聖き御子よ、今しも我らに降りたまえ。心をきよめ、 宮となして、今よりときわに 住まいたまえ (讃美歌一一五より) |
この詩は激しい言葉で悪や不正に対して述べられており他にはない独自の表現がされている。神が、不正に対していかに強い気持ちで対処しようとされているか、その気持ちが、詩人に反映していると言えよう。詩編も神の言葉であり、作者は神のそうしたご意志(言葉)を聞き取って表現したと言える。
悪に捕らわれた人は母の胎にある時から悪を持っておりそれは蛇の毒のような強烈な毒であるという。これは悪の根源的な根深さがこのような表現で現されているのである。
そのような人は良い事を言っても言ってもそれに全く反応しない。私達の周りにも不可解な悪の働きを見る事がある。気をつけないとその毒に倒されてしまう。この作者は、「毒蛇の毒を抜いて下さい。」「悪の力が溶け去るように」と神に祈っている。この切実な願いが独自な表現を生みだした。主イエス様が徹夜で祈られたのもこの事であった。そして主イエスは私達に悪人の為に祈れと言われた。11節では、神に逆らえば裁かれるが神に従う人は必ず実を結ぶ事が言われている。悪の力はある時まで強そうに見えてももみ殻のように吹き飛ばされる。どんなに苦しい事が起こっても私達は主に覚えられている。聖書全体を貫く基本方針がこの詩編でも基調となっている。
イスラエルの民がぶどう畑に譬えられている。神様はぶどう畑を愛を持って作られた。良いぶどうを植えて至れり尽くせりした。しかし、イスラエルの民は神の言葉にキリストに聞き従わず、その罪のゆえに外国が攻めてきて血を流すような戦乱が起こった。神様はイスラエルの民が正義に従って生きる事を願っていたのに流血と混乱が生じた。イスラエルの為に神様は精一杯良い事をしたのに酸っぱい実を結んだ。その結果としてイスラエルに裁きが起こる。この問題は創世記の初めからあった。神様が素晴らしい園を与えて下さり、何不自由ないようにしてくださったのに、闇の力が近づき、簡単に道を外れた。新約でも、主イエスが一二人を選んで精一杯愛したのに、ユダはお金で主イエスを売り渡した。このようにせっかくの神の愛を踏みにじると裁かれる。しかし不思議と遺された者がいた。そして残された者が今の私達につながっている。この五章の記事は新約のマタイ福音書二一章の三三節の「ぶどう園と農夫のたとえ」につながっている。ここでも主人(神様)が農夫の為に垣を巡らしお膳立てをし愛したのに農夫は主人の息子(主イエス様)を殺してしまった事が書かれている。イザヤ五章の記事がずっと先まで続いているように聖書は千年、二千年先の事を見抜いて、その事が起こっていく。聖書の真理は永遠である。
詩篇は、本当に苦しんでいないとわからない。真剣な状態ではじめてわかる。生きるか死ぬか、歴史の上でそのようなことがたくさんあった。同じ状況にある多くの人がこの詩篇に慰めと励ましを受けてきた。
「マムシの毒が唇に」とある。言葉は心が外に出たもの。心に毒があれば言葉になって出てくる。主イエスは最も清い存在である。しかし、それを妬みから律法学者たちは、神を汚すと言って一番重い罪を担わせた。この世にはいろんなことがある。しかし悪の力が取り囲んで迫って来るような中でも「あなたはわたしの神(エーリー アッター)」という短い祈りの言葉で充分である。祈りに難しい言葉はいらない。
(エーリーは、わが神、アッターは、 あなたは という意)
約三千年前のこの詩は人間のありのままの気持を表わしている。悪に対する激しい言葉。だが悪人を滅ぼすのでなく、悪の霊を滅ぼしてください、悪があってもどうでもよいということではない。イエス・キリストが来られたのは、この目に見えない霊的な悪の力を追い出すためであった。滅ぼさるべきは悪の霊である。
最後に、主に従う者は平安をもって祈ることができ、罪赦され清められた人は御前に座ることができるとある。この作者は新約に近い深い示しが与えられていた。 わたしたちにも何が起るかわからない。しかし苦しいときには必ずその叫びを聴いてくださっているという確信と希望を持って歩んでいきたい。
・集会後、参加者で集会だよりを折り、十一月号の「いのちの水」の一部を発送準備しました。
朝早く、まだ暗いうちに、とある。主イエスは朝早くから人のいない砂漠のようなところにわざわざ行かれた。何のためであったか。この直前には、主イエスが悪霊を追い出した記事が書かれている。主イエスには悪霊、悪の力を追い出す力があった。その力を受けるために一番必要とされたのは、祈りである。絶えざる神との交わりがなければ、力は与えられない。朝早くまだ暗いうちから主イエスは祈られ、力を受けられ、そして人を苦しめる悪の霊を追い出されたのである。
このとき、らい病の人が主イエスの所に来た。らい病の人は、悲惨な病状に加えて、宗教的にも汚れているとされ、地域社会から隔離されていた。このらい病の人が、主イエスこそが、その病を癒してくれると感じた。治ることのない病であっても主イエスの御心であれば癒してくれるという確信があった。
主イエスは、その人の深い苦しみを見られ、憐れまれた。そしてその人に触れられた。この時代、らい病の人には触れてはいけない、触れたら自分も汚れる、と言われていた。しかし主イエスだけは手をさしのべて触れられ、癒されたのであった。
これは、このらい病の人にだけ起こったことではない。誰も触れられないような病んだ心、罪を犯した心にも、主イエスだけは来てくださり、触れてくださる、ということなのである。
「よろしい、清くなれ」その主イエスの言葉によって、この人は癒された。
どちらを見ても悪の支配があるような現実の中で、わたしたちも悪の力を追い出していただく必要がある。社会の組織からも、また自分自身の内側からも主イエスによって悪の霊を追い出していただきたい。そして、闇の力による苦しみに手を触れていただき「清くなれ」と言っていただきたい。主イエスに触れていただくことによって人は清められ癒されるのである。
神はアブラハムに対して約束をされた。それは、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やす」ということであった。アブラハムは信じて待った。そして、この約束のとおりにアブラハムの信仰の霊的な子孫は全世界に広がっていった。神は約束されたことを実行される。ここに、希望がある。
わたしたちは主イエスに希望をつなぐ。そのために世にありながら世を逃れ、主イエスのもとに行く。神は約束のとおりに神の国の善きものを与えてくださる。復活。永遠の命。それらは必ず実現する。だから希望は、魂の錨となって揺るがないようにわたしたちを守ってくれる。
希望がなければ揺れ動く。最終的に人は死んでいくが、その後に希望がなければ絶望が待っている。死んでも実現する希望が与えられている者は、様々な苦しみなどで、一時的に動揺しても、心に錨があるために、また安定してくることができる。
希望こそが錨であり、動かない。神こそわが岩、と言われていることである。人生の海には絶えず嵐が吹いてくる。わたしたちは錨なしでは進んでいくことはできない。キリストの錨があれば、嵐の中でも揺らぐことはないのである。
ソロモンの記事の最後の章。この書からイスラエルの大きな傾きが始まり、やがて分裂を招く。
油そそがれてイスラエルの王となったソロモンであったが、晩年になって、多くの外国の女を愛し、その女たちが信じていた唯一の神でないものに向かったことから間違いが始まっていく。このことがイスラエルに大きな災いを招いた。色々な災いの元は、本当の神意外のものを神として大事にすること、これが聖書の視点である。
今のわたしたちにとっても「信仰・希望・愛」は、魂の錨である。これがなければいつも揺れ動くばかりだ。ソロモンも、晩年になってあふれるような物や人間に取り巻かれて油断をし、罪を犯した。何でも多くあれば真剣にならなくともやっていける。ソロモンのこの記事は、詩篇に書かれているような死ぬか生きるかの世界から離れている。
この記事を通して、人間はいかに脆い存在であるかを赤裸々に書いてある。信仰は、晩年になっても最後までわからない。だから主は言われた。心の貧しい者は幸いだ、心に悲しみ苦しみがあれば必死で主を求める。神様助けてください、という祈りが自然と出て来るから。列王記のこの章でソロモンは死に、その子レハブアムが王となる。
メルキゼデクとはどういう人物か。突然現れ、その後どうなったかも全く書かれていない。父もなく母もないという不思議な存在として記されている。そしてこのメルキゼデクは旧約聖書の中に、二回しか記されていない。そのひとつが創世記十四章である。アブラムが戦いに勝ったとき、メルキゼデクがアブラムを祝福した。すると、アブラムはすべてのものの十分の一を捧げ、特別な敬意を示した。メルキゼデクが神のごとき方であるとアブラムは直感的に示されたのであった。
六章になってイザヤの召命が出てくる。普通ならば初めに書くことが多い。イザヤ書一章の初めは、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、…」から始まっていた。ユダの人々がいかに神の道から外れているか、そしてユダの民に対する神の裁きを宣言することから始まっていた。預言者の使命は人間に迎合して人間が喜ぶようなことをいうことではなく、神の御心から離れていった人々の心を神に向けることである。「相手がいかに腹を立てようとも神から示されたことを言え。」と、預言者は示された。そのためにエゼキエルは「鉄の額を持て」と。
ウジヤ王が死んだ年、イザヤは召命を受けた。時間の流れのある時、神によって突然与えられた。(すべての人にある特別な時があるということでもある。)1節「見た」が強調されている。日本語では文の最後に見たとなるので、強調点が曖昧になる。イザヤは特別な体験をした。預言者の中でもこんなにはっきりと神を見たと書いてある預言者はいない。
イザヤと共に代表的な預言者であるエレミヤは…主の言葉がわたしに臨んだ。(エレミヤ1の四)
サムエルも「サムエルよ。」と神様が呼びかける声を聞いたし、後の預言者たちもそうだった。
イザヤは神を見た。畏れ多くて神の表情は書いてないが、神様の衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
セラフィム(天使)が飛び交い、呼び交わしながら、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主…」と。その賛美の声は非常に大きくて、神殿の入口の敷居の蝶つがいが震える程だった。
ダンテの「神曲」の煉獄篇に次のような記述があるが、このイザヤ書にある大いなる賛美と似通ったものを感じる。
天における賛美の大きさと、それが地上でのこの世の出来事で人々が喜ぶのとはまったくその内容が異なる。
ひとりの魂が苦しみを受けることによって清めをうけ、神の方に向かう時、山が激しく鳴動して「栄光高き所に!」と讃美が聞こえた。たったひとりの魂が清めを受けて神に向かった時には、地上では戦い、憎しみがあろうとも、天の世界では耳をろうする程の大讃美がある。
1~4節の特別な経験をしたイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」と言った。
聖書の民は自分たちがいつも神さまの正しい道から外れている、背いていると知っていた。神を見るという特別な恵みを与えられたイザヤも「自分は心が汚れている」と深く感じていた。創世記の時代から、そのような例は枚挙にいとまがない。アダムとイヴ、カイン、ノア(ノアは、最初は神に従順に従いはこ船を造り命を守られた。洪水のあと船から出るとまず祭壇を築いたことでわかるように信仰を第一としていた。しかし、そのノアが後に農夫となり、ぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝てしまうことになる。)また、バベルの塔のこと等ずっと続いてきた。
聖書の民以外は、こうした善悪の明確な、かつ厳しい基準を知らなかったし、神に従うことがどのようなことなのか、この信仰の世界を知らなかった。
イザヤは汚れた者が聖なるを見たりすれば滅びると思っていた。自分を正しい道から外れた存在だと思っている。それに対してセラフィムのひとりが…イザヤの口に火を触れさせて言った。「…あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」自分は正しいと思っている間は祝福を与えられない、ということを思わされる。自分を信じることができず、神に助けを求めること、それは自分の心の貧しさを知っているから。
新約の時代になって、主の十字架を仰ぐだけで、罪の赦しが与えられるようになった。
◯十一月二九日(日)主日礼拝 ヘブライ 七章22~28 参加29名
ここで「祭司」という言葉が何度も使われている。一見縁遠いような言葉の奥に何があるか。私たちも学び取る必要がある。
祭司は重要な仕事であった。人間は非常に汚れたもので、いつも神様から離れている。それを再び連れ戻す。これには命という大きな犠牲が必要であり、動物の血によって人々の罪に対する赦し、清めをいただいていた。人々の心の一番奥にある問題を担当していたのが祭司であった。このことを徹底して為す為に土地も貰わなかった。しかし人間としての祭司には限界があった。人間には死があるし、また祭司自身も人間なので、罪の汚れがあるし、サムエル記上にあるように、腐敗した人間が祭司になることも生じる。そこで神は、本当の祭司イエス・キリストを完全な祭司として約束された。
イエスは祭司として、永遠に「とりなし」をしてくださる。人間は常に正しい道から外れていく。そのままにしておくと、ついには滅びてしまう。そうならないように引き戻す。そのためには「罪」という間違ったものを消さねばならない。これを帳消しにしない限りは、立ち返ることはできない。罪を無しにするのが「とりなし」である。「罪」は、根本にある壁として深く関わっている。放っておけば人間はどんどん外れて行って、心が暗くなり、希望もなくなり、自分中心に考えて様々な問題が起る。犯罪もこうした所から起る。そのままでは人は、他人の命を奪えばどんな事がおこるかもわからなくなるほど遠く外れてしまう。
イエス様は、このことをいつも見つめておられて呼びかける。パウロもイエス様にとりなしていただいた。
こうしたとりなしは人間にはできない。「放蕩息子」のところで言われているように、正しい生活をしているようでも、心は神から遠く離れている場合もある。人間は他の人間の見えない心の奥まで正しくさせることはできない。心の奥の奥にある汚れを除いて、正しいところに引き戻すことができるのは大祭司であるイエス様だけ。
「わたしの話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている。(ヨハネ福音書15章13)」と、イエスの言葉や存在そのものにも清める力がある。み言葉をしっかり持っているならば、人間の様々な汚れた思いも清められる。祈りや賛美の中でも、汚れが清められることがある。しかし人間の言葉には逆に、汚されたり混乱させられてしまうことがある。
ぶどうの木のたとえにあるように、主イエスにつながっていることは、とりなしをいつも受け、たえず清められるということである。清めは、求めれば与えられる。イエスの愛によるとりなしによって、十字架上の犯罪人のように。
救いは信仰による。イエス様だけが別格であるが、信じた人もみな祭司だ。悪に対して負けない力を与えられている。
・二〇一〇年の四国集会について
集会後、パンと紅茶のあと、来年5月十五(土)~十六日(日)の、徳島市で開催のキリスト教・無教会四国集会についての話し合いをしました。テーマの他に部分的に決まったことは、次ぎのようなことです。
テーマは、集会員のアンケートの結果を取り入れて、「主を仰ぐキリスト者の交わり」として、主を仰ぎつつなされる、相互の交わりを主題として、そのテーマにそった聖書講話、また内容を考えていくことになりました。
第一日の十五日(土)の午後一時開会。夜は、前回と同様に、青年の集会とすること、二日目は、日曜日午後四時までとし、その日も会場に宿泊される方は、去年の徳島での全国集会のように、私たちの徳島聖書キリスト集会場にての、交流会を持つことになりました。
