集会だより 2011.11  N2O.377


十月二日 主日礼拝   サムエル上十六1~13
 ダビデは、王としてだけではなく、後までイエスの先駆けといわれた重要な人物である。神は王位から、サウルを退け、ダビデを選ばれた。神が王を選んだのである。
 今は民主主義が良いとされている。しかし、民主主義には限界がある。それは、罪ある人間の集まりである民が、まちがった考えに引っ張られるとき、多数決であり多くの考えが間違えば、政治が間違っていくのである。つまり、神の英知を愛する人が王になるべきである。ここに示されているように、神が選ぶことが大事なのである。そして、モーセが民を導いたように、たった一人が、神の言葉を受けていったら、民は間違わないで進むことができるのである。
 ここに、なぜ「エッサイ」の子孫を選んだのかは書かれていない。神の選びには理由がない。み心のままに神はご計画をなされていく。サムエルはエッサイの息子のエリアブを見て、この人だと思った。しかし、神は違うといわれた。神は心を見る。神が選ばれたのは羊飼いをしていた末っ子のダビデであった。こういう人が王になる、ということは、本人も家族も想像していなかった。人間が予想もしないことを、神はなされる。神が人を選んで、油を注いでいくのである。
 神は心で人を見ておられる。心を見ること、心で見ること。その両方が必要なことなのである。いくら心で見るといっても、悪い心、闇の心でみたら、相手がどうであっても、悪く見えてしまう。心で見る、と言うときには、清められた心で見ることが前提である。そのためにキリストの命の代価が必要であった。心を清めるために、聖霊が必要なのである。
 清められた心で見ようとすると、苦しんでいる人、悪いことをした人の、背後にイエスの心が見えてくる。心をみる、ということの究極は、相手にイエスの心を見ようとすることである。 さまざまな障害や、苦しみ、その背後にイエスを見る。それは人間には難しいことであっても、聖霊が与えられるとき、すこしでもできるようにさせてくださる。パウロは「主にあって」といわれた。イエスは「わたしにとどまっていなさい」といわれた。キリストの心で見る、ということは、キリストに深く結びついてこそできることなのである。


十月三日 (月) 小羊集会 森田明子記念会 
              テサロニケ 五・411
 明子さんが召されて、すでに三年もすぎた。しかし、神様の目に見えない守りの中でこうして夏未さん(明子さんの娘さん)も守られていることを感謝である。若くして召される、ということは、偶然ではない。人間にはわからなくてもそこに神様のご計画がある。明子さんも最後に神様がわかるようになって、信仰を与えられた。そして、夏未さんは、それをバトンタッチしていった。今はわたしたちは明子さんと会うことはできない。しかし、召された方にとっても地上に残っている者にとっても同じ事がある。それは主と共にいるということである。
 主とともにいる、ということは生きていくうえでもっとも感謝なことである。主イエスは死んで復活され、その力をわたしたちにも与えてくださった。旧約聖書の時代には死後の復活についてはまだ示されていなかった。主イエスが暗い死の扉を開いて、復活という、いのちの光の世界を開いてくださったのである。
 召されるということは、地上での役目が終わったということである。人間の目から見れば、まだまだ役目があるとおもうけれど、神様のご計画がある。そしてそれは完全であり愛のご計画である。後に残る者に、そのいのちを託されたのである。
 主イエスによって聖霊が与えられ、神の光の子とさせて頂いたら、わたしたちには何が大切なことであるかがわかるようになる。そして、さまざまなサタンの攻撃があっても打ち負かされない。わたしたちには、たえず神様から引き離そうとする力が働いている。しかし、主が共にいてくださるとき、主が祈り、守り、主から離れないよいうに助けてくださる。信仰と愛、これは神様から、与えられたものである。 明子さんが三年前に召され、今、主と共におられる。地上でいるわたしたちも、同じように、共に御国にを目指して進んでいきたいと願う。

鈴木さんの話
 三年前の十月五日に妹の明子は召されました。明子の娘である夏未は今年の八月で十歳になりました。明子が召されたとき、夏未は八歳でした。神様がいつも、いろいろなお計らいをしてくださって、夏未を守ってくださっていることを感謝しています。今、明子は神様のところで安らいでいることを信じています。そして、わたしたちは天国で再び会えることを信じています。
 明子の病気がわかったのは二〇〇五年の年の初めでした。病院にいったら、もう、どうしようもない状態である、と知らされました。明子にもう何もしてあげることができない、でも、どうか明子がイエス様を信じることができますようにと、毎日祈り続けました。神様は祈りを聞いてくださり、最後に明子は神様を信じ、神様に受け容れられていることがわかりました。集会の人も明子に面会に行って祈ってくれました。明子は、みんなの祈りがうれしい、と言っていました。わたしは、明子のその言葉を忘れることができません。母親の明子がいないことで、夏未は寂しい思いもしていることと思います。しかし、このことによって、夏未に信仰という何より大切なことを残していってくれたことを感謝しています。 明子の一年目の記念会のとき、吉村さんが講話の中で、信仰を持って死ぬということは、良いものを残った人にバトンタッチしていく、そこに祝福がある、と言うことを話してくれました。神様はよいことの目的があって、明子を召されたのだと思います。そのときには悲しい出来事であっても、神様を信じていたら、新しい道を開いてくださって、祝福をくださるということを、明子のことを通して知らされました。きょうの集会で、どうかまた、夏未が、お母さんが神様の所にいるということをいっそう深く信じることができますように。また、わたしたちの母も今年は八十一歳になるので、明子と天国で再びあえると言うことを信じることができ、天国への希望を持って生きてほしいと願います。わたしたちもこれからも何が起るかわかりませんが、乗り越えられないと感じる試練があっても、そのことを通して神様はわたしたちを最善に導いてくださっているのだということを信じることができますようにと願っています。


十月四日 火曜日 夕拝イザヤ書四十二章18~25
 18節~と1節の「わたしの僕」のこの二者がどういう繋がりがあるのか(全く同じ表現)、この両者の僕について、ことわりもなく 対照的なことが書いてあるので、説明なしには分かりにくい。1節の「僕」はイエス・キリストによって完全に成就された神の僕を預言として記している。19節のわたしの僕は、現実のイスラエルの民を指し、確かに神の僕として選ばれたが、現状はこのようである。全く違ったものになったというのである。神の僕(僕は奴隷のことドゥーロス)イエス様も神から聴くのでなければ、私は何一つできないと言われた。徹底して神様の言われた通りに従う者。パウロも「イエス・キリストの奴隷(ドゥーロス)」をその書簡ではまず肩書として書いている場合が多い。
 イスラエルの民は神に従うために、神の声や真実が聞こえ、見えるようにと特に選ばれていたのに、頑なで見えず、聞こえなくなった。だからこそバビロンに捕囚と言うかたちで22節のようになった。(この民は略奪され、奪われ穴の中に捕えられ、牢に繋がれている) 人間は非常に頑なで、私たちも聖書を学んでも、学んでもどうしても自分中心という固い殻があって、神様の御心が解らない、目に見えない根深いものがあり、先ず自分を(思い、考え)第一にしてしまう。主の道に歩もうとしない。自分中心になってしまう。
 彼らの目が開かれて、耳がきこえるようにと、徹底的に破壊させたのはまさにこのためであった。そうして神の言葉に従い、神様の示す道が見えるように、従うようにと、この苦難を与えられた。この現状はイザヤが実際に啓示によってみたことであった。2千数百年前、イザヤが、炎に囲まれて燃えうつっていく、このままだとみんな滅びてしまう。それなのに、イスラエルの民は裁きの火が燃え移っているのに、まだ気付かない。はっきりとイザヤには霊の目で見えたのである。
 このような譬ー燃え移っているのに、平気でいるーこのようなことは確かにある。
 世界の歴史において例のない地震、津波、原発事故が襲ったのに、たった半年で「原発輸出を推進する」という首相をはじめたくさんの議員たちがいる。あれだけの被害を起こして。一体どういう風に考えているのか、それこそ、燃え移って来ているのに気付かない状態なのである。
 聖書は霊的でありながら、他方では非常に現実的であり、私たちの現在の問題をも見通している内容を持っている。旧約聖書は はるか昔のこと、遠い外国のことであるから自分には縁がないと思いがちだが、現代の状況をも鋭く洞察していることに驚かされる。


十月六日(木)いのちのさと 詩編九十編
 神様こそは、どんなことがあっても、わたしたちをいたわり、かくまってくださるという確信が記されている。この時代から今までも、ありとあらゆる世代に、ずっと神様こそは心の隠れ家だった。
 まず、神様はどのような存在であるかを明言している。時代も場所も越えて、あらゆる人が神に身を寄せ、癒されている。作者は霊的にそれが見えてきた。そして、これは天地創造の前から、神は永遠の神であることを示している。
 神の永遠性と、救いの力の永遠性。この世界がどのようになろうとも神の存在は変わらない。苦難にあった人が、切実に神を求めるとき、神はともにいてくださる。人間はどんなに地位や権力があっても、はかない。一瞬で人は死ぬ。もし千年生きたとしても、それもまた、はかない。人間の目には長いと感じても、神からみれば一瞬のことである。そして、人間の心の深いところを見ればだれも罪深いもの。神に罪を見られたら、だれもが裁かれ、ほろびる存在でしかない。神の救いと永遠性がなければ、人間の行く末は、はかなくむなしい。だからこそ、主よ、来てください、と切に望む。わたしたちには神が必要なのである。


十月十日(月)藍住集会  詩編一一九編1~8
 この詩は詩編の中で最も長くアルファベット順に並べられている特殊な詩である。作者は、み言葉に関する事が、アルファベットに重ねて語れる程泉のように神から示された。内容は「神の言葉」という単一のテーマに絞られている。「律法」「命令」「掟」「定め」「裁き」など皆神のみ言葉の事である。一番最初に「いかに幸いな事か。全き道、完全な道を歩む人は」と全き道の事が言われている。完全な道、最も良い生き方が分からないので、迷っていろいろな闘いや分裂が起こる。今から三三〇〇年程前に神から選ばれたモーセに主の律法が授けられた。これが基礎になっている。この律法は、創造主が告げた言葉で変わる事がない。神のご意思が分からない場合は人間の考えで決めるが、どの人間の考えを採るか。人間の考えは絶えず変わる。神の言葉は永遠に変わらない。どんな事があっても主の道を歩き続ける。これが最も幸いなことと言われている。この様な事が与えられている事に感謝する。賛美する。すべてそこにつなげていく。み言葉を守りますからどうか見捨てないで下さいとある。私達は絶えず弱さの為に罪を犯すがこんな私を見捨てないで下さいと祈る。イエス・キリストがこの世に来られる前は、ヨハネ福音書1章にある。初めに言葉があったとあるこの言葉(ロゴス)がイエス・キリストであった。み言葉が結晶したのがイエス・キリストである。新約はキリストが語った言葉を書いてある。この詩編は、キリストに置き換える事ができる。主イエスは「わたしは道である」と言われた。イエスに結びついていたら完全な道を歩いている事になる。絶えずイエスに尋ねていく道。イエスが心の中に住んで下さると律法を持った事になる。主イエス・キリストをしっかりと胸の内におてい、み言葉に従って歩む事が一番幸いな事である。


十月一一日(火)夕拝 イザヤ四三 1~3 一一名
 イスラエルの民は唯一の神を特に知らされ信じた民である。私達キリスト者はその歴史的な子孫である。捕囚から解放された人が帰還する事が書かれている。モーセが率いたイスラエルの民は、実際に水の中に神が道を造って下さりカナンの地に帰った。ヨルダン川を渡る時も救い出されて通れた。エルサレムは実際にバビロンに焼き滅ぼされたがそれでも残ってきた。イスラエルの出来事は三千年たっても全く違う国や人々の霊的な歩みに当てはまる。神とあなたはどんな関係にあるのか。まず基本にあるのは、神が自分を造って下さった。そして特別な愛着をもって神が見つめて下さった。創造するという事は何もない所から神が独自なものを造り出す。その神を意識する。その神が言われ、なされる。そこを出発点とする。神が造られたので意味がある。その神がこれから行く道の旅路を「恐れるな」と言われる。これは理由がある。「わたしはあなたを贖ったからだ。」捕囚に連れて行かれるというサタン的な力から自由になった。神が「おまえはわたしのものだ」と言っている。このことは大変大きなこで、神が愛によって他に渡さず、しっかり持って下さる。サタンが来ても、敵が来ても、もう取れない。「わたしはあなたの名を呼ぶ」名は本質なので、神様だけは自分の本質を知って下さっている。私達を愛して下さって名を呼んで下さる。死の時も呼んで下さり引き上げて下さる。お前はわたしのものだと神にがっちり守られているので水の中、火の中、川の中を通っても当然その中に呑み込まれない。いかなる事が起ころうとも苦難があろうとも守ると非常に強い約束がある。私達を非常に高価なものと神様が考えて下さり、エジプトのような大国を身代金として買い取って下さった。このみ言葉の約束が現代の私達の心にも留まりますように。


十月十四日(金)天宝堂集会 エペソ書五・15~20
 人間にとって一番大事なものである正義や真実、神の愛。そのようなものはない、という人は真理に対して眠っている状態である。そのような心には本当の平安や喜びはない。もともと、生まれたままの人間は真実の神を知らず、罪ゆえに眠っている状態であるといえる。ただ、キリストによってのみ、そこから覚まされ立ち上がることができる。キリストがそのようにさせてくださるのである。
 英知とは、何が本当に大切なことなのかを見極める力である。それは学力とは関係はない。いつも、キリストの光を受けている時、人には英知が与えられる。イエスの弟子たちの中には漁師たちもおり、学問もなかったがキリストによって神の英知を与えられた。
 神の御意志は何なのか、ということに細かく気を配って生きていくことが示されている。たえず、自分中心にしていないかどうか。主のご意志がなんであるかをわたしたちは考える必要がある。人間は神のご意志を知らされても、自分の思いの方を選んでしまうことがよくある。だから気をつけていなければならない。
 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ三・16)とある。人間の言葉ではなく、キリストの言葉がいつもあるとき、自ずと神への感謝の歌があふれてくる。讃美を歌うことは霊的なことである。合同の讃美によって、この世とは別のものに満たされる。讃美には悪の霊から引き離す力がある。ともに讃美するとき、それは、霊的な交流である。 どうか、主よ、わたしたちの目をいつも覚まさせてくださり、神の御意志がなんであるかを思いながら生きていくことが出来ますように。そして、聖霊に満たされ、讃美がいつも口からあふれてくることができますようにと願います。


十月十六日(日)主日礼拝 ロマ書十一・110 37
 イスラエルの民は神に選ばれた民であった。そして長い年月ののち、ようやくメシアがつかわされた。しかし、イスラエルの民は、かたくなになって受け入れようとはしなかった。これは何を意味しているのだろうか。
「しかしイスラエルについては、不従順で反抗するため、一日中手を差し伸べていた」(十・21)、とある。神は見捨てていたのではなく、手を差し伸べていたのである。しかし民は受け入れなかった。神は民を裁いてほろぼすのだろうか。否、決して滅ぼすことはない、とある。どんなに罪を犯し、滅ぼされても仕方がない状態であっても、神の恵みによって、選ばれた人は残されてきた。罪に応じて裁かれるのであれば、誰もが裁かれる。しかし、長い歴史の中で、のこされた。それは、一方的な神の恵みであった。行いではなく恵みによって選ばれたのである。
 イエスは「すべてのものが滅びても、神の言葉はほろびない」と言われた。神の御支配は永遠に続く。そしてそれは個人の心の中の世界にも言えることである。神を信じていても、心が人間的な思いに支配されていることがある。もし、罪があるので滅ぼされるとしたら、だれもが裁かれる存在である。しかし、わずかな部分でも、神を仰ぐ心があれば、また残されていく。わたしたちは、恵みによって残されている。意図的に自分から神を捨てない限り、神によって残されていくのである。
 イスラエルの非常なかたくなさも、神が一時的に霊的な目が見えないようにされたのである。しかし、それが神のご計画であり、最終的には、異邦人全体が救われ、そのあとでイスラエルの民が救われるという過程をたどった。すべてが神のご計画であり、神の御意志がなされたのである。


