宇宙開発と原子力開発
宇宙開発というと、一般的には、夢のあるロマンチックなものと受け止められやすい。宇宙からの無重力状態の映像で、空間を泳いでいるような映像を出して不思議さを演出したり、小学校の子どもへのメッセージを託したりと、いかにも平和なはるかな宇宙への思いを駆り立てるようなものとして放送される。
しかし、宇宙開発はそのようなロマンチックなものでもなく、本当に人間に未来への確たる希望を与えるものでもない。
軍事目的からの開発
宇宙開発の出発点となったのは、宇宙に向って打ち上げるロケットの開発であったが、その重要な人物は、ドイツのブラウンであった。
その開発は、ブラウンらによって考えられたが、目的は、第二次世界大戦の末期になって、イギリスへ直接砲弾を打ち込むことのできるロケットが目的であった。航空機に乗って爆弾を投下するのは、敵によって撃墜される危険性が高く、かつ人的、また航空機の損失も大きい。
もし、ドイツから直接に砲弾をイギリスに打ち込むことができるならそうした危険性も損失もないということから、研究されたのであって、明白な軍事目的であった。
戦争末期に、彼等優秀なロケット技術者はアメリカにわたり、戦争が終わったのちも、アメリカでロケットの研究を続けた。
ソ連もドイツのロケット関係の技術者を自国に入れ、またロシア人独自の研究開発を続けた。
このようにして、ロケットの能力は飛躍的に増大し、大陸を超えて爆弾を敵国に命中させるような兵器(大陸間弾道弾)も生み出された。
人工衛星の技術もうまれた。偵察機を使って敵国を調べることは撃墜の危険があり、かつ捕らえられると国家機密が漏れる恐れもあるが、地球を回る衛星から偵察し、情報を集めることができるなら、そうした危険性がない。
このように、宇宙開発は、宇宙旅行とか月着陸などのような空想的なことが実現するなどということでなく、互いに激しい軍事的目的のゆえに発達していったのである。
こうした状況に、日本も影響されていく。
日本では、1956年7月というはやい段階で、防衛庁は、宮城県で最初の軍用ロケット発射に成功しているし、現在では、軍事衛星ともみなされる情報収集衛星を保有している。
そして、2008年に成立した宇宙基本法ではその第一条に次のように記されている。
「この法律は、…日本国憲法の平和主義の理念を踏まえ、…我が国において宇宙開発利用の果たす役割を拡大するため、…世界の平和及び人類の福祉の向上に貢献することを目的とする。」
さらに、第二条にも、「宇宙開発利用は…日本国憲法の平和主義の理念にのっとり…」とあり、いずれも、憲法の平和主義に従ってなされることが記されている。
それほど、宇宙の開発は、容易に軍事と直結するからである。
一般の人々の受け止めでは、宇宙開発と憲法の平和主義とはまるで結びつかないイメージがあるのではないか。宇宙での無重力状態をスペースシャトル機内で泳いで見せたり、何らかの実験をするなど、およそ、憲法9条とは関係のないようなものとしてマスコミなどでは伝えられているからである。
これは、こうした平和的な、文化的なものだという意識を子どもたちや一般の人たちに植えつけるための方策ともなっている。
これはちょうど、原子力発電が、安全だ、平和的利用だ、資源のない日本にふさわしいエネルギーだと、よいことばかりを教育やマスコミで宣伝されたのと共通したことである。
原子力発電と宇宙開発
原子力発電もまた、その出発点は軍事目的であり、原爆でわかるように、相手を徹底的に攻撃、破壊するために考えだされたものであった。
宇宙開発事業団法に対する国会の附帯決議が1969年6月に、参議院科学技術振興対策特別委員会で行われており、その中に、「我が国における宇宙の開発及び利用に関わる諸活動は、平和利用の目的に限りかつ自主、民主、公開、国際協力の原則のもとにこれを行うこと」という条文がある。
これは、それより以前、1955年にできた原子力基本法の考えとも深い共通点がある。
その第2条は次のような内容である。
「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」
このように、この両者が、軍事利用ということから始まったゆえに、常に軍事のために使われる可能性が高いために、平和利用とか憲法9条の精神に沿ったようにということが記されねばならなかったのである。これらはその出発点から同じ問題点を持っていたことを示している。
宇宙は生命あるものにふさわしいか
宇宙そのものは、全く明るい世界でも希望に満ちたところでもない。
宇宙へ出て行くこと、それは、死の世界である真空の中であり、各種の危険な放射線が飛び交うところであり、また、無重力であり、さらに、きわめて低温である。例えば、月の表面では、太陽が当たらないところでは、マイナス170度、さらに2009年に、 アメリカ航空宇宙局 NASAの月探査機が月の南極にあるクレーター内部の永久影の温度を計ったところ、マイナス238度以下にもなることが明らかにされた。
また、無重力状態では多量に人体の骨のカルシウムやリンが溶けだしていくためと、筋肉が退化するために、毎日2〜3時間もただそのために、運動を続けなければならないという異常な空間である。宇宙飛行士が地球に帰還すると、立って歩けない状態となり(そういうところは映像ではださないが)、元の生活に戻るには数カ月を要するという。
筋肉は、無重力状態では、5日間でその機能が30%も低下し、18日間の宇宙飛行で地上に帰ったとき立ち上がれない状態になる。
2011年の11月に、国際宇宙ステーションから地球に戻った宇宙飛行士の古川聡氏(東大病院の元医師)は「体はまるで軟体動物のようで立っていられない、歩けない」と地球帰還後の体調について語っている。
骨については、無重力状態では1ヶ月に約1パーセントの割合で骨の質量が減少するので、10ヶ月も過ごせば地上で30歳から75歳まで年を取った分に相当する骨の無機成分が失われるという。
そのようにして弱った筋肉は地上でのリハビリによって比較的短期間で回復していき、普通に生活できるようになるが、骨そのものが元通りになるまでには、数年もかかると言われている。
また、機体の故障で地球に帰れなくなればそのまま死への旅立ちとなる。
宇宙とはまさに徹底した死の世界である。
そのような死の世界であるのに、なにかバラ色のような、よいことばかりを提示して、巨額の費用を使っていく、それは原子力の「平和利用」という名目で推進していったやり方と似通ったものがある。その背後には、軍事目的に転用しようという意図が潜んでいる。
原子力もバラ色の世界が開けるように思わせたが、それはひとたび事故となれば、死の世界、苦しみと悲しみの世界へと導く悪魔的なものなのである。そして事故がなくとも、その廃棄物は数十万年も管理の必要な、途方もない毒物、魔物であり続ける。
宇宙に出て行くことは、かつて、コロンブスが未知の世界をめざして出かけてそこでアメリカ大陸を発見したことのように、人類が未知の世界を開拓するようなイメージで言われることがある。
しかし、コロンブスは地上の世界であり、生命が存在できる世界の範囲内であったのに対して、宇宙は絶対的な死の世界であるという点が決定的に異なっている。
原子力が人間の生存を根本的に脅かすものであることは、原爆、水爆などの核兵器や、チェルノブイリ、福島などの原発―の大事故で明らかになった。
人間は、原子核という本来手を触れるべきものでないものに触れてしまって、途方もない困難を自ら招いてしまった。 徹底した死の世界である宇宙に出て行くということも、本来人間の考えるべきことでない世界に手を触れようとしていることなのである。
それらが原理的に生命と相いれないこと、さらに、たえず軍事的に用いられる危険性を持っているからである。
そのような方向に莫大な費用をかけるのでなく、この神から与えられた地球での福祉のためにこそ、費用をかけるべきなのである。