それから、参加者全員による自己紹介も、一人三十秒(参加者数によっては、もう少し長くすることもありえますが)という短時間ですることになっています。これは、本来は、全盲、あるいは強度の障害者が五~六人を越える参加者があるので、その方々には、参加者名簿が見えない上に、どんな人が参加しているのか全く分からないので、せめて一人一人声を出してご自分の名前と府県名を言って、その声で参加者のことを少しでも感じとっていただくためなのです。それだけではやはりあまりにも情報が少ないので、三十秒という時間であっても、自分の最も言いたいことは言えるので、そのように企画したのです。 去年の徳島での、無教会のキリスト教全国集会では、二百人以上の参加者があったのですが、司会者の適切な運営により、一人三十秒の時間厳守をして、きちんと予定時間内に自己紹介を終えたのでした。
また、土曜日夜は、自由参加の賛美のひととき、とすることもきまりましだ。これは、今年の愛媛県での四国集会のときに、初めて取り入れられ、主への賛美が自由な形でなされてよかったと希望する方々が多かったからです。
次回の話し合いは、十二月二十七日(日)の礼拝終了後です。
「黙示」とは何か。原語ではアポカリュプシス「覆いを取る」という意味である。この世では閉じられている真理が神によって開かれた。神によって隠されていた覆いが取り外されたのである。時代はローマ帝国、迫害の初期の時代、一世紀後半と考えられる。
預言のことばを朗読する人は幸い、とある。この時代、ほとんどの人が文字も読めなかった。聖書を読む人は、聖書についてよく知ったうえで人々に語るという重要な役目を担っていた。そして、それを聞く人もまた神の言葉を心に抱いて生きていくことが示されている。
今おられ、かつておられ、やがて来られる方。これは神のことである。そして、玉座の前におられる七つの霊、これは聖霊である。そしてイエス・キリスト。ここに三位一体の神が記されている。
この迫害の時代、ローマ帝国の権威は強力であった。しかし、霊の目で見れば、それらの地上の王をも支配している王の中の王がイエス・キリストである。迫害の時代こそ、この信仰が必要であった。
国家の分裂のきっかけが記されている。ソロモンの死後、その子レハブアムを王をとして立てるため集まっている所にヤロブアムもやってきた。彼はソロモンに反旗をひるがえし、逃げていたが、王を立てるため集まっているというので帰って来た。彼は人心をつかむことに長けた実力者。レハブアムにこう言った。「あなたの父上が負わせた苛酷なくびきを軽くしてください。そうすればあなたに仕えます」と。レハブアムは長老たちの「彼らに仕え、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはず」との勧めを捨て、自分と同年代の若者が言う全く正反対の間違ったものに従った。この間違った選択が、後に起る長い分裂につながった。
この二つの道があるとき、祈ることもしないで選択すると大きな分裂のきっかけとなる。信仰を持って祈ってしない場合、人間的な自分の感情や、周りの人間の声、また風潮に押し流されてしまう。国家社会でも、本当に真実な神様に従う姿勢があるのかどうかが問われる。
仕えるとは、言うなりになることでなく、相手にいちばんよいものを提供すること。イエス・キリストがそうであった。「偉い人が権力を振るっている。しかし偉くなりたい人は皆に仕える者になりなさい(マタイ20章26)」。人間は子供の時から支配したいという感情がある。だがキリストに従う者はそうであってはならない。これは単なる過去のお話ではない。二つの道が常にわたしたちの前にもある。神様に続く道と、神様から離れて行く道と、ふたつ。・植物の学びはコナラ、クリ、クヌギ、トサミズキ、イヌビワ、ヤマハゼ、タンキリマメ、サネカズラ、ダンチクなど。
◯十二月六日 主日礼拝 サムエル記(上)一章1~11 参加27名
サムエル記の第一回目。サムエルは預言者の名。サムエル記(下)の方は、すべてダビデのことが書かれている。しかしダビデが王となっていく出発点において、サムエルは重要な役割を果たした。
出発点はごく普通の夫婦。エルカナには二人の妻がいたが、その一人であるハンナには子供が生まれなかった。当時、働き手である子供がなければその家は終ってしまう。子供のある方のペニナは、ハンナを敵視し、子のない弱みを突いて苦しめた。
社会的に力も権威もない所から、大きなことが出発する。この後に興るダビデはキリストのモデルとなり、王という意味でも、「王のなかの王」と言われるキリストにつながっていく。神様が何かを起そうとすれば、どこにでもあるようなものを用いて始められる。ここではハンナの苦しみ悲しみを用いられた。神様は、わたしたちが決して受取りたくない病気や、他の苦しみ悩みを出発点として大きな事をされる。わたしたちの人生の上でも、このことが当てはまる。しかし神様が愛であれば、目的もなしに悪いことをされるはずはない。
ハンナは自分の悲しみ苦しみを神様に委ねた。相手を憎んだり仕返しをしたりしたのではなかった。ここに非常な分かれ目があった。もうひとつは、この大きなことが始まるところにハンナの真剣な祈りがあった。こうした祈りがなければ当然、憎しみと分裂が起り、更に悪くなる。ペニナからのいわれのない憎しみやいじめに対し、それを夫エルカナにも告げず、ひたすら自分の苦しみを胸に納め、祈りでもって神に注ぎ出したのである。
ハンナは祈った。もし自分に子供ができたら、その子供をささげます、と。この神にささげるという心に祝福がある。ふつうは病気や人間関係など様々な問題が解決されたとしても、多くの場合、よくなったらそれを神の国のために、神さまにささげようという気持はほとんどないであろう。祈りが浅ければ、自分のものにしたいと願う心が、祈りが深ければ、神様にささげます、と祈る。誰でも、たとえ小さくとも色んな与えられたものを神様におささげします、という気持で使っていくところに祝福がある。
○お知らせ
・今月の移動夕拝は、十二月十五日(火)で、中川 啓・春美ご夫妻宅です。二十二日(火)の夕拝はキャロリングが二十四日にあるために、休会、二十九日(火)は、第五火曜日で休会なので、十二月の夕拝は十五日が最後です。
○十二月二四日(木)キャロリング 午後六時三十分に、徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場に集合です。
○来年一月一日(金)の、午前六時三十分より、例年と同様に、集会場にて、元旦礼拝を行います。参加可能な方は、共に参加して一年の出発を主への礼拝によって始めましょう。
○「野の花」文集は、一月発行予定です。
○クリスマス特別集会は、二十日(日)の午前十時からの開始です。いつもの礼拝は十時三十分からですので、間違わないようにしてください。
○水曜集会は、旧約聖書(詩篇)と、新約聖書を隔週交代で学んでおり、黙示録を十二月二日から学び始めています。詩篇は、二〇〇三年三月一二日から学びを始め、現在は、詩篇一四〇ままで学んできました。新約はテサロニケ書が終わり、黙示録の学びが一二月二日から始まりました。
○毎月第一日曜日は、旧約聖書ですが、出エジプト記の学びが終わったので、十一月から、サムエル記の学びに入りました。
○下の写真は、いのちのさと作業所での集会です。後列左から、枝川、石川(光)石川正晴、東条、奥宮、上原、吉村、前列左から、鈴木、中川(春)、貝出、内藤 (二〇〇九年十二月三日の集会)
生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。 今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。 (ヘブル三章より) |
主イエスと弟子たちがエリコを出て行ったとき、大勢の群衆。が従った。そのとき、ふたりの盲人が道ばたに座っていた。これは、物乞いをしていたと思われる。この時代盲人などの障害者は何の保証もなく生活する手立てがなかった。盲人たちの日々の生活の苦しみについては一言も書かれていない。しかし、なすすべのない苦しい生活を強いられていたことを思わされる。
盲人は主イエスを見て、「ダビデの子よ」と叫んだ。当時の宗教学者は、聞いていても、主イエスが救い主であると信じることはできなかった。しかし、二人の盲人は、主イエスこそが救い主であると信じることができた。
主イエスに従ってきた群衆たちは、まともな人間扱いさえもされていなかった盲人たちの必死の叫びを見ても、その苦しみをわかろうともせずに叱りつけた。しかし、主イエスは群衆の中、騒然とした中であっても、盲人の声を聞き届け、立ち止まり、見つめて声をかけてくださった。主イエスは決して素通りされることはない。切に祈り叫ぶとき、どのような所にも来てくださる。特に、苦しいところ、弱いところに来てくださり、どんなに大勢の群衆の中からでもその叫びの声を聞き届けてくださるのである。
「主よ憐れんでください。」この祈りは信じる者には誰でもできる。群衆に叱られ阻止されても、止めることをせず、ますます声をあげて盲人は叫んだ。主イエスへの叫びを阻む力はいつも働く。しかし、主イエスは聞いてくださっている。決してあきらめないで叫び続けるとき、必ず主イエスは来てくださるのである。
主イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は見えるようになりたいと願っていたからそのように言った。主イエスにはっきりと、また、あきらめないで訴えることを示している。そして主イエスはそれを聞いて、深く憐れんでくださった。わたしたちのこころからの叫びを主イエスは聞いてくださり苦しみを知ってくださるのである。
主イエスは盲人の目に触れられた。盲人の目は開かれた。これは、この癒しの奇跡を通して、霊の目が開かれることが示されている。主イエスの十字架。復活。これも霊の目が開かれてはじめてわかる。そして、霊の目が開かれた人は、主イエスに従おうとするのである。
主イエスは決して叫び求める人を捨てない。苦しいから神がいないと思ってしまうのか。それとも、苦しみから主イエスに求めて行くのか。苦しみの中から必死に切実に、神に求めて行くとき、神は必ず応えてくださる。
遊女という特殊な事情の女が二人、同じ時期に赤ん坊を産んだ。まもなくどちらかの子どもが死んだ。二人は残った一人を取り合って、互いに自分こそが本当の母親だと言って仲裁を申し出てきた。証拠はない。それに対するソロモン王の裁きはどうであったか。
王は剣を持って来させ、生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよと命じた。自分の子どもが殺されてしまうよりは、と、手を引いて相手に譲ろうとした本当の母親。王は、本当の愛によって決着をつけようとした。どちらが本当の愛を持っているのかという観点。これはソロモンが、神様から英知をいただいていたことの一つの現われである。
わたしたちも、人間関係、また事件、災害、空や草花、一見何も感じられないような中にも、常に神様の愛と結び付けて考える。これも神様の愛の現われなのだと。苦しいことも、喜ばしいことも、神様からの愛をもらって対処する。ここに書いてあるのは国家間の大きな問題ではないが、ちいさなことのなかに、何を以て解決すればよいかについて書かれていて、これが全ての根底にある。わたしたちも神様の愛をいただいていれば実際に生活に生かせる・植物は、ホラシノブ、ハルノノゲシ、ヤブラン他。
百二十篇から始まる「都に上る歌」の最後。
苦しみの中から主を呼ぶ。すると主は答えてくださった。敵対するものの鋭い攻撃のなかから叫んだら、主が救ってくださった。だから主の宮に行き、礼拝し、力を受け、また信仰を新にする。祭司も集まった人も、共に主を賛美しよう。主からの賜物を受けたときには自然に、光が鏡に反射するように賛美が生まれる。
手をあげて賛美すると心も主に向かう。その賛美がまた別の人たちに反射する。神様を賛美するという事は神様から受けたものを、また別の人に反射するということである。この短い個所は賛美ということを圧縮している。・植物、オニグルミ。
最初に「力ある者よ、なぜ悪い事をして誇っているのか」と書かれている。悪い事をする人も力を持っている。相手の精神に打撃を与える力。言葉で人間は痛めつけられる。悪意のある言葉によって破滅させられる。7節に「どんな強い力も神がおられるので打ち倒され永久に滅ぼされる」とある。根源的に悪の力を根絶やしにするのは神の力。悪意あるものに囲まれたとき、時が来たら神が打ち倒して下さるのだと意識的に思い起こす事が大切。8節、神の力を知らされた人は冨に依り頼み滅ぼされた人を見て、神を畏れた。そして、時が来たら簡単に悪を滅ぼしてくださる神の力を信じて動かされないようになる。10節以降はこの人の新しい生活。私は生い茂るオリーブの木だと書かれている。悪の力に引っかかっていたら生い茂る事ができない。神の家に留まると自然に生い茂る事ができる。また、永遠に神の慈しみにより頼むと書かれてあり、神ご自身が希望であり神の慈しみに希望を置く者は益々恵み深くされる。敵は神の力を滅ぼそうと躍起になるが、神はそれを一笑にふされる。敵には限界がある、必ず討ち滅ぼされる。そして私たちは流れのほとりに植えられた木のようになる。この詩編は日々この世の悪が打ち砕かれる確信の詩である。
参加者十名(この日は、京都で近畿地区無教会キリスト教集会に、私たちの集会からも二十名が参加し、徳島では、残った人たちであらかじめ準備されていた録音を用いて主日礼拝がなされました。)
神は世界を、天使にではなくキリストに従わせるようにした。「あなたが心に留められる人間とは何者なのか(詩篇8篇)」。神様が心に留めてくださる人間、だがその人間がなぜ大きな罪を犯してしまったのか。パウロは「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に到るか、神に従順に仕える奴隷となって義(救い)に到るか、どちらかだ(ローマ6章15)」と言っている。すべての人間はこの二つのうちのどちらかに入る。罪の奴隷となるか、神の奴隷となるか。
罪の奴隷とは、闇の力に支配されているものである。だがイエス・キリストが来て、それを根本からひっくり返した。大いなる逆転。一人の人間についても、今まで悪の力が踏みつけていたものを、キリストが根本から打ち砕いて捨ててくださった。、それによって、わたしたちも罪の力を踏むことができるようになった。イエス・キリストにかたく結びついているなら、わたしたちもそのままそれを為すことができるようになる。
キリストの使命とは、悪の力を踏みつけ、すべてのものを従わせること。十字架による死の苦しみもすべての人の救いのためであった。万物の目標であり、源である神は、苦しみを通してイエスを完全な者とされ、全世界の人の救いの創始者とされた。それは神に相応しいものであった。わたしたちも、よりよきものになされるために、他の何でもなく、苦しみを与えられることによって完全なものとされる。また神様を本当に信じているかどうか、魂の苦しみに出会ったときに初めてはっきりする。
万物の目標であり、あらゆるよきものの源である神(イエス・キリスト)。どんな時も、それに向かって進む。
・近畿集会の留守を守る主日礼拝。途中から豪雨。徳島に洪水警報の出ている中、無事の帰宅を、近畿集会に参加のかた帰りの足のお守りをともに祈りました。
ユダは特別に価値あるものとして選ばれたのに、その輝きを失って見捨てられた。そして汚れて壊れやすい土の器にされてしまった。最高から最低まで堕ちていった。背き続ける最低まで堕ちる。ソドムは神に裁かれて滅びた町であるが、そのソドムよりも重い罪を犯したと作者の罪の認識が深い。ナジル人は特別に聖別された人であり、雪より白く真珠のように輝いていたが、すすより黒く枯れた木のようになってしまった。私たちも自己中心の生活によって土の器であり枯れた木のようになっている。けれども、エゼキエル書では、非常に枯れた骨が神からの霊を吹き込まれると、甦って生きたものになった事が書かれている。ユダヤ人は苦しい運命によって徹底的に枯れた。しかし、これで終わるのではなかった。22節に「しかし、悪事の赦される時が来る。復興する時が来る。」とユダがどんなに罪を犯しても再び光が臨む時があることが示されている。この世は闇ばかりに見えるが、この箇所にもあるように聖書は光を強調している。神の恵みがまだ受けとれない暗黒の中で先にユダの人々が復活する事が告げられた。そして、悔い改めによってどんな民族も罪が赦される事が示されている。新約では、再び罪の奴隷になることはないと書かれている。
