草花と樹木たち
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ツワブキとアサギマダラ 徳島県小松島市日峰山 (わが家のすぐ近くにて) 2004.10.15
アサギマダラ、それは私にとってはなつかしいチョウである。
今から35年ほども前、四国の石槌山(1982m)から瓶ケ森(かめがもり 1896m)連峰を縦走していたとき、時おりひらひらと、高原の道の花を訪れ、私の目と心を喜ばせてくれたものであった。
その優雅な姿と色、そして独特のゆったりした飛び方はだれもが印象に残るものだと言えるだろう。
とりわけ高い山にあってこのチョウに出会うとき、心がいっそう引き上げられるようであった。
それは、数十年を経てもなお心のなかに残っている。
その後、徳島県の剣山に登ることがしばしばあったが、夏の高山に咲く、美しいナンゴク クガイソウに群れていたり、もっと低い
800mほどの山頂付近のヒヨドリバナにもきていたのを見かけたこともある。
この蝶は平地では見かけたことはないけれども、山の斜面に位置するわが家では時折(1年に一度か二度程度)、渡りの途中の休息を兼ねてであろうか、飛来してくる。
上の写真は、わが家のすぐ上の山で、ちょうど朝日を受けたツワブキの花に来ていたものである。
手で触れることのできるほどの近くに寄っても逃げずにいたので、それを撮影することができたが、このような機会は稀なことだ。
ツワブキの花もわが家の山に自然に群生しているもので、年々少しずつ増えているようである。
樹木や野草が生い茂るなかでこのような大きい花を咲かせるし、海岸植物として、強い潮風に吹かれても晩秋まで、咲き続けるたくましさがこの花にはある。
この和名は,葉に光沢があるのでツヤブキからきたとも、葉が厚いので、厚葉フキからきたともいわれる。
薬用に用いられ、若い茎はフキと同様に食用にもなる。
多くの植物が冬の近づくにつれてその勢いを弱め、枯れていくのも多いなかで、このツワブキは緑の大きく厚い葉を広げ、力強く花茎を伸ばして黄色い花を次々と咲かせていく。その野性的な姿はことに印象的であるし、夕日を浴びるとひときわその黄色が周囲に映える。
アサギマダラは、美しいだけでなく、また驚くほどの長距離を渡って飛んで行く。
その事実はアメリカ大陸でも知られているが、実際に日本でも、2002年11月に愛知県美浜町や和歌山などからしるしをつけて放されたチョウが、そこから1000㎞以上離れた南大東島(沖縄)で捕獲されたり、その後も各地から同様な報告がなされている。
前に立ちはだかるいろいろのものをも翼や羽で軽々と、超えていく小鳥やチョウなどは、私たちにも霊のつばさが与えられたらとの願いをかきたてるものがある。
どんな妨げがあろうとも、それらを神から与えられたつばさで超えていくこと、それこそ聖霊によって導かれるということである。
(文・写真とも T.YOSHIMURA)
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ホトトギス わが家の庭にて
2004.10.15
この花は、わが家の庭にて半野生状態となってもう長年咲き続けているものです。
このように、石の間から自然に生えてきて 美しい花を咲かせています。この花の名前は、ホトトギスという鳥の名をもらっています。
鳥のなかでも、とりわけ印象的な声で鳴く、ホトトギスの胸毛のまだら模様と似ているためです。
ホトトギスはわが家でも6月ころにその特徴的な強い声で、何かを呼び覚まそうとするような、強い意志を感じさせる声で鳴きますのでその声が聞こえてくると聞き入るものです。
ホトトギスという名前のついた野草は、徳島県の山地では、ヤマジノホトトギスというのが比較的よく見られます。
これは秋のさわやかな山路を歩いていて、ふと見かけることがあると、心がなごみます。そしてその素朴な美しさ、沈黙のゆえにかえって多くのことを語りかけるその姿にしばし見入ったことがしばしばありました。
最近はもう山に歩く機会がなくなっているのですが、かつて見かけたその姿は今も心に刻まれていて、秋の頃になり、わが家でこのホトトギスがみられる頃になると、誰一人いない山道で見かけたヤマジノホトトギスのことや、学生の頃に、由良川源流地帯に数日かかって京都から入ったところで見かけた野生のリンドウたちのすがたを思い出します。
こうした清い美しさは、人間が造り出すことはできないものであって、人が見ていようといまいと関係なく、咲いていて神を讃美しているそのすがたに出会うとき、私たちの心に特別な印象を残すものです。
なお、ホトトギスの仲間は、ここに触れたもの以外にヤマホトトギス、キバナノホトトギスなど10数種があります。 (文・写真とも