十月十七日() 北島集会 申命記三十二章1~12
 真理は永遠性と普遍性を持っている。 とてつもなく広く深い神の真理の言葉は、わたしたちがどんな状態にあるときにも通じる。だがわたしたちの受け止め方は、ある限定されたものでしかない。わたしたちは絶えず、限定された狭い所でものを考がちなので、聖書そのものに帰らねばならない。人間的な考えに狭められない元の形に帰ることが言われている。たとえば庭や公園などは人間の判断が入り込んでいる。しかし広大な自然の山野は人間の判断でなく、神様が創られたそのままの姿が見られる。聖書の世界もまたそれがはっきり出ている。
 神様の言葉は、雨のようであり、露、小雨、夕立のようでもある。そして、すべて神の言葉は、上から注がれるものである。しかも多様な仕方で注がれる。露のようにわたしたちの心の渇いたところに宿る。どこから来たかわからない。魂の中に入り込む。静かな自然の姿と共に、静かに潤し宿り来る。個人にとっても、全体としても。乾燥地帯での雨は、命をもたらす貴重なものである。わたしたちも人間の声でなく、たえず、豊かな天来の声を聴く。御言葉は、雨のような特質を持っており、どんな人にも誰にでも注がれている。それを受けとれば潤される。このような御言葉の側面は、イザヤ5510にもある。
 神様のご性質として、神の国の大いなる遺産をヤコブに与えようとしたのは荒れ野にあったときであった。不毛の地で、彼を見出した。恵まれた所で、ではなかった。この世の荒野、苦しい状況の中にいる人をかえって見い出してくださる。ああ、悲しむ人は幸いだ。瞳のようにいたわってくださる。困難な時にも、目に見えない翼に乗せて目的地に運んでくださるのである。御言葉を与えられないとそのことにも気づかない。油断をしていると離れてしまう。これはあらゆる状況の人に当てはまる。


○1018日、11月1日 火曜日 夕拝 イザヤ書43章4~15
 4節の「あなた」はイスラエルの人々をさすが、新約になってすべての人に広がっていった。貴い(カーベード)は重い、重みがあるという意味、栄光とも訳される。奴隷のように連れ来られた民、汚らしく、役立たず、死にかかったイスラエルの民が私(神さま)の目には、価高く、尊いと言われる。魂を見たら、全人類が汚い、罪の人間。しかしキリスト以降、人間一人一人を大切な存在として見てくださるようになった。神さまの愛をいただくと、どのような人でも貴い存在だと思われてくる。これが VIP(very important person)の聖書的な意味である。
 イエス様は十字架上の罪人に「あなたは今日天国に行く」と言われ、取税人のザアカイに「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われた。(ルカ19:110)みんなからは無視されていたザアカイに愛のまなざしを向けられた。このように代価を払って下さるお方だから、愛のまなざしをもって見ていて下さるのだから、5節で 恐れるなと言われる。東から西から離散されていた人々を、(神の民の子供たちを)連れ帰られる。
 イザヤ書2:2に主の神殿の山のことがかいてあるが、神の引力、神の引き寄せる力が書かれている。イエス様もヨハネ伝12:32に「わたしは地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われている。死んでなお、一層力が与えられ、2000年経てもその力は変わっていない。
 この世の力は真理のもとに集めるどころか、分断していく。しかし、神の力は真理のもとに集めていく。また分断されるなかにあって、霊的に集められることは可能だということも言われている。
8
節「引き出せ」は導き出せの意味。捕囚の道(国)から導き出すとの意。このように目があっても見えず、耳があっても聞こえない人々、このような民を滅ぼしてしまえというのではなく、導き出せと言っている。10節これを(神さまのなさること)証するのは、立派な人ではない。見えない民、聞こえない民を神の証人とすると。これは新約につながっている。これは通念と異なる。常識と違う。立派だから証人として選ばれたのではなかった。イエスの弟子たちも、ザアカイも。神さまを信じていく限り、神様がつくりかえてくださる。新しく生まれ変わらせてくださる。真理が見えない、聞こえないだけれども、わたしの証人はあなた達だと言って下さる。(意外性!)1112わたし、わたし(こそ)が主である。わたしのほかに救い主はいない。イエスさまこそが救ってくださる方なのだ。このことを一番強く信じているかどうかが大切なこと。現代の私たちにもいえることである。歴史を通して、今の私たちに言われている。「歴史は繰り返す」と、言われるように、イザヤの言葉は2700年の時間をこえて、私たちにも言われている。今、私たち一人一人に「あなたこそ証人なのだ。」と言われているのである。15節 聖なる神(この表現、イザヤ書に多い。)聖なるはカードーシュ。イスラエルの創造主、あなたたちの王。ここでは現在分詞が使われ、今も創造しつつある主という意味。Ⅰam doing a new thing. 全能の創造者が今も働いている。神さまが聖なる霊によって新しく創ってくださるのだ。そして神さま、イエス様、聖なる霊がすべてのことを証人とした者に教えてくださる。


十月二十三日 (日)主日礼拝 ロマ書十一・1124
 イエスは本来はユダヤ人の救いのために来られた。しかしユダヤ人はイエスを拒んだ。これは、悲しむべきことだった。しかし、それによって、異邦人の救いへとつながっていった。このことは何を指し示しているか。
 神は良いことしか起こさない。どんなに困難なこと、悪いと感じることがおこっても、それはさらなる良きことを起こしていくためである。 本当の神様を知らされたのはユダヤ人だった。ユダヤ人が初穂であり、もとの根である。そのユダヤ人に接ぎ木をする、というたとえを使っている。わたしたちは、ユダヤ人という神が選んだ根に接ぎ木されたものである。ユダヤ人の枝が折りとられ、接ぎ木されたのである。
 わたしたちは信仰という富があたえられた。それは、もとは、ユダヤ人が神に選ばれ、与えられたものであった。つまり、ユダヤ人の枝が折り取られたのは、異邦人であるわたしたちが救われるためだった。だから、思い上がってはいけない。神のいつくしみと真実にとどまらないと、裁きがある。
 わたしたちは、イエス様という、いちばんよい木に接ぎ木されなければ枯れる。イエス様という根が養分を吸い上げてくださり、生かしてくださるのである。
 狭い心でなく、そのような信仰の流れを歴史の広がりの中で考えていくことが大事である。それをさせてくださるのが、聖霊である。聖霊によらず、自分だけの考えで働いていると、自分が偉いのだと考えてしまう。それでは祝福がなくなる。聖霊をうけるため、礼拝のたびに、わたしたちは、いちばんよいお方である、キリストに霊的に接ぎ木をしていただく必要がある。


十月二四日(月)藍住集会 詩編一一九編9~16
 この詩は、全部神の言葉について記されている。神の言葉にだけ集中して書かれているものは他にない。定め、主の道、命令、掟、戒め、仰せ、律法とみ言葉をいろいろ言い換えている。若者が歩むべき道を清めるとあるが、清められた道がある。この世では、権力やお金で汚される事が多い。清めるべきは若者だけでない。人間は絶えず汚れていく。それを清める為に主イエス・キリストが来て下さった。この世とは違った道がある。教育によっては清められない。絶えず不変で、神の所から来るみ言葉をいつも受けていなければ汚れる。神の造ったものは清い。星は人間が汚そうにも手が届かない所で輝いている。心を尽くして、すべての心で神を求める。そうすれば与えられる。神の言葉を受けたら私達もみ言葉の様々な事について物語る。み言葉は私達を生き返らせたり強めたりする。この世の様々な財宝よりみ言葉の道を喜びとする。み言葉による楽しみは、お金を使わなくても可能である。私達はともすればこの世の喜びに引き込まれるが、み言葉により喜びの世界に入る。集まってみ言葉による礼拝を守る。詩編の作者のように、私達もみ言葉を求めてこの世にはない喜びで満たされたい。


十月二十四日() 北島集会 ルカ十七章2021
 神の国はいつ来るのか、と問われてイエスさまはそれには答えず、「神の国はあなたがたの間にある」と言われた。神の国とは「神のご支配」である。「あなたがたの間(あいだ)within, among you」とは、わたしたちの心の内側、また生活のただ中(二人三人いるところに、また社会全体)にある、と。このことは、神の国が何時来るか、という問いに部分的に答えていることになる。わたしたちも信じることでそれがわかってくる。
 わたしたちの内側で、古い自分が死んで、キリストが生きていれば、そこに神の国がある。古い自分というものが居座っていれば、神の国は来ていない。少しなりとも自分を変えられるとき、そこにも神の国が来ている。イエス キリストそれ自体が神の国である。またわたしたちが集まりによって霊的養分を与えられるのは、そこに神の国が来ているからである。
 見ないで信じる者は幸いだ。災害などの中でも、いつもこのことが問われている。あらゆる苦しみ悲しみの中にも、神が居られる。これは福音である。迫害のただ中でも、どんなことがあっても。そのただ中に神の国はある。その中にも神様はおられる。悪魔の支配ではないのだと信じる信仰である。
 神の国はいつ来るのか、だれにとってもそれは切実な問題だ。神の、王としてのご支配は時空を超えて今もある。どこに行っても神様の国はある。死んでもある。あくまでも信じていくことである。


十月二十六日() 水曜集会 ヨハネ黙示録十二章1~9
  天にしるしが現れた。女の人が神様に譬えられるような太陽を着、月を足の下に踏んでいる。頭には十二の星の冠。普通では考えられないようなイメージだ。この女は、マリアのイメージを持ちつつ、旧約新約を貫く神の国、教会を表している。こんな大きな、霊的と思える存在が、しかし、子供を産む苦しみに叫んでいたとある。人間の想像を遥かに超えている。また一方では、七つの頭に冠、十の角をつけた赤い竜。この二つのものが天に現れる。いずれも巨大な力を想像させる。壮大なスケール。七も十も完全数。この竜は完全な力を持っているように見える。
 竜は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。また女の産んだ子を食べてしまおうとしていた。そうした非常に大きな対立の中で、女は男の子を産んだ。だが普通の子でなく、すべての国民を治める子を。子は産まれてすぐに、竜に食われないように神のみ座に引き上げられた。女は荒野へと逃れた。ある期間、神によって養われる場所がそこにあったのである。神の教会は荒野においてその歴史が始まったことを示している。
 黙示録全体のテーマ。それは、神や、キリストの力を滅ぼそうとするサタンの力との戦いであり、最終的に、神の力が勝利することである。この箇所では、それが前面に出てきている。生まれた男の子は、イエスさまであり、またキリストをいちばん大切なものとして信じる人たちである。支配される者でなく、支配するもの(鉄の杖をもって黙示録2章27)である。それは信徒の集まりでもある。女は、これを生み出す霊的な神の国を意味する。
 男の子は、生まれたら直ぐに神のもとに引き上げられた。引き上げられた状態で神に守られ、食い尽くそうとする力と戦う。鉄の杖で支配することができるのは、神のみ座に引き上げられているからである。引き上げられていなければ、自己中心の考えしかできない。それはサタンの支配下で、サタンに食われている状態である。
 天の世界にはいつも大きな賛美がある。当時の信者はそれを知っており、霊的に引き上げられた状態で迫害も受けていた。それで、イエスさまのために死ぬことさえできた。子を産んだ女は、荒野であっても神様の用意された場所に逃げこんで、そこで神様に養われた。これも限定期間である。子供も女も双方が神に守られている。
 天にも戦いがあった。竜はその時、天から投げ落とされた。悪魔の力が投げ落とされた。神様の力が勝利した。同じことをイエスさまご自身も見た。突然落ちる悪魔。それは突然だ。稲妻のように。一瞬のうちに。イエスキリストにしっかりつながっていれば、どんなに悪が入り込んできても負けない。イエス様の勝利する力をもらっていたら、負けない。死の力にも負けない。わたしたちにとっても重要なことである。神様の勝利の力をもらわないと、その他の何を持っていたとしても、この世の力に負けている。最終的に、神の力が勝利するということを飽くまでも持ち続ける。


十月二五日(火)移動夕拝 熊井宅 ヨハネ一八章3638 一五名(スカイプ7名)
 このところは多く引用されてきた。ピラトが言った「真理とは何か」という問いは歴史に響き渡ってきた。ありとあらゆる問題も「真理とは何か」が分からず、分裂、争いが起きる。ヨハネ福音書のみにこの「真理とは何か」が書かれている。福音書は啓示によって書かれたので強調されている所に特徴がある。この世の終わりまで、「真理とは」の答えが分からないと、何の為に生まれてきたのか全てが謎になる。ここで言う真理は私達が見たり聞いたりする真理とは違っている。数学や物理学は真理がはっきりしている。しかしヨハネの真理はこれとは違う。主イエスは何の為に来たのか、真理について証しする為に来たと書かれている。主イエスと真理とは結びついている。イエス・キリストこそ真理である事が示され、真理という事がこの箇所で締めくくられている。父の独り子イエス・キリストは恵みと真理に満ちていた。イエス・キリストを通して恵みと真理は来た。万人の心の奥の罪を担って死ぬという事は誰も考えなかった。死に打ち勝ち復活するという事もイエス・キリストを通して表れた。「恵みと真理」はイエス・キリストの特質を圧縮した言葉である。聖霊が与えられると真理が分かる。科学的な実験や分析ではこの真理は分からない。こういう意味の真理がなければ、核兵器や原発事故が暗示しているように世界は破滅する。別のところに「わたしは道であり真理であり命である」とイエス・キリストが言われた。このイエスを通らなければ真理そのものである神に行けない。答えはキリストにある。真理に結びつく人はわたし(イエス)の声を聞くと書かれてあり、今も語り続けているイエス・キリストの声に聞く事が私達に求められている。


10月28日スカイプ集会 参加者13名
歴代誌上29章10節~20節
 この箇所は、神殿を神様に捧げる時の、ダビデの祈りである。8回もナーダブという言葉が使われている。自ら進んで主に差し出すという意味である。自発的に捧げることが、神様の神殿を造る時に、最も重要であったことが分かる。新約聖書では、わたしたちの身体が神殿であると書かれている。またその共同体も、目に見えない神殿である。時間・お金・エネルギーなどを捧げることによって、目に見えない神殿が建てられていく。そして、悔い改めた砕けた心、切実に神様に求める心は、誰にでも捧げることができるものである。
 神様だけが永遠に賛美される方であるということが強調されている。唯一の神様に、あらゆる喜びがある。神様の大きさと力、偉大さ、栄光(尊厳・威厳・威光)をダビデは強く感じていた。
 人間はすぐに政治など、この世の力ばかりが見えて、愛の神様が全ての上におられることを見逃しそうになる。天と地の全てはあなたのものとあり、私たちは、ありとあらゆる力の根源である神様を見るように習慣づけられなければならない。神様は愛と真実の御心で、どんな弱い者も力あるものとすることができ、また、どんな強そうなものでも、神様が奪えばたちまち落ちていく。
 ダビデは「神様からいただいたものを、お返ししたにすぎない。」と言った。心貧しき者こそ幸いである。
 神様は全てのものを持っておられるが、私たちは新約聖書にあるようにキリストと共同の相続人である。神の国の相続人として、全てのものを私たちに賜るという、非常に大きな世界が私たちの前に開かれているのである。


十月三十日 (日)主日礼拝 ロマ書十一・2529 45
この箇所で「秘められた計画」と訳されている言葉は原語では「ミステーリオン」という言葉であり、「奥義」「神秘」「秘密」とも訳されている言葉である。神のご支配は、啓示によらなければわからないということである。この世の一般の人は、神などいない、偶然である、または何か、わからない力が働いていると思っている人が多い。真実の神、唯一の神のご支配があることは示されなければわからないのである。
 そしてその「奥義」は福音そのものをさしていること(コリント二・17)、また、キリストを信じるものは、真理を知る奥義が与えられており、その奥義を一言で言えば、内にいるキリストこそが奥義であること(コロサイ一・2627)が、示されている。
 歴史の中にも神の奥義がある。多くのユダヤ人は、キリストを信じなかった、パウロが伝道した時には迫害さえした。ユダヤ人は神に捨てられたのか。神の約束は間違いであったのだろうか。そうではない。歴史を通じて神のご計画は成就していく。神の時があるのである。どんなに混乱した時代となっても、神のご計画は必ず成る。はるかな時間を超えて、最終的には救われていくと信じることができる。神はすべての人を招いているからである。今の私たちにとっても、このことは、たとえ今は敵対している人であっても、太陽は善人にも悪人にも注がれているように、神はそのような人をも愛され、立ち帰るのを待っておられるというメッセージであり、希望をもって待ち望むことが出来る。
この世のものは、人間関係も、いのちであっても簡単に壊れる。しかし、神との関係は、自分からすてない限り、切れることはない。神のよき賜物と愛はどんなことがあっても、取り去られない。この世でどれほど絶望したとしても、わたしたちの国籍は天にある。この希望は決して奪われることはないのである。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N


お知らせ

市民クリスマス 12月4日(日)午後6時~8時30分。郷土文化会館 。チケットは集会場にあります。
クリスマス集会今年は12月25日です。
「原子力発電と平和」(吉村孝雄著)予想を越えて多くの方々からの申込あり、第二版として増刷ができましたので、待っていただいていた方々にようやく送付できました。 また、さらに、ご希望の方にも送付できます。
従来のものの一部のミス入力などを訂正したほか、「燃え移っても気づかない人々」、「原発と核武装」(「いのちの水」誌10月号、11月号に掲載したもの)や、以前に書いた 「0.001グラム学校引き起こした危険と不安」など、3つの文を追加掲載したので、17頁ほど増加しています。
価格は据置きで、一冊500円。送料100円
なお、2~5冊までの送料は、300円。
10冊セットでの注文の場合には、価格は3000円、送料は500円とします。 申込は、奥付の吉村まで。