○八月十六日(日)主日礼拝 ヘブライ書二・10~18 32名
主イエスは信じる人を栄光に導くとある。主イエスを見上げるだけで、栄光へと導いてくださるのである。それはどのような方法によってか。主イエスの苦しみによってである。もっとも重い刑である十字架によって主イエスは苦しみを受けられて、人を救おうとされた。主イエスは武力のような大きな力で悪と戦ったのではない。自分が殺されるような仕方で戦われたのであった。弟子たちでさえ、そんな方法はだめだ、殺されるなんて言ってはいけないと、主イエスに言った記述が他の箇所に記されている。
主イエスの苦しみを通して人間を救う。これが神の考えであった。愛するひとり子、そして完全な神の力のある主イエスをあえて苦しめて、人を救う。人間では考えつかないことである。
神は万物の目標であり根源である。神の目標として世界が作られているのである。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとにひとつにまとめられている。天にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(エペソ一・11)とある。
神が法則を作られ、御支配されており、すべての源、すべての法則は神にある。その神がキリストをこの世と分かたれた者とされ、そして、キリストを信じた者も、この世と分かたれた者としてくださるのである。
キリストは人間をはるかに越えた方であるのに、信じる者を兄弟と言ってくださる。どうしようもない人間の弱いところまで、低く降りてきてくださる。そして、死を支配する悪の力を自分の死によって滅ぼしてくださるのである。
死ということは怖いとされる。死の後、闇の中に入っていくように思われており、また裁かれるという恐れもある。それを本能的に感じている。そのような死後の闇の根源、罪の根源を、身代わりに主イエスが担ってくださった。死後の恐怖、裁きの恐怖から救ってくださったのである。
主イエスは、どこまでも低いところまで、降りてきてくださった。出発点から、主イエスがうまれたのは家畜小屋だった。そして罪なき主イエスが罪がある人のように低なって洗礼を受けられた。最後には、もっとも重い罪人として死なれた。主イエスが低く降りてこられ、苦しまれたから、あらゆる試練をうけているひとを助けることができた。わたしたちも、その主イエスによって、少しでも低いところに降りていき、他者を助けていくことができるのである。
ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かったとある。海辺の砂という表現は、主が、子のないアブラハムに、あなたの子孫が天の星のごとくなる(創世記15章5)と言った詩的な表現が最初。子孫とは、信仰的な子孫。それがみ言葉をもらって無数に光る。そのように増えるということ。現実にそうなった。
アブラハムは主が言われるとおり、やっと主からいただいた子どもまでささげようとした。そこまで神様の言葉に忠実であろうとした。人間が考えてできないようなことも神様ならできる、きっと道を備えてくださると信じていたからできた。神を信じ、神様のためと思ってすると「主の山に備えあり」という言葉が今日まで残ったように、不思議な備えがある。これは無数の人が経験してきた。神を信じる人に偶然はない。わたしたちも、行動では正しいことばかりできないが、心から信じることでよしとされる。主はそのようなアブラハムを祝福されて「子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう(創世記22章17)」と約束された。祝福の基は、ただ主の声に聞き従ったこと。
ソロモンもまた祝福を受けた人であり、非常に広い地域の支配権を持つようになった。食糧も豊かで、平和であった。多方面に秀でており、聖書にも「箴言」「雅歌」などある。
祝福について新約では「種まく人のたとえ(マルコ4)」で不思議な増え方をすることが、祝福のシンボルとして言われている。神の祝福の力の大きさ。この世の、どんな潰そうとする力にも打ち勝つ。
この詩の内容は、個人の悩みや苦しみでなく世界全体に悪が蔓延している社会的な状況。人々は神などないという。この考え方は、腐敗をする根本原因。神がいないということは完全な真実や愛がないという事。ないものに向かって努力しても仕方がない。悪いことを罰する神もいない。 イスラエルの指導者たちは、多くの人に対して人々を神様に連れて行くのでなく民から多くのものを奪い取る。提供するのが本当の指導者であるのに逆に奪い取る。主イエス様も神殿の境内で売り買いする人に「強盗の巣」と言われた。宗教を利用して何か奪い取る傾向を糾弾された。ここでも、人々はみな腐敗している。悪が蔓延して巻き込まれて何も起こらないのでなく必ず裁きがある。神様の真実や正義を踏みにじり裁きなどないと思い上がっていたら、時が来て裁かれる。作者は悪の蔓延するただ中においてなお神を待っている。この世の現状と裁き。イスラエルの救いがどうか行われますように。捕らわれ人を連れ帰るときこの民は心から喜ぶ。悪が裁かれイスラエルの民の救いが必ず起こる。聖書の世界に触れないと投げやりになってしまう。切実に救いを求める気持ちがなくなる。この詩編は押し流されないで神を固く信じた人の心が現れており、前途には期待をもって神への愛をもって終わっている。
2~18 哀歌が書かれた状況が書かれている。先祖から受け継いだ土地は奪われ、住む家も異邦の民にとられ、水や木の実りさえお金を払わないと食べることが出来ない。なぜこうなったのか。 神様は、「バビロンの捕囚となって、生き残る道を選びなさい。」と言われたのに、エジプトやアッスリヤといった大きく見える力に頼ろうとした。これが滅びの原因なのだ。
このような、目先の大きな力に頼ろうとすること、それは現代にもある。先日NHKの「未来の日本を考える」という討論番組で、その一つに核の問題が議論されていた。北朝鮮が危ないので核を持たないといけない、インドとパキスタンは核を持ち紛争が起こらなくなった云々…と。こうして世界の国々が核を増やしていったら最終的にどうなるのか、世界は核兵器があふれ、テロリストなどによって用いられる危険性がますます多くなる。日本は先の戦争によって、多くの人を殺し、また殺された。それゆえ、武力という一見力あるものに頼らない精神を新憲法で「戦争放棄」として記した。
16節~「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。」敵が悪いと言わないで、私たちが罪を犯したのでこうなったと言っている。19節~「主よ、あなたはとこしえにいまし、代々に続く御座にいます方」現状はあらゆる階級の人々が苦しみを受け、絶望以外ないと思われる状態になっても、主に対する信頼だけは持ち続けた。主はどんなことがあってもおられる!この信頼は揺るがなかった。
シオンの山は神が居られると信じられておりその都の祝福を語っている。ラハブという地名が出てくるが、元々は海の怪獣の名で神に敵対するある勢力。エジプトを象徴的にそう呼ぶ。イザヤ書30の7に「エジプトの力は空しくはかない」と書かれており、神の前には、エジプトのようにどんな強大な国も力も砕かれ散らされる。ここでは、その敵対するラハブやバビロンが贖われて高くされる事が書かれている。「敵の為に祈れ」と主イエスは言われたが、敵対する悪の力が壊されて神を知る者に変えられるという希望がここにはある。ペリシテ、ティルス、クシュという地名が出てくるが、これは広大な領域でティルスは海岸ぶちの栄えていた町。遥か遠くの人達もシオンで生まれた同じ兄弟、姉妹になると言われている。広大な世界の人達が神の都で新しく生まれたという事で、敵対する国々が最終的に良くなるという展望。これはいと高き神ご自身が定められた事で、そこで新しく生まれるように、神を知る人になる。旧約の時代、「敵を滅ぼせ」と言われていた中で、「神によって世界は一つになる」という画期的な事が示された。今、私たちもイエス様によって霊的に新しく生まれた主の民だが、神様の時が来たらすべての人がこうされる。イザヤ書2章に、終わりの日に主の神殿の山は山々の頂きとして固く立ち、どの峰よりも高くそびえ、国々はこぞって大河のようにそこに向かい…と書かれている。この世の意見は絶えず変わるが、聖書は何千年たっても変わらない。
ソロモンは、主からの守りと平和をいただて敵対するものもなく、ここに至って神の箱を置く神殿を建てようと考えた。18節の「敵対する、反対する(ヘブル語でサータン)」というごく普通の言葉はのちに重要な言葉「サタン」という、神に対立する霊的な存在(悪魔)を意味する言葉となっていった。サタンということについても、聖書の中で意味が深められて行ったのがうかがえる。
神殿とは一番大事な神の言葉を納めたところ。その建設に重要な材料として、ソロモンからレバノン杉の要請を受けたティルスの王は、賃金が入る事などでなく、まず「主がたたえられますように」と言った。神殿を建てる人間ソロモンではなく、主がすばらしい、と。わたしたちも、何かよいことがあっても、まず神様を思い起こす。人間にたいしても感謝をする。が、先ず背後でそれをしてくださった神様に感謝を。どんなことも神様がなにかよいことをしてくださっていると思い、感謝していく。・植物は、アキノノゲシ、セイバンモロコシ、イヌビエなど。
ハレルヤと繰り返されている。 だがどうして主を賛美するのか。当時、世界のどのような文明を持つ人々も知らなかった神様。すべてをご支配なさっている方が、自分たち、わずか少数の民を選んでその存在を知らされた。選ばれた自分達。それゆえ賛美する。もう一つ、その神は天地を創造された神様であり、当時言われていたどんな神々にもまさって雄大にして絶大なるお方。それを思えば賛美せずにはいられなくなる。本当の賛美は、自分のことと同時に、天地を創造された神の素晴らしさ、この両方が感じられる時にできる。
長い時間の中で、生きて働いて導いてくださった。だから今も導いてくださるにちがいない。神様はほんとうに素晴らしい。
人間が、神以外の何かを賛美しても、それらはすぐに消えていくものだ。だが神は永遠に覚えられ、賛美は三千年続いている。聖書の広さ、深さ、大きさ。本当の神でないまちがったもの(偶像)に従えば、その人も同じようになる。自分を偶像とし、一番大事なものとすれば、心の目も口も塞がれ真理が見えず、語ることもできなくなる。 聖書はいつも主を賛美しようと、一貫して言っている。自然のままの人間はそれができない。常に聖書は人間を正しい位置に引き戻そうとする。
・内村鑑三所感集から。人の価値は、今、現在の価値である。過去に善人であっても、今悪人ならかれは悪人、その逆もまた真である。
キリストによって、限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた、とある。しかし、現実は、昔も今も、人間には苦しみがつきまとう。いったいどこに、限りなく豊かな恵みがあるのというのか。しかし、この恵みは確かに存在する。それは、キリストが来てくださるまで、人間にはわからなかった。キリストこそが、大きな恵みを来たらしてくださった。だから、世界に広まっていったのである。
キリストが世界に広がったのは。来るべき恵みが現されたからであった。それは、罪の赦し、闇の力からの救いである。そして、その恵みは、まず、神から一方的に与えられたことによる。恵みを与えられ、信仰があたえられ、そして、救いに導かれた。恵みが与えられたから、信じることができたのである。信仰は自分の力ではない。神の恵みによるのだ。そのことを、特にロマ書には中心的に書かれている。 行いによっては人は救われない。どんな人にも、ほんとうに善きこと、純粋によきことだけを思うのは、人間にはできない。つまり、人間は自分の力では救われない。
「いまや、律法と関係なく神の義が示された」(ロマ書三・二十一)。行いではなく、イエス・キリストを信じることによって、救いが与えられる。信じただけで、わたしたちを正しいと言ってくださる。神の目から見れば、人は誰もが罪を犯している。しかし、その罪を贖うためにキリストが身代わりになって死んでくださった。それを信じただけで、救いが与えられる。なぜ、信じることができたのか。それも神から与えられたことなのである。救われたのは、ただ安心するためではない。そこから、神が前もって準備してくださった、善き業をするようになるためである。信仰が与えられ、そして、善い行いをするようにと、導かれていく。つまり、キリスト者は、罪をゆるされ、救われて、そして、よきことをするようになるために作られたのである。なすべき善きこと。それは、あたかも偶然に出会ったように思える。しかし、すべて神の導きであり、神が備え、与えてくださったことなのである。人間は、善きことができると、自分の力でしたように思いやすい。しかし、ただ、神が与え、備えてくださった道を歩ませていただく一方的な恵みの道である。
信仰により、まず、罪をゆるしていただく。そして、そこから、神によって導かれて歩いていくことができる。自分の力では全くない。神に与えられた恵みよるのである。
こころの貧しい者は幸いとある。自分には力はないと自覚し、神によって生かされていると自覚するこころこそ、幸いである。
「わたしにとって生きるとはキリスト」(ピリピ一・二十一)とある。わたしたちが救われたのもキリストのめぐみ、信じることができるのもキリストのめぐみ。善き業が与えられることもキリストのめぐみである。出発点からキリストで始まる。そういう意味で、いきることはキリストとなるのである。
このことこそ、はじめに記されている「限りなく豊かな恵み」なのである。
◯八月二十三日(日)主日礼拝 ヘブライ書三章1~6節 29名
人間の意見や分析などは力を与えない。しかし神の言葉は力を与える。「イエスのことを思いみよ」という言葉。その関連としてイザヤ45章22節に「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ」とある。この「仰ぐ」という言葉は、原語のヘブル語でも、ギリシャ語訳でも「方向を転換する」という言葉。英訳はそれを反映している。Turn to me and you will be saved…。 人間はこの世のこと、自分の罪ばかり見ている。そこは偶像や人間、その欺き、戦争など暗いものばかりしかない。 内村鑑三も、自分の罪で苦しんだ。どうしても自分の中の闇が晴れない。苦しんだあげくアメリカに行ったが、アマースト大学のシーリー総長から「あなたは自分の内ばかり見ている、上を見なさい。主を、十字架を仰ぎなさい」と言われて初めて内村は目が覚めた。このように神の力は、闇のなかにあった者を立ち返らせる。これと、人間の考えや意見、分析とは根本的にちがう。人間の考えをいくら聞いても救いにはつながらない。 ヘブライ書の時代、ここでも、イエスが一番大きいのにモーセが大きい、という考えが続いた。だが「イエスを仰ぎ見よ」この短い一言があれば充分である。詳しい学問がなくても救われる。あの十字架上の犯罪人のように苦しみの中から「主よ…」と叫ぶだけで、救われる。
ヘブル書は当時のユダヤ人キリスト者に対する手紙。ユダヤ人はイエスより千年以上も前からモーセこそ神の人だと信じ込んできた。わたしたちにとってはモーセよりイエスが格段にすぐれているというのは、当然として受け取れる。しかし、現代では、また別の形をとって、キリスト者であっても、いつのまにかイエスとは別のものを上に置いていることはよくある。例えば、イエスの言葉より自分の考えの方が上なのだといったことである。 6節の「誇り」とは、日本語のように「自慢する」ことではない。「艱難をも誇る」とパウロがローマ書で言ったと箇所は「艱難をも喜ぶ」という意味を重ねて持っている。主にあるよろこび(希望)を伴った誇りである。1節の「召し」は、神様からの「呼び出し」を受けること。いつも神様はわたしたちを呼んでおられる。星や草花など、自然の様々なもの。呼び出しは、真剣な祈りによっても、賛美(新聖歌 190番 「静けき祈りの」のように)によっても受けることができる。神様の呼び出しは到るところにある。
