リストボタンキリスト者の一致への熱意と福音伝道 ―使徒パウロ

新約聖書のなかで、ローマの信徒へ宛てた手紙は、キリスト教信仰の中心になる内容が記されている重要なものである。それを書いた使徒パウロは、彼が受けた啓示を詳しく、かつ綿密に書き綴っている。そのローマの信徒への手紙のなかで、いかに共同体の一致を重んじていたかをうかがわせる内容がある。(15の22〜)
キリスト教伝道の出発地点は、エルサレムであった。弟子たちはキリストが捕らわれたときに、皆逃げてしまった弱い者たちであったが、そのエルサレムで聖なる霊が注がれ、それによって新たな力を得てキリストの福音伝道に命をかけるように変えられたのであった。
しかし、その後、エルサレムのキリスト者に対して大迫害が起こり、多くのキリスト者たちは、各地へと逃げていった。(使徒言行録8の1)
エルサレムに残ったキリスト者たちは、そのような状況のなかで、生活にも困難をきたす状態にあったのがうかがえる。

キリスト者の一致に向けた情熱とその源泉としての愛
そのようなエルサレムのユダヤ人キリスト者に対して、パウロは、みずからが福音を伝えることによってキリスト者となっていたギリシャの人たちからの献金をもって、エルサレムの信徒たちに手渡そうという強い気持ちがあった。
他方、ユダヤにいたキリスト者たちには、ユダヤ教から抜け出せず、キリストよりもモーセが偉大であり、モーセが受けた律法を守らねば救われないと強く主張する人たちも多かった。(*)

(*)それゆえに、ヘブライ人(ユダヤ人)に宛てた手紙では、イエスがモーセよりはるかに偉大な存在であることが、その最初から強調されている。(ヘブル書1の2〜3、、3の1〜6)

とくに割礼を受けないと救われないという人たちは、パウロがそのようなものは不要であり、キリストを信じるだけで救われるとしたために、強い反発が生じていた。
パウロはそうした自分に反対している人たちの多いエルサレムに向けてあえて行こうとしたのである。
それは、ユダヤ教、律法に固執して本当のキリストの福音を受け付けようとしないユダヤ人キリスト者たちとひとつになるためのパウロの主にある愛からであった。
エルサレムのユダヤ人たちは、キリストを信じるようになったユダヤ人に敵対していた。
また、へロデ王も、キリストの12弟子の一人のヤコブを殺し、さらにはペテロをも捕らえて牢に入れた。
パウロ自身も、ユダヤ教の指導的人物であったのに、キリスト者に転向したというので、ユダヤ教の熱心な人たちからは強い憎しみを受けていた。
パウロが、ギリシャのキリスト者からの献金をもって行こうとしていたエルサレムとは、そのような状況であり、パウロにとって、命の危険があることは明白であった。
しかし、 敵を愛せよ、という主イエスの教え、神の愛が指し示すその方向をパウロは、みずから多大の犠牲と危険をはらって実行したのである。

私たちの礼拝とは、私たちの全身全霊を捧げることであり、日曜日の礼拝だけに参加するというようなことで終わるのではない。
そこから、具体的に互いに支えあうということが浮かびあがってくる。
パウロの、そして新約聖書のとくに重要なものは、ローマの信徒への手紙である。そこに人間にとって最も重要な、人間の本質はどのようなものか、救いとはいかにして与えられるのか、救われた者はいかに生きることができるのか、この世界はどのような歩みをするのかといったいつの時代にもだれにとっても最も重要なことが書かれているからである。
その重要な文書に、献金という具体的な問題についても、それがどのようなはたらきをするのかがパウロの行動を通して簡潔に記されており、この問題が持っている大きな意味をさし示している。

はるかな未知の地を目指して
彼は、ローマの信徒への手紙の終わりに近い部分で、今後の伝道の方針に触れている。
それは、当時の世界を支配していたローマ帝国の中心地であるローマを訪問したいと何度もねがっていたが、それは果たすことができなかった。しかし、今度はようやく行くことができるだろうという見通しを語る。
しかし、それも二つの理由で、意外な内容となっている。
ひとつは、ローマに行くのは、目的でなく、さらに遠いスペインに行くのがその目的であり、その途中の立ち寄り地としてローマを訪れる予定だった。
それはなぜか、この記述の直前で、彼は、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、熱心に努めてきた。」(ローマの信徒への手紙15の20)
彼は、まだ唯一の神のことやキリストのことを全く知らない人たち(ユダヤ以外の国の人たち―異邦人)に告げ知らせることをその使命としてきた。
遠い国々に出かけたのは、聖霊のうながしによってであった。
彼らが主を礼拝しているとき、聖霊が告げた「さあ、バルナバとサウロ(パウロ)を、私のために選び出せ。私が前もって二人に決めておいた仕事(異邦人伝道)に当たらせるためだ。」とある。(使徒言行録13の2)
そして、「聖霊によって送り出されたパウロ…」(同4節)とあって、パウロは直接に聖霊によって神をまったく知らない人たちに伝えることを第一の使命としたのがわかる。

