人=2の30乗
logx=30log2=30×0.3=9 (概略)
これを解いて x=約10の9乗=約 10億人 。この方法を使うと50代さかのぼったときの先祖の概略の数もすぐに計算できる。
私たち一人一人は 30代ほど歴史をさかのぼるだけで、10億人以上の人間が先祖にいたことになる。これは、だれであっても、みなつながりあっているということで、自分の先祖などという家系図などで見るような単純なものではない。
言い換えると、私たちは無数の人たちがいて、現在がある。
しかし、そのような過去の人間だけいたら私たちがあったのでない。
そもそも、太陽がなかったら、生命は存在しないし、空気がなかったらやはり私たちは存在できない。また、緑色植物がなかったら、バクテリアから人間までその生きるためのエネルギー源としているブドウ糖がつくられず、生きていけない。
さらに、その植物を生み出す大地、土の存在があればこそ、植物は育つ。
そして、その植物が大地からさまざまの栄養分を吸収して育つが、それらは地中の細菌、カビなど微生物や昆虫類の働きによっている。それらの微少生物がなかったら、やはり植物は育たず、人間も生きられない。
このように考えると、私たちが存在するのは、単に両親や先祖、あるいはお世話になった若干の人たちとかいう問題でなく、ありとあらゆるものがあっていまの私たちが存在しているのである。
そして、そのような昔生きた人間を創造したのも神であり、太陽や緑色植物、微生物などを作ったのもまた、人間でなく、神である。
それゆえ、私たちは、無数の網の目のようなかたちで神の創造されたものによって守られ、生かされてきたと言える。 そのことは今も同様であり、、結局いっさいは神のおかげなのだと言える。
このような周囲の人間や自然のすべてによって今の私たちが存在しているのであり、神を信じ、神を愛するものには、そうしたすべてのものが互いに働いて益となるというのが、使徒パウロが受けた啓示であった。
…神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っている。(ロマの信徒への手紙8の28)
このことを信じることができるとき、さまざまの不可解なこと、悪意や事故、自分の罪、弱さなど、心を滅入らせる出来事が次々に生じてきてもなお、やはりパウロが書いているように、つねに喜び、感謝することができるようになるのだと言えよう。
そして、このことは、すでに今から2500年以上も昔に、次ぎのように言われていることであった。
…主に感謝せよ。恵み深いゆえに。
その慈しみは永遠であるゆえに。(詩篇136の1)(*)
Give thanks to the LORD, for he is good. His love endures forever.
(*)新共同訳は、恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
と訳されているが、原文では、「感謝せよ、主に、というのは、恵み深いから、慈しみは永遠だから」というように、まず、感謝せよ が冒頭にあり、主に、と並び、さらに、理由を表す接続詞(ki)がある。英訳は、それをfor(というのは、なぜなら)で訳している。
そして、この詩篇だけでなく、詩篇の最後の 部分に、繰り返し、神への感謝と賛美へのすすめが壮大なコーラスのように記されている。これは、人々への勧めであり、同時に、神にあらゆるものが賛美することが最終的目標であることを詩篇の作者が啓示されていたことを示すものである。
ハレルヤ! 天において主を賛美せよ
日よ、月よ、輝く星よ 主を賛美せよ
主を賛美せよ
山々よ、川よ、すべての丘、木々よ…
若者よ、老人、幼な子よ… (詩篇148より)
不安や動揺に満ちたこの世界、それは数千年前から変ることがない。それにもかかわらず、このような賛美の世界がすでに知られていたことに驚かされる。
それは、幼な子のような心で、神の愛とその万物の創造と支配を信じる魂に与えられた啓示であった。
現代の私たちも、主イエスが言われたように、その幼な子のような心で、まっすぐに神とキリストを仰ぎ、その愛を信じるときに、こうした豊かな賛美の世界へと導かれていくのを信じることができる。