○八月二五日(火)移動夕拝 中川宅 ヨハネ五・1~9 16名
エルサレムにベトサダの池があった。いろいろな病気の人がそこにいた。目の見えない人、足の不自由な人などが横たわっていた。水が動いた時に池に入った人は癒されるという言い伝えがある特殊な場所での出来事。その中でも三八年(人生五〇年の時代人生の終わり近く)ずっと病気で苦しんできた人が居た。主イエス様は最も苦しんでいる人を見つけてくださる。イエス様のこういう具体的な行動で、聖書の神様のご性質が浮かび上がってくる。この人に「良くなりたいか」と聞いた。「良くなりたいが、水に入れてくれる人がいない」と答えた。助け手がいない。主イエス様こそ、助けなき身の助け手。(讃美歌二一・二一八)私たちの病気が重くなったら、一人で耐えていかなければならないが、主イエス様が一番苦しいところにいてくださる。「起き上がれ」エゲイローは「復活する」とも訳される。「担げ」取るという意味を持っている。この世とは、心身ともに様々な病人がいる場所のようなもの。床を担ぐ。床は最も嫌だったはず。神様に立たせて貰ったら嫌で仕方なかったことが担って行けるように変えられることも暗示されている。迷い悩む人のところに行って「立ち上がれ」と言った。イエスのみ言葉を受けたら実際に立って動けるようになる。「良くなりたいのか」と主イエスは聞いた。諦めてしまいそうになるが、諦めてはいけない。諦めずに祈る必要がある。イエス様だけは来てくださると希望をもつ。
テサロニケの手紙は新約聖書の中では、最も早く書かれたものである。そしてこの手紙が書かれた当時、キリストの再臨が近いと思われていた。また、この時代、すでにキリスト者に対する迫害がおこっていた。迫害はその後、十数年でローマ全土に広がっていった。ここに、「あなたがたを苦しめているものには」とあるが、これは、キリスト者への迫害の苦しみを示している。何もしていないのに、キリストを信じると言うだけで苦しめられる。それに対して、復讐せず、武力を使わない。そのようなものには、必ず、良き報いが与えられると示しているのである。信仰のゆえに苦しみをうけているときには、時が来れば必ず主イエスは安らぎを与えてくださるのである。
そして、ここで主イエスが再び来る再臨の日について書かれている。主イエスは火の中を来る、とある。聖書でいわれる「火」とは、何をさしているのか。キリストの先駆けとしてきた、洗礼のヨハネについての記事の中でも、「自分は水で洗礼を授けるが、後から来る人(キリスト)は聖霊と火で洗礼を授ける」という表現がある。また、他の箇所では「殻を消えることのない火で焼き払われた」(マタイ三・11、12)という表現もある。このように、ここで言われている「火」とは、焼き滅ぼして清める、ということの象徴なのである。
旧約聖書には火についてこのように現されている。
「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が」(マラキ書三・19)悪の力をすべて燃やしてくださる日が来る。悪の力は人間の力では消えない。しかし、聖霊の火によって燃やされていく。いつか必ず、悪の力は滅ぼされることがこの時代から示されている。またダニエルが神を見た記事がある。それは、「その王座は燃える炎、その車輪は燃える火、その前から火の川が流れ出ていた・・」(ダニエル七・9)と「燃える」ということが三回も繰り返されている。聖霊の火は燃えている。そして悪を焼き尽くす。どのように悪が栄えても、悪の力は必ず滅ぼされることがここでもまた示されている。ここで書かれている、主イエスが「火」の中を再臨されるとは、そのような希望の象徴でもある。主イエスの再臨の日が近いと思っていたこの時代、だから、神を証しする者になることができるように、神の招きにふさわしい者になることができるようにという祈りと願いがあった。
悪の力は最終的には焼かれて滅ぼされる。それは世の終わりの時である。人間の努力で起こるのではない。だから、ただわたしたちは、少しでも力をいただいて、神の国のために働いていく。主イエスは毒麦のたとえの箇所で、「毒麦は刈り入れの時まで置いておけ、そのときには焼くために束にする。」(マタイ十三・25)と言われた。悪の力の最後は神が最善の裁きをなしてくださるのである。
★吉村兄講話 ヘブル書三・7~13
「今日、あなた方が神の声を聞くなら」「今日という日の内に、日々励まし合いなさい」とあり、特に「今日」という事を強調している。この時代、キリストの再臨が近いと思われており、初期のキリスト者は、世の終わりが近い、もう時間がないと思っていた。残された時間が少ないと感じていたら、「今」を大事にする。そして、その時その時を燃えて働こうとする。パウロも、残された時間は短いと感じていた。だから、少しでも伝えたいと、切に望み働いた。
残された時間。それは、今生かされているわたしたちもわからない。一年後、どうなっているかも誰もわからない。もし、あと時間は一年しかない、これが最後の一年だとわかっていたら、時間を無駄にはしないだろう。今日一日を中途半端に生きてしまうと、明日もまた、まあまあ、と生きてしまう。今日をどう生きるか、今をどう生きるか。それで一生が決まっていく。
「生ける神から離れてしまう者がないように」とある。キリストから離れてしまうことが実際にあるからである。キリストを信じていても、油断をしたら、途中でおちてしまう。毎日、新しい霊をいただかなければ、知らないうちに道がそれていくことがある。だからお互いに励まし合う必要がある。そして、日々励まし合いなさい、とある。これは、使徒言行録二章にも、毎日ひたすら、こころをひとつにして集まったということが書かれている。共に集まる、ということの必要性が記されている。
キリスト教迫害の初期に書かれた記録にも、毎日暗いうちから集まっていたことが記録として残されている。
信仰は油断をしたら消えたり、変質したり、枝のほうに行ってしまい、本質でないほうに、いってしまうので、共に集まり、祈り合うことが必要なのである。
二人三人、キリストの名によって集まると、そこに主がおられるので、力が与えられる。どうしても、集まれない人もいる。しかし、互いに祈り会うことによって、励まし合うことができる。そして、祈りによる励ましは、励まされる人だけでなく、励ます人もまた力を受けることができる。
今日という日を大事にすること。そして互いに励まし合うこと。ここでは特にその重要性が示されている。
★西沢兄講話
罪に泣く人、というテーマで話したい。ここで二人の人を紹介したい。一人が浜松の溝口先生。自分自身のキリスト教入信の決定的な人である。三五年前。ある女性の召天記念会のとき、溝口さんから誘いを受けて参加した。その人は結核で二七年間、入院していた。入院してすぐに離婚され、手術も四回うけた。その人が召される日、「わたしのために泣いてくださるのは神様だけよね」と言われた。それを聞いて、溝口さんは、はっとした。「泣いてくださるのは神様だけ」という言葉に、自分の力なさを受け止められたのであった。その溝口さんの涙をみて、信仰が本物と感じ、自分自身の入信のきっかけとなった。参加した集会の会場も、何か新鮮な雰囲気を感じた。キリスト者が集まる場ということは、いままでにない清い空気があるのだと感じた。
もう一人の例は堤道雄先生である。高齢となられ、伝道集会の最後というとき、涙を流された。それはご自分が、内村の非戦論を学んでいたのに、戦争に参加し将校にまでなったことの罪について話されたときであった。敗戦後六〇年たった今も、心の傷が痛んでいたのだと知らされた。高齢になって涙もろくなられたのかなと思ったけれど、話を聞いていてその真実に触れた。堤さんは戦争犯罪という罪の意識をもたれて歩まれた。そして、最後の伝道で、その罪を告白されたのだった。堤さんの涙は、罪の意識のための涙だった。そして、キリスト者は罪に敏感になることができるのだと知らされた。
ペテロが主イエスを裏切って泣く場面がある。ペテロは弟子のリーダー格だった。しかし、主イエスを知らないと三度も言ってしまった。そのとき、その罪を知らされ、激しく泣いた。それは、自分はけっしで裏切ったりしない、命にかけてもイエスに従っていく、と主イエスに言っていたからであった。自分の罪の深さに泣いた。
主イエスが復活してペテロにかたる場面がある。(ヨハネ福音書二五・15~19) 主イエスがペテロに「この人たち以上に愛しているか」と三回聞かれたペテロは三度も主イエスを知らないと言った。こんどは、主イエスが三度、くりかえしてペテロに確認した。主イエスを否定したペテロは自分の心を見透かされ自分のふがいなさで悲しくなった。そのようなペテロに、主イエスは「愛しなさい」というのではなく「従いなさい」といっている。離れずに、くっついてきなさい、といわれている。
この会話があって、復活した主イエスが、天に帰られてから
主イエスの復活の証人として、ペテロは中心的に活動していくのであった。ペテロとヨハネが取り調べを受けた場面でも、「神に従わないであなたがたに従うことが、正しいかどうか考えてみなさい」と言っている。このような姿に、かつて、罪に泣いたペテロから、回心したペテロの姿を見る。すべて罪に泣いたペテロが原点になっているのである。
自分の罪に泣く人はキリストの信仰が本物であることの証明である。溝口さんは「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者とともに泣く」そのみ言葉が、自分には本当には実現していなかったという罪。愛の至らなさをしらされ泣いたこと。 神の前で示されて、罪に泣く。それはキリスト教信仰生活を送ることができていることの証明である。自分も、罪になく信仰を与えられたい。信仰は、頭で考えるのではない。生活の中で、実践していくことである。そして、その人について、詳しいことをしる。情報を交換しながら、生活する。詳しいことを知って初めて、真のお祈りができるからである。感話の中でも今置かれている状況が知らされる。そして、その人に対する認識がふかまる。生活のことを語り合って、その人が何を今悩んでいることを知って、祈り会うことができる。これからも、庶民的な実生活のなかで、愛の実践をしていきたいと願っている。
この詩は賛美として歌っていたことが分かる。慈しみはとこしえに、と折り返し歌うことによって、神の限りない慈しみを心に刻みつけることになる。人間の愛とちがって神の愛は永遠に変らない。真実で堅固。 「感謝せよ」と訳されている原語ヤーダーには、別の意味がある。それぱ創世記29章35にある。感謝がなければ、誉めたたえることもできない。この両方が溶け合っている。ユダという名はこのヤーダー(ほめたたえる、感謝するという意味がある)から来た。主に感謝せよ、何故ならば慈しみは永遠だから。
冒頭の「恵み深い」の原語はトーブであり、創世記にある善悪の木の「善」と同じである。この語は、この箇所のように「恵み深い」と訳されることもあり、数十種の訳語が使われている。単なる道徳的な善という意味だけではない。英訳では「good」であり、神様はあらゆる意味でよいことをされる方だという意味がある。慈しみは永遠…文字がわからない人も、繰り返すことによって心をそこに引き寄せる。
神様の慈しみ(神の愛)は人間だけにとどまらず、動物、自然、歴史、あらゆるものにわたっている。それは単に神が万能だからでなく、背後に愛があるからである。
○「いのちの水」誌で紹介した、北田康広さんの三枚目のCD「藍色の旋律」は、定価は二千五百円ですが、一七五〇円でお送りすることができますので、希望の方は、左記の吉村まで。(送料当方負担) なお、近くに書店とかインターネットなどを利用できない方のために、最初のCD、「ことりがそらを」、つぎの「心の瞳」のCDもお送りすることができます。こちらのほうは、いずれも三千円。
○今月の移動夕拝は、九月十五日(火)藍住町の奥住宅にて。
○九月二十二日(火)の夕拝は、翌日の「祈の友」の会に早朝から出発する方々がいますので休会です。
○九月二三日の休日は、松山市での、祈の友・四国グループ集会です。
○私たちの主日礼拝や夕拝の全部の内容を録音した、毎月の集会CDは、パソコンで聞くことができます。しかし、パソコンのない方のため、MP3対応 CDラジカセを、サンヨーの製品を操作性や価格の点から紹介してきました。そして多くの方々が申込され、それで集会CDを聞いています。しかし、そのラジカセは製造を終了したので電器店からは購入できないことになりました。しかし、私のところに若干予備がありますので希望の方は申込してください。(価格八千円)
渇いているものには、いのちの水の泉から 価なしに、飲ませよう。 (黙示録21の6より) |
この世の知識や指導力があっても、主イエスの本質はわからない。主イエスはご自分を「人の子」と言われた。それは、神と同質である、ということを示している。これは、ダニエル書七章で預言されていることであった。その預言の成就がなされ、主イエスが神によって遣わされたのであった。しかし、このとき、旧約聖書を学んでいたはずの祭司や律法学者は、主イエスがその預言された人物であるとはどうしても理解することができなかった。そして、主イエスがご自分を神の子であると言ったことで、激しく憎んだ。昔も今も、主イエスが神の子であるということに人はつまづく。今も生きておられ、これからも永遠に生きておられる神と同質のお方である、ということが受け入れることができないのである。
ヨハネ福音書が書かれた目的は、その冒頭と末尾に記されているように、主イエスこそが神に等しきお方であり、主イエスの名によって永遠の命をうけるために書かれたのである。このことを信じるか、信じないかで、命を受けるか、受けないかが分かれてくるのである。
主イエスは神と同質であり、そして、神の右に座す存在であることを示された。「右に座す」それは、神の正義をも示している。現実は捕らえられ、罪人として裁きを受け、これから殺されようとしている主イエスであったが、そのただ中に神の義は表され、預言は成就し、神のご計画は確実に進んでいった。 人間がどのように真理を壊そうとしても、決して揺るぐことにない神の義。そして、闇の力が渦巻くようなこのような場においても、主イエスは岩のように堅く、静かに立っておられたのであった。
・森本麻依子さんが大阪に就職されるため、みんなで「神共にいまして」(讃美歌405番)を讃美しました。
神ともにいまして 行く道を守り
天のみ糧もて 力を与えませ また会う日まで、
神の守り 汝が身を離れざれ
まさに国全体が滅びようとしている危機の時この詩は生まれた。ユダヤ人のアイデンティティーを根こそぎ壊してしまう絶望的な状況の中で、神に向かって叫んだ。あなたは我らを見放された。死の陰で覆ってしまった。先祖をカナンの地に住まわせたのは軍事力や武力でなく神の御手によってであった。神が過去にされたので今こうして在る事ができる。だからこの困難をも乗り越える事ができると信じる。過去の導きを思い起こして、まず導きに軸足を置く。あなたこそ私たちの王。私が寄り頼む主。神様への信頼、感謝と賛美をもって今まで歩んできた。しかし現実は見放されたのと同じ。どうしてこんなひどい事を起こすのですか。これは無数の人が叫んできたことである。民族と国家が崩壊する中で神の力を諦めず求め続ける。この叫びと祈りと求めがあったので国は滅びないで、この詩が作られておよそ一八〇年ほど後にイエス・キリストが来て下さった。私たちも試練の続く時、諦めずすがり求めていけばイエス・キリストが来て下さる。