ユダヤ人からの敵意
そして、神がそのような使命を与えたパウロであるから、彼は、ユダヤ人が救いのためには不可欠としていた律法を守ることでなく、ただキリストを信じることの重要性を語った。
律法の数々の規定―動物の捧げ物や汚れや清めに関する数々の規定などとともに、割礼という特殊なユダヤ教の習慣もあり、とくに割礼は神の祝福を受けるには不可欠だとして非常に重要なものとされていた。
しかし、パウロは、それらの律法は救いのために不要であるということ、ただ十字架につけられたキリストだけを信じて救われるということを強調したので、熱心なユダヤ教の人々から激しい敵意を受けることになった。
ユダヤ人たちは、パウロが、人々と律法に逆らい、神殿を無視するとして、エルサレムに着いたパウロを神殿の境内から引きずり出し、殺そうとした。
そのような危機的状況から、ローマ兵によって助け出されたほどであった。
このような危険は、エルサレムに行く前から、一部の神の霊を受けた人たちによって知られていた。パウロが長いコリントからの陸路や海の旅を経て、ようやく地中海沿岸の港に着いたとき、そこで、神の霊によってパウロの危険を知らされていた人たちは、パウロに対して、エルサレムに行かないようにと繰り返し懇願した。
さらに、別の預言者がきて、聖霊から知らされたとしてパウロが捕らえられることを予言した。
このように、ユダヤ人自体のパウロへの敵意、ユダヤ人キリスト者たちすら、パウロのキリストへの信仰のみによって救われるという信仰に反対している状況はまさに周囲は敵対者、反対者ばかりという状況であった。そのうえ、さまざまの人たちからその危険性が知らされ、どのような観点からも、特別な危険性があるところに、なぜ、パウロは行こうとしたのか。
しかも、ローマの信徒への手紙を書いたギリシャの都市コリントからは、エルサレムまで2千キロほどもあり、彼の目的とするスペインや途中の立ち寄り先のローマとはちょうど反対方向にある。

主にあって一つになることを目指して―敵対者への愛
パウロがエルサレムに命をかけて行きたいと願ったのは、現在のギリシャ地方のキリスト者からの献金を手渡しに行くためであった。
このことを知って、私たちは驚かされる。福音伝道のため、しかもユダヤ人以外の国々の神を知らない人たちに福音を伝えることがその使命であったにもかかわらず、このような危険をあえてしてまで、ユダヤ人キリスト者の中心地であるエルサレムに行ったからである。
それはエルサレムにいる貧しいキリスト者たちを支えるためであった。それにしても、ユダヤ以外の国々においても、ユダヤ人のいる会堂でキリストの復活や悔い改めを語ったとき、ユダヤ人から激しい憎しみを受けて、撃ち殺されようとしたこともあったから、そのユダヤ人たちの中心地、エルサレムに行けばどれほど危険であるかは彼もよく分かっていた。
じっさい、ステファノという最も初期のキリスト者は、ユダヤ人から憎まれて石で撃ち殺されてしまったほどである。そしてパウロはこの出来事にかかわっていたのであるから、ユダヤ人がキリスト者にどれほど敵意をもっているかは、自分自身もかつてはキリスト者たちを迫害して国外まで捕らえようとして出て行くほどだったから熟知していた。
このような状況を考えると、いっそうパウロがエルサレムに遠く離れたところから、危険を犯してまで献金を届けに行ったということの行動は謎のように見える。
そして、ここにこそ、パウロらしいところ、神の聖霊を受けた人にふさわしい行動が浮かびあがってくる。
それは、いかに危険であっても神の示すところに従うこと、キリスト者の一致を達成すること、敵を愛せよ、ということである。彼自身、その手紙において、次ぎのように書いている。

…あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。(ローマの信徒への手紙12の14〜20より)