T.YOSHIMURA)
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ゲンノショウコ 徳島県小松島市 2004.9.24 後ろの黄色の花はダイコンソウ。
これは数多い薬草の中でも、最もよく一般の人にも知られ、用いられてきたものと言われています。実物が咲いているのを見たことがない人でも、名前は聞いたことがあるという人は多いはずです。
薬用植物辞典によれば、「古来、整腸剤としてその効果は実に理想的といっても過言でない。腹痛、胃痛、急性腸炎などに効果あり、胃の弱い人にも常用すると最も適当」などと記されています。効果がすぐに「証拠として現われる」ことから、ゲン(現)ノ
ショウコという名がついているし、「医者いらず」という別名もあるほどです。
なお、この植物の学名に、Geranium (ゲラニウム)という語が含まれています。
(*)これはギリシャ語で、ゲラノス geranos と書き、「鶴」という意味で、花の終わったあとの実が、鶴のくちばしのような形だからです。 花屋さんでたいてい見られるし多くの家庭でもジェラニウムとして知られている花はこれと同じ仲間です。
この植物は野生でかなり高い山から平地にも見られます。わが家には野生化してずっと以前から咲いています。剣山付近の赤い花のゲンノショウコや印象的で、神戸の六甲山でもやはりその赤い花が美しい姿をみせているのに出会ったことがあります。
そしてこの仲間は、これより花も大きくて、美しいものもあります。徳島県の山好きな人ならたいてい知っているのは、四国第二の高峰である、剣山付近の高山によく見られる、シコクフウロです。7月~8月に剣山に登ると、標高1500メートル以上の付近ではシコクフウロが多く見られ、サラシナショウマやオタカラコウ、レイジンソウなどと共に、剣山のお花畑でよく目立つものです。
植物はその花が美しく、またケヤキやスギ、マツなど大木となると、樹木の形自体が力強く美しいのもあり、また食べて食物となり、また香りもあったり、葉の色も心を安らわせ、酸素を生み出し、さらにしばしばこのゲンノショウコのように薬用にもなります。そのうえ、強い風のときには、心を引き締めるような重厚な音楽を奏でてくれます。先日の台風のときに裏山に登ったとき、山全体の木々が壮大な音楽を奏でて圧倒的な力で私に迫ってきて、神の力の果てしないことを実感させてくれました。植物は沈黙を保ちつつもこのように実に多様な働きをもっているのは、神の手作りの作品で、そこに無限の内容がこめられているからです。
(*)学名とは、ラテン語を主として用いたもので、世界共通の名で、属名と種小名、命名者からなっています。ゲンノショウコの学名は、Geranium thunbergii
SIEB.et.ZUCC で、Geranium が属名です。
なお、ゲンノショウコというのは、学名でなく、標準和名といいます。
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センニンソウ
徳島県小松島市日峰山
2004.9.15
これは、夏に緑一色の山にときどき真っ白い花がみえますがそれがこのセンニンソウです。つる性植物なので、草や樹木に巻きついて登っていくので、木々の上のほうでこの白い花が遠くからもみえることがあります。
この「今日のみ言葉」を書いている日に撮影したものです。白い十字架状の花が、印象的です。
センニンソウは、学名を クレマチス テルニフローラ Clematis terniflora といいます。この名前でわかりますが、クレマチスといわれるものの仲間です。
クレマチスという属名(*)は、ギリシャ語のクレーマ(klema)という言葉から作られていて、このクレーマとは、「枝、巻いたつる」という意味をもっています。主イエスが、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。」(ヨハネ福音書15章)と言われた、その「枝」という原語は、このクレーマなのです。
そのため、このセンニンソウという野草は、キリストの清めの純白と、私たちを罪の力から解放して下さったキリストの十字架と、さらにイエスの有名な言葉をも思い起こさせるものとなっています。
(*)学名は、ラテン語で書かれており、属名と種小名の二つの部分から成っています。前の方が属名で、この場合はクレマチスというのが属名です。なお、センニンソウのような図鑑に掲載されている名前を、学名と誤って思っている人があります。これは、学名でなく、標準和名といってカナで書くようになっています。
(文・写真とも T.YOSHIMURA)