この詩は、個人の悩み、苦しみではなく、国全体の苦しみ、民族の苦しみや叫びを書いてある。涙のパンを私たちに食べさせなお、三倍の涙を飲ませられる、という特に三という数字によってどうする事もできない絶望的な状況、深い感情を表している。13~14節の石垣が破られたのは、侵略、攻撃されて破壊されていく状況。9~12節は、民族の歴史を言っている。自分たちをぶどうの木に譬えて民族をエジプトから移しカナンの地へ導かれた。ぶどうは祝福のこもった産物で、民族を増やし、地中海の沿岸、ユーフラテス川のところまで広がった。しかし、今、予想できない状況になって追い詰められている。民族的な試練に遭っているが、だから神がいないという考えにはならず必死になって集中して神に心を注いでいる。「ケルビムの上に座し顕現してください。あなたの光を輝かして下さい。闇の力を打ち破る為にも来て下さい。」と神に願い、三回もあなたの光を輝かせて下さいとある。人間は苦しい事があると神から離れ、楽しい事が続くと神から離れる。絶えず誘惑にさらされている。悪の力が強いと思う時にも祈り続ける事の大切さ。苦難の時、単純な祈りを確信をもって祈り続ける事が私たちへのメッセージである。
◯三月九日(月)北島集会 旧約聖書続編・シラ書(集会の書)四十七章12~25
三千年前にイスラエルの王となったソロモン。その名は平和・平安を意味するシャーロームから来ている。その名のとおり、治世の時は国家も平和になった。それはソロモンの信仰に神がこたえて、神様が敵をおさえたからである。
またソロモンは主の名のために神殿を建てた。聡明で英知があった。聖書の「箴言」では全部ではないが、神と人、この世の真理に関する格言を残した。本当に価値があることは主を畏れること、人間が深くなるための出発点だと。しかし19節では驚かされるようなソロモンの罪が書かれている。人間はそれほど脆い。油断してはいけない。他にも罪に対しては、金、名誉、その他いろいろなところに誘惑がある。手綱を引き締める神。背を向けたら罰うける。
しかしそれでも神は、滅ぼして無にしてしまうことなく、ソロモンを守られた。罪を犯した者も、裁きを与えると同時に、用いようとされる。罪があるからといって滅ぼされるなら、みな滅ぼされてしまう人間。
その人間も、ある部分だけ用いられるということがある。神のご計画、その役目を果たすため、我々も皆どの部分かで用いられている。
・内村鑑三所感集から。「我らの霊は永久の春なり」とある。我々はみな春をもっている。霊的にたえず新しく芽吹いている。 春は、英語でスプリングである。この語はもとの意味として、湧き出るという意味を持っている。そこからバネという意味や、泉、そして春という意味もつながっている。春も新たな芽、植物が湧き出るからである。
聖なる霊が宿ると新しい感動がうまれる。日々感謝、喜び。こころに春。永遠の生命。(「不朽のわれら」)
・植物は、セイヨウカラシナ、これがマスコミで写真とかでよく紹介される、菜の花で、吉野川河川敷などに大量に野性的に咲いているものである。
エレミヤは以前から一貫して、「エジプトに頼ってはならない。バビロンの支配に従え」と言い続けた。この事は、人間的に考えると、敵に降伏することになるので、非常に不安で、エジプトに頼る方がうまくいくと思われた。私達も主からある事を示されても、自分の気持ちや願望が先に立って、聞きたくない、従いたくないという気持ちが起こる。どういうことになっていっても従おうとするのが信仰の姿勢。その為には深い祈りが必要。アブラハムが一人息子のイサクを捧げようとしたのはこのような信仰であった。自分を空しくして思い切って従う道をとると不思議なことが起こり導かれていく。エレミヤは神から受けたので、この世の人とは違う判断で妥協せず同じ事を繰り返し繰り返し言った。
神の言葉は働く。神の言葉は活きたもの。人間が本当に変るのは、その人の中で神の言葉が働きはじめて変る。パン種を入れたように、霊的な世界が広がる。深く受け取った神の言葉は、その人の内面で発酵する。生きて、いのちをもっている神の言葉。人間の言葉ばかりの新聞雑誌で、人の本質が変えられたことはない。清い心,真実な心を与える働きをする神の言葉。
福音が働きはじめたのは迫害のさなかであった。そんなときに神の言葉として信じ、受取った人たち。だから神に感謝をしている。迫害する人の裁きは必ずある、とパウロは言っている。
テサロニケから離れても、再び顔を見たいと言うパウロ。手紙はコリントに行った時に書いた。だが、ただ単にもう一度会いたい、という普通の感情だけでない。再臨を信じた上で書いている。最終的なゴールである再臨と結び付けて、その時また会いたいと言っている。今のわたしたちにとって、再臨の一つの現われはイエス様の聖霊であるが、聖霊として来られ、また世の終にも神の力をもって来られる。だからわたしたちも死の時まで信仰をもち続ける。これが究極の喜びだ。
・植物はフサアカシア、 ナガバモミジイチゴ、キブシ、タネツケバナなど。
イエスはヨハネから洗礼を受けた理由。水の中に入ってあがる洗礼は、ほかの宗教にもよく見られるが、罪からの清めを表している。神と同質である主イエスには罪がなく、罪の汚れを取り去るという行為は本来は必要ではなかった。しかし、神と同じでありながら、汚れた人間と同じように、洗礼を受けられ、低いところまで降りて行かれ、清める必要がなかったのに、清めを受けられたのであった。
主イエスは最後には、十字架につけられて殺された。罪のないイエスが、最も重い犯罪人のようになって、一番低いところまで降りて来られたのであった。
イエスが洗礼を受けられたのは、この十字架と同じように、最も低いところに降りて来てくださった、と言うことを意味していた。人間はすぐに上に立とうとする。弱い者を押しのけてまで名誉を得ようとすることがある。しかし、イエスはそうではなく、下の方に降りて行かれるのである。
これは、弟子たちの足を洗う、という行為にも示されている。イエスが殺される前の最後の夕食の時、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めた。これは、奴隷のすることであった。しかし、ここで、イエスがあえて弟子たちの足を洗い始めたのは、清めの象徴の行為であった。奴隷がするようなことをあえてされ、常に下まで降りて行こうとされた主イエスのお心が示されている。
このように、主イエスが洗礼を受けられたのは、高いところへあがろうとする人間に、低いところに降りて行かれる姿勢を示されたのであった。わたしたちも、その精神を受けることが大事である。そしてまた、単なる儀式として水の洗礼を一回だけ受けるよりはるかに重要なことは、復活の主イエスが「あなた方はまもなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒1の5)といわれたように日々新たに、聖なる霊を受けると言うことが大事なのである。
主イエスが洗礼を受けられた後、天がさけて、聖霊が鳩のように下ってきた、とある。低いところまで降りて行く、その精神が祝福を受ける。上に行こうと弱者を虐げていくとき、そこには祝福はない。弱者をいたわる心を持つとき、閉じられていた天が開かれていく。天が開かれるとは、目には見えない神からの霊、本当の意味での良きことが天から下り広がっていくことである。神を信じて思い切って下に降りていくとき、そこに天は開かれる。
そして、その後で神からの語りかけがあった。この語りかけは、わたしたちにも注がれている。あなたは、神に愛されているこどもと同じである。あなたはわたしの心にかなう者である、と言ってくださる神。神に愛されているという語りかけを聞いたときには、どのような状況であっても人間は生きていくことができる。神の愛を感じたとき、苦しみや闇の中であっても感謝を持って生きていくことができるようになるのである。「あなたはわたしの愛する子」これは今も、信じるすべての人に語りかけてくださっているのである。
山上の説教。山の上から、弟子たちに主イエスは話された。これは、神を信じ、主イエスに従っていく者に与えられることはなにかということを示されたのであった。まず、与えられること、それは天の国、すなわち神の御支配である。そこにはあらゆるよきことがある。病気になっても打ち勝つ力があるし、孤独であっても癒される。そのような目には見えない、神の国にあるようなことを下さるという、キリスト教の信仰のエッセンスが書かれている。
どういう人があたえられるのか。心の貧しい人は幸いである、とある。心の奥、魂の深いところに、自分を誇る思いを持っている心には与えられない。人間の罪と弱さを知り、自分の力を誇らない心。どんな状況の中にある人でも、誇らない心の中には、求めるとき、神様はそこに力を注いでくださる。弱いところにこそ、神の力は注がれるのである。心の貧しい人とはつまり、自分は何も持っていないと知っている人である。そこから神様に求めていくとき、神の霊が注がれるのである。
また、悲しむ人は幸いとある。悲しみそのものは慰めとはならない。しかし、そこに神の力が注がれるから幸いなのである。人にはわかってもらえないときでも、神様はわかってくださる。悲しみに沈んでいるとき、神様は来てくださる。だから幸いなのである。
義に飢え渇く人も幸いとある。自分にも回りにも、どこにも本当の正義や真実はない。しかし、だからといってあきらめるのではなく、どこまでも、ただ神に求めていく心。そこに神は来てくださる。強く求める人は大きく満たされる。飢え渇くように求めるだけで、正しいように見なされ、正義に渇く心が満たされていくのである。
求めたら与えられる神の愛と力。弱さを知り、罪を知り、どこまでも神に求め続けていきたい。
明日から森本麻依子さんが県外に就職のため、徳島を離れます。この北島集会でも共に森本さんの新しい出発を祈り、讃美しました。
「主が建ててくださるのでなければ、その労苦はむなしい」と言われている。なぜ、人間の力や努力だけですることは空しいのか。それは目に見える外側だけで、人間の一番深いところにある魂にまで本当の清いものが到達していかないからだ。外側だけ、表面だけになってしまう。それはまた、人の魂に平安を与えない。救いに関係していない。聖書は眼に見えないものに中心を置く。眼に見えない神様がすべての基本。清め、愛から見る。究極的に、神様抜きでする労苦が空しいのはそこにある。いつも主がわたしたちの働きのところにいて、主が為させてくださるように。
新約では、求める者、また心の貧しい者には「神の国」をくださるとはっきり言っている。自分というものが固く残っているとできないが、心の貧しいものには神の国を、その魂の内に建てあげてくださる。眼に見えるものが何もなくなってもそれは残る。十字架上でさえ主は盗賊の魂にパラダイスという神の国を建てあげられた。
主が守ってくださっているときは、いかなる敵意からも守られる。憎しみや怒りが出てくるのは主が共にいないから。わたしたちも主が守ってくださらねばすぐ悪い誘惑に負けてしまう。信仰のために、敵意の只中で死んだステパノの心は平安に満たされていた。主が守ったからである。
主が眠りをお与えになる。眠っている間も、よきものを与える。だから主に信頼する。
胎の実である子供は主からの賜物。だが子供のいない人にも与えられる(ヨハネ15:5ーまことのぶどうの木の)実。それはイエス・キリストの真実さ、また愛。
キリストに繋がっていないと、思っている事と言っている事が異なってくる。真実とは、いつも同じ姿勢でおられること。差別なく、まわりを平等に愛し、どんな時代にあっても変らない主イエスの実。眼には見えないが、いつまでたっても壊れない。
・内村鑑三所感集から。人生の真実を書けるようになるのは、その人がそれだけ苦しんだからである。生まれつきや、本を多く読んだからではない。(読書と苦痛)
・植物… あやめの仲間ーシャガ (学名─イリス・ジャポニカ この意味は、「日本のあやめ」 )ウンナンオウバイ ヒサカキ(メジロもこの花の蜜をこのむ) クサイチゴ ・棘がある(カジイチゴ、ナガバモミジイチゴの花とのちがいなど)
参加 伊丹 逢坂 樫原 桜井 辻 筒井 吉村2
エレミヤがエジプトに連行される箇所。前に、ヨハナンは「エレミヤの預言は嘘だ。エレミヤは偽預言者だ。」と言った。当時、エレミヤは偽預言者を糾弾していたのに。真理を語ったからといって重んじられるとは限らない。イエス様は神様を一番重んじられたのに、神を汚しているといって、死刑にされたのと似ている。世論は大きく間違うことがある。ヨハナンは「神はあなたを遣わしていない。主がエジプトに行ってはいけないとは、言っていない。」という。ヨハナンと民は主の声に従わなかった。四十二章ではヨハナンはエレミヤに神の声を聴いてくださいと願った。(神の声が)良くても悪くても主の声に従うと言ったのに、エレミヤが真剣に十日も祈って神の言葉を受け、伝えたが、聞きいれなかった。(43:4)
人間は真実に従わないで人間的感情を第一とするという強い罪がある。自分の気持ち、考えに合った意見だけを聞くところがある。今日の私たちにとっても、聖書を読みながらも自分に合った都合のよい所だけを聞こうとする。魂が砕かれないと、このような心がある。語ったり、文に書いたりする時でも、
私たちは心の底から神様に従おうと思っているのか…が問われる。
結局、ヨハナンをはじめとする人々はエジプトに下って行くことになった。エレミヤとバルクも含まれていた。エレミヤは、神に背く集団の中にいて、どこまでも神のことばを伝えようとした。
イエスは、最も重い罪を犯した人と一緒に、十字架にまで進んで行かれた。エレミヤはそのような主イエスに似ている。
○三月十八日(水)北島夕拝エズラ書(ラテン語)四・22~52
イスラエルの民に降りかかった、大変な苦しみ。神様はなぜ、そのようなことをなさるのか。苦しみが大きいとき、神の祝福もわからなくなる。このようなことは、個人としても、民族としてもおこることである。しかし、神はいないのではない。わたしたちも、苦しいことがあるときに神はいないというのではなく、神はこのことを通して、何をなさろうとしているのか、ということを考えていくべきである。
そして、ここに天使の答えがあった。苦しみの原因。それは悪の問題である。この世界に悪の種はすでにたくさんまかれている。しかし、その悪の種は、時がきたら脱穀が始まる。悪いものが落とされるのである。これは、世の終わりはいつくるのか、という問いかけでもある。なぜこんな苦しみに遭うのか。。時が来たらそれはわかるのである。
神は苦しみによって人の魂の脱穀をしようとされる。時が来るまでは、まるであたかも、神がいないようにさえ見える。しかし、時が満ちたら、必ず、悪はさばかれる。苦しいときは、神の時が満ちるまでなのである。
そして、神の時は、遅れることはない。この世の出来事は、神の時が満ちているひとつの段階である。苦しいことはなぜ起こるのか。それは神の鍛錬である。耐え忍ぶ鍛錬である。そして、それは神の時が満ちるまでである。祈っても聞かれないことも、祈りが満ちるまでである。神は祈りを聞いてくださる
。神のご計画は必ずなる。祈ったことは、必ず聞いてくださるのである。生きているときにきかれるかどうかもわからないけれど、しかし、神のご計画はなされ、祈りは何らかの形で必ず聞かれるのである
この詩は他の詩と違っている。王に対する賛美の詩で、王妃となる人の事も一緒に歌っている。12節の美しいという言葉は、心に湧き出るフレッシュで生き生きとした良いという言葉。ここに出てくる王はどんな人より美しく優雅に語る。永遠に神の祝福を受ける。王は戦いの側面もあり、悪との戦い、敵との戦いで非常に力を持っている。「真実と謙虚」という一番大事なものをもって進む。その王は正義を愛し悪を憎む。そして王座は神からのもの。8節で神はその王に油を注がれた。この詩はその時代の現実に存在する王の結婚に触発されて作った詩だがはるか先の事を暗示している内容。たくさんの女性が導かれて王の宮殿に行くとあり、これは王の花嫁の事で、キリスト者のこと。花婿なるキリストのところへ導かれていく。現実の王の奥に見える真の王の姿が歌われている。この王は永遠なので、「諸国の民は世々限りなく王に感謝する」と最後に結ばれている。主イエス様の美しさ神の愛の霊的な美しさを詩人は見ていた。
主イエスが王であるという。しかし、現実には今、まさに捕らえられ、裁判の場に出され、どこから見ても王とは見えない。しかし、このことが、ここで問題となっている。会衆は主イエスの罪として三つのことを訴えた。そのひとつに「この男は民衆を惑わし」とある。これはしかし、主イエスは民衆を間違った方向から真理の方向へと導き流れを変えようとしたことを示している。つぎに「税を納めるのを禁じ」とある。主イエスは税を払うのを禁じたことはない。これは根も葉もない偽りである。そして最後に「自分が王たるメシアだと言った」とある。そして、このことをピラトが再度確認した。