敵対するもの、悪意をもって私たちを攻撃してくる者に対しては、悪意と敵意を返すのではかえって双方の中に働くサタンの力を増大させるのみである。そのときには、神から受けた愛をもって対することこそ、敵の根源にあるサタンの力を失わせることになる。
パウロが命がけで、ギリシャ地方の人たちからの献金を携えて二千キロにも及ぶ距離を出かけて行ったのは、ひとえに聖霊がうながすこの愛のゆえであったし、それによって民族宗教の枠内におさまってしまおうとするユダヤ人キリスト者の狭い信仰から、全人類に及ぶ真理であるキリストへの信仰に脱皮するようにという目的があった。
主イエスご自身が、繰り返し信じるものがひとつになることの重要性を説いたが、パウロの行動もそうした方向に沿ったものであった。
ヨハネによる福音書において、キリストが「互いに愛し合え」という戒めを特に強調された。

…わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。
互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ 13の34)

また、次ぎのような表現も同じことを別の表現でいわれたのであった。

…主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。(同14節)
(足の汚れ、それは罪の汚れと同じであり、足を毎日使って歩くことでさまざまに汚れる、それを洗い合うとは、互いの罪をゆるしあうこと、愛をもって互いに生きることを意味する。)

このような主にある愛こそが、同じキリストを信じるにもかかわらず、教義上で深刻な対立をしていた人たちの和解をもたらし、キリストにある一致へとうながす力となるのをパウロは知っていた。
その愛をパウロは、各地の異邦の国々の信徒のエルサレムの信徒たちへの目に見えるかたちの愛と敬意の表現としての献金をもちいて、表そうとしたのである。

キリストの平和による一致を目指して
ユダヤ人キリスト者たちの、律法に固執するその強さは、非常なものであった。ペテロは、特別に聖霊を受けて伝道の出発点で「神の霊はすべての人に注がれる」(使徒2の17)ことを示された。すべての人ということは、異邦人にも同じように聖霊が与えられるということであったはずである。
そのように示された人ですら、後になって、ユダヤ人キリスト者からの圧力によって、ユダヤ人以外の国の人たち(異邦人)と食事すると汚れるという考えに影響されてともに食事しなくなった。
そのことを、パウロから面と向って叱責されたことが記されている。(ガラテヤ書2の14)
また、ペテロがそれ以前に、聖霊による新出発のあとも、割礼を受けていない異邦人は汚れていると思っていたが、夢のなかでその間違いが指摘されて、どんな人をも汚れているなどと言ってはいけない、と諭したことがあった。(使徒言行録10の9〜28)
これほど、明確にユダヤ人でなくともだれでも信仰によって救われるということが示されたにもかかわらず、なおも、ユダヤ人のように割礼を受けないと救われない、汚れているという観念から解放されなかったのがわかる。
それほどまでに、ユダヤ人は、キリストを信じるようになってもなお、モーセ律法に縛られていたのがうかがえる。
この状態にあるかぎり、キリスト者たちは、分裂した状態が続いていくことをパウロは見抜いていた。
この問題に関して、このようにユダヤ人のパリサイ派からキリストを信じるようになった人たちは、あくまでモーセの律法に固執して、外国の人でもキリストを信じるだけでは救われない。律法にある割礼を受けさせるべきだと強く主張して激しい対立と論争が生じた。この解決のために、パウロは、第一回目の小アジア(現在のトルコ地方)への伝道から帰った後、エルサレムまで、出向いたのであった。
そこで、パウロはじっさいに異邦人がキリストを信じるようになり、聖霊が注がれたことを証しし、それによって、ペテロたちも異邦人が割礼とかモーセ律法と無関係に救われることを認めたのである。
そのようなことがあったにもかかわらず、ユダヤ人たちは、長いユダヤ教の慣習に生きてきたゆえに、そこからキリストを信じるようになったといえ、彼らは、律法なしに救われるという単純な真理をなかなか受けいれられなかった。
こうした大きな壁を打ち砕くためにも、パウロは異邦人のキリスト者たちの彼等への愛と信仰を目に見えるかたちで届けようとしたのであった。
すでに述べたように、エルサレム会議において、言葉によってパウロは熱心に信仰による救いのことを語った。
しかし、じっさいに目で見える形で、ユダヤ人キリスト者たちに、異邦人の信仰の実を届けることによって、大きな壁を砕くことに用いられることを信じていたのである。
このことは、パウロの大きな願い、切実な祈りであったのはつぎの言葉からもうかがえる。

…あなたがた(異邦のエペソの人)は、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなった。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意を取り除き、律法を廃棄した。
彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった。
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。(エペソ2の13〜18)

こうしたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との和解に向けてのパウロの熱心がいかに大きなものであったか、それがこのギリシャ地方の異邦人キリスト者からの献金を遠いエルサレムの貧しい信徒のために持っていくという行動となったのである。
もちろん、彼のさまざまの福音にかかわる行動は自分の考えではなかった。
「…私は御霊にうながされてエルサレムに行く。」(使徒言行録20の22)と言っているとおりである。

人間は、ひとつになれない。ひとつになったとしてもそれは単に、一時的なものであり、その多くは一時的に好き嫌いといった感情が一致したときでしかない。何かが起こればいとも簡単に分裂し、敵対するようにもなる。そうでなくとも無関心となり、そのまま離れてしまう。
信仰が与えられてもなお、このひとつになるということはとても困難なことであり、聖霊によって十分に浸されないかぎり、人間的な感情によって対立、分裂が生じてしまう。
カトリックとプロテスタントの対立あるいは、カトリックやプロテスタントの内部、さらにひとつの教会や集会のうちにおいても、なかなか一致が難しいのは、みな人間の持つ深い罪のゆえであり、聖なる霊を受ける度合いが少ないために生じる。
パウロはそこから、このような異邦人からの信仰と愛のあらわれである献金をもって和解のため、さらにただ信じるだけで救われるというキリスト教信仰の本質を彼のそうした行動によってもたしかなものとするという大きな目的があった。
ユダヤ人はキリスト者となってもなおも、モーセ律法に従うこと、とくにユダヤ教の必須のものである割礼をしないと救われないという主張を変えることのできない人たちが多かったからである。

信徒からの慰めと励ましによって
こうした愛ゆえの行動は、またキリスト者からの愛をも受けることで安らぎと励ましを与えられることを彼は深く知っていた。
それゆえに、スペイン伝道が目的であるが、途中のローマを訪問して、キリスト者たちからの励ましと安らぎを与えられたうえで、未知の遠い地であるスペインへの福音伝道へと出発しようとしていたのである。
彼のような勇敢な信仰的な巨人というべき人であっても、なお、このように信徒からの祈りと励ましが大きな支えとなる。

…(私が福音伝道のために)イスパニアに行くとき、ローマを訪ねたいと思います。
あなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。(ローマ 15の24)
…こうして、神の御心によって喜びのうちにローマへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。(*)(同32)

(*)「憩う」と訳されている原語は、シュン-アナパウオー syn-anapauo で、シュン syn とは、「共に」を表す接頭語で、(sym も同じ)、sym-phony 共に 音を出す→交響曲などのように数多くの語に用いられている。
アナパウオーは、主イエスが、疲れている者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイ11の28 の「休ませる」の原語であり、それに 「共に」という接頭語がついた形。

それゆえに、ローマの信徒に対して、祈りにおいてともに戦ってほしいとの切実な願いを書いているのであった。

…どうか私のために、私と共に神に熱心に祈ってください。(*)私がユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムの信徒への奉仕(献金を持っていくこと)が、そこのキリスト者たちに喜びをもって受けいれられるように…(ローマ15の31)

(*)共に 熱心に(祈る) という原語は、 シュナゴーニゾマイ で、syn-agonizomai、この語にも、syn(共に)という接頭語があり、 共に 戦う がその原意。直訳は、「祈りにおいて共に戦ってください」となる。パウロはこのように、しばしば「共に…する」ことを望んでいたが、それはこのように使う言葉にも現れている。


「献金」の多様な意味とその原語
この献金へのパウロの重視は、ギリシャ地方にある都市コリントの信徒に宛てた手紙にもはっきりと見られる。
パウロは、このエルサレムのキリスト者たちへの献金を、驚くほどさまざまの言葉で言い表している。
それは、何のためか、献金というのが持つ深い意味―パウロが神から示されていたその多様な内容をそうした言葉で表現するためであった。
それはパウロの弟子としてともに伝道に同行した医者のルカが書いた使徒言行録にも、出ている。

…私は同胞(エルサレムのユダヤ人キリスト者)に救援金を渡すため、何年ぶりかで帰って来た。(使徒言行録24の17)

ここでは、献金のことが、「救援金」と訳され、エレエーシュモネー というギリシャ語が用いられている。この語は、エレオス(憐れみ) から生じた言葉である。
ローマの信徒への手紙では、エルサレムのキリスト者たちの貧しい人々への献金を手渡すことが「援助する」と訳されているが、この原語は、コイノーニア koinonia である。このコイノーニアという語は、交わり、共有 (*)と訳される語である。