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マントカラカサタケ 徳島県小松島市日峰山
2004.8.20
これは、わが家の裏山にある小さい谷に沿った道で見られたものです。竹林が隣接しているので、その葉があたかも敷きつめたように道を覆っています。その中からこのような興味深い姿をしたキノコが生えていました。
このキノコはカラカサタケに似ていて、柄の上部には、写真でもわかるように、目立ったつばがあり、マントのようだということで、このキノコの名前になっています。傘の大きさは15センチ内外、柄の高さは15~30センチの大型のキノコです。(なお、これはカラカサタケとごく近い種類で食用と書いてある書物と不明と書いてあるのがあります。)
キノコの類は、椎茸などの店で売っているもの以外では、野生のキノコについては、毒キノコがあるからというので触れたこともない、観察したこともないという人が多いようです。しかし、キノコ類は、その外観、色、香り、そして味や、毒性なども独特なものが多く、ふつうの植物とちがっていて興味深いものです。
そのため、昔からいろいろの民族で注目を浴びてきたし、食用ともなったりするので、普通の植物とまたちがった印象を与えてきました。
土の中の養分を取り入れて、このような特異なすがたを現すキノコは、神の創造のわざのふしぎを感じさせるものです。
ツルボ (ユリ科)
徳島県小松島市日峰山 2004.8.20
この花はちょうど咲き始めたばかりです。野山の所々に見出される可憐な野草です。
球根(鱗茎)は長さ2~3cm。20~30cm位の花茎(かけい)の先に長さ4~7cmの花序(かじょ、花をつけた茎のこと)をつけます。
薄紫色の花がこの写真のように、控えめに咲く様子は心惹かれるものがあります。
上に述べた詩編19編にあるように、この野草の美しさ、小さな花びらの中に私たちへのメッセージがこめられており、人間以外の動物には感じられない美を私たちに向けて創造してくださった、神の私たちへの愛が感じられます。
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ダイコンソウ (バラ科) 徳島県小松島市日峰山 2004.7.20
この花は、初夏から7月も終わりに近づいた現在に至るまでずっと咲き続けています。山道などで時折出会うことがあります。もうずっと前からわが家の周辺で自然なかたちで咲いているものです。
鮮やかな黄色のこの花は、私たちをじっと見つめているかのようです。
こうした植物の花や、樹木のたたずまい、あるいは大空の空や星、夕日に輝く雲、山々の動じることなき姿…などなど、自然の事物は、神の直接の被造物なので、神の清さや雄大さ、力など、そのお心の一部がそのまま現れているように感じます。
私たちが神に真実な心をもって向けるとき、しばしば神もまた私たちを見つめていて下さるように感じますが、同様に、自然の星や植物なども、私たちが心を注ぐとき、それらも私たちを見つめているかのように思えてくるものです。
なお、この植物の名は、下部の葉が大根の葉に似ているということで、このような名となっています。(この写真は上部なのでわかりません。)
ハンゲショウ 徳島県小松島市(わが家の庭) 2004.7.05
この植物の名前は、夏至(げし)から11日目の7月2日ごろ、梅雨明けの時期を半夏生(はんげしょう)というので、その頃に咲くからという説明と、上部の葉が半分化粧しているようになっているからとも言われたりします。
これは薬草として有名なドクダミのなかまであると言われるとその葉や花の形がどこか似ていると感じるはずです。
いずれも花びら(花弁)も、ガクもない花です。
ドクダミは白い花びらのようなものがありますが、植物学的には花びらではありません。ハンゲショウの花は花びらもないめしべとおしべだけの地味なものですが、葉が上部のところには白くなるという珍しいものです。
それによって白い花のような雰囲気をたたえています。
緑と白の組み合わせは、落ち着いた静けさを感じさせてくれます。
花の地味なすがたを葉が白くなることによって補い、独特の美しさを表しているもので、このような植物に接すると、このように創造された御方(神)の私たちへの心を感じさせてくれる花です。
クチナシ 徳島県小松島市日峰山
2004.6.12
この花は香りの点からも、その色や姿の点からも、多くの人にとって最も心惹かれる樹木の花の一つといえます。
この写真はわが家のすぐ裏の山に自生しているものです。
樹木や野草が数千もあっても、この野生のクチナシのような心ひく香りはほかにはないといえるほどです。園芸店にもクチナシはいろいろと販売されていますが、残念ながらこの野生のクチナシの気品と香りの素朴さにはとても及ばないと感じます。