吉村孝雄の電話番号、E-mailアドレスが変更されましたのでお知らせしておきます。
電話番号

E-mail
ty-E-Mail
なお、「いのちの水」誌の奥付に記してあるアドレスは、公開用のものですが、そちらのほうは変更なしです。

ふだんは、あまり読まない聖書の箇所も、この集会だよりによって聖書を開いて読むようにしている、という内容のお便りを複数の方々からいただいています。これからも、そのように聖書の学びにこの集会だよりが用いられますように。


集会だより 2011.09 NO.375


主はあなたを見守る方、
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

(詩篇1215


 

八月一日 小羊集会 マタイ福音書 二十四章4551
 ここでは、主人が使用人たちの上に立てたしもべについて記されている。ここにあるような、使用人に食事をあたえさせる忠実なしもべ、とはどういうことを指しているのか。また、主人が来るのがおそいとおもって、主人から言われた仕事をしないで、仲間をなぐったり飲んだり食べたりするとは何を指しているのか。
 このしもべとは、宗教的に他者を教え導く人に対して言われている。しかし、聖書はそのような特別な人に対してだけ言われているのではない。キリスト者はすべてが祭司である。(ペテロ259)キリスト者は、目には見えないキリストの体をうけて、他の人にキリストという食事を提供する者となるのである。祈りも霊的な栄養を提供するということにほかならない。そうしたら、主人はこのしもべに全財産を管理させるとある。管理するとはその人の持ち物となることである。つまり神が持っている、あらゆる良きものをくださると言うことである。神から良きことをいただいて、他者へと差し出す。それこそが、祝福される生き方である。 
 それと反対のことが次に書かれている。主人が来るのがおそいとおもって、主人から言われた仕事をしないで、仲間をなぐったり飲んだり食べたりするとは、神はまだまだ来ない。何をしても平気だ、という考えである。神を知らされても、徐々にそれていくような宗教的指導者も歴史の中でもでてきたし、また今でもおこりうることである。神が選び、神によって立たされても、権力から得られる快楽を求めるようになっていった。そして、他者を導くのではなく、自分利益や快楽をもとめた。せっかく神が立たせても、それを利用して、自分中心となっていったのである。しかし、神を侮れば必ず裁きを受ける。わたしたちも、神を知らされ、信仰を与えられていても、うっかりすると自分中心になっていく。わたしたちは、常に神に忠実であろうとする心、神から受けたよきものを他者に与えていこうとする心が与えられますようにと願い求めていきたい。


八月七日(日)主日礼拝  サムエル(上)十四章 37
 ヨナタンは、ペリシテと戦いに行った。敵がたくさんいるのに、たった二人で敵の中に飛び込んでいった。それは、絶大な神への信仰があったからである。
「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」
 一般的に、戦いのために必要であると考えられていることは何か。まず武器であり、お金である。特に日本には精神的なバックボーンがないため、目に見えるものに頼ろうとする。神の助けがあり、神が戦ってくださると信じられなければ、破滅につながるのである。
 人間の力がするのか、神様が背後で何かをされるのか。どちらを信じるのかによって道は分かれる。時が与えられたと思ったときには思い切って飛び出してみる。主を信じて行ってみれば、力が与えられるのである。主を信じて思い切って進むとき、神は共におられ助けてくださるからである。
 同様の記事が士師記7章7節にも記されている。ここで戦おうとする者は初めは3万人もいた。その中から、恐れを感じた者が帰り1万人に減った。その中から、戦いに必要なものを選別するために、渇ききったときに水を飲もうとする態度で兵士を選んだ。待ちきれなくて、犬のように口をつけて飲んだものは、兵士と見なされなかった。そして、静かに手で水をすくったものが兵士として選ばれた。それは、どのようなときでも、たえざる落ち着きを持って、主を見上げる態度を見られたのである。あわてたり、焦燥感があったら、神の兵士としては働けない。そして、「立て、主は、ミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださる」とある。出エジプト記 14章にも、絶望の状態のなかで主が戦ってくださることが示されている。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
 神はいつも、わたしたちと共にいて、語りかけてくださっているのである。


八月八日(月)藍住集会 詩編一一六
 最初から率直に主を愛するという言葉から始まっている。この気持ちは神によって触発された。日本人は九九%の人がこの主を愛するという言葉を知らない。人間同士の愛が一番になっている。主を愛する事を知らないので天皇を愛するように仕向けた。天皇は人間になった筈なのに、今も学校教育で天皇賛美を意味する「君が代」を歌うことを強制している。
人間は見えるものを愛する。原発も神よりも金を愛した人が広めた。主を愛する心がなかったら人間は奪い合いや妬みの心が生じる。しかし聖書の世界はまず主を愛する事が書いてある。主を愛する気持ちがあればすべてを愛する事ができる。私達は最終的には主を愛する事が目標である。そうすれば隣人を愛する事につながっていく。神が心の重荷を除いて下さった人は生涯信仰を持つ。神から励まされ安らぎを得た人は主に心を向けようとする。病気や人間関係、自分の罪の重荷、様々な試練から神は救って下さる。古い時代から一番大事な事は変わらない。この作者の苦しみは死の苦しみ。死の縄がからみつき陰府の脅威にさらされた。この苦しみを前にして「主よ、魂を救ってください」と祈った。無数の人を神はこのような苦しみから救った。この経験が強い神への信仰、愛と変わった。


八月九日(火)夕拝 イザヤ書四一章110 十名
 異邦のペルシャ王が神の器として用いられた。このような事をイスラエル人は考えた事もなかった。異邦の王に「油注がれた王」とまで言った。神はキュロス王を用いて周囲を平定させイスラエル人を解放してカナンの地に帰らせた。それをするのは「主なるわたしだと」と神が宣言し人間的には考えもつかない不思議な事をされた。選民イスラエルだけでなく歴史の中で様々な人を神が動かし用いた。「神は自分を助けてくれた」という自分と神の関係もあるが、一方では、全世界の流れの中で神は働く。初めから神は世々の人々を呼び出しその役を果たさせる。本来エクレシアとは「呼び出された者」の意である。我々信じる者も呼び出され、歴史の中で重要な働きをした人も呼び出され、弟子のヨハネ、ペテロ達も突然呼び出された。パウロはキリスト教徒を迫害中に呼び出された。それがクリスチャンである。今も継続して神の呼び出しは続いている。全世界の民が神を信じる一つの流れになると書かれている。イスラエルは厳しい裁きでバビロンに散らされたが神の愛は変わらない。罪を犯したのに神が「友」と呼んだ。神は地の果てバビロンからでも呼び出す。神は決して捨てない。「荒野を越えてカナンに帰る時も恐れる事はない。わたしの救いの右の手で支える」と約束してくだささった。これは今の私達に対するメッセージでもある。


八月十二日 (金)天宝堂集会 エペソ五・6~14
 この世の、むなしい言葉に惑わされてはいけない。日本は、むなしい言葉の洪水におぼれている。そのような言葉にひきいられ、罪をおかすと。神の裁きを受ける。本当の力ある言葉は神のことばである。その存在を知らされるまでは、誰もが闇の中にいた。しかし、今は、主の光のうちにおかれている。
「あなたが光になった」と記されている。誰しも自分を見ていたらそのようには思えない。なぜ、このように、すでに「光となっている」といわれているのか。これは、「あなたがたは地の塩である」(マタイ五・13)と言われているのと同じである。このことばも、イエスの話を聞こうとあつまっただけのまだ、弟子ともなっていない人に向けられていわれている。
「キリストの言葉を聞きたい」ただそれだけで集まってきた人たち。欠点もある。しかし神に背を向けていない。それだけで地の塩なのである。光となっている、ということも同じである。信仰によって救われる。これから救われていくのではない。すでに今、信じただけで救われている。イエスを信じただけで、主の内におかれ、また、わずかの御言葉をうけたら、それで光となっている。わたしたちは信じること、ただそれだけで光となることができるのである。
 このような見方は、旧約聖書にすでに記されている。
「起きよ、光を放て。」(イザヤ六十・1)これは、自分で光れと言われているのではない。「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」とある。光は昇っているのだから、それを受けなさい、ということである。自分の力では人は光ることはできない。そして、パウロは、この光がキリストだと書いている。パウロも、キリストが光を照らしたから死の中から立ち上がることができた。ただ神様のほうを、イエス様のほうを向くだけで、光の子となることができる。主にあって、光の子になれば、過去の経歴、学歴などすべて関係はなくなる。礼拝をもつのも、ともに集まることも、光を受けるためである。。
 自分の罪や、この世の闇を見て、嘆いてばかりいる必要はない。闇の中にあるからこそ、主イエスは光をくださる。主よ、来てください、と祈り求めていきたい。


八月十四日(日)主日礼拝 ロマ書(九・1~5)33
 ユダヤ人は神に選ばれた民であった。しかしその民が、キリストを受け入れず、殺してしまった。そして、その後もキリスト教を迫害した。ユダヤ人に対する神の選び、キリストの救いはなくなるのだろうか。ここでは、そのような全てを導く神の壮大なご計画について書かれている。ロマ書、十一章の最後には、「すべてのものは、神から出て神に保たれ、神に向かっているのです。」(ロマ書十一・36)とある。すべてがこのことばで示されている。人間にはわからないことも、神の壮大なご計画なのである。神の大きな視野を示すために、この九章は書かれている。
「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです。」(ロマ書十一・31)とある。目に見える現象では、どこに神がいるのか、ということになる。しかし、明日のことさえわからない人間は神の宇宙全体のご計画は理解し得ない。わからないからこそ、神に祈る。「御名があがめられますように」という祈りを主イエスは示された。これは、地上で何が起こっても、神は別格に分かたれており、完全であるということを知らされるようにという祈りである。
 キリスト教を、初めから否定し迫害したのはユダヤ人であった。しかし、パウロは、そのユダヤ人を憎んでいるのではなく、ここにあるように、自分がどうなってもかまわないというほどの愛をもっていた。人間にはこのような愛はない。これは聖霊が注がれていてはじめて与えられる愛である。
 キリストの精神は、このように迫害するものへの愛である。 パウロは、この最後に「キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」と記している。要所要所にパウロは、このように神の偉大さを示している。神の大きさを知らなければ、人間だけをみていたらわからなくなる。万物の上におられる神。その神の壮大なご計画。人間にはわからないことであるが、聖霊によってわからせていただき、少しずつ導かれていくことはできる。目に見える人間やこの世のことがらではなく、聖霊によって神の御旨と真理をわからせていただく者とならせていただきたい。


八月十五日() 北島集会 一 テサロニケ二章1~16
 テサロニケへの手紙は、イエス キリストが十字架につけられてから二十年足らずの内に書かれ、イエス様の記憶もまだ生々しくあったであろう。テサロニケは今のギリシャ地方。福音は、伝える側も、伝えられる側も様々な困難を経て伝わっていく。楽しみながら伝わるのではない。
 この世の中は不純な動機で伝えようとするものがある。まちがった支配。キリスト教会にもごまかしをもって活動したりするものが入り込んでいた。宣教は人に喜ばれるのでなく、神に喜ばれるためにする。パウロは福音を伝えると共に、神のご意志(セレーマ)によって歩いていくことを伝えた。この世は迷いやごまかし、不純な動機に満ち満ちている。それに巻き込まれないように。人間の意志でなく神様の意志に従った歩みをすることができるよう。人間の意志でなく、組織の意志でなく、また政治の意志でなく。神様のご意志によって歩むように。そうすれば、神様の国の一番よきものをくださる。
 常に変わっていく人間の言葉。そうではなく、パウロの言葉を、神の言葉だと霊的に感じ、受け入れたとき、その言葉はそこから、力をもって働き始める。神の言葉は変わらない。永遠の真理だ。聖書の言葉を神様の言葉として受け取ること、それが一番喜ばしい。一番喜ばしいのは、神様がその人の中に入って働かれることである。天にも大きな喜びがある。
 テサロニケ再訪がなかなか叶わなかったパウロ。だがキリスト者は、顔と顔を合わせて会う、そこに主が働いてくださる。人間的な感情ではなく、互いに霊的な力を補い合うものが主によって与えられる。だからこそパウロは、切にそこに行くことを願っている。


八月十六日 火曜日 夕拝 イザヤ書四十一章1116「恐れるな」
 ここでは力強い神の守りが言われている。「あなた」はユダの民を指すが、現代の私たちにおいては、神あるいはキリストを信じる人を指す。捕囚から帰還する民には道が備えられており、これを阻み、滅ぼそうとする者は神の大いなる裁きを受け、彼らの攻撃は無になってしまう。バンヤンの「天路歴程」が思い起こされる。
 「無に帰す」とは、神の民に戦いを仕掛けるものは無になるということである。40章1723節にも 主のみ前に国々は無に等しいとある。神さまの無限大のものを見ていると、神に逆らう者、支配者がいかに攻めようとも、無に等しい。真理に対抗しようとする者は無に等しい、と思われてくる。神さまの存在を知るほどに、外敵の存在は無に等しくなる。
 だから神の真理に抵抗する者も恐れてはいけない。また一方で神さまの大きさを知る程、自分の小ささに気付かされる。そのように弱い私たちを神は贖って下さる。神さまは一方的に愛を注いで、私たちを正しい者としてくださった。私たちの決心、努力で救われたのではない。無のような存在の私たちを贖って有にしてくださった。
 このことは新約になって重要になっていった。14,15節に書いてあるようにしてくださったので、虫けらのような私たち(ユダの民も)も山々のような巨大なものを踏みつける存在となった。敵対するものを贖いとって大いなるものとしたのだ。イザヤは、このように大きなことを啓示された。このような力を与えられたからこそ、聖なる主の名によって喜ぶ。無から有にされた、怯えていた者が喜び踊るようになる世界がある。そのように神さまはいろいろな意味で弱い者に力を与える。愛を注ぐ。だから「恐れるな」と言われる。神さまの励ましは人間の励ましとは違う。
 神さまの正しい道だと思って、一歩踏み出せば恐れがある。しかし喜びもある。内なる喜びがある。『聖書」の言葉は実践するための言葉である。


八月二十一日(日)主日礼拝 ロマ書(九・61846名、内スカイプ参加は2
 神の言葉はけっして効力、力を失ってはいない。ひとたび、神が選ばれたというときには、本人が意図的に拒まない限り、ずっと祝福は続く。キリストを信じることができない人が多い中で、選ばれたのである。本人が他のものにすがろうとしない限り、神は選んだ民をけっしてすてない。神の言葉こそはかわらないからである。
「この世界はほろびる、しかしわたしのことばは変わらない。」とキリストも言われた。神の言葉は決して力を失わないというのが出発点である。わたしたちは何を出発点としているか。人間の考え、他の人の考え、この世の習慣的な考えを出発点とするとき、それは変わりやすい。変わることのない神の言葉だけを出発点とするべきである。
 人間にはわからない選びの神秘がある。神のご計画は人間の計画には関係なく、ただ神が呼んだ人によって進められている。
 神の憐れみ、神のご意志、ご計画、この世の矛盾と思われる出来事もすべて、神のご意志がある。そして、最終的にはいろいろなことが起こるのも、神の力を全世界にあらわすためである。神に敵対するものも、不平等とおもわれることも、神の本質を知らせるために起っているのである。
 御名が崇められる、とは、「御名が聖とされる」という意味である。人間の考えではなくて、神が全く分かたれた別のところにおられて御支配されている。これは、あらゆる、わたしたちの考えを超えている。
 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると主はいわれる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたったちの思いをはるかに超えている」(イザヤ五十五・8)
「そのように、わたしの口からでる、わたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それは、わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ五十五・11
 神の言葉はかならず役目を果たす。順境のときも、有頂天にならず、それも神が与えてくださったことと謙虚に感謝する。そして、逆境のときも、神の力を信じていく。神の言葉は決して効力を失うことはないからである。