(*)…私たちの交わりは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりです。(Tヨハネ1の3)

このように、献金というものは、与える人と受ける人の交流でもあるゆえにこの語が用いられている。
次に、ギリシャの都市であるコリントの信徒に宛てた第二の手紙にも、このエルサレムの信徒への献金のことが、詳しく記されている。
次ぎのようにいろいろな訳語が用いられているが、この箇所の原語は、カリス charis であり、多くは、「恵み」と訳されている言葉である。
…この慈善の業(新共同訳) (Uコリント8の19)
・贈り物(口語訳、塚本訳)
・恵みのわざ(新改訳)

この第二のコリント信徒への手紙の9章でもこの献金のことが続けて述べられている。ここでも、いろいろな言葉(*)
が用いられている。

(*)聖徒―キリスト者たちへの「奉仕」(1節)、これは、ディアコニアであり、「援助」とも訳されている。
その少し後の箇所では、「贈り物」と訳されている言葉 ユウロギア eulogia が用いられているが、この言葉は「祝福」と訳される言葉である。
(祝福を持っていく ローマ15の29、アブラハムの祝福を ガラテヤ3の14…など。)

パウロは、以上のように献金ということに対して、多くの種類の言葉を使っている。それらは、日本語では、恵み、祝福、援助、奉仕のわざ、交わり、義援金、贈り物…といった訳語になっている。
なぜ、これほどの多様な言葉を使い、しかも、使徒言行録やローマの信徒への手紙、さらにコロサイの信徒への手紙と、さまざまの新約聖書の文書にこのように、繰り返し書いているのか、意外に思われることである。
これは、使徒パウロが、聖霊という目に見えない神と同質の存在を最も重要視しているとともに、その目に見えないものが、献金という目に見えるものに働いて多くのよき働きをなすことを知っていたのである。
ちょうどそれは、人間も、それ自体は罪深いもの、弱いものであっても、神が清めて用いるときには、大いなる働きをするのと同様である。
お金も、金を愛することは、堕落のはじまりだと言われているように、自分の快楽や自分の友だちをふやすためといった自分中心のためでなく、神の国のため、神の御心にかなったことゆえに、用いようとすることは、捧げる人も、受ける人もともに祝福されるということをパウロは深く知っていた。

…この奉仕の業が、じっさいに行われた結果として、エルサレムの信徒たちは、あなた方がキリストの福音をしっかりと信じて公に告白していること、そこから自分たちにその恵みを分かち与えてくれることを知って、神を賛美するようになる。
そして彼らは、あなた方に与えられた分かちあう心というすばらしい恵みを知って、遠くにいる会ったこともないあなたがたを主にあって愛し、あなた方のために祈るようになる。―このように使徒パウロは書いている。
(Uコリント9の12〜14より)

このように、パウロは、遠くに離れているキリスト者同士、しかもキリスト教信仰の出発点にあったユダヤ人キリスト者たちの貧しさを助けることによって相互が神の賜物で満たされ、祝福を豊かに受けていくことを見抜いていた。
ここに、信仰によって救われる、復活、十字架による罪の赦し、再臨といったキリスト教信仰の中心となる内容を伝えるという働きの背後に、目に見える献金というものを御心に従って有効に用いることの重要性が記されている。
しかも、パウロは、この献金をエルサレムの信徒に携えていくために、わざわざ以前から訪れようと思っていたローマへの訪問も後回しにし、かつ最終的な目標としていた当時の世界の果てであったスペインへの伝道もその後にまわしたのである。

パウロの生活を支えた信徒たち
そしてまた、パウロ自身も可能なときには自らテントを作って働いたが、もとより、あちこちに移動しつつ、しかも迫害されることがしばしばであったから、安定した仕事などはできなかった。テントの材料などどこにでもあるわけでなく、また、以前からテント造りをしていた人たちが すでにいたはずであるからだ。
それゆえ、彼も、生活に困窮したこともあった。

…わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れた。
あなた方のもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけなかった。
(Uコリント 11の8)

「かすめ取る」とは、奪い取るということで、このような驚かされるような表現をしているが、コリントという町の人たちに福音を伝えるための生活費は、まだ信仰を持つようになったばかりのコリントの人たちからはあえて受けず、ギリシャ地方(マケドニア)の教会の信徒たちがパウロを支えるために提供した献金によって生活したのであった。
しかし、それをパウロの働きを妬みを持って見る人たち(偽りの宗教教師たち)は、ほかの教会から「奪って」きたのだ、とまでいう人たちがいた。その言葉をパウロはここであえて用いたのであった。
生活にも困ったパウロを助けたのは、マケドニア(現在のギリシアの北部からアルバニア地方にかけての地域)のフィリピという町に住んでいる信徒たちであった。

…フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもなかった。
また、テサロニケ(マケドニアのフィリピよりも西にある町)にいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた。(フィリピ 4の15〜16)

キリストの愛による福音伝道への情熱

このように、みずからはしばしば生活にも困窮するような状況にあっても、なお、彼は、エルサレムのユダヤ人キリスト者の貧しい人たちへの献金を、命がけで二千キロにも及ぶ遠いところへと届けようとした。
現代のように、車とか列車、飛行機などいっさいなかった時代、ただ歩くこと、いつ嵐などに見舞われたり風がなくなったりするかわからず、その場合には方向を誤ったり前進できなくなる可能性のある危険な船旅、そして盗賊などに出会うやはり危ない陸路を通って行くのであった。
パウロにおいては、福音を伝えるということは、実に大胆であり、また行動的、危険を常に犯してなされたということが浮かびあがってくる。
そして、そのことも、パウロ自身が述べているように、自分の人間的な決心でなく、「御霊にうながされてエルサレムに行く」(使徒言行録20の23)と言っているように、聖なる霊によって命じられたことであった。
聖なる霊がうながしたのは、キリストの福音が、それを知らないで魂の暗夜に苦しむ人たちに伝わるようにすることであった。そしてその福音とは、キリストの復活、十字架の死によって成し遂げられた死の力への勝利、罪という死に至る力に対する勝利がその本質である。
そして、そうした福音伝道にたずさわる人たちを支えるのが、多くの各地のキリスト者たちであり、互いにキリストの愛をもって愛し合うことこそが、そうした神のご意志にかなうことであるからこそ、彼は、献金を持っていくということにも驚くべき情熱をもってしたのである。
このことは、ヨハネによる福音書において、主イエスがその最後の夕食において繰り返し教えたこと、「互いに愛し合え」という精神に通じることである。

…あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
(ヨハネ13の34〜35)

パウロが目指したように、キリスト者同士が主にある愛をもってすることによって、キリストの弟子であることが証しされ、キリストへと人々がいっそう心を向けるようになるというのである。
互いに愛し合うのは、人間的な感情にひたるためではない。それは愛し合う当事者も、その人たちの周囲にいるまだキリストのことを信じられない人たちにも、キリストを仰ぐようになり、キリストへの方向転換をうながすためなのである。
さらに、ヨハネの手紙には次ぎのように記されている。

…わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされる。(Tヨハネ 4の12)

キリストの愛をもって愛し合うときには、神が私たちの交流のうちに、さらに一人一人のうちにも留まって下さるゆえに、その神が私たちに敵対する闇の勢力にも勝利して下さる。
そしてさらに、福音が前進していき、苦しみにある人たちの魂に届いていくのである。
分かち合う、神からいただいたものを、主にある愛によって分かち合うということ―それはここで述べられている様な献金であったり、それを命がけで持っていこうとする行動であったり、あるいはパウロの書いた手紙が聖書となって強い力を発揮するようになったが、こうしたキリストに関する文書、現代ならば、賛美の録音(CD、テープ)、絵画、写真、手紙…そして目に見えないものとしての祈り…こうしたものを絶えず分かち合おうとする心こそが、福音を希望のない魂に届けることのために、神が用いて下さるのである。
私自身も、矢内原忠雄(*)という一人の人物が、みずからを決定的に変えた福音の力を何とかして分かとうとして書いた一冊の本によって、私はキリストの福音を知った。

(*)1893〜1961年。愛媛県今治市生まれ。旧制高校時代に、新渡戸稲造、内村鑑三の深い影響を受けてキリスト者となる。後、東京帝大教授。1937年、雑誌や講演で戦争批判をしたために、大学を追われる。戦後復帰し、東大総長となる。

たしかに、矢内原のその主にある愛によって私は福音を知らされたといえる。未知の人、暗闇にある人への彼の愛を神が用いられたのであった。
このようにして、キリストの福音は二千年間、伝えられてきた。
今日の不安定な世界に本当の平安と力を与えるものは、やはりこのキリストの福音であり、私たちの小さき働きを、主が用いて下さって福音の前進につながるようにと願わずにはいられない。


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