緑一色のただなかに、その純白の花を咲かせ、類のない香りを漂わせているさまは6月の自然のなかにとくに心に残るものです。
私の妻も、6月は梅雨時でいやな季節だけれど、クチナシが咲く季節だからいいね、と言います。6枚の純白の花びら、中央の薄い黄色のめしべの色合いがその香りとともに見る者の心に、静かに神の国のメッセージを伝えてくれるのです。
この花は、静岡県から西の暖かい地方にしかないとのことで、野生のこうした美しい姿には寒い地方の人は接することができないようです。
この花の果実は熟しても口が開かないので、「口無し」という名前になっています。
この果実は冬には黄赤色となり、菓子や漬け物などの食品の着色料にもよく用いられ、さらに薬用植物辞典には薬用としても用いられると記されています。
ウツボグサ 徳島県小松島市日峰山
2004.6.1
6月に咲く野草としては、とくに美しいもので、多くの人たちの愛好するものとなっています。
その色は青紫で私たちの心に調和音をかなでるように入ってくるものですし、その花の姿も素朴で野草らしさにあふれています。
また、この野草は、花が終わると、褐色になるので、夏枯草(かこそう)とも言われ、優れた利尿剤とされています。
しかし、このような心ひかれるような野草は次第に少なくなり、山道でもあまり見かけられないものです。
平地ではめずらしいことですが、徳島県の吉野川のある地域の堤防にはこのウツボグサ が多く群生しているところがあります。
青または青紫色の花は、いろいろありますが、秋に咲くリンドウやキキョウ、アキチョウジのようにたいていは人の心惹くものが多いようです。深い大気の集まりは青空となって見えるし、多くの水の集まりである海は青く見えてきます。
遠くの山々も青く見えます。
青という色には遠い彼方の国を思い出させるような感じがあります。
フジ 徳島県名西郡神山にて 2004.4.29
このフジの見事な花は、徳島市から30キロほど西の山深いところに、谷の向こう側に咲いていたものです。撮ったところからはかなり距離があったのですが、拡大して写したものです。私たちが県内で見るフジはノダフジが多いようです。
香川県と徳島県の県境付近の山では、ヤマフジが多いのを見ています。
ノダフジは、つるは右巻きで、花の房が長く、30センチから長いものでは90センチにもなるのがあります。
また、花は上の方から順次咲いていきます。ヤマフジの方は、花の房が10~20センチと、ずっと短く、つるも左巻きで、集まっている花の一つ一つはヤマフジのほうが大分大きく、花もほぼ同時に咲き始めるといった違いがあります。
ふつうは私たちはあまりこのように観察していないので、どれでも同じものだと思ってしまうのですが、よく似たものでも、このようなはっきりとした違いがあり、それぞれに個性が与えられています。
フジは、多くの人名にも使われています。藤原、藤川、藤山、藤田…。 こうしたことからも日本人にフジが愛好されていたあとがうかがえます。
その姿、かたち、そして色も美しく、山野のみどりあふれるただなかに静かにその美しい花を咲かせているすがたは、日本的なよさを感じさせます。あちこちのフジ園で見かけるのは、ノダフジが多いようです。
これは、日本原産です。なお、ヨーロッパにはフジはなく、日本のフジとよく似た中国のフジが、1816年に紹介されたと、アメリカの植物図鑑に記されていることをみると、ヨーロッパの人たちはこの美しい植物は200年ほど前にようやく知ったということになります。
私の手元にある、ヨーロッパの植物図鑑には、このフジの説明文を a noble climber(気高い つる植物) という言葉から始めていることからも、フジの気品ある姿が西欧の人の心にも印象的であったのがうかがえるのです。
植物は時として、ブナやトチノキ、マツ、スギの大木のように、見るものの心に強い印象を残すような力を与えてくれるものがあり、また、いっせいに芽吹く春の新緑は神のいのちを感じさせ、またこのフジのようにある種の気品を伝え、また天国の香りをたたえたもの、神の世界にある美をほうふつとさせるものなど、人間に精神的なさまざまのものを与えてくれるものとなっており、まさに「聖なる書」だと言えます。
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コバノタツナミ (小葉の立浪)
徳島県小松島市日峰山 2004.4.20
これは、波が寄せてくるさまに似ているところと、タツナミソウよりも葉がやや小さいためにこの名があります。
山道にて見出すことがありますが、実際にはそう多くは出会わないものです。
上の写真のものは、いつの頃からか、わが家の近くの山道に自然に見られるようになったものです。