八月二二日(月)藍住集会 詩編一一七
 詩編の中で最も短い詩である。このような短い詩がどうしてここに載せられたのか。世界のすべての民が主を賛美する。神はありとあらゆる人に良き事をしてくださるが、自分は神から良きことを受けていないと思う人はこれができない。旧約聖書の詩は広くて誰にでも当てはまる。神の真理が分かった詩人の感動が歌われている。その真理とは、主の慈しみとまことはとこしえにあるという事。これは言い換えると神の愛と真実は永遠だという事である。人間世界にどんな事があろうとも神の真実は変わらない。神の愛は私達の行動を越えて力強く、私達とは分けられている。死に打ち勝ち復活の力がある。神が永遠であるように、人間の感覚を越えてこの世界は永遠である。神は本当に素晴らしいと言わざるをえない。全世界の人、あらゆる条件の人に預言として言われている。これをパウロは預言として受け取りロマ書一五章一一節に書いた。「すべての異邦人よ主を讃えよ。すべての民は主を賛美せよ」と。福音の本質は全世界のあらゆる人に通じる。この詩を書いた人も編集して聖書に載せた人も、はるか後にイスラエルの神の真理は全世界に伝わると啓示を受けた。パウロもこの詩を啓示され引用した。パウロから二〇〇〇年経過した今全世界で神を賛美し感謝する人が無数にいる。


八月二三日(火)移動夕拝(中川宅)イザヤ書四一章1729  13名スカイプ12
 捕囚になっていた民がやっと帰れるようになった。荒野に道が備えられ砂漠に水が湧く、そのようにして、困難な長い旅路が守られた。「わたしの救いの右の手であなたを支える」「恐れるな」神はこう言われ実行された。歴史の中で起こった事は今の私たちの信仰生活に当てはまる。もし神が助けなかったら、木が一本も生えていない乾燥した砂漠を行く民は死んでしまう。しかし神は、木も草も生えない不毛の高原に最も必要な水を流れさせた。私たちの魂もいのちの水が与えられなければ致命的で干上がってしまう。いくら知識があっても、地位が高くてもこの水は与えられない。人間は元々荒野であり渇きを持っている。神の所に行けば、地位や能力に関係なく神がこの水を下さる。神の御手が述べられ良きものが自然に生まれてくる。ミルトスの木に象徴される有用なもの、いろいろなよきものが心の中から育ってくる。これは新たな創造であり人間の力ではできない。それは神の御手がしたと書いてある。神はこれから先起こる事を告げられるが、この世の事象を越えて見抜く事は唯一の神以外には決してできない。神でないものを神としているものは無になる。それに対して唯一の神がされる事は信じる人の魂に水を流し再生される事である。


八月二十八日(日)
静岡から西澤正文氏を迎えての特別集会 参加者51名、内スカイプ2名。
 聖書講話(その1) 吉村孝雄 (ロマ書九・1929
 人が救われるのは神の選びによる。それならば、選ばれていない人が悪いことをするのは、あたりまえでないか、という考えがあった。この世の不公平や目に見える世界の差別を考えると、神が正義や愛とは思えないことが多い。しかし、愛と真実の神がおられることをまず信じる。神がすべてを作られた。そのなかに愛があると、信じなければ、そこからはすすめない。 神がいるなら、そして愛の神であれば、世界中に悲惨な出来事が、どうしておこるのか。目に見える世界は闇である。しかし、そのような中であくまで、信仰に立つ。そのとき、そこから、不思議な道が開かれていく。目には見えない乗り越える力も平安も、神によってあたえられる。そして、たとえ死んだとしても、人の命は死後に永遠の中に移る。神は最善にしてくださる。神を信じるとき、死後にも希望をつなぐことができるのである。


聖書講話(その2) 西澤正文 (マタイ十九・1626
 どうすれば永遠の命が得られるのかと、青年はイエスに尋ねた。イエスは、もし、命を得たいのなら、おきてを守りなさい、と、青年に対しまっすぐに答えられた。そしてイエスは青年にモーセの十戒から守るべきことを示した。まじめな青年はそのことを守っている。なのに、永遠の命を得られない。何をすればいいのか、と聞いた。青年はそれらを形式的に守っているだけであった。神からの要求は、命をささげて守ること、心から守ることだった。青年の欠けていることを、イエスは示したのである。
 イエスは青年を慈しみ、まっすぐにみつめて、持っているものをすべて売りはらい、貧しい人に施しなさい、と言った。神の望むところは、隣人を自分のように愛しなさい、ということなのだと強調したのであった。自分の持ち物をすべて売り払う、ということは、言葉だけでなく、愛の具体的な実践をともなって行うということであった。
 青年は弱点を示され、返す言葉がなく帰って行った。十戒を守っていると思っても、胸に手を当ててみると、実際は神のおきてを守れていないことがわかる。つまり、永遠のいのちは人間の努力では、できないのである。ここにキリストの十字架による、あがないが必要となってくる。永遠の命は神からの一方的な愛、恵み、ほどこしなのである。
 イエスはそのあとで、弟子に、金持ちが天の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうがやさしいと言われた。ラクダが針の穴を通ることはできない。イエスが言いたかったのは、金持ちが天の国にはいることは難しいということであった。このお金というのは、人間の欲望全てをさしている。名誉、地位、肩書、学歴、資格、職業。神以外のこういったものをいつのまにか崇拝して、こころのよりどころとしているのが人間の実態である。人間の欲望は、深くてどうしようもない。金持ちの青年は、わたしたち自身の姿である。そして、そのままでは、財産をすべて施すことで示されるような純粋な心で人を愛することは人間にはできない。
 この話を聞き、弟子たちは驚き、それでは誰が救われるのかと嘆いた。イエスは彼らを見つめていった。人間にはできないが、神は何でもできる、と。
 キリストの十字架のあがないによってのみ、人間は救われ、永遠のいのちを得ることができる。つまり永遠のいのちは神をどこまでも、最後まで信じることによってのみ与えられる恵みなのである。
 今、日本は災害の苦難による転機を与えられている。あえて神様がこのことを起こされたのは、神様が日本人に、大切なことは何なのかと言うことを投げかけていると思われる。日本人よ、どん欲な自分の姿をみつめて反省しなさい、神に立ち帰りなさい、というメッセージである。しかし、この苦難は新しい日本に生まれ変わるチャンスでもある。本当に大事なことは何なのか。方向転換しなさいということである。
 一切を捨てて、神にすがる。この道が永遠のいのちに通じる道なのである。
・静岡から西澤さん、前澤さんが来られました。礼拝のあと共に昼食をいただき愛餐をしました。


八月三十日スカイプ集会 ヨハネ九章3541 参加者二十名
 生まれつき見えなかった人が、イエスキリストによって見えるようになった。ヨハネによる福音書九章には、「見える」「目が開かれる」という表現が多く、ヨハネ福音書全体にも「見える」ということに対する深い啓示がある。
 イエス様が来られたのは、罪の贖いのためであるが、ここでは「見えないものが見えるようになるため」とも言われている。
 イエスキリストに結びつく者は、イエスキリストと同じようなものが霊の目によって見えるようになる。まず罪が赦されるが、赦されることによって、最終的にこのような祝福が与えられる。
 本当に見るべきものは、全世界の罪を取り除く、神の子羊キリストである。
 私たちも、かつては霊的なことが見えなかった。しかし、信じることである程度見えるようになっている。それは、聖書の真理が部分的に見えたり、十字架が分かったり、困っている時に、神様の助けが見える、復活が分かるなど。これが、キリスト者の特質である。
 パウロはユダヤ社会のエリートの教育を受けたが、キリストの真理は見えず、実際に目も見えなくされた。けれどイエス様の憐れみによって、救い主ということが見えるようになった。またステパノは周囲の憎しみのただ中で、キリストが天におられるのを見た。聖なる霊によって、どんな状況にあってもこのように見えるようになる。
 ところが、「見えている」(何が正しいことなのかなど皆わかっている)と言って、自分の罪が見えていない者は、ますます見えなくなっていく。見えなくなるということで、すでに裁きが起こっているのである。
 ダンテは「見る」ことに敏感であった。
地獄・煉獄・天国篇の一番最後に星が出てくる。霊の目が開かれたものは、闇の中に星が光るように、霊的なことが見えてくる。そのような思いが込められていると考えられる。
 やがて肉体の目も衰え、イエスキリスト様がいなければ、霊の目も見えなくなり、生ける屍になってしまう。主イエスはトマスに対して「見ないのに信じるものは幸いである。」と言われた。そしてトマスは信じた。本当の信仰は、このトマスのような飛躍であると言える。証拠になるものを見ないのに、霊の目で見て信じる者こそ幸いだ。 そこに幸いがあり、ますます祝福がある。
・このスカイプ集会には、県外から、北海道、宮城、福井、大阪、栃木などからの参加者があり、遠く離れていても、主にあってインターネットを通じてともに礼拝できた恵みを感謝でした。


9月6日 夕拝 イザヤ42章1~4「傷ついた葦を折ることなく」  第2イザヤが記したと言われる40章から55章。40章でバビロン(現在のイラクにある。新バビロニア帝国の首都の名)に捕囚となって半世紀、新バビロニア帝国はペルシャに敗れ、ペルシャ王キュロスはユダの民に祖国への帰還を認めた。(歴史的にも非常に珍しいことであった。)こうしてユダの民の苦役の時が終わった。解放されて、実際に帰還する目的地だけではなく、メシアが現れると啓示された。捕囚から還る人々は二重のヴィジョン(帰国と霊的救い主)を与えられた。1節「見よ」と喚起する。なぜなら、かけがえのない、絶大な価値ある、大きなものを見たのだから、私たちが見るべきものは(お方は)このような「僕」なのだ。(4129で「見よ」と言われている者と対照的。)
 イザヤに啓示されたのは、消えていくものではない。現実の世ではきらびやかなもの、奇をてらうものやことが喜ばれる。地震国に高いタワーを建てたり、巨額のお金を使ってオリンピックを誘致しようとしたりしている。しかし私たちには見るべき大切なものがある。ヨハネ1:29にバプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」世界全体のあらゆる罪(心の中の)を取り除き、そして殺されて死ぬお方。神が喜ばれるのは、このような人なのだ。私たちも、この人こそ見るべきなのだ。
 2節 彼は究極的「正義をもたらす」お方でありながら、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」とても地味な仕方で人々に語られたが、現在に至るまでその真理は伝わってきた。真理はいかに小さな声であろうとも、必ず伝わっていくものなのだ。
 3節 パスカルは「人間は弱い葦だが、考える葦である。」(「あし」のことを「よし」ともいう。)と言った。「暗くなっていく灯心を消すことなく」葦も灯心も私たちひとりひとり、人間の姿である。年と共に弱くなっていくまた善意も誤解されたりこのような側面もある。しかし、メシアは傷ついた葦も、消えかかっている人の灯も消さない。人は見捨てることもあろう。しかしメシアだけは近づいて助けて下さるお方なのだ。だからこそ、「見よ」と言っている。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N


お知らせ

9月23日(秋分の日)祈の友・四国グループ集会。午前11時~午後4時。「祈の友」会員以外も自由に参加できます。
会費 500円(昼食代金) 別に昼食持参の場合には会費は不要。 聖書講話者冨永 尚(愛媛県)、吉村孝雄(徳島県)
・会場徳島市南田宮1~1の47 徳島聖書キリスト集会場。

詩篇の聖書講話 録音CD 引き続いて申込があります。
このCDには、かなり以前からの主日礼拝、各地での家庭集会での詩篇の聖書講話を収録したので、同じ詩篇が別の機会に話されたのもかなりあるのがそれらも合わせて収録されていること、また長い詩篇は複数回にわけて講話したり、短くとも重要なものは例えば詩篇23篇のように何回かに分けたものもあります。そのため、150篇の詩に対して276回分の聖書講話が収録されています。
 一回分が約30分ほどなので、このCD全体では、140時間近い録音時間となっています。
 これを聞くためのMP3対応 CDラジカセも送付依頼が県内外からこのところ続いてありました。詩篇は聞きたいが、MP3なので聞けないという方が以前からおられますので再度書いておきます。
ある方は、MP3というのは全く何のことか分からないので、自分には使えない、と言われので、そうでなくだれでもすぐに使えると説明したところ、購入され、さっそく詩篇を聞いておられるという人もいます。MP3とか分からないと思っている方は、そのようなことが分からなくとも、かまわないので、詩篇を学びたい、と思われる方にはお勧めしています。
 すでに完成しているのは、創世記、ヨハネ福音書、ルカ福音書などです。いずれもMP3形式のCDです。
最近の電気機器は、ある期間販売したら、それはまもなく製造終了となって、新たな製品が販売されますが、MP3対応のCDラジカセというのは、現在のビクター製品がなくなったら、ほかのメーカーで作るかどうか不明です。何年か前にサンヨーがそのようなMP3対応製品を販売していて、それを紹介したところ多くの方が購入されましたが、それから数年で製造終了となって現在は,サンヨーではMP3対応のCDラジカセは作っていないのです。その後しばらくしてビクターが販売し始めたので現在はそれを紹介しています。CDラジカセですから、もちろん一般のCD、ラジオ、カセットも使えます。(価格八千円、送料千円)
(それからパソコンできる人はUSBメモリも使えるし、カードリーダーを使うと、SDカードも使える便利なラジカセです。)
特定の有名な詩篇、例えば詩篇23篇などのようなものだけでなく、詩篇全体について学びたいという希望の方々が多いのを感じます。
どのキリスト教の集会・教会でも、詩篇全巻を一つ一つ学んだというところは、とても少ないのではないかと思われます。
そのこともあって、詩篇全体をもれなく学びたい、そこからの私たちへのメッセージを受けたいと願う人が多いようです。
しかし、詩篇には、わかりにくい表現や、表面的に見るとあまり読みたくないような内容、現代の私たちには何の関係もないように見える詩いろいろと違和感を持つことも多いので、なかなか親しめないという方がいます。
しかし、詩篇こそは、あらゆる人が本来最も身近に感じるもの、人間の心の世界をリアルに記したものです。
数千年前の人間が何をどのように神に語りかけ、訴えていたか、また真理を受け取ってどのようにそれを分かとうとしていたか、この世の悪の力の最終的解決をどのように見ていたのか等々の最も直接的な表現がそこにあります。
そのような意味でも、詩篇全体を、現代の私たちに向けられたメッセージは何か、に思いをめぐらしつつ、祈りをもって読むということが大切と思います。

本の紹介。
「原子力発電と平和キリスト者の視点から」著者 吉村孝雄 121頁。定価 500円(税込)送料100円 (なお、25冊までの送料300円、10冊まとめて購入の場合は、価格は3000円、送料500円とします。)申込は左記まで。原発関係の本は現在では数多く出版されていますが、キリスト者の立場から書いたというのは見かけません。それと聖書における平和とはどういうことを意味しているのか、ということに関しての大阪クリスマス講演で語ったことも追加しています。

9月18日(日)は、ダンテの神曲 読書会。この日から天国篇をはじめます。


集会だより 2011.08 NO.374


神は唯一であって、すべてのものの上におり、
すべてのものを通して働き、
全てののものの内におられる。

(エペソ46



7月3日(日)主日礼拝 サムエル記上十二章18節~十三章 この箇所は、サムエルの告別の辞である。
 神こそが王であるのに、イスラエルの民は違うものに寄りすがってしまった。それが罪であった。罪には罰が与えられる。それは、罰によって、真実の道に立ち直らせるためである。
 サムエルは神の力を注がれて、雷雨を降らせた。それをみて、サムエルに与えられた神の力を民が知るために神がされたのであった。民はその力に驚き、犯した罪を告白し、死なないようにしてください、と赦しを求めた。神に赦されなければ死んでしまうと感じたのであった。人には罪があり、神に赦されなければ、魂は死んだような状態なのである。
 人間にとって、一番大事なことは罪を赦していただくことである。汚れを清めていただくことである。ここにサムエルの大いなるとりなしがある。人間は、神に導かれることと共に、とりなしをうけることが重要なことである。
 罪あるわたしたちが、神に赦していただく。そのために聖霊がうめきながらとりなしてくださっていることをロマ書で学んできた。このとりなしの重要性が、旧約聖書のこの箇所でも示されているのである。


 わたしたちも、他者と関わるとき、その罪のとりなしをする必要がある。信じる者に与えられる聖霊によって、他者をもとりなしていくことができる。自分の罪だけでなく、他者の罪も赦されるように、清められるように、というとりなしの祈りがわたしたちには与えられているのである。 
 十二章23「わたしたちもまた、あなたたちのために祈るのを止めて、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」とある。祈らないことが罪であることが示されている。そして最後に主に仕えること、神の偉大な御業を思い、信じて祈ることが示されている。
 十三章では、神を待つということの大切さが示されている。神はサウルに七日間待ちなさい、といわれた。しかしサウルは待てなかった。兵が離れてしまうのを見て絶望し、自分で焼き尽くす捧げ物をしてしまったのだった。そして、捧げ終えたとき、サムエルは到着した。サウルは神の約束を待てずに破ってしまった。そのことによってサウルの王権が壊されていったのである。危機において、特に神の言葉を待ち続けると言うことが重要である。わたしたちも、何かをなすべきとき、言うべき時、自分の考えでいってしまうと、そこには祝福はない。時間をかけて待つ、ということは、信じる者にとっては大事なことである。神は必ず最善にしてくださる。
 わたしたちは、主イエスによって罪が赦された。だから、これからも、主イエスがきっと最善に導いてくださる。だから、家族の問題も個人のことも、また、日本や世界のことも、信じてまち続けることが重要である。