目の前にいる、弱り果てた姿の主イエスに向かって「王なのか」とピラトは聞いた。地位の高い総督であるピラトが、、わざわざ、そのように聞いたところに、どのような姿になっても、主イエスには権威があったことがわかる。主イエスが王であることは、他の箇所でも示されている。マルコ十四章では、「お前はほむべきかたの子、メシアなのか」という質問に対して、主イエスは「そうです」と答えられたとあり、また、ヨハネ十八章での「お前がユダヤ人の王なのか」「真理とは何か」とピラトが聞いたことも、主イエスが王であることを示している。
また、兵士たちがあざけりながら、ユダヤ人の王と侮辱した記事もあり、何度も主イエスは「王」である、と言うことが出てくる。そして、主イエスの罪状書きにはギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の三カ国語で「ユダヤ人の王」と書かれていた。そして、実際に、それらの国に主イエスの御支配が広がっていった。その御支配が、今にまで続いているのである。二千年たっても変わることのない御支配をなされている主イエスの御支配。主イエスこそが王であった。主イエスが捕らえられているという、最も悲惨なときでさえも、主イエスの王権が啓示されているのであった。
よろこびの叫びを高く歌うとあり、神様から心を強く動かされた人が書いた詩で、力の限り歌わずにはいられない心持ち。出エジプトの時、様々な苦難があったが、メリバの水のほとりで生きるか死ぬかという試練を受けて試された。11節に「口を広く開けよ。わたしはそれを満たそう」とあり困難な時、心の口を広く開いて神に求めなさい、そうすれば与えられる。一貫して神に口を広く開ける。苦難ばかり続くように見え、なかなか求めても与えられなく、疲れ果ててしまう事があるが、そこを通って最終的に与えられる。人間は奪い合う性質があるが、神は満たそうとしてくださる。人間に求めても得られず不満が生じるので神から満たしていただく事が必要。岩から蜜を滴らせるとあり、絶対に出てこないというところから神は蜜を出す事ができる。それは病気のただ中からでも良いものが出、岩のような状態に置かれても神の慰めが蜜になって心に滴り落ちる。身近な植物や青空からでも蜜がもたらされる。求めるところに蜜は出なくても、信仰を持っていたら天の神ご自身から蜜が出る。その蜜の養いがあればこそよろこび歌う事ができる。乳と蜜の流れる約束の地とは究極的な恵みと豊かさのシンボルでそれは私たちにとっては神の国の事である。
エリアは火のような預言者と表現されている。火のように燃える情熱は、人間の憎しみなど悪い意味で燃えることもあるが、ここでは神様の火、燃えるような正義の火が正しいものを指し示し、たいまつのように燃えていた。わたしたちの心も燃えるものがないと冷えていく。魂が燃えるのは、この世的なもので燃えるのではない。神の火が闇を指し示す、そのような燃えかたがある。神の言葉自身、本来燃えているものだ。それを受取った人が燃える。内村鑑三、新渡戸稲造など札幌農学校の多くの若者が、クラ─ク博士から聖なる点火を受けた。
消えることのない神の言葉。死者までよみがえらせたエリアの力は、人間的な情熱でなくて、神から来た。神の言葉がどれくらい人に根付くかによって、燃え方が変ってくる。人間の言葉と神の言葉がある。日本人は殆んど気付いていないが、永遠に燃える神の言葉の強力さ。
エリアの根元には、神から来る火のような力があった。間違った王や、正しいことからあまりにもかけ離れた者たちに裁きを与えた。エリアは死ぬ時も火に包まれて天にあげられた唯一の人。死んで終りではなかったのである。
新約になり、このような火のような神の言葉が、求めたら与えられるようになった。使徒言行録2・1~には、祈っていたら炎のような舌となって、神の言葉が、聖なる霊がくだったとある。どんな時代でも燃やされた人がいた。わたしたちも求めたら与えられる。心燃やす神の言葉。
・ 内村鑑三所感集から。キリストが永遠に燃え輝いている。キリスト、それは火のような言葉でもある。
○三月二四日(火) 移動夕拝 いのちのさと 黙示録一章 一三名
黙示録の最初にまずキリストがどういうお方であるかという事が書いてある。「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださった方に・・」イエス・キリストが私たちを愛して下さったという事がすべてを包んでいる。人間からは愛して貰えなかった人でもキリストが愛して下さる。ご自分が死んでまで、人々の心の奥の根本問題の罪から解放してくださった。キリスト・イエスの支配してくださる王国の民である私たちが悪の力を受けないで支配する力を下さった。キリストにつく者はキリストと同じ力を与えられる。そのお方は時が来たら、雲に乗って(力のシンボル)神の力を持って来る。悔い改めない人は、再び来るキリストによって裁かれる。アルファでありオメガであり、今おられ、かつておられるのは神の事であり、イエス・キリストは永遠の昔から神と同時に存在している。そのキリストは今も私たちを愛し、求めに応じて下さる。この世のあらゆる問題の解決の為に、やがて来られる。黙示録の啓示は、迫害され、艱難辛苦の中忍耐をし、パトモス島にいたとき、主の日に祈りを深めている時、啓示を受けた。ヨハネの示されたキリストは力強い声を持ち、金の帯をしていて、髪は雪のように白く、炎のような目、顔は太陽のように輝いているという、汚れがなく、悪を見つめ見抜き燃やし、光で照らし剣で裁く多様な性質を持つ完全なお姿であった。一度は死んだが世々限りなく生きて今も生きているキリスト。そのキリストに私たちは従っていく。ヨハネの黙示録はそのイエス・キリストから啓示を受けて書かれた内容。
二千年前の、霊的にいちばん生き生きとしていたキリスト者の心の世界、またその人間関係のあり方を、パウロの手紙によってうかがい知ることができる。
クリスチャンの交わりは、人間的な感情とはちがう。テサロニケの信徒に会いたいというのも神様への繋がりを深めたいから。互いに信仰がより強く、純粋になるように補い合いたいからである。祈りを込めてテモテを派遣したのも単なる交流のためではない。 苦難や動揺によって信仰から離れてしまう人もいる。だから出かけていく。苦しいことがあってもそれに打ち倒されないようにするのが交流の務めである。
だがテモテが行くことによって、信徒たちが苦難の中で、しっかりと主に結ばれていることがわかった。真実に、愛と信仰によって歩んでいるということを知り、自分にも新しい命が湧いてくると言っている。深い相互の関係。霊的なものを他者に与えたいと昼も夜も祈っているパウロにはこれ以上の喜びはない。人間の愛はむりやり奪おうとするが、主にある愛は、神の賜物を与えあいたいと願う。わたしたちも、聖書に触れてこのような限りなく高い人間関係を知らされる。
新聞、雑誌などは、こんなふうな喜びは知らない。福音書そのものが喜びだ。マタイ二章10に、学者たちはその星を見て喜びにあふれた(かれらは大きな喜びを非常に喜んだー原文の直訳)とあり、キリストへの道を示されて非常に喜んだことが書かれている。パウロは何としてもその喜びを伝えたかった。人が神様に心を向ける喜び、それによって自分も喜ぶ。互いに反射しあう。祈り祈られる。こういう思いを起させるのもキリストが働いてくださるからである。キリストが働いてくださると生き生きとした人間関係ができる。
ピラトの尋問を受けた時に、主イエスは何も答えなかったということが書いてあるが、マタイの福音書では「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と、ピラトは非常に不思議に思ったと書いてある。旧約聖書に書かれている事がここに実現している。イザヤ書五三章七節。「彼は口を開かなかった」。この預言は、イエスが現れるより五五〇年ほども前だとされているなのに、まったくイエスの事をそのままに預言している。ヘロデは自分の兵士達と一緒に侮辱したり嘲り、派手な服を着せて送り返した。バラバを赦すかイエスを赦すかという民衆への問いに皆がバラバ(暴動・殺人罪)を選んだ。イエスは殺人者よりもさらに下に踏みつけられた。人にさげすまれ、踏みつけられ嘲られ、そういうところをただ一人主イエスは通っていかれた。イザヤ書九章五節では「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君。」とあり、主イエスは権威ある王として君臨するメシアとされている。しかし同じイザヤ書に嘲られて悪人として葬られるという側面も書かれている。無数の人の罪を背負って死ぬ。その道を行くという固い決意を与えられて歩んでいる姿。そんな中でも意外な人がイエスの力を理解した。ここではピラト。指導者や民衆が寄ってたかって言う中「この人は死刑に当たることは何もしていない。何の悪いこともない。イエスは罪がない。」と重ねて言った。また、十字架の場面ではローマの百人隊長が「本当にこの人は正しい人だった」と受け取った。この後信仰が地中海を取り巻く広大なローマ帝国に浸透していったということの象徴的な出来事。イエスを信じるものはイエスと一つになる。イエスに起こったことはわたし達にも起こる。わたし達も福音のために苦しい目に遭うことがあっても高いところに引き上げてくださる。
主を信じ、畏れ敬う人は祝福される。働いたことがみな豊かな食物や必要なものとなる。現代の霊的な意味では主イエスが言われたように、神の言葉が霊的なパン(マタイ四章4)であり、イエス様ご自身が命のパン(ヨハネ六章51)である。わたしたちが神様のために何かをするとき、生きたイエス様がわたしたちの中に入ってくださる。だがそれをどういう気持でするかは大切なことである。金、地位を獲得するためや、まわりに認めてもらうためにする心には平安がない。だが利得に関係なく、神様のためにすると霊的食物が与えられていく。
神様の祝福はまわりにも流れる。ぶどうの木は豊かさの象徴。主イエスにつながっていたら実を結ぶ。
エルサレムに、そして皆に祝福が及ぶように。いかに幸いなことか(アシュレー!)、主の道を行く人は苦しみの中にも幸いがある。
主を信じ、畏れ敬う人は祝福される。働いたことがみな豊かな食物や必要なものとなる。霊的な意味では主イエスが言われたように、神の言葉が霊的なパン(マタイ四章4)であり、イエス様ご自身が命のパン(ヨハネ六章51)である。わたしたちが神様のために何かをするとき、生きたイエス様がわたしたちの中に入ってくださる。だがそれをどういう気持でするかは大切なことである。金、地位を獲得するためや、まわりに認めてもらうためにする心には平安がない。だが利得に関係なく、神様のためにすると霊的食物が与えられていく。
神様の祝福はまわりにも流れる。ぶどうの木は豊かさの象徴。主イエスにつながっていたら実を結ぶ。
エルサレムに、そして皆に祝福が及ぶように。いかに幸いなことか(アシュレー!)、主の道を行く人は苦しみの中にも幸いがある.
乳と密の流れる土地を与えるという約束。それは神様の祝福を表わしている。霊的に言えば、神様の言葉は今でもわたしたちにとって霊的な栄養食であり蜜のようにスイート。この世は砂漠のようなものだが、神の国にあるもの、また神の言葉は心にいちばん深くぴったり入るという意味合いがある。
神様は、民のかたくなさのために一緒に行かない、行けばそのかたくなさのために民を滅ぼしてしまうだろうと言われた。悲しんだ民は身につけた飾りをみな外したと書かれている。神が共に行ってくれないという苦しい体験。だがそれを経て、自分の心にある悪い飾りのようなものを初めて捨てることができる。苦しいことを通って神の国に行くのだ。
臨在の幕屋で、神はモーセと顔と顔を合わせ友のように話された。神様の顔を見たら滅ぼされると言われていた旧約ではめずらしい。神とモーセの緊密な関係。これが新約時代になり、求めたらイエス様がわたしたちの内にも来てくださることの予告であった。
モーセは祈った。「もしあなたが行ってくださらないのなら、(約束の地に)上らせないでください」と。神が共に行ってくださらなければどこにも行かない、また正しい道を行けない。自分達だけでは必ず間違った方向に行ってしまう。わたしたちの毎日の生活も同じ。モーセが祈って初めてこの願いが聞かれた。わたしたちも人のために祈ることができる。神様のまなざしのなかに恵みを見いだすことができる。
神の栄光とは、神様の素晴らしい働き。悪いことばかりの世の中で、この栄光がわかったら益々神への確信が強まる。モーセが願ったのは栄光を示してくださいということだけであったが、答えは「わたしの善い賜を通らせる」ことであり、「主という名を宣言すること」であった。目覚めていたら神様が通らせるよい賜がわかる。目覚めていなければよい賜が通って行ってもわからない。「ヤハウエ(主)」という名(本質)は、ヘブル語の、ハーヤー(存在する)という動詞に由来するとされ、永遠の存在者であるという意味を持っている。これがわかるだけでも神の栄光が伝わって来る。
「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとするものを憐れむ」とある。人間的な栄光なら悪人でもよくわかる。だが神様の栄光がわかるのは憐れみを受けた者だけ、それは一方的な恵みなのだと言おうとしている。
神様を見尽すことはできない。しかし神様が働いたそのあとを人間の一生のうちに、また歴史の中に見ることができる。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y)
○私(吉村 孝雄)が偶数月の第二日曜日に出向いて聖書講話を担当している、神戸市元町駅前の私学会館での集会と、高槻市の那須宅での集会は、第三日曜日(一九日)になります。四月は、第二日曜日がイースターとなったからです。
○森本 麻依子さんは、大阪府吹田市に就職のため移りました。なれない仕事で負担を感じることも多いと思いますが、主の守りを祈ります。
○四月の移動夕拝は、28日(火)吉野川市鴨島町の中川宅です。
○ダンテの神曲の読書会
今月は、第三日曜日に阪神の集会に私が出向くので、読書会はお休みです。五月も第三日曜日が四国集会となっていますので、五月の読書会は、第二日曜日の五月一〇日に行います。
○那須 容平兄・小澤 有加姉 結婚式
三月二九日(日)の午後に行われたお二人の結婚式では、親族、友人、那須さんの高校の生徒さんたちも加わり一五〇人ほどが参加されました。式では、二十分ほど聖書からのメッセージの時間が設定され、聖書の話しは初めてであった参加者が大部分であったと思われますが、主が働いて下さったことを信じて感謝です。
「主が赦して下さったように、あなた方も互いに赦しあいなさい。…(神の)愛を着なさい。この愛こそは、すべてを完全に結びつけるきずなである」という、コロサイ書三章からの言葉によって、十字架による赦しの愛、神の愛を深く受けることこそがあたらしい生活の基となることを語らせていただきました。
混乱と分裂に悩まされている現代のこの世においても、それらを真に結びつけるものがあるというこのみ言葉は、参列者すべてに対しても語られている神からのメッセージだと言えます。 式後には五十分ほどをとっての、結婚した二人と参加者との自由な交流の時間、その後の感謝祝会では、参加者がグループごとにそれぞれ前に出て、その代表者が何らかのコメントをして参加者のほとんどがよく顔が見えるようになされていたこと、 プロジェクターを用いて、幼いときからの二人のこと、両親・親族や友人たちとの関わりが多くの写真を用いて映し出され、お二人をとりまく人たちがどういう人たちであるか、またどんな思いをもって参加されているか、それらの人たちへのお二人の思いもまたよく分かるようにこまやかな工夫がなされていました。
主がともにいて下さってお二人の前途が祝福され、導かれ、御国のために働くことができますようにと祈ります。
何事をも思いわずらうな。
ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、
感謝してなんじらの求めを神に告げよ。
(ピリピ書四・6)