草丈はこの写真の群生のものでは5~10センチ程度で、写真のものは赤色ですが、青い花のものが多く、小さな波の寄せるような姿には、心ひかれるものがあります。
この写真の花は私たちに呼びかけているような感じがあり、春の山で出会う野草として印象に残る花の一つです。
このような花は、天の国の小窓のようなものなので、心して見つめているとこの花を創造された神のこと、そしてそこから奥のほうにある天の国が少しは見えるような気がします。
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ジロボウエンゴサク
徳島県海部郡日和佐町 2004.4.6
この野草らしい赤紫の可憐なたたずまいの花は、私のすんでいる小松島市や徳島市周辺の山々ではわずかしか見られないのですが、徳島市から南へ50キロほどの日和佐町などには山沿いなどでわりあい多く見られます。
先日も日和佐からさらに30キロ南への地方に家庭集会での聖書講話に行ったとき、その帰り道で見出したのがこの写真です。
変った名前ですが、ジロボウ(次郎坊)とは、タロボウ(太郎坊)に対する言葉で、スミレのことをタロボウと言っていた地方があり、それと同じ季節でしかも色、形もよく似た(*)この花を弟分と見て、ジロボウといったということです。
そして、エンゴサクとは、この仲間の根を漢方薬として用いていて、その名前がエンゴサク(延胡索)というものです。
スミレとジロボウエンゴサク、この二つはたしかに春にとても目立つ美しい、野草らしい花です。
私はジロボウエンゴサクの花を見ると、かつて何回も登ったことのある、四国第二の高峰である剣山(標高1955m)とすぐとなりにある、ジロウギュウ(標高1925m)という山を思い出します。
剣山もむかしは一部でタロウギュウといい、そのすぐとなりに高くそびえる山をジロウギュウといったといわれています。
ジロウギュウは、四国でも屈指の秀麗な山容で、剣山に立つときとくに目立つものです。
(*)距(きょ)があるところも、スミレと同じである。距とは、花のうしろについている尾のような細長い部分。
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タチツボスミレ 徳島県小松島市日峰山 2004.3.30
山を歩いていて最も多いのはこのタチツボスミレです。葉の付け根のところに、クシの歯のような托葉(たくよう)があるので、ほかのスミレとはすぐに区別がつきます。
この写真のスミレは、わが家の裏山にていつの頃からか、毎年このように咲くようになったものです。
このスミレがあるところの付近にはかなり離れてもこれは見られないので、どこから種が来たのか不思議に思われます。
こうした不思議さはどこであっても感じられます。
例えば徳島県では、カタクリはごく一部の山にしか見られませんが、以前1300メートルほどの山の頂上付近に自生している美しいカタクリの一群に接したことがあります。
県下では稀なこのカタクリが、いつ、どこから、そしていかにしてこのような高い山の頂上付近だけに生えるに至ったのか、と思うと、とても不思議に感じたことがあります。それはいわば神が見えざる御手でもって、そこに運び、植えたかのような感じがしたものです。
キリストも福音の真理を種にたとえたことがあります。真理の種があちこちに蒔かれても、迫害や人間の側の心のゆるみなどで、芽を出してもつぎつぎと枯れていくという状況がある。
しかし、よき地に落ちる種が必ずある、そしてそれが何十倍、何百倍にも増えていくという、神のエネルギーの不滅性を言われたものです。
このスミレには中央の花びらに繊細な模様があります。
このような模様がなくとも、スミレは何不自由なく生きて生けるのですが、なぜこのような美しい模様があるのか、とよく考えたものです。
その美しさは人間だけが味わうことができるのであって、神が人間に無限の多様性を知らせるためにつくられたのだという気がしてきます。
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トサミズキ わが家にて 2004.3.10
名は、高知県の石灰岩の土地などに自生していることに由来。庭園などによくに栽植されています。
高さ2~3m。花は春,葉に先立って開きます。
ミズキという名前はついていますが、ハナミズキとは花の形なども全く異なることからわかりますが、科が別です。ハナミズキやヤマボウシなどの花はミズキ科、このトサミズキは、マンサク科です。
まだ他の木々が新芽も出さないうちに、このような薄い黄緑色の花を咲かせる姿は印象的です。
4月、5月ともなると、草木の葉もたくさん出てきて花も目立たなくなりますが、今頃に咲く花はまだ木々が冬の装いのままのものが多いのですが、ウメに続いてまだ寒い頃から咲き始めます。こうした寒さの中に咲き始める花は私たちにも、精神的な目覚めをうながすように感じられるものです。
それは神ご自身がいつも目覚めていて、草木に限らず、空や川、海など私たちの周りの自然をたえず新しい変化へとうながし、私たちをも目覚めているようにと励まし、かつ見守っていて下さるからです。
水を飲むメジロたち 我が家の庭にて撮影 2004.2.27
私が机をおいている窓際から見られる金魚のいる大型水槽に最近は、しばしばいろいろな小鳥たちがやってきて水を飲み、また、一番下のメジロのように、中に入って水浴びして羽をふるわして水を落としているのもあります。
このように同時に4つものメジロが来て水飲みのためにやってくることは珍しいことです。
植物とちがってたえず動き、カメラを向けたとたんに飛び去るのも多いため、小鳥を写真にとるのはとても難しいのですが、これはちょうど仲良しの小鳥たちがともに水を見つけて喜んでいるような感じで、うまく撮れたものでした。
小鳥たちのすがたは、そのさえずりの清いひびきとともに私たちの心をさわやかにし、人間世界の複雑さ、みにくさとはまったく違った世界を感じさせてくれるものです。
紅梅 わが家にて
2004.2.10
この紅梅は数十年前に、父が植えておいたもので、父が召されたあともこのように毎年、白梅とともに花を咲かせ続けています。
きびしい冬の寒さのただなかで、こうした美しい花を咲かせ、ほのかな香りを周囲に漂わせていること、それは、人間にもあることだとわかります。への信仰にかたく立ち、重いからだの障害や病気、あるいは当時の社会のおそろしい迫害にもかかわらず、信仰ゆえのうるわしい心を与えられた人たちを私たちは書物などによって知らされています。
そのような魂は、寒さきびしいなかに咲く梅のようなものです。
この紅梅のような樹木も、神へのまなざしをもって見るとき、ひとつの泉となってくれます。
人間は心のなかにしばしば純粋ではない心が生じるものですが、こうした自然の草木はいっさいの汚れを感じさせないものがあります。
それは神の心そのものを映し出しているようです。
こうした自然からもあふれてくる清いものを感じるとき、私たちは神のうちにあらたな泉を見いだしたという実感を与えられるのです。
ウメ
徳島県小松島市 わが家の梅です。2004.1.24
.わが家にはウメの木が数本あります。
そのなかで、この木は一番はやく咲き始めます。このような自然の美しさは、心して見るならその背後に見えざる創造主の御手が浮かんできます。
梅の花は、そのかすかな香りと、花やつぼみの形、色、そして厳しい冬のただなかに初々しい花を咲かせるというところが、古くから人々の心に特別な引きつける力を持ってきました。
それは、万葉集に114首もの歌が詠まれていることからもうかがえます。
梅は、このように花そのものの美しさや汚れなき雰囲気とそのほのかな香りなどのゆえに、好まれていますが、他方、その実も梅干しや梅酒などに用いられ、大きな役割をもっています。
梅はヨーロッパやアメリカにはなく、古い時代に中国からわたってきたとされています。
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カラタチバナ わが家(徳島県小松島市) 2004年1月10日
このカラタチバナという、小さな木は、もう20年ほども以前に、低い山で野生を見つけて、その種を採取して蒔いておいたら、このような株となって、毎年実をつけています。
私がこの植物を野生状態で見つけたのは、わずかにこの一度だけです。石川県などでは、群生しているところがあり、その写真も見たことがありますが、徳島県ではそのようなところはないようです。
センリョウや、マンリョウは有名ですが、このカラタチバナはほとんど知られていないものです。しかし、晩秋から冬の花のほとんど見られない時期にこのように、冬中赤い実をつけて私たちの目を楽しませてくれます。
実をつけるというのは、なにか心なごむものがあります。その植物が成長し、花をつけ、そして結実するまでに場合によっては長い年月を要するものもあります。実をつけはじめると毎年実を結び続けます。そしてその実がまた新しい植物となって増えていきます。
人間もこうしたよき実を結ぶことができるということが、聖書に記されています。
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(新約聖書 ヨハネ福音書12:24)
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