七月四日 小羊集会  マタイ二十四・3244
 世の終わりには混乱がある。しかし、それから再臨のキリストが来られ、究極的な良きこととなって行く。だから世の終わりは決して絶望ではない。揺るがない希望である。
 現在の目に見える天地は過ぎ去る。しかし神のことばは変わらない。主イエスのことばは、消えたり変質したりすることなく、また二千年たっても、変わらない。
 人間の言葉は、この世では簡単に変わる。主イエスの弟子のペテロですら、イエスを裏切ってしまった。人間は弱い。だからこそ、このように変わらない神のことばを見つめて行くべきなのである。
 言葉とは意志である。主イエスの意志、つまり神の御意志は永遠に変わらないということである。このことは特に重要なことであるから「主の祈り」でも「御国が来ますように」つまり「神様の御意志がなりますように。」という祈りを主イエスは示された。神様の御意志は天で霊的に行われている。それと同じように、地でもおこわなわれますように、という祈りである。
 聖書そのものが神の御意志のあらわれである。初めに闇と混沌があったけれど、そこに光をあらしめたのは神の御意志である。
キリストが来られたのも神の御意志、ご計画である。そして、世の終わりに、最終的に良きことに変えていただけることもまた神の御意志なのである。だから、それは必ず成就する。わたしたちも、人間の言葉に動揺することなく、変わることのない神のことばに立った上で人間の言葉を聞く必要がある。
 ここに、世の終わりはいつなのか、主イエスも知らないとある。世の終わりは、神によってのみ、なされる大いなることなのである。だから、戦争や天変地異のことをきいても、ただおびえるのではなく良きことに変えられていくことを信じて祈っていくべきなのである。
 目を覚ましているとはどういうことか。キリストが内にいる状態、キリストの内にとどまっている状態、そのような状態が、目を覚ましているということである。霊の目を覚ましているとき、人は表面的な事柄でなく、物事の背後にある神の御意志を見ようとすることができる。そしてそれは、いつも気をつけていないとできなくなる。人間は弱いので、すぐに動揺する。しかし、気がつけば立ち返ると、また神に対して目を覚ますことができるようにさせてくださる。
わたしたちに、本当に必要なことは多くはない。目を覚まし、神の御意志を日々求めていくことが大事なのである。



七月七日(木)いのちのさと集会 詩編一四四
 王であるダビデが自分の小ささと神の無限の大きさを感じ賛美している詩である。神は諸国の民を私ダビデに服従させて下さる。若い世代も祝福され、穀物も祝福され、国全体が豊かに潤っている。王は自分の国の軍備、資源、経済力を誇るのでなく、まず主を讃えた。永遠に壊れる事のない真理の神を賛美する。生きた神の事が具体的に書かれている。砦の塔や盾など現代では使わないが比喩的な意味で今の私達にも当てはまる。悪の霊との戦いである。どんな戦いが起こっても、主が我が砦、我が支え、我が逃れ場。神は私たちが困難な時逃れていく場である。中傷が起こっても打ち負かされないで神に任せる事ができる。次に、人間は何ものなのかが書いてある。人間は息、消える去る影のようなもの。自分が素晴らしいから神が目を留めてくれるのではない。人間は一番を目ざし目立とうとするが自分は小さいと分かっている程、神が見て下さる。しかし、人間はなかなか自分は小さい存在だと思えない。人間は本当は影のようなもので、真実や愛がない。愛を持っていると思っても、すぐ壊れたり簡単に変質してしまう。人間とは隔絶した世界に神は君臨している。天を傾けて降り、山々に煙りを上げさせ、稲妻を放ち、御手を遣わして私たちを解き放って下さる。作者は、神の絶大な力を自然界を通し体験し、神の力を信じて寄りすがっている。神に新しい賛美を捧げている。神の力を受けたとき絶えず新しい気持ちで賛美ができる。



七月八日 天宝堂集会 マルコ四・2125
 ここで「ともし火」と書かれているのはキリストの光のことである。「ともし火をもってくるのは」とあるが原文の意味からは、「ともし火が来る時は」という意味合いとなる。キリストの光がくるのは、見えない下に置くためでなく、上に置くためであると暗示している。キリストの光は、どんなに隠そうする力が働いても現れてくる。キリストは、ユダヤの一角で過ごし、そして殺された。光を消されたように見えた。しかし、その光は全世界に広がっていった。だから、光に聞きなさい、と示されている。光がキリストのことなのである。
ここで、特に「聞く」ということに重点が置かれている。キリストの光が来た。だから、聞く耳のあるのもは聞きなさい、とある。
 次に、持っている人はもっと与えられ、持っていない人は持っているものまでなくなると書かれている。何を持っている人をさすのか。これは、真実な信仰をもっているかどうかであり、また、聞く耳をもっているかどうかということである。神のことばを聞こうとする人は、ますます聞く耳が与えられる。しかし、神に聞く耳を持たない人は、いっそう真理の言葉が聞けなくなってくる。
これは「求めなさい、そうすれば与えられる」(マタイ七・7)ということにつながっているのである。信仰をもって、さらに求めていけば、さらに与えられる。礼拝は神のことばを聞くために集まることである。集まりの中にいてくださる神がことばをくださるのである。
 自分の計るはかりで計られる、とは、神などいないと思えば神からの言葉は与えられないし、神は少しだけ与えられると思えば、少ししか与えられない。神から与えられないのは、神を過小評価をしているからである。人間の姿勢で与えられる程度が変わってくることが示されている。
素直な心で、天のたまものをください、と願えば、与えられる。神はいつも、与えようとされているからである。
 キリストという闇に輝く光がきてくださった。どうか主よ、この光なるキリストに求めて聞く耳を与えてください。


七月十日(日)主日礼拝 ローマ信徒への手紙八・3134
  神がわたしたちの味方であるならば、だれが敵になるか、とある。わたしたちに敵がいなくなり、誰もが味方となる。これは「万事が益となる」ということとつながっている。
 わたしたちが誰かを敵だと思うのは、自分に害があるからである。しかし、信仰によって神が味方であり、すべてが益となるのであれば、敵となるものはなにもない。これを思うと、わたしたちには敵がない。最大の敵は死である。それさえも、復活によってキリストと同じ姿に変えてくださると信じるとき、それは希望となる。
 神は御子を死なせてまでわたしたちを救ってくださった。だから、その御子とともに、わたしたちに、すべてのものをくださらないはずがない。この、すべてのものをくださる、とはどういうことか。これは、人間にとって本当に大事なものをすべてくださる、ということである。人間にとって本当に必要なことは、信仰であり神の愛である。そして神はその必要なすべてをくださるのである。
「すべてのものは与えられる」ということは、詩編23編「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない」ということにつながっていく。パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と書いている。すべての時すべてのことを、神様にしっかりとつながっているとき、すべてに感謝できるようになる。そのようにしてくださるのが、神の愛である。
「すべてはあなたのものです」(第一コリント三・21)とパウロは記している。このことは、大きすぎて、人間にはわからない。しかし、聖霊の光が与えられると少しずつわかるようになってくる。そして、この「すべて」ということが、罪の赦しととりなしに結びついている。
人間の罪をすべて、赦して清めてくださる。これこそ、人間にとって一番大事なことである。このことこそが、「すべて」ということに入っているのである。



七月十七日 主日礼拝ローマ信徒への手紙八・3539 41
 八章全体が、聖霊と神の愛について書かれている。
 救われた人の新しい生活は何に導かれているか。自分の感情や考えではない。キリストの霊に導かれていくようになる。聖なる霊がわたしたちを助けてくださる。祈れないときには聖霊がわたしたちの弱さを見てとりなしてくださる。そして弱いわたしたちに赦しを与えようとしてくださる。
 しかし、神の愛は苦しみがないということではない。ここでパウロも艱難や苦しみ、迫害に遭遇したとある。神に愛されていてもこのような苦しみにあう。しかし、そのような苦しみの中で勝利が与えられていく。それが神の愛である。パウロが強調しようとしたのはこの勝利であり、ここに神の愛があることである。この世のこととは異なる勝利であり、聖書はすべてこの勝利をさししめしている。キリストは苦難を受け、侮られ、最後には十字架で殺された。しかし、これこそが神の勝利であった。
 創世記には初めに闇と混沌があったことが書かれている。初めにあったのは闇であった。それは自分中心であり、罪を持つ人間の闇を示している。しかし、それにうちかつ、神の光、力がある。そして、初めて闇に打ち勝つことができる。
 このことをうけて、ヨハネは「闇の中で光が輝いている。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。」と記しているのである。わたしたちには、罪の力が働いており罪の奴隷となっているといえる。その罪の力に勝利するものが十字架である。そして誰もが避けられない死。死は最大の敵であるといえる。この死に対する勝利がキリストの復活で与えられた。わたしたちは死んでも永遠の命が与えられる。十字架と復活。これが神によって与えられた大いなる勝利である。そして、世の終わりの問題がある。宇宙全体が弱り衰える滅びの力が世界には働いている。それに打ち勝つのがキリストの再臨である。罪と死、そして世の終わり。そのすべてに対して勝利するのが、キリストの力である。
 人間は弱い。明日のこともわからない。しかしただ、キリストは勝利してくださっている。そして求めなさいと言われている。信じて求める気持ちをもっているひとは与えられる。求めようとしなければ、持っているものまで取り去られる。
 神の勝利を信じて、どこまでも祈り求める者でありたい。



七月二十四日 (日) 主日礼拝 (吉村(孝)は北海道に出向いていて不在。録音による)ルカ11・1~2  32
 祈らないということは霊的な呼吸をしていないということである。祈りがなければ、信仰は枯れていく。そのように祈りは重要なことである。イエスが祈っていたとある。弟子たちはイエスが祈っていることをいつも見ていた。それで、正しい祈り、正しいありかたを求めた。
 旧約聖書で初めに出てくる祈りはどこか。創世記十四章、アブラハムが戦いに勝った時に、メルキゼデク王がアブラムに祝福の祈りをした。それが聖書における最初の祈りである。このような祝福を祈る祈りはだれに対してでもできる。そして神をたたえるという祈りもどんな人でもできる祈りである。 
ここにあるメルキゼデクは新約聖書にも特別な存在として出てくる。新約聖書ヘブル書七章に記されており、イエスキリストを象徴的に表している。このメルキゼデクの祈りが聖書における最初の祈りとして記されている。
 次に記されている重要な祈りは、アブラハムの祈りである。それはソドムとゴモラのとりなしの祈りだった。この他にはアブラハムの祈りは書かれていない。ここだけ、祈りのことを特に詳しく記されている。このとりなしこそが重要である。罪あるものがどれほどいても、たった一人の正しい人がいれば救われる。滅ぼされない。その究極がイエスキリストである。それを浮かび上がらせている。
 このイエスが示された主の祈りは、どのような人でも祈ることができる。御名があがめられますように。これは御名が聖とされますように、という祈りである。神を聖とするとはどういうことか。神は星のように、完全性と真実を持たれている。あくまで、神の愛はある。何かの理由で今、それが見えなくなっているとしても、神は変わらない。それを信じることができれば、動揺することはない。神は特別にこの世とは分かたれた、真実で完全な存在なのである。そのことを、人間が誰しも知ることができるようにという祈りである。
そして星を見つめるように、神を見つめる。その神のご支配がきますようにと祈る。真実で完全な、愛と真実なご支配が来ますように。これは、どんな人でもできる祈りである。



八月二日 火曜日 夕拝 イザヤ2631
 この箇所では、よく似た意味の言葉が並行的に用いられるところがあり、内容が強調されて一層読む者には、印象を強くなる。
27
節4行目 「わたしの裁きは神に忘れられた」ここは3行目の「わたしの道は主に隠されている」と同じ意味で、捕囚の民の叫び、悩み、悲しみ、不満は募り、進むべき道が主によって隠されている。祖国は滅ばされ、民は奴隷のように捕囚となって連れて行かれた。どう生きてよいのかわからない。という意味で、関根正雄訳では「私の訴えは神の前を過ぎ去っていく」となって、聴いてもらえない忘れ去られた、「助けてください」と言って、イスラエル民族は全体とし滅ぼされてしまうのではないかと絶望的叫びをあげているのである。そのような状態のなかで28節 「あなたはしらないのか、聞いたことがないのか」と預言者は言っている。民族的な危機にあって、あなたは知らないのか、神は永遠の神で、万物の創造者、時間的、空間的に存在され、その英知は究めがたいのだ。人間のような弱い者が救いがないと思っても、神は人間とは違うのだ。29節 神が「力を与える存在」ということが強調されている。30節 逆に人間は若者も勇士も簡単に倒れてしまう弱い存在にすぎない。31節 だからこそ、人間的なものに望みを置くのではなく、主に望みを置くことが言われている。人間的なものは確実に力を失う方向に向かう。主のこと以上に重きを置くと、力がなくなる。
 絶望のところに力を与えるのが聖書全体のメッセージである。創世記の1章からそのことが言われている。神はまったくの闇の中に力を与える、光を与える方、秩序を与える存在2章では全地が乾ききっていた。そこに水が流れるようにされた。
 また詩篇1編も福音書のぶどうの木の譬も、み言葉に信頼することの大切さを教えてくれる。



8月5日(金)午前の祈祷会。集会場にて。
8
月の下旬の西澤さん来徳しての特別集会、いのちのさと作業所での北田康広コンサート、木工会館での平和の集いなどが主によって祝福されるように、各地での家庭集会のため、また現在病気の方々、集会に参加できない状態の方々、他県での関わりある集会、東北大震災の被災者、原発問題、集会での伝道のための印刷物やCDのため、「いのちの水」誌、毎月の集会CD、詩集、文集、アシュレー、また徳島聖書キリスト集会のホームページ等々が主によって用いられますように、さらに日本の人たちがキリストの救いを得るように、そのための働き人が起こされるようになど祈りました。



お知らせ、報告など

今月号の「いのちの水」誌には、私(吉村)が、7月下旬に出向いた、北海道、東北など各地での集会などについて、かなり詳しく書きました。それは私の個人的な旅行などでなく、日頃から集会の多くの方々からの祈りを受けて、集会の方々の代わりに、あるいは霊的には、集会の人たちと共に赴いている、という側面があるからです。
各地での集会、訪問先、そして被災を受けて困難な生活をしている方々の上に、主の祝福を祈ります。

「祈の友」に私たちの集会と関わり深い方々の入会があったのでお知らせしておきます。(「祈の友」誌8月発行に記載)
・細貝昭吾兄2003年9月にウイーンからの帰途に、軍前に「祈の友」誌を読んで、「祈の友」と無教会の存在を知ったとのことです。その後、大腸がんになりましたが、手術後の経過はよくて現在は体調は安定しているとのことです。なお、細貝さんは神奈川県相模原市在住ですが、本人のご希望により、徳島聖書キリスト集会所属です。
・西澤正文兄学生時代に右肺のみ手術しましたが現在は体調は良好とのことで、1975年に浜松市の故溝口正さんに導かれて入信、翌年清水聖書集会を紹介されて現在は、その責任者です。以前から 西澤さんの周囲には「祈の友」の人が多くいたので親近感を持っていて、いずれ機会あればと思っていたということです。キリスト教にとって、祈りの大切さをあらためて感じており、会の皆様の一端に加えていただきたいとのことです。
一冊の「祈の友」誌が用いられて新たな方がキリスト者となられ、またこのように、そのときから8年を経て、「祈の友」に実際に加わることになる、というのは不思議な主の導きを感じさせられます。
私どものキリスト集会で各種の印刷物、CD、ホームページなどをだしているのも、このように主が用いてくださることを祈り、信じて続けています。
10
年間でたった一人でも、そのようの印刷物などが用いられてキリストへと悔い改めがなされるならば、それだけでも続ける意味があると思っています。

あなたのパンを水の上に投げよ、
多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
なお、「祈の友」には誰でも入会できます。「祈の友」という集まりは、戦前に、結核が恐ろしい死の病であったとき、共に祈りを合わせようとの一人の結核の青年(内田正規1944年に召された)に示されたことから始まり、80年近い歴史があります。
最初は、結核患者の祈りの集まりでしたが、急速に戦後は結核が減少していったので、結核以外の病者、障がい者も加わり、また健康な人も加わってともに祈りを合わせる集まりとなって今日にいたっています。
現在は、召されていますが、次にあげるのは、伝道者、牧師、医者、福祉事業創始者、学者、キリスト教書店経営者、キリスト教集会責任者、キリスト教著作家などとして知られている方々ですが、かつて「祈の友」会員でした。