イチジクの葉が出始めたら夏が来るのが近いと言うことは身近なことで、誰でもわかることであった。このような身近な出来事を通して、主イエスは世の終わりという、極めて重要なことを示された。身近なごく当たり前のことが、深い真理を暗示している。それは、霊的な目が閉じられていると、わからない。主イエスは他の箇所でも、身近な自然から真理を示された。空の鳥、野の花を注意深く見なさい、といわれ、そこに神の愛、無限の神のみ旨が見えることを示している。
身近な自然も、また世界の歴史も、神のみ旨を指し示している。マイナスにみえることでさえも、神の御支配を表しておりのである。自然界には、不気味と感じる生き物もいる。それもまた、この世のさまざまな、闇、悪などの象徴でもある。このようには確かに、不気味なこと、闇の力が確かにある。だから警戒しなければならない。しかし、恐れることはない。神はすでに勝利して下さっている。マイナスにみえることも、神のみ旨、勝利の力の象徴である。
「神の国は近づいた。」これは主イエスの伝道の初めから記されている。天の国、神の御支配はすぐ近くにある。だから、闇があっても、何があっても、神に近づいていくことが大事である。近づけば与えられるのである。
神のみ旨は変わらない。いかなることがおころうと、キリストの心はきえない。その変わらない神様のご意志、を信頼していく。それが、キリスト者の恵みである。
・吉村兄は神戸、高槻方面への伝道のため録音によるメッセージでした。
エレミヤは祈りの中で神に「あなたの御力の及ばない事は何一つありません。」と言った。神はこれに答え、「わたしの力の及ばない事が何一つあるだろうか」と言われた。神は万能である。時が来たら悪そのものも滅ぼされる。この地がたとえ滅びても、神は新しい天と地を創造される。病気、死、地球の滅び、苦しみ、災害などこの神に解決のつかない問題はない。私達もこの一つの事を信じて歩むなら神の力がそこに働く。万能の神の真実な導きがあるのに繰り返し反抗し背いていたら、罰があるのは当然である。神は万能だから周辺の国をも動員してイスラエルの国に罰を与えた。しかし裁きだけで決して終わらない。厳しい裁きもあるが、イスラエルが良い事をした訳ではないのに再び遠い異国のバビロンから祖国に帰還させて下さると預言されている。そして「一つの心を与え、一つの道を与える。彼らに永遠の契約を与える」と神は言われた。神が一方的に与える。神は愛なので与える事を喜びとしている。裁きや罰があるのは、その苦しみを通って神を分からせる為である。
タイトルは「個人的な挨拶」となっているが、決してなんなる挨拶でなく、わたしたちにとっても大事な意味がある。
手紙はコリントで書かれ、ローマに届けられた。この重要な手紙を運んだのはパウロの働きを助けまたパウロが信頼していたフェべという女性。パウロは、どんなことをしてでも彼女を助けてください、と言っている。他にも主だった働きをした女性の名がある。神様は女性にも平等に、主にある働きを与えられた。プリスカ(妻)とアキラは夫婦。またパウロが母とまで思うほどの女性のことも記されている。福音を伝えるという共同の目的のため、どのような主にある深い愛があったか。まず神ご自身がパウロを守られたが、具体的な人も遣わしてパウロを支え守った。
「主に結ばれて」「主にあって」「主のために」など訳し方は異っているが、原語はみな「エン キューリオー」。言い換えればそれは「主の霊の内にあって」すること。人間的な考えや勇気でなく、主にあって為すことに深い意味がある。主にあって愛する、ともある。人間だけでなく自然や音楽なども、自分が主の霊の内にあってするのでなくば、単に人間的な好き嫌いの感情になり、すぐまちがった方向へいってしまう。
パウロは協力者となった人に「よろしく」と言っている。よろしく、とは一人一人を思い出していることだが、遠くの人を思い出す時も人間的な感情によるものでなく、主にあって、主と共に思い出す。人間関係において、また働くことにおいて、わたしたちにも大切な事がこんなところにも示されている。
ここに言われている教会とは、エクレシアのこと。「この世から呼び出された人の集まり」である。キリストの福音を伝えるために命がけでパウロを支えた人たちもみな、この世から呼び出され人である。
その人たちのなかには皇帝の家に属する地位の高い人たちもいた。キリスト教はそのときすでに、網の目のように中枢部の支配階級の中にも深く浸透していたのである。当時、福音を伝えるためにパウロを支え、命がけで働いた人々のことが当事者パウロが書き残したものによって浮かび上がってくる。
・集会後、集会だよりを折ったり、十二月号の「いのちの水」の発送準備をしました。
エレミヤは獄舎に囚われていた。神の働きをしたのにどうして捕らえられなければならないのか。現代も「世の中は悪い事がいっぱいあるのにどうして神がいるのか」と言う人がいる。信じない人は奇蹟を見ても信じない。個人的に神が語りかけたら周囲がどんな状況であっても信じる。正しい人が殺されようとも、神がいないということでなく、そこにも深い意味があり、神の御計画がある。ここで言われた事は「神は万物の創造者」という事。そして呼べば答えて下さる。復活や再臨の事は勉強しても分からない。本当の真理は求めるところに知らされる。イスラエルへの裁きは厳しいが、癒しと回復をもたらしてまことの平和を豊かに与えるとある。イスラエルの民が神に対して犯したすべての罪を清め、罪を赦すと書かれてあり、その恵みは大きいので世界の民が驚嘆する。エレミヤは獄舎にありながら、ダビデの血筋に正義の若枝(キリスト)が出て、彼(キリスト)は公平と正義をもってこの国を治めると啓示を受けた。都の名は「主は我らの救い」というようになると、豊かな救いで溢れる事が神によって示された。救いの約束、契約は決して変わらない。強力な希望をエレミヤは神から受け取った。
☆参加者全員が各自の名前と住所(郡、市、町名程度)を初めにいいます。全盲の人四名と強度の弱視の方一名には、参加者名簿が見えない上に、だれが参加しているか分からないためです。)
○第1部 子供とともに 司会 T.K・「もろびとこぞりて」新聖歌76番 、 祈り
・ミニ劇 「風のトリーピス」T.T、K.K、N.Y、M.M、T.T、K.M、T.E(歌の応援)
・いのちのさと作業所の人たちによる讃美
①たき火 ②子どもさんびか77番「お星が光るぴかぴか」
③子どもさんびか119番「主に従うことは」
○第2部 み言葉に聞く 司会 I.E
讃美 「生けるものすべて」新聖歌73番
聖書朗読 ルカ福音書2章1節~12節
祈り
聖書講話 「明けの明星としてのイエス」 Y.T
祈り (講話者)
○第3部 讃美のひととき 司会 N.H
・オルガン演奏 「鳥の歌」 新聖歌94 T.Y
・デュエット 「さやかに星はきらめき」讃美歌第2編219 N.Y、S.M
・ギター讃美 「ナルドの香油」讃美歌21-567 S.H、T.E
・手話讃美「驚くばかりの」1節のみ全体で。 手話の指導 O.E
「主イエス神の愛」、「わが魂の羊飼い」リビングプレイズ143 ・コーラス
「世の人忘るなクリスマスは」 新聖歌74 、「ああベツレヘムよ」新聖歌84
・「きよしこの夜」 新聖歌77番
○第4部 感話会 (県内一人3分、県外5分以内) 司会 T.N
N.Y、K.M、K.I、K.T、K.H、S.H、S.Y、M.D、 N.Y、O.Y
(*)このあと、写真撮影があります。
○第5部 食事と交わりタイム 司会 N.H
・今年もクリスマス特別集会には、初参加の人、久しぶりの人、また大阪からN.Y兄、O.Y姉、そしてアメリカから帰省したM.D兄なども参加され、み言葉の学びや讃美など子供たちも共に主にある交流を与えられて感謝。参加者74名。
救いとは何かということが3章から5章に書いてある。それがローマ信徒への手紙の中心である。キリスト教の信仰とはどういうことなのか、何故十字架がシンボルになったのか。福音書は、主イエスの言行録であるから、キリストの死の意味は少ししか書かれていない。キリストが十字架によって死なれたことの意味、ここでは詳しく書いてある。このようにわたしたちは信仰によって義とされたから平和を得ている。罪とは、神様に逆らって人間中心になってしまう事。キリストが私たちの罪を背負って死んでくださった。その為に私達は正しいとされた。だから神様との間に平和を得ている。それは神様とつながりができたと言うこと。人間の根本的な平和が信仰によって与えられる。あらゆる方法を持ってしてもできないことが、信仰によってできるようになる。将来にわたって、神様の栄光(あらゆる善きもの)がもらえる。私たちのような汚れたものでも、神の栄光を共有させてもらえ、神様のもつあらゆる善き物をいただける希望がある。信仰と希望と、神様の愛がここに入っている。「艱難をも喜ぶ」と書いている。日本語では、「誇る」という言葉は、自慢のニュアンスがあるので、他の訳では「喜ぶ」となっている。神の栄光に預かる希望を喜んでいる。練達というのは、信仰を持った上で絶えず前向きに神様を待ち望んでいけば、性格に刻み込まれていくという事。苦しいところを通って変えられる。そういう希望が性格に刻み込まれると、私たちを欺くことがない。パウロ自身も厳しいところを通り過ぎてきた。信仰告白と言える。
手紙のいちばん最後のところ。中でも17節からは最後の勧めである。パウロは、「不和やつまずきもたらす人々を警戒しなさい」と言っている。キリストに仕えないで自分の腹に仕えている人、とは自分中心の人のこと。そこから分裂が起る。自分中心からは、本当に愛し合うことと逆のことが起って来る。そういう人は言葉が上手で、素朴な人々をあざむいてしまう、とある。そこに分裂が生じる。わたしたちも気をつけなければならない。何かを言うその一言で、聞いた人に分裂が起るか、愛が増えるか。それはわかることである。そのようなことはたとえ聞いたとしても、聞きたくないと言わねばならない。イエスに仕えないで自分に仕える者となってしまってはいけない。
ここで言う「従順(ヒュパコエー)」とは、「聞く」という言葉に接頭語が付いた言葉で、「神に聞き従うこと」の意。自分の欲望に聞き従うのでなく、また分裂をもたらす人間の声に聴き従うのでなく、神の声に聴き従うのである。キリストの集会も神の声を聴くためにある。「善にはさとく、悪には疎く」・・よいことや何か美しいことには直ぐに反応し、よくないことは退けねばならない。「平和(エイレーネー)」の根元は神にある。神様やイエス・キリストが内に入ってくださると自然に平和になるし、争いを好まなくなる。
キリストの力が増え広がろうとするとき、必ずサタンが入って来ようとする。しかしサタンの力も死の力も必ず打ち砕かれていく。そういう驚くべき確信が旧約、創世記の時代から与えられている。
「恵みと平和」の恵みとは、罪の赦しのこと。心の罪がいつも赦されてあるようにとのパウロの願い。それがパウロの念頭にいつもあった。わたしたちも、これがあれば他のものはいらない。
・今年最後の水曜集会。二〇〇六年九月から始まった水曜集会のローマ書の学びが今日で終った。香川県からSさん参加。
クリスマスイブの夜、今年も集会場近辺でクリスマスの讃美をしました。はじめに集会場で讃美し祈って出かけました。今年は21名の参加でしたが、特にキャロリングは初めてというかたが六名、そのうちの二名は子どもで、神様の祝福を感じました。寒い夜で途中で弱い雨も少し降りましたが、それでもみんなで心を込めて、元気に讃美しました。夜風に乗ってこの讃美が、聞く人の心に届きますようにと祈りました。集会場に帰り、みんなで食事をして良き交わりの時をも与えられて感謝でした。
○十二月二十八日(日)主日礼拝 ルカ二十一・34~38 30名
世の終わり。そのときには、様々な混乱、苦しみが生じるとある。これは、ヨハネの黙示録にも記されている。「全世界にくる試練の時にあなたを守ろう」(ヨハネ黙示録三・10)「獣は聖なる者たちと戦い、これにうちかつことが許され…」(ヨハネ黙示録十三・7)とある。世の終わりは混乱と苦しみの中に来る。
そのとき、どうあるべきなのか。「心が鈍くならないように」している必要がある。これは、原語では「心が重くなる」という意味があり、新改訳では「心が沈み込む」と訳されている。一時しのぎのこの世の楽しみは、過ぎ去ればまた、心が重くなる。心の中の罪。鉛のように重く、どのようにしても、取り去ることはできない。しかし、主イエスの十字架を信じるとき、その重荷は軽くなるのである。
世の終わりに人はキリストの前に立つ。世の終わりは、混乱と苦しみがあるが、キリストが来てくださる時なのである。大いなる闇の中に、光としてのキリストが来てくださる。創世記から示されているように、闇の中に光があるのである。
だから、目を覚まして祈りなさい、と言われている。祈らなければ、目を覚ましていることはできない。祈ることを知らない人は、目が開かれない。どんなにこの世の栄誉を受けても、魂の目は開かれないのである。礼拝、集会も魂の目を覚まし、祈るためにある。共にあつまり、礼拝することを怠れば、心は眠ってしまう。礼拝よりも他のことを優先していくと、心の目は閉じられていく。讃美も祈りである。讃美によって心の目を覚ますことになっていく。
主イエスは、聖書の中で一番大切な教えは神を愛することであると言われた。神を愛し、主イエスを愛するとき、魂の目はいつも覚まされ、祈ることができる。神への愛がないと、目を覚ましていることができなくなる。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、そのときを知らないのだから。」(マタイ二十五・13)
・今年最後の主日礼拝でした。感話のときには、今年一年を振り返っての感話も話されました。主が、それぞれの人に働いてくださっていることを知らされ感謝でした。
○読書会 …十二月二十八日(日)礼拝終了後の午後から、ダンテの神曲・煉獄篇の第十三歌を学びました。妬みの罪の清め、妬みの心は鉛色の心。 かれらは煉獄において、妬みと逆の心である神の愛によって訓練される。「 彼らにぶどう酒なし」というヨハネ福音書にある、マリアのみじかい言葉に、深い意味をこめたこと、ダンテを導くローマの大詩人、ウェルギリウスも、煉獄での道を正しく歩むには、神の光を受けなければできないことなど、まなんだ。去年の十二月から主日礼拝に参加しておられる大賀さんも、所用のため部分参加でしたが、学びに加わりました。
なお、読書会の録音を希望の方は、ふつうの(MP3対応でない)以前からのCDラジカセでも聞けるCDに録音してお送りすることができますので、吉村(孝)まで申込ください。
テキストは、いろいろありますが、一番だれにでも分かりやすい口語訳の平川祐弘訳(河出書房新社)を使っています。そのほかにも、山川丙三郎訳(岩波文庫版)、寿岳文章訳(集英社)なども併用しています。
○二〇〇九年一月一日 元旦礼拝 詩編一三九・1~10 22名
「主イエスを喜ぶことはあなたの力です」(ネヘミヤ十・8)
わたしたちが一番必要としているのが力である。悪の道に引かれていく、それは、踏みとどまる力がないことからはじまる。貧しい人を助けること、愛すること、良いとわかっていても、できない。力がないからである。どうすれば力は与えられるのか。ここでは、神を喜ぶことによって力が与えられるということが示されている。
神は、近くにいてくださり、わたしたちの心にあることをすべて知っていてくださる。そして、いつも見ていてくださる。神はこんなに近くにいてくださるのだ、という証言の詩である。心の中を見ておられる神は、良くない思いをも知っておられ、時が来れば、警告される。また、たとえば、あまりにも苦しいとき、神が近くにいてくださることを実感できないこともある。主イエスも十字架での苦しみの時、神が共にいて下さることがわからなかった。しかし、神は共にいて下さる。わからなくなっても、すぐ近くにいてくださるのである。このように共にいてくださる神であるから、わたしたちは神を喜ぶことができる。そしてそれがわたしたちの力になるのである。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ五・16)祈りがなければ、神を喜ぶことはできない。祈ることも力、感謝も力なのである。
・新しい年の初め、朝6時半より元旦礼拝が行われました。寒い朝でしたが、み言葉と讃美を持って新しい年をはじめることができ、感謝でした。