樫葉史美子、矢内原 忠雄、伊藤 祐之、岩井恭三、亀谷 凌雲、塚本 虎二、日吉 城一郎、山田 鉄道、渡部 悦太郎、西川 賤、仲のぶ彦、政池 仁、藤沢 武義、倉岡 みすえ、服部 治、松波 閑子、大浜亮一、金田福一、伊藤 邦幸、関藤 仁志、長谷川 保、野村 実、小田 丙午郎、小池 辰雄、松井 義子、三浦 綾子、岩辺頼春、岩島 公、岩村 昇。

小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)の、「原発はいらない」(838円)新書版が7月に発行されています。ご希望の方は、吉村まで


集会だより 2011.07 NO.373


あなたは私の隠れ家、わたしの盾、
み言葉を私は待ち望む。

(詩篇119114


 

 六月六日 (月)小羊集会 マタイ二十四・1531 この世は、徐々に改善され、良くなってから終わりが来るのではない。世の終わりには、困難な苦しい状態が来るとある。聖書はこのような厳しい内容も、繰り返し記されている。しかし、人間は厳しい真実からは目をそらし、本当は危険な厳しい状態であっても、危険はない安全だと嘘をいうことがある。今回の原発が然りである。しかし、聖書は真実しか語らない。現実をはっきりと書いている。いかに、人間が読みたくないような内容であっても、真実であれば書かれている。
 世の終わりには、天変地異や戦争と共に宗教的なまどわしもあるとあるが、そのような中に、主イエスが突然来る、とある。主イエスが来られるときは、主が言われたように「稲妻のように」来るのである。この世のどんな妨げがあっても、神様の時が来れば、一瞬でひらめきを与えられるように主イエスは来られる。
 その苦難のとき、太陽が暗くなり天体が落ちる、とある。長い視野で見れば、太陽も、何十億年を減ると膨張したのち最終的には、暗くなっていく。きわめて長い時間ののちには天体すらも光を失う。太陽、星、月さえも完全ではない。すべてのものは変わっていく。しかし、神の言葉だけは永遠に変わらない。世の終わり。それが、どんな風におこるのかわからない、しかし、はっきりしていることは、神の言葉はかわらない、ということである。神のことばとは、キリストのことばであり、キリストはまたロゴス(ことば)とも言われているように、神の言葉そのものでもある。主にあって、神様と結びついていれば、苦難は縮めて下さる。たとえ長く感じることも、主と結びついていれば、短く感じられるのである。
 神は愛である。世の終わり、歴史の最後に来るのは、恐ろしいことではない。それは究極的な救いである。いかなる事がおこっても、主イエスは、天の雲とともに、すなわち神のちからをおびて、来てくださる。この世で誇っていた、強大なものは消えていく。そして、主イエスがこられ、新しい天と地が訪れる。
 この世の問題は、最終的にはこのことを信じなければ、希望がない。多くの人にとって原発の問題は知れば知るほど暗い気持ちになるのではないか。しかし、何が起ろうと、最終的には主イエスが来てくださる。黙示録二十一章には、新しい天と地について啓示されている。天から新しい都が降りてくるのである。その新しい天と地で、わたしたちは神と共に住む。そして、あらゆる悲しみはすべてぬぐいさられる。そのような時は必ず来る。神は真実であり、神の言葉は必ず成就するからである。



六月七日 火曜日 夕拝 イザヤ書三十九章 イザヤ書は第1(1~39章)第2(4055章)第3(5666章)に分かれている。創世記も出エジプト記も詩篇も作者不明である。創世記は卓越した内容であり、重要な書であるが、霊感を受けた預言者が書いたと考えられる。
 ヒゼキヤ王の治世14年にアッシリア軍が攻めてきて、ユダの国を圧迫した。しかしヒゼキアの祈りを神は聴かれ、奇跡が起こった。アッシリヤの一八万五千人の兵は主の御使いによって撃たれ、センナケリブ王は息子に殺された。(373638) 病を癒され、アッシリアの脅威もセナケリブの死によって、一時弱くなっていたユダの国であったが、ヒゼキヤの心にはなおアッシリアは脅威であった。そしてヒゼキアはバビロンと結託してアッシリアに対抗しようとした。ヒゼキヤを見舞にきたバビロンの使者にヒゼキヤは宝物庫、武器庫、倉庫にある一切のものを見せた。見せなかったものは、一つもなかった。
 大病が癒されたヒゼキヤの中に油断ができた、新興国バビロンを信頼しすぎた。ヒゼキヤのような信仰の強い王であっても、油断したら大きな崩壊のきっかけとなる。ヒゼキヤは偶像崇拝をしたこともない王であったが、神様を全面的に頼らないと過ちを犯すことになる。神さま以外のものに軸足を移すと、良いことは決しておこらない。(アブラハムもヤコブもモーセも経験したことである。)
 人間には見せたいという願望がある。能力、権力、持ち物。人の前で何を見せるべきか。神さまがどのように導かれたかを見せ、神様の栄光をあらわすことだけば求められている。



六月八日(水)水曜集会 詩篇115わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみと真実によって(第一節)
この言葉に全てが込められている。「わたしたちでなく、主よ」という考えは、あらゆる場合に当てはまる。神が背後でしてくださらねば何もできない。人間関係でも、色々な出会いがあるのは、深い意味がある。神様がされている。そう受取ることが、神の栄光を輝かせることになる。「わたしが」という時、腹を立てたり、争いが起る。神様が、というとき、祈りの気持に変えられる。失敗も何も、愛と真実の神が、意味をもってなされていると考える時、前進できる。わたしたちの意志によって、どちらをも選べる。野山の植物も、いつから在るかわからないが、清く美しい。庭で作ると、自分が作ったと思いがちだが、元々は神が創ったものである。イヤな(と思える)虫も、この世のイヤなことの象徴として警戒するための警告だ。
どこに神がいるのか。それは信じればわかる。この問いは今も昔も同じ。神はわたしたちの只中におられる。そこに、すべてを行う神がおられる。それは単純な信仰があればわかる。神がわからない場合、人間は何か、すがるものを見つけて頼る。だが、それらには何の力もない。主は助け。主は盾。剣や槍など飛んでくるものから守ってくださる。悪意を受けてもこたえない。天(霊的世界)は主のもの。地の作物は神様からの贈りもの。空気も大地も水も神様の賜に満ちている。だから、いつもよろこび神様に感謝をしましょう。原発の廃棄物のようなものは、それらを壊していく反人間的なものだ。賛美しよう神を。天にも壮大な賛美がある。その賛美は永遠に続く。

・集会のあと、「集会だより」を折り、封入。


六月十二日(月)北島集会 列王記(下)23宗教上の大きな改革を行ったヨシュア。出発点は神の言葉の発見であった。神の言葉は、物事を変える根本的な力だ。わたしたちも真に神の言葉を見いだしたら根本的に変る。
いつも聖書に立ち返らなければ、主の神殿であると言われるわたしたちの心の中にも、間違ったものが入り込む。
ヨシュアは、神殿の中にまで入り込んでいた偶像をすべて打ち砕いた。よどんだものを一掃する。それは預言されていたことであり、よほど強い神の力が与えられないとできないことであった。神様がヨシュアに計画を断行する力を与えた。神様は必要な時にこのような人を起し、真理を世界に新たにされる。無から有を呼び出される。
心を尽し、思いを尽し、精神を尽して神を愛しなさい。そうでないとわたしたちの心にも、偶像のようなものがいろいろできてしまう。



六月二十日(月)北島集会 列王記(下)24ユダの国の最後の状況。なぜ捕囚にならねばならなかったのか。それが悲劇的なことであっても、神の民はいつも神のみ手を感じていた。啓示と信仰がなければ、神様のことはわからない。
歴史的な悲劇は、マナセという王の悪事によって主の怒りが燃えあがったことから起った。悪は自分だけにとどまらない。罪の波及、それはアダムとエバの根元的な罪、悪の連鎖がある。それを断切るためにキリストが来られた。しかしまた祝福の連鎖もある。創世記でのノア、アブラハムなど。主が一方的に、先ず語りかけられた。この祝福もまた代々続く。
紀元前598年、第一回目のバビロンへの捕囚。多くの人が遠くに連れ去られ、後に貧困層だけが残された。捕囚で民族が消えてしまうこともある。だがエレミア書24章では「良いいちじくと悪いいちじく」について記述があり、神様は捕囚の民を良いいちじくと見なし、やがて連れ帰る。逃げて拒否した者は悪いいちじくと見なした。神様に結び付いているかぎりどんな困難があっても、本当によき所に連れ帰ってくださる。これは希望である。我々が本当に帰る所は神のみもとであり、霊的な神の国である。霊的にキリストを受け入れることだ。この希望は決して壊れない。



六月二十一日 火曜日 夕拝 イザヤ四十章687月5日 火曜日 夕拝 イザヤ章911 (イザヤ40章から55章は第2イサ゛ヤといわれるところで、バビロン捕囚から帰還または帰還間近い頃の事)
 前に述べたように40章から55章は第2イサ゛ヤ書といわれるところ。バビロンの捕囚となったユダヤの民が、50年余の年月を経て祖国に戻ってくるという啓示を受けたイサ゛ヤの言葉。
○6
8節「神の言葉はとこしえに」
 パレスチナにおいては、雨季は冬で僅かだが雨が降るので草も生え、美しい花も咲く。しかし、 四月から十月の間(春から秋)は雨が降らないので、草も花も枯れ、また萎んでしまう。(年中緑の草木のある日本では想像できない風景である。)そのように、人間も神さまの息が吹き付けると、たちまち枯れてしまう。(神さまの息は神さまの霊とも神さまの風とも訳される)人間世界においても、神の霊が吹きつけたら、いかに権力ある者も、たちまち萎み、枯れる。圧倒的な神の前では何者も持続できない。これは聖書の一貫した主張である。人間的なものが如何にはかなく、神の前に消えていくか、枯れていくことか。世の終わりの時には、もっとも強固なものと思われるものすら、たちまち勢いを失う。(マタイ伝24:1,2神殿の崩壊の予告。ヨハネ伝によると、この神殿の建造に46年かかったとのこと。)人間の創造物はいとも脆く、はかない。このことは創世記の初めからバベルの塔の話で言われている。さらに人間の作ったものではなく、最も永遠的なものと思われる天体にまで言われている。(マタイ24;29に太陽はくらくなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。)神さまが創られた目に見えるものは、「草が枯れる」延長線上にある。目に見えるものはみな衰えていくのだ。これらに対して全く萎まないものがある。それが「神の言葉」である。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:25)このイエスの言葉をイザヤは射程において預言している。
 神の言葉は神のご意志であり、どんなことがあっても変わらない。
○9
11節「羊飼いなる主」
 バビロンの捕囚となって五十年(エレミア書では70年とも。)余を経た時、ペルシャ王キュロスによって、祖国に帰ってよいとの令が出た。不思議なことである。預言者イザヤ(第2イザヤ)は神の啓示によってそのことを知らされ、「主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と言った。そしてこの「良き知らせ」をみんなに判るように高い山に登って知らせよと言う。このことは歴史的事実であると共に、ユダヤの民だけに言われているということに留まらず、現代の私たちにも当てはまることである。「キリストによる罪からの解放」ということが。この世界全体がある意味で、有限であり、限界を持っている。こうした束縛から解き放たれることはよき知らせの一つである。キリストによって罪が赦され、聖なる霊を与えられたら、神の国に帰ることができる。
 この世には良い知らせを知らせまいとする力がある。またこの世にもよい知らせがあるがそれは、束の間。聖書の知らせる「良き知らせ」は今に至るまで変わらない。このイザヤの時から、二千五百年に亘って続いている。聖書は「良きしらせ」の本である。知れば知るほど、よき知らせを持った本である。この短い節の中に、「見よ」という言葉が三度出てくる。私たちは見るべきものが与えられているのだ。その弱さを神さまに日々赦していただき、従って行きたいと願うばかりである。十一節は特に心に残る個所である。絶大な力をもたれ、歴史を動かす神さまが、同時に細やかな愛情を注がれる神さまであると記されている。
主は羊飼いとして群れを養い、み腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。



六月十日 天宝堂集会 エペソ書五・1~5「神様に倣うものとなりなさい」とある。偉大な、万能の天地創造者である神。取るに足りない弱い人間が、神に倣うことなどとうていできない。神は無限大のお方である。しかし、それでも、ある点においては、倣うことができる。それは、神の本質である愛、その愛にならって生きることができるということである。神に愛されているという確信を与えられたら、わたしたちも神の愛にならって生きていくことができる。
 まず、神がわたしたちを愛してくださった。キリストはわたしたちの罪を赦すために、命を与えてくださった。愛によって歩く、ということは、わたしたちも赦していただいたのだから、その愛をもって、主イエスの愛をいただきながら、他者を赦しながら生きていくことである。人間の良くない点を、憎んだり見下したりするのでなく、その人が良くなるように祈りつつ生きていくことである。
「それは肉ではなく、霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(ロマ書八・4)とある。キリストの愛によって生きるとは、キリストの霊に従って歩む、ということである。聖霊によって歩む、というような考え方は、聖書を知らなければわからない。日本は、聖書の示す真実で唯一の神を知らない。そのかわりに科学技術やまた特定の人間を神としてあがめてきた。今回の地震や津波も、聖なる霊や神を中心にしないで生きてきたことの警告であるともいえる。
 人間は弱く、愛によって生きると言うことは難しい。しかし、神に赦され、愛されていることを実感し、神に力をあたえられれば、このような生き方が少しでもできる。イエスは「わたしが道である」と言われた。キリストこそが歩みの根源なのである。
 3節以降は、「聖なるものにふさわしく」ということが言われている。この「聖なる」ということは「分かたれた」という意味である。聖人とか聖者とかいった偉人をさすのではない。神様によって、不十分ではあるが、御国のために用いようと、分けられたのである。分かたれたものは、少しでも、それにふさわしく歩こうとするようになる。
 言葉で人はすぐに罪を犯す。つい、よくないことやつまらないことばかり話してしまうものである。人間の一番よいことばは「感謝」である。受けた恵みを忘れることなく感謝して生かされていきたい。
「そして、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エペソ五・20)とある。あらゆることについて、感謝する。それは、聖霊に満たされたらできるようになる。どんなことにも感謝できるとは、うれしいことばかりを感謝するのではない。神様から霊を深く与えられるとき、自分にとっては嫌なことでも聖霊によって感謝できるようになるのである。



六月一三日(月)藍住集会 詩編一一三 ハレルヤという言葉から始まっている。「主をほめ讃えよ」という日本語にそのまま訳してある。1~3節は「賛美しょう」と言う同じ内容である。神に対する感謝と賛美は一つになっている。神に感謝の気持ちがなければ賛美する気持ちにはなれない。神の真実と愛、無限の力を受けた。だから賛美して感謝する。日本は人間を絶えずほめたたえる。神ご自身がほめたたえられるという発想がない。この詩では全世界ですべての国を超えて高く臨在し、天を越えて輝く神の本質をみんなが知ってそれを讃えるようにと勧めている。時間的にも場所的にも永遠の広がりを持つ神の存在が書かれている。その頃は小さい領域の出来事であったがこれは預言であり、現在全世界で神に感謝し賛美する人が絶えない。私達はいつも主の御名を賛美できるようになる事が最終的な目標である。「いつも喜べ、いつも感謝せよ」と新約にあるが、嫌な事も困難な事も背後で良いことにしてくださる神がいると信じて感謝する。神ははるか高いのに不思議な事に全世界を見てくださる。弱い者、虐げられた者、見捨てられた者もちりの中から起こして下さる。そして、自由を与えて下さる。真理は自由を与える。たとえ子供がなくても大いなる自由と喜びを与えられ霊的に自由にしてくださる。いつも霊の食べ物を与えてくださるからハレルヤと喜べる。



六月一四日(火)夕拝 イザヤ書四〇章  一三名
 三九章は王宮にある物はみな奪われるという予言で終わっている。今日の四〇章は内容が大きく変わり、四〇章から五五章までが第二イザヤと呼ばれている。
「慰めよ、慰めよ」と不思議な始まり方をしている。他にはこのように始まる箇所はない。もうすぐ捕囚から解放されるという時代、この言葉をイザヤは聞き取った。罪を犯すと罰を受けねばならないが、罰を受けて苦しんだ後に今度は「慰めの神」の本質を聞き取った。自分は罪を犯してもう駄目だ、何もないと思ったのに時が来たら神の方から慰めて下さる。十字架のイエスも心から悔い改めるならただちに慰めの神となる。3節でも神が呼びかけて下さった。悲しむ者は慰められ、荒野に道が備えられる。捕囚から帰ってくる広い道が備えられる。山と丘という低い所、高い所の両方が整えられる。罪赦された民がその道を通っていく。その過程でも主の栄光が現れる。これは遥か昔のユダヤ人の帰還の事だが霊的な深い意味があり色んな事に当てはまる。個々のキリスト者の足取りも荒野や砂漠の中に道がついて導かれてきた。聖書を日本語訳にしたヘボンも、荒れ地、砂漠の中を進んで、そこに大路ができた。



六月十九日 (日)主日礼拝 ロマ書八章2627 36 全ての被造物は終末に完全にされることをうめきながら待ち望んでいる。これは現実を見ただけではわからない。木や石などもうめきながら待ち望んでいることをパウロは啓示によって知らされた。幼子のような心を持っていなければ、天の国の啓示は受けられない。しかし、どのような弱者であってもまた、素直な心で神を見つめるとき、啓示は与えられうる。
 全てのものが完全へと向っている。そして人間も、さらなる完全に変えていただける。病気、苦しい状態、罪、それらが取り去られて完全な状態にしていただけるのである。
 聖霊がうめきながらとりなしてくださる、とある。聖霊が弁護してくださるのである。新共同訳では「弁護者」と訳されているこのことばは、原語では「パラクレートス」であり、原語の意味からは、「そばに呼ばれた者」。そこから、「そばで力付け、弁護する者」という意味合いがある。それで、慰めぬし、とも訳されている。聖霊は、わたしたちの弱さを知り、とりなして救ってくださるのである。
 この「うめき」とは原語では「ステナゾー」ということばであり、「深く息をつく」という意味合いがある。つまり、全身の霊的な力をそこに集中させ、愛を持って注ぎだす、という意味である。しかし「うめく」といわれるほどに、全身全霊で、魂を注ぎだして祈るということはわたしたちには難しい。だがその方向に、すこしでも近づけていってくださる方が、聖霊である。
 聖霊がわたしたちのために、祈ってくださっているとは、実感としては人間にはわかりにくいが、パウロは霊的にそれほど、実感できたのである。
 聖霊とは人格的なものである。わたしたちの心の深いところに、来てくださって、とりなしてくださる。神とキリストと聖霊はひとつであって、生きて働いてくださっている。そして、その人が滅びないように、罪が清められるように、その祈り全体をとりなしてくださっている。
 旧約聖書でイザヤ書に「主は、とりなす人がいないのを見て驚かれた」(イザヤ書五十九・16)と記されている。そして、預言として「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(イザヤ五十三・12)と後に現れるキリストが指し示されている。聖霊はわたしたちを、導いてくださる。人に出会わせ、本に出会わせ、苦しみに出会わせ、最終的に救いに至らせてくださる。わたしたちが苦しみに出会うこと、それも、聖霊の働きなのである。聖霊の導きは、信じなければわからない。
 この箇所では、被造物全体のうめき、人間のうめき、そして、神御自身といえる、聖霊がうめきをもってとりなしてくださっていることが示されている。人間には計り知れない広大な世界である。わたしたちはこの聖霊なる神に守られ、導かれているのである。



六月二二日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録八章第七は最後の封印。開くのはイエス・キリスト。封印が開かれる前に、天に沈黙があった。何のために。正しい状態から外れたところから、立ち返るために。キリスト教的沈黙は、単に心を静めるのではない。心が間違っていたならば、封印を解いてもその内容を正しく受取ることができない。そのために神様が沈黙の時を造られた。沈黙の大切さは大きな樹木が教えてくれる。きれいな花は咲かせないが、どっしりした動かない静けさがある。
天使と聖徒の祈りが添えられて、ご計画が成っていく。だが安楽な祈りだけではない。ここではたくさんの人が共に苦しむことが起る。天使が火を地上に投げつけた。厳しい裁きが起る主の日(マラキ19)は火のイメージがある。イエス様も「聖霊と火で洗礼をお授けになる(マタイ3章11)」とあり、悪を焼く火の力を持っておられる。また、火は戦争の暗示、火山の爆発など、何らかの裁きの前兆をもあらわす。
松明のように燃える星が天から落ちてきた。星の名は「チェルノー(黒みがかった)ブイリ(よもぎ)」と記されており、現代的な問題と重なる。「不幸だ」とは、ウー アイという悲しみの叫び。だが、このような不幸なこともご計画のひとつだ。信じる人はそこからも救い出される。最終的に、新しい天と地に向っており、今はその過程にある。



六月二七日(月)藍住集会 詩編一一四 出エジプト記はイスラエルの民の最大の出来事である。その神の力は今私達の周りを取り巻いている。過去からの長い歴史の中で働いて下さった神の力を詩人は思い起こしている。人間一人一人の生活、過去から未来まで、ずっと神の力が支えている。どんな所を切断しても神の力が見える。私達人間も神に倣った生き方をするとどこを切っても真実があり神の力が現れる。エジプトを出てからが本当の意味でイスラエル民族になった。歴史の中でもイスラエル人は数々の罪を犯してきた。しかし、神が他の民と分けて、聖なるものとされた。そして分けられたものとして神の事を知らせてきた。この詩編に海と川と山と丘が出てくる。海と川は絶えず動いて止まない。それが神の力で退く。山と丘は動かないものだが、羊のように跳ねて踊ったと神の力の強力な事が書かれている。最後に、岩が水のみなぎる所となるとあり困難や病気、何のよいものも出てこない固い岩からでもいのちの水を溢れさせてくださる。どんなに困難が大きくても神がそうされようとしたら、そこから水が流れ湖となる。「わたしを信じる者はいのちの水を飲む」と主イエスが約束して下さった。聖書以外にはこのような世界はない。



六月二十六日 (日)主日礼拝 ロマ書八・2830  42 神を愛するものたちに対する祝福が示されている。聖霊によって導かれたら、神を愛するようにされていく。聖なる霊が導いて、わたしたちのためにとりなしてくださっている。神によって呼ばれていたら、神を愛するようになり万事が益となる。
 神を愛するものは「すべてのものが、よき方向にともに働く」とある。すべてのことというのは、災害から苦しみ、すべてのことを含んでいる。苦しいことがあっても、神によって目が開かれると、そのことごとの持つ意味を知らされる。すべてのことが、良きことになる。これを信じるならば、「悪いこと」というのはなくなる。悪いことが起こっても、そこから良きことにしてくださるからである。その前提となるのが「神を愛する」ということである。愛する度合いによって、神がすべてを最善にして下さることがわかる。
万事が益となる、ということ。それが聖書を一貫してながれているメッセージである。 創世記五十章にあるヨセフの記事では、ヨセフは兄弟に憎まれ、殺されたと偽られ、エジプトに売られた。しかし、最後には、そのことから家族や民を飢饉から救うことにつながっていった。「あなたがたは、悪をたくらみましたが、神はそれを、善に変えてくださった。多くの民のいのちを救うためにきょうのようにしてくださった」とある。旧約聖書のなかでも、全てを益にしてくださる神の御意志が記されている。
 生きていくことは、苦しいことが多い。しかし、表面的に起こってくることは、最後には必ずよきことに変えられる。
 闇と混沌には希望がない。しかし、神が光を与えられると、良きことに変えられる。これは、神を愛するということへの祝福である。だからわたしたちは、神を愛し、人間的なものに頼らず神に頼って生きていくことを忘れてはいけない。神は必ず、万事を益としてくださるのである。



六月二十六日(日) つゆ草集会 マルコ十四・6672 主イエスが弟子たちに「あなたたちは去ってしまう」ということを告げたときに、ペテロは「みんながつまづいても、わたしはつまづかない」と言った。ペテロは、自分の弱さを知らなかった。そして、主イエスの言葉よりも自分の考えが正しいと思った。いつの間にか、人間は神の語りかけや神の言葉よりも、自分の思い、自分のことばを重んじてしまう弱さがある。自分の判断を神様のご意志よりも優先してしまうのである。
 ペテロは、一度は逃げたが、引き返し、主イエスを追って大祭司の家に行った。その中庭で、権力も地位もない女中に、じっと見つめられて、「あなたもイエスと一緒にいたではないか」といわれた。ペテロはすぐに打ち消した。もういちど言われたが、再度否定した。最後には呪いの言葉を口にして、誓ってまで否定した。
 死んでもついていく、と言っていたペテロが、主イエスを三度も否定した。そしてペテロは、「泣いた」ルカ福音書では、ペテロが主イエスを三度否定したときに、主イエスがペテロをじっとみつめた、とある。ペテロは、三年間も主イエスと行動を共にして、奇蹟も見てきた。この直前に、主イエスをうらぎることはないと言っていた。どんなに、決心をしても、人間はもろい。どんなに親密にしていても、突然に裏切ることがある。しかし、このような中にも、主のまなざしがある。人間の、まなざしは、攻撃、怒り、疑惑、などが多い。しかし、主イエスのまなざしは慈しみと赦しに満ちている。
 裏切ったペテロをじっと見つめた主イエスの愛のまなざし。非難でも見下すのでもなく、愛のこもったまなざしに、ペテロは自分の弱さを知らされて、泣いたのだった。それまでのペテロは、自分の本質的な弱さを知らなかったのである。もし、このことがなかったら、ペテロは自分が立派なものだと思っていた。人間は本質的な弱さを知らされたら、悲しみしかない。しかし、主イエスは「悲しむ人は幸いである。」と言われた。弱さを知り、罪を知る。そこから主イエスの愛に触れて悔い改めることがでいるのである。
 罪に泣く。そこをとおらなければ、主イエスのもとには行くことができないのである。



六月二七日(月)藍住集会 詩編一一四
 出エジプト記はイスラエルの民の最大の出来事である。その神の力は今私達の周りを取り巻いている。過去からの長い歴史の中で働いて下さった神の力を詩人は思い起こしている。人間一人一人の生活、過去から未来まで、ずっと神の力が支えている。どんな所を切断しても神の力が見える。私達人間も神に倣った生き方をするとどこを切っても真実があり神の力が現れる。エジプトを出てからが本当の意味でイスラエル民族になった。歴史の中でもイスラエル人は数々の罪を犯してきた。しかし、神が他の民と分けて、聖なるものとされた。そして分けられたものとして神の事を知らせてきた。この詩編に海と川と山と丘が出てくる。海と川は絶えず動いて止まない。それが神の力で退く。山と丘は動かないものだが、羊のように跳ねて踊ったと神の力の強力な事が書かれている。最後に、岩が水のみなぎる所となるとあり困難や病気、何のよいものも出てこない固い岩からでもいのちの水を溢れさせてくださる。どんなに困難が大きくても神がそうされようとしたら、そこから水が流れ湖となる。「わたしを信じる者はいのちの水を飲む」と主イエスが約束して下さった。聖書以外にはこのような世界はない。



六月二七日(月)北島集会 列王記(下)25列王記の最後に書かれているのは、ユダの崩壊とバビロンへの捕囚である。神の民になぜこんな残酷なことが起るのかという深刻な疑問が起る。だが、歴史的にも、このことが重要な意味を持つことが後になってわかる。
マタイ一章の「系図」(この原語ギリシャ語は、ゲネシス)と訳された言葉は、創世記のギリシャ語訳の名前と同じで、それを英語にしたのが、ジェネシス。 この語は「生み出す」という意味を持っている言葉であり、歴史の中で如何にしてキリストが生み出されるに至ったかということが書かれている。神様の助けがなかったような所にも、神のご計画が一貫してあり、長い歴史の苦難のその中からキリストが聖霊によって生まれたのである。人間によってではなく、聖霊によって。そして決定的なことをもたらすのはその聖霊である。
神様は困難や苦難を元にして、大きなご計画を実行されている。「バビロン的なもの」とは悪の力のシンボルだ。だが「にわかに、バビロンは倒れ、砕かれた(エレミア51章8)」とあるように、絶望させるような悪の力も突然倒れる。「倒れた。大バビロンが倒れた。(黙示録18章1)」。
捕囚から解放されるという頃に書かれた預言書に「主のために、荒れ野に道を備えよ(イザヤ40)」と、キリストの預言がある。53章にはキリストの本質を預言し、また罪からの解放,罪からの解放などの預言がある。
このように、キリストの預言も、捕囚という苦しみを通って生み出された。わたしたちも先が見えない困難を、よきことに変えてくださる神様をアーメンと、幼子のように受けていく。一切を善きに転じる神様を信じて行きたい。
六月二八日(火)移動夕拝 熊井宅 ヨハネ二一章1~14 参加者22名 その内 スカイプ参加°8名
 復活した主イエスが弟子達に現れた場面である。復活の後主イエスが三度現れたがそれぞれ違った状態の時である。初めはマグダラのマリアという見捨てられた女性に現れ、二度目は、鍵をかけていたのに信じる人の集まりの中に現れ、三度目が今日の所で、弟子が漁の仕事をしていた時に現れた。主イエスが十字架に架けられた後、弟子達は元の仕事の漁に戻っていた。以前イエスから「人間をとる漁師にしてあげる」と言われていたのに、弟子は後ろに引き返していた。この時漁をしたが何も獲れなかった。夜が明けた。そこに主が現れ、「子たちよ、何か食べる物はあるか。網を下ろしてみなさい」と言われた。言う通りにすると、不思議と魚がいっぱい獲れた。これを見てペテロが「主だ」と言った。それまで逆戻りしていたが、主イエスが心に働きかけると強い信仰が持てた。ペテロは、海に飛び込む必要はなかったが全身で主に向かっていく力が与えられた。人間の言葉をいくら聞いてもかき乱されるが、イエスに本当に語りかけられた人は変わる。主はこの時弟子達に炭火を起こし朝ご飯を用意し、至れり尽くせりでもてなして下さった。主イエスの方に行こうとすると、霊的な食べ物でもてなして下さる。私たちの集まりの中にもこの主が来て下さる。



七月三日(日)主日礼拝 サムエル記上十二・18~十三章  神の恵みをうけるためには、罪を知らなければならない。自分がどれだけ神の真実から離れているかを知らなければならない。そして、その罪を赦して頂くのが恵みなのである。
 神こそが真実の支配者であり王であるのに、イスラエルの民は違うものに寄りすがってしまった。それが罪であった。罪には罰が与えられる。それは、罰によって、真実の道に立ち直らせるためである。
 サムエルは神の力を注がれて、雷雨を降らせた。それをみて、サムエルに与えられた神の力を民が知るために神がされたのであった。民はその力に驚き、犯した罪を告白し、死なないようにしてください、と赦しを求めた。神に赦されなければ死んでしまうと感じたのであった。人には罪があり、神に赦されなければ、魂は死んだような状態なのである。
 人間にとって、一番大事なことは罪を赦していただき、汚れを清めていただくことである。ここにサムエルの大いなるとりなしがある。人間は、神に導かれることと共に、とりなしをうけることが重要であることが示されている。
 罪あるわたしたちが、神に赦していただく。そのために聖霊がうめきながらとりなしてくださっていることをロマ書で学んできた。このとりなしの重要性が、旧約聖書のこの箇所でも示されているのである。
 わたしたちも、他者と関わるとき、その罪のとりなしをする必要がある。信じる者に与えられる聖霊によって、他者をもとりなしていくことができる。自分の罪だけでなく、他者の罪も赦されるように、清められるように、というとりなしの祈りがわたしたちには与えられているのである。 
 十二章23「わたしたちもまた、あなたたちのために祈るのを止めて、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」とある。祈らないことが罪であることが示されている。そして最後に主に仕えること、神の偉大な御業を思い、信じて祈ることが示されているのである。
 十三章では、神を待つということの大切さが示されている。
 神はサウルに七日間待ちなさい、といわれた。サウルは待った。しかしサムエルは来なかった。敵は三万。イスラエルの民は、もう、これではだめだ、とおもい、逃げた。サムエルが、祝福するから、待っていなさい、と言われたのに、サウルは、兵が離れてしまうのを見て絶望し、自分で焼き尽くす捧げ物をしてしまったのだった。そして、捧げ終えたとき、サムエルは到着した。
 サウルはこのことのために王権を失う大きな理由になったと記されている。しかし、神の約束を待てずに破ってしまった。そのことによってサウルの王権が壊されていったのである。
 危機において、特に神の言葉を待ち続けると言うことが重要である。わたしたちも、待つことができないから、問題が起ってしまう。何かをなすべきとき、言うべき時、自分の考えでいってしまうと、そこには祝福はない。時間をかけて待つ、ということは、信じる者にとっては大事なことである。神は必ず最善にしてくださる。本当によい道、よい言葉を待っていないから、問題が起ってくるのである。
 わたしたちは、主イエスによって罪が赦された。だから、これからも、主イエスがきっと最善に導いてくださる。だから、家族の問題も個人のことも、また、日本や世界のことも、信じて待ち続けることが重要である。 (まとめと入力 K.K & E.I & E.Y


お知らせ

吉村孝雄は、7月21日(木)~24日(日)までの、瀬棚聖書集会に参加。引き続いて、札幌、仙台、山形などの集会で、み言葉を語らせていただく予定です。(日程は「いのちの水」誌に書いてあります。)ご加祷をお願いします。
今年は、左記の近畿無教会集会がすぐあとにあるので、東北の一部だけに立ち寄ることになりました。

近畿無教会集会
・7月30日(土)13時~8月1日(日)13
・場所京都市西京区大枝沓掛町 ふれあいの里保養センター
・講師島崎 暉久、吉村孝雄
・問い合わせ宮田 咲子 電話072-367-1624

北田康広 特別集会 (歌とピアノ演奏、トーク)
・主催いのちのさと作業所 (責任者 石川正晴)
・日時8月27日(土)午後2時~4時
・場所白うめ幼稚園 (徳島市国府町矢野65)
・問い合わせ…0886423177 (石川)

西澤正文氏 (キリスト教独立伝道会長)特別集会
・日時8月28日(日)10時~14
・場所徳島聖書キリスト集会。

平和のつどい
・日時8月28日(日) 午後2時~4時半
・場所徳島市立 木工会館(多目的ホールを中心とする複合文化施設)徳島県徳島市福島1丁目8-22
講師川端洋一(羽ノ浦教会)、吉村孝雄
なお、私の講演のタイトルは「非戦・非暴力の大いなる流れ原発と平和」です。
・問い合わせ先大山勝(鳴門アガペーホームチャペル牧師)
電話(088)689-1844

原発関係の本の紹介
・「原発のウソ」小出裕章著(京大原子炉実験所助教) この本は、前に紹介した、同じ小出氏の「隠された原子力・核の真実」が、去年の12月出版であったのに対し、これは今年の6月発行なので、東北の大地震以降のこと、福島原発の現状と今後などにも書かれています。原発関係の本は現在ではたくさんありますが、小出さんの本がこのように、特別に関心を持たれているのは、彼が、すでに学生時代から、宮城県の女川(おながわ)原発への反対運動に関わり、以来一貫して40年にわたって、原子力発電の危険性を訴え、その裁判や、講演などを通じて関わってきたこと、またその原発への姿勢のゆえに、37年間も助手(現在の呼称は助教)の地位をも甘んじて受けてきたり、生活の面でもクーラー使わないとか、できるだけ電気を無駄に使わないということを続けてきたなどが共感をよんでいると思われます。

今月の移動夕拝7月26日(火) いのちのさと作業所

詩篇聖書講話(MP3版) の完成これは二十年ほどにわたる徳島聖書キリスト集会の主日礼拝、各地での家庭集会などにおける録音を集めたものです。講話者は吉村孝雄。すでに、詩篇90篇までは、完成して、かなりの方々から購入されています。その残りの部分、91篇~150篇までが、数度勝茂兄を主として、また集会の一部の方々の御愛労によって完成しました。
12巻セットで価格 3500円です。(送料込)
なお、以前のお知らせでは、全体で7巻程度との予想でしたが、それより以後の録音や同じ詩篇でも別の時や場所の録音をも組み入れたために、全巻で12巻と増えました。そのため、価格もそのときの予想より高くなりました。前回の1篇~90篇までのCD購入のとき、2500円支払された方は、残りのCDの代金として千円を追加分としてお送りください。(二百円未満の切手で可。)
詩篇のすべてを収録した聖書講話の録音CDというのは、ほかには発売されていないので、不十分なものですが、このCDが、詩篇に流れている神のメッセージをくみ取るための一助となればと願っています。差し迫る苦難からいかにして救われたのか、その心からの叫びや救われた感謝を最もリアルに表現しているのが詩篇だからです。
なお、このCDを聞くためには、MP3形式のCDを聞ける機器(プレーヤ)が必要です。パソコンで聞けますが、持っていないかたや、持ち運び自由なCDラジカセタイプの機器を希望のかたは、吉村まで申込していただくとお送りできます。ビクター製品で 九千円(送料込)。

六月一三日(月)藍住集会 詩編一一三
 ハレルヤという言葉から始まっている。「主をほめ讃えよ」という日本語にそのまま訳してある。1~3節は「賛美しょう」と言う同じ内容である。神に対する感謝と賛美は一つになっている。神に感謝の気持ちがなければ賛美する気持ちにはなれない。神の真実と愛、無限の力を受けた。だから賛美して感謝する。日本は人間を絶えずほめたたえる。神ご自身がほめたたえられるという発想がない。この詩では全世界ですべての国を超えて高く臨在し、天を越えて輝く神の本質をみんなが知ってそれを讃えるようにと勧めている。時間的にも場所的にも永遠の広がりを持つ神の存在が書かれている。その頃は小さい領域の出来事であったがこれは預言であり、現在全世界で神に感謝し賛美する人が絶えない。私達はいつも主の御名を賛美できるようになる事が最終的な目標である。「いつも喜べ、いつも感謝せよ」と新約にあるが、嫌な事も困難な事も背後で良いことにしてくださる神がいると信じて感謝する。神ははるか高いのに不思議な事に全世界を見てくださる。弱い者、虐げられた者、見捨てられた者もちりの中から起こして下さる。そして、自由を与えて下さる。真理は自由を与える。たとえ子供がなくても大いなる自由と喜びを与えられ霊的に自由にしてくださる。いつも霊の食べ物を与えてくださるからハレルヤと喜べる。


集会だより 20116月号  NO.372


何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。

(コロサイ317



五月五日(木)いのちのさと集会  詩編八三編
 最初から「神様黙らないでください」と三通りの言葉で祈っている。周りの敵は騒ぎ立ち、神を憎み、襲ってくる。以前は祈ると神からの応答があった。神の沈黙に対し必死で「どうか黙らないでください」と叫んでいる。神から応答がなくなったら神に捨てられたのではと思う。他の詩編でも、「あなたが沈黙すると私は消えてしまう」と書かれている。神の応答は人間を生かす。主イエスも最期の時神の応答が無く「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを上げた。しかし神は見捨てたのではなかった。この時代もその後の迫害の時代も周囲の人がみな神を信じる人を滅ぼそうとはかった。これは現代でもありうる。真理を持つとこの世から放り出される事がある。このような「悪の勢力を滅ぼして下さい」と詩人は必死で祈った。旧約の時代は悪を行うその人を滅ぼして下さいと祈ったが、新約では悪人の中の悪を滅ぼして下さいという祈りに変わった。悪の力は「神の居られる所を我々のものにしよう」と神の住まいさえも取ろうとする。これは、バベルの塔であり、現代の核兵器、原発の問題でもある。原子の中に秘められた莫大なエネルギーを自分のものにしようとした。このような悪に対して、「彼らは風に巻かれる藁のように、火の手が林を焼くように炎が藁を舐めるように」徹底して滅ぼして下さいと願った祈りが書かれている。主イエスも悪霊を追い出す権威を弟子達に与えた。今の私たちも悪の力を追い出して下さいという切実な祈りを持つ。悪が追い出される事で彼らは主の御名を求めるようになる。どうかこの時代、私達の周りでも「御名があがめられますように。」


五月八日(日)主日礼拝 ロマ書八・911 46
 この箇所は特に神の霊、キリストの霊が内に宿ってくださることについて書かれている。神の霊、キリストの霊が宿る、ということはどうしてわかるのか。
 人間にとってもっとも良きことがキリストの霊を持つことである。この世の大事なものは突然奪われることがある。健康も仕事も、家族も、いちばん大切と思っているものは、すべて、はかない。しかし、キリストの霊は何があっても壊れない。かえって、苦しいときに、祈れば、聖霊が与えられる。主イエスは悲しむ者は幸いだといわれた。心のまずしい者は幸いと言われた。そんな悲しみの時でも幸いだといわれる。そこから、真剣に神を求めるとき、神の霊を受けるからである。この幸いは他のことには代え難い。だから、悲しむ者は幸いなのである。そしてそれは、どんな状態の人でも与えられる。
 聖霊は人を支える力をあたえる。キリストの霊があれば、どのような悲しみの中でも支えられる。大きな罪を犯してしまったとき、人には軽蔑される。しかし、神様は何度でも、たち帰るたびに赦してくださる。
 キリストの霊をもつためには自分の罪を知る必要がある。罪をしらなければ、キリストの霊はわからない。また、キリストの霊を受けても、キリストから引き離そうとする力が常に働いている。礼拝はこの世の力との戦いの場でもある。神を忘れてこの世に引き込まれていく力と戦う。そのために礼拝がある。
「天のお父様」と心から祈ることができるのは、聖霊を受けている印である。聖霊をうけていなければ、「お父様」と祈れない。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント 三・16)とある。わたしたちの内に、すでに神の霊が与えられている。しかし、人間はそのことを忘れてしまう弱さがある。罪の赦し、そして神に祈ることができること、日々感謝すべきことである。神に感謝すれば聖霊はもっと与えられるようになる。しかし、感謝の心を忘れるとき聖霊は与えられなくなる。
たしたちの内に宿るキリストの霊がわたしたちを支えてくださっている。そして、肉体が滅びても、キリストと同じ栄光の姿に変えてくださる。神のような清められたものになるとは、おどろくべきことである。死はおわりでない。だから早く死ぬかどうかは問題ない。神を知らずに死ぬことが問題なのである。この福音を一人でも多くに人に伝えていくのがキリスト者のつとめである。


五月九日(月) 北島集会 列王記(下)20章1~11
タイトルは「ヒゼキヤの病気」だが、この個所は「ヒゼキアの祈りと、それを聞いてくださった神様」が主題であり、メッセージである。タイトルとは、その内容の主題でなければいけない。
死の病にかかったヒゼキアに、あなたは死ぬことになっている、とイザヤは単刀直入に言った。神様の言葉は、曖昧な人間の言葉とはちがう。ヒゼキヤは涙を流し、必死に祈った。まことを尽し、ひたむきな心で神に従ってきた彼が、いかに真剣に祈ったか。
人間はどこまでも真実であることはできない。神様だけが慈しみとまことであり、ヒゼキヤはその神様の真実とまことをいただいて、ひたむきな心を持っていた。ひたむきとは、心のほんの一部ではなく「全き心(シャーレームー=シャーロームの名詞形)」で、神様の賜で満され、完全にされること。シャーロームという祈りは、あなたが主の賜で満されるように、ということである。
ヒゼキアの寿命を主は十五年伸ばした、とある。真剣な祈りに神様が応えられた。弱い者でも、個人的に祈っていれば、そのようなことが起ることがある。祈ることは誰にでもでき、死ぬ間際でもできる。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かに祈れ(出エジプト 1414)」。道はない、と思う時に道ができる。「モーセが手をあげている間、戦いは優勢であった(1710)」。 干しいちじくを患部に当てるとヒゼキアの病は回復したとある。神様は目に見えるものをも用いられる。爽やかな音楽、自然、本なども、神様の力が働いたら、心の患部に当たって回復する。「苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい(ヤコブ5章13)」。


五月十三日 (金)天宝堂集会  マルコ四・1020
 種をまくという身近なたとえである。イエスはいつも、わかりやすいことばを使って、深い真理を話された。
 主イエスは舟にのって話されたのであるが、話に力があったために、おびただしい群衆が集まってきた。それはイエスのもっていた霊の引力だった。
 話の初めにも終わりにも「聞きなさい」と言われている。内容が重要だからである。神はこのようにして、信じるものには、隠されている真理を少しずつ示されていく。
 蒔かれた種がいろんなところに落ちる、とあるのは、この地方の種まきの方法は、農地に広く種をまき散らす方法だったからである。このだれでも知っている種まきのことから、神の国の奥義の説明につなげている。つまり神の王としてのご支配のなさりかたが、この種まきによって示されているのである。
種をまくとは、神のことばをまくということである。人間は何かをまきながら生きている。テレビのCMは商品の宣伝をまいている。人間関係の中でもさまざまなことがまかれ、こどものときから、いろいろな言葉が蒔かれている。それによって成長もし、また傷つくこともある。人間の蒔くものは、はかない。しかし、神のことばは、そのようなものと全く違った力がある。
 ここでは、神のことばのエネルギーが示されている。それは目には見えない。しかし、どんなに、枯れても、ついばまれても、伸びていく種がある。この世は良いものがまかれても、これを妨げようとする力があるが、その力をこえて、必ず芽を出させ、広げていく力が存在するのである。
 実際に歴史の上でも、命がけで福音の種は蒔かれてきた。そして、それを消そうとするさまざまな力が働いてきたが、そのような力には負けることなく、福音の種は育っていった。今や全世界に福音は伝えられた。それほど、神のことばの力は強い。神の言葉は二千年たっても真理がある。蒔かれた種がよき実を結んできたのである。
 そしてわたしたちも、だれでもが幼子のような心で、神の言葉を受け入れると、良き地に変えられ、実を結ぶように変えられていくのである。


五月十五日(日)主日礼拝 詩篇四篇 参加31(四国集会に10名ほど参加したので、残りの人たちでの礼拝。聖書講話は録音を用いた。)
神を強く呼び求めるわたしに答えてください、とある。原文は完了形。口語訳では「くつろがせてくださった」。また「悩みの時にわたしに安らぎを与えられた」は関根訳。他にも「苦しみの時に広いところに置いてくださった」などある。神は、苦難のなかに追い詰められている状態から解き放し、広いところに行かせてくださる。実際に道を広げ、心の世界を広げてくださる。苦しい時は、心が狭くなっている。
神の力が与えられれば、この作者のように、周囲の人に強い言葉で語りかけることができる。「わたしの名誉(神ご自身)」をないがしろにして、いつまで空しいことを愛し、偽りを求めるのか、と。一番の名誉は神ご自身だからである。
人間は必死で、内容の無いもの、また偽りを追い求めることがある。原発の問題も、全く人間の力で対応できない怪物のようなものを愛したと言える。聖書は地震、津波などの天災が苦しみや悲しみの根本的原因ではないとしている。それは人間の心の罪の問題であり、神との結びつきがないあるいは、少ないゆえだとの深い洞察がある。本当に正しいあり方、真実や愛に叶わない自分中心などが根本にある。「おののいて罪を離れよ」。そうすれば、本当の助けが来る。たとえ苦しい目に会おうと、それを乗りこえる不思議な力が与えられる。
横たわる(寝具)とき、みずからの心と語り、沈黙に入れ。自分の深い部分と語り、罪の赦しを願い、また神様からの賜を深く味わえ。本当の罪の赦しがあれば、いろんなものを、神様にささげるようになる。一般には、恵みを示すものがあろうか、本当によいものでなく悪いものが示されていると言う。それは光をもらってないからである。どうかみ顔の光をください。あなたはわたしの心に喜びを与えてくださったから。それはこの世の喜びのすべてに勝る喜び。光が与えられ、光が向けられたなら、麦と葡萄酒に勝る喜びがある。霊的な喜び。わたしたちも平和(シャーローム、神様に満されて)のうちに眠りに入りたい。あなただけが平安の中に居らせてくださる。大きなシャーロームは聖霊による。詩篇23篇にも。
・高知での四国集会のため、録音によってみ言葉を聞きました。留守集会も、いつものように聖霊の恵みをいただきました。


五月十六日(月)北島集会 列王記(下)20122213
病気のヒゼキアのもとに、バビロンから見舞が来た。ヒゼキア王は相手が友好的な態度を示してくれたと思い、王宮の宝物をすべて使者たちに見せた。だがイザヤは「それらはみな、やがてバビロンに運び去られる」と預言した。驚くほど厳しいイザヤの言葉を聞いても、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と言い、自分はどこまでも神に頼る者だという証しもしなかったし、以前アッシリアが攻めてきたときのように必死で祈ることをもしなかった。病気が治ったとき、ヒゼキアの心がゆるんだ。今、力のある自分がバビロンと組んでアッシリアに対抗できると思った。ここで、神様のことを第一としないとき、裁かれて行くことがあるのだと警告されている。人間は、よいことが続いたり、目に見える物に心が動いて行くと油断をし、神様への感謝を忘れ、自分が偉いのだと思ってしまうことがある。どうか「わたしたちを誘惑に会わせず、悪からお救いください(主の祈り)」。
次に王となったマナセは、信仰深かったヒゼキアの息子。だが、父が壊した偶像を再建し、神殿の中にさえ偶像を置き、主の目に悪とされることを次々行った。その子アモンもまた主の目に悪を行ったが、アモンの子ヨシヤは在位30年間、主の目に叶う正しいことを行い、右にも左にもそれなかった。親子でもどうなるかわからない。信仰に関しては不思議なことが起る。また、このヨシヤの時、神殿修復が行われている途中に、60年近く埋もれていた「律法の書(モーセ五書)」が見つかった。紀元前622年くらいのこと。王はその内容を知って非常に驚いた。祖先が、そこに書かれていることを行わなかったため