☆参加者 T.N、i、、i、K、S、T.E、O.E、O.N、S、T.K,N.H、N.T、、I、N.H、Y.T、Y.E、T.R、M、T、M.M、I.M、S、
過越祭ということが何度か書かれている。ユダヤ人が大事にしてきた、過越の記念の日に主イエスは殺された。なぜ、記念の日に主イエスが殺されることになったのか。この日はユダの裏切りという、悪の力が働くときとなった。しかし、悪の力が働くときも神の御支配の中にあることを示している。過ぎ越しについては旧約聖書に記されている。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい…家の鴨居に小羊の血を塗りなさい…」(出エジプト記十二・1~2)小羊の血を鴨居に塗ることによって神の裁きが免れた。旧約聖書の中にいけにえの捧げものをする記事はあったが、それは雄牛や雄山羊であった。「小羊」がでてきているのはここだけである。そして、記念にこの過越を覚えていくようにと示され、ずっと過越祭は守られてきた。この「小羊」が新約聖書で主イエスのこととして示されている。
「ユダの中にサタンが入った」とある。これは「ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ十三・2)とも訳されている。神様の思いから外れた思いはすべてサタンが働いている。サタンが働き、悪魔のことばを言わせ、行わせる。サタンは人間に働き、悪をなす。しかし、しかし、キリストもわたしたちの中に入ってくださる。そして、キリストが勝利してくださるのである。
主イエスが最後の食事をするとき、「都に水瓶を背負っている男性に出会う」と主イエスが言われた。そのとおりのことが起こった。過越祭で多くの人が来ている状態であったが、主イエスは先のことが見通せる力があることを示された。主イエスがロバにのってエルサレムに入ってきた、そのロバを用意するときにも、先のことを見通されていわれた記事がある。ここに、先のことを見通される神が示されている。この世のことを考えると、神などいないと思わされる。しかし、どのように、悪の支配が働いていようと、その背後で神のご計画は進んでいる。神はすべてをご存じで、悪をも用いて御支配されているのである。
ずっとイスラエルの民は過越を記念してきた。わたしたちも、神様がさまざまな災いを小羊の血、主イエスの十字架によって過ぎ越してくださった。新しい年もこのことを記念しつつ進んでいきたい。
タイトルに「医者と薬」とある。わたしたちの心が病気の苦しみに耐えて、より神に近づき、私たちの心を深めるために神様は病気を与えている。
感染性の病気は薬があれば助かる。わずかの木や草がわたしたちの内に投げ込まれたら病気がよくなることがある。しかし医者にも失敗があり、多くの薬も本質的には有毒なものであるから、適量を越えると有害な作用をするのが多い。だがどんな病気の時も、祈ることにはそうした有害なはたらきがない。その祈りから力をいただこうと思ったら、わたしたちの心もまた、神様から心を清めていただかねばならない。これがわたしたちが当然するべきことである。心の病気でも、体の病気でも、祈ることは万人に当てはまり副作用もない。寝たきりであっても、主に結び付いたら、たとえその病が治らなくとも、心の重荷が軽くなり、持ちこたえていける。イエスご自身が、心身共にわたしたちの最大の医者だ。
39章ー神様の言葉を深く研究する人について言っている。彼は、祈りをもって賛美する。賛美は一種の祈りだ。歌うことによって、賛美の言葉がどうか成就しますように、他の人にも及ぶようにと。み言葉に対する熱意は祝福される。神の言葉は永遠だから、永遠の真理と共に、彼も永遠に忘れ去られることがない。
・内村鑑三所感集から。「平穏(おだやか)にして依り頼まば力を得べし(イザヤ書30:15)」。すべての問題は、力がないことから起ってくる。本当の力を貰ったら悪いことはしない。神のみまえに静けさを保ち、神からの力を待つこと。そして神様が働いてくださるのを待つ。そこからこそ本当の力と守りとが来る。(「ルーテル特愛の聖句」)
神様がどれほど小さき者、弱き者を慈しんでおられるかをこの箇所は指し示している。この世の価値観では、能力があり有名になることが大きい者と見なされる。しかし、神様の目から見たらそれらは価値がない。神様の目には、まっすぐに神を見る者、自分を誇らない者が大きいと言われる。ここには、神を信じる弱い者や小さい者をつまずかせ、神から遠ざける者に対して驚くほどの厳しい裁きが記されている。神を信じる小さい者を、どれほど神が愛されているかの表れである。
また、たとえ、目がひとつになっても、命を受ける方がよい、とあるのは、罪であるとわかっているとき、それをそのままにしておくと神の命を受けることができなくなるということである。罪と知るとき、その罪の根源を絶ってしまわなければ、命を失う。
神を信じる小さき者、弱き者はこの世からは圧迫されたりする。しかし、神の天使が守ってくださるとある。神を信じる小さき者をどれだけ神が大事に思っているかがここにも記されている。わたしたちも、弱さを感じていても、その心で神を見上げるとき、天使は守ってくださるのである。
次に迷い出た羊のたとえが書かれている。迷い出た羊とは誰なのか。社会的に間違った道を進む人とか、問題のある人のことではない。実は人間全体が迷い出た羊なのである。神の目から見れば誰もが罪を犯し、どうにもならなくなっている。だから、キリストが必要なのである。主イエスを信じる者は迷い出たところから、見つけ出された者である。そして、そのことを神は喜ばれる。たった一人でもキリストを信じ、救いを受けるとき、神は喜んでくださるのである。キリストのために働くとき、大きなことができなくてもかまわない。たった一人のために祈り、関わっていく。そのことを神は祝福してくださるのである。
バビロンの攻撃によってエルサレムは徹底的に破壊され、ユダの人々は捕虜として連行されて行った。国は存亡の危機にあった。この時ゼデキヤは奴隷を解放すると宣言した。(申命記15:12~15に命じられているように。)
しかしバビロン軍が一時撤退したのか、攻撃が弱まると、自由の身にして去らせた奴隷を再び強制して奴隷の身分とした。安心した途端に逆戻りしてしまった。このようなことはよくあることである。重い病気の時、熱心に求道した人が、病が癒されると棄教してしまう。大戦の後クリスチャンが増えたが、生活が安定して、豊かになっていくとクリスチャンが少なくなった。聖書に出てくるノアも周囲の人たちの堕落した姿に染まず、主のみ声に従ったゆえに、箱船によって救われたのに、生活が安定すると、ぶどう酒に酔って裸になって寝て子供たちの前によくない姿をさらすという乱れを生じたとある。
また、ダビデも子供のときから、すぐれた素質と勇気があって、後に当時のサウル王のもとで並びなき武将となった。しかし、王の妬みを受けて命を狙われながらも決して仕返しをせず、主に一貫してより頼みつづけた。そして最終的に神の導きで王となった。しかし、王としての支配も安定した時、信じられない罪を犯した。
イエスの弟子たちでさえ、イエスが殺されるという時に自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、と議論したとある。これも霊的な逆戻りを示すことであった。主に向かう真剣な心を失うとき、誰でも信仰が逆戻りする。だからいつも目を醒ましていなくてはならない。絶えざる前進のためには目を覚ましていないと、信仰は停滞するか逆戻りする。心の目を開いておれば、無限に新しいものを持っておられる神さまから、聖なるものをいただける。信仰生活に年数は関係ない。今、神の声に聴いているか、今信じているか、日々すべてを新しくしてくださる神さまに聴き従うことが大切なことである。
エルサレムに礼拝にいくことがテーマになっている。この時代エルサレム周辺の人も、過越祭のときなど、はるばるエルサレムに礼拝に行っていた。
何のために礼拝に行くのか。平和をもとめ、平安を祈るために行く。この時代はエルサレムが礼拝の中心であった。そこに平和があるようにとの祈りがあった。そして、兄弟、友人、主の家のために平安を祈る。主の家に、本当の善きことがあるようにと祈る。
これは、エルサレムへ行くときのうたでもあるが、礼拝に対する姿勢でもある。神を礼拝し、平和、平安を祈るために行く。この「平和」とは原語ではシャロームであり、神様から満たされた完全な状態を表す。新約聖書にあるパウロの手紙も、この「平和があるように」という祈りをもっていたことが記されている。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ロマ書一・7)
この平和は主イエスから来る。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ一四・27)とある。
神からくる平和を礼拝の中で、祈り求めることの重要性が示されている。
新約聖書には、四つの福音書が書かれている。それぞれに特徴をもたせて神の霊によって書かれている。「福音書」とはどういう意味か。それは、ギリシャ語原文では、「よき知らせ」という意味である。それを、中国の聖書に翻訳したとき、「幸福の音信の書」という意味なので、福音書と訳され、日本語の聖書にもそのまま取り入れられたのである。
聖書は道徳的な教えだけが書かれた本ではない。人が本当の命を生きていくため、どのような状況であっても真の幸福を知るための、よき知らせが書かれている。
マルコ福音書のはじめ、まず、神の子イエス・キリスト、とある。これは、イエス・キリストが人間ではない、神と同質の性質をもつお方であることを明示している。
そして、旧約聖書の預言が成就されたことが書かれている。洗礼者であるヨハネがキリストの先駆けとして来た。これは、その五〇〇年以上も前にイザヤ書に記されていたことの実現であった。人間の罪を清めるために神の御子、イエス・キリストが来てくださった。そのことを、預言者を通して示していたのである。
神はこのように準備をされる。出来事をおこし、歴史を支配し、人を遣わして道をそなえ、人が神に出会う準備をして下さったのである。そして、わたしたちも様々な困難や出来事を通して、神に出会うように導かれている。「荒野で叫ぶものの声」は今もなお地の上に響いている。
洗礼のヨハネは、罪を清めるために、水の洗礼を授けていた。この時代、交通手段もないところで、遠い砂漠の地にユダヤ全土から人が集まってきたということでも、このヨハネの力がわかる。しかし、ヨハネの現れた目的は、罪を清める水の洗礼のためだけではない。イエス・キリストを示すために来たのである。キリストの前では奴隷と同じようなものであるとヨハネが自らを言っている。
ヨハネは水で洗礼を授けた。しかし、主イエスは聖霊による洗礼を授けて下さる。聖霊は目には見えない神の本質である。そして、この聖霊は求める者に与えて下さると約束されている。今も、わたしたちも、神と結びつき、心から求めるとき、この聖霊を受けることができるのである。
・植物の学び… リョウブ カワラタケ よく似ていて、どちらも良い香りのするヤブニッケイ(葉柄の色がみどり)クスノキ(葉柄の色が赤い)などの植物を学びました。
ろう者のY.Kさんが久しぶりに参加され、みんながそれぞれに、Tさんに自分の名前や、短い文章を手話と口話、指文字、空書などで表し、伝える練習をしました。口を大きく開けること、同じ口の形のことば―例えば、秋、柿、垣、先、足、橋、滝、鯛、灰、…等々は、どんなに口をはっきり開けて大きい声でいっても、ろう者には決して読み取れないので気をつけること、など、少しでも聴覚障害者の立場に立って表現することを教わりました。
聖書の学び。(テサロニケ五・10~11)罪を犯すと、神との間に壁ができる。人間でも善くないことをしてしまった相手にはなにか、壁がある。神に対して罪があれば、神と共にいることはできない。だから十字架が必要である。
主と共に生きることができたら、わたしたちは互いに励まし合うことができる。お互いがよくなるように向上を目指すことができる。主イエスが共にいて下されば、誰もいなくても孤独ではなく、共にいて下さるという実感がもてる。
○一月十一日(日)主日礼拝の後で、私たちの集会からも献金をしている関係で、ギデオン協会の方がその働きについてお話しがありました。(まとめと入力 K.K & E.I& H.N & E.Y)
○「野の花」の第22号ができました。今回は、北海道から沖縄まで各地方からの八十名ほどの投稿があり、B5版 80ページのものです。この文集が、主によって祝福されて用いられ、すでにキリスト教信仰を持っておられる方には、み言葉の力を知り、またさまざまの証しをとおして信仰の励ましや、交流となり、また未信仰の方には信仰の世界を知るための導きとして用いられますようにと願っています。
去年は、後から追加希望の方々には足りなくなったので、今年はだいぶ多くの部数を印刷しました。それで、知人、友人に用いたいと思われる方は、その希望の部数をお届けできます。一部送料共で二百円。
○徳島聖書キリスト集会のホームページは、S.Kさんの御愛労で、集会で発行している「いのちの水」誌、「今日のみ言葉」、文集「野の花」、文集「ともしび」、貝出久美子詩集、「福音」などが収められていますが、新たに、伊丹 悦子氏詩集「泉にゆく道」も加えられています。これらは、自由にどの部分でもコピーして伝道などに用いることができます。こうしたインターネットによる情報をも主が用いて下さいますように。
○去年十一月下旬に、鳥取での集会のあと、砂丘を歩いたときの写真を聖句入り絵はがきにしました。数種類あります。希望の方は、一枚十円でお分けすることができます。そのうちのひとつは、「今日のみ言葉」の十二月分に「砂丘とハマゴウ」というタイトルで使ったものです。
○MP3対応のポータブルCDプレーヤ
これは、病院とか、列車、バスなど移動のとき、待ち時間などのときに便利なものです。手のひらにのる丸いかたちのものです。MP3対応なので、私たちの集会で毎月制作している礼拝CDも聞くことができます。最近は電器店でもあまり見られないものですが、インターネットで安価で限定販売のものがありましたので、余分を購入してありますので、希望の方は申込してください。価格は送料共五千円です。なお、これはイヤホンとかヘッドホンで聞くものですが、自宅で聞くこともできます。その場合には、別に小型のパソコン用スピーカーを付けると大きい音で聞くことができます。そのためのスピーカーも送料ともで千円でお送りすることができますので希望の人は吉村(孝)まで申込してください。
なお、従来から紹介してきた、MP3対応 CDラジカセは自宅で聞くのには操作しやすいものです。これも近くに電器店がないとか、この機種のことがよくわからないかたには、私のほうからお送りできます。これは価格は八千円、送料千円です。
○テープからCDへの変更について
私たちの主日礼拝や夕拝の録音を聞くために、テープ録音を希望されている方々も、MP3対応 CDラジカセに多くの方が移行されています。テープはかさばるうえに、変質もするし、頭出しがなかなかで必要なところがすぐに聞けない、などの欠点があります。MP3対応 CDラジカセですとそうしたことがありませんので、テープからCDに変更したいかたも申し出てください。
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内村鑑三所感集より
静まりて主により頼む
「平穏にして依り頼まば力を得べし」 (イザヤ書三十章十五節)。 平穏にして、すなわち沈黙を守りて、依り頼むならば、すなわち自ら努めずして、神が働いて下さることを待つならば、力を得ることができる。強くなることができる。あなたの敵に勝つことができる。すなわち救われるのである。
…自分一人が、羊が狼の群中にあるかのような立場におかれたとき、わたしはただ静寂を守り、すべての救いを神より望み、神が私の砦となり、守りであり、武器であるようにすべきなのである。私は弱いけれどもかれは強い。私は主とともにあるなら、私一人は全世界よりも強い。救いは主にあり。
新希願
何人に対しても悪意を懐くことなく、万人に対して好意を表し、すべての機会を利用して善をなし、わが残余の生涯をして祝福の連続たらしめんと欲す、神よ願わくはわがこの希願を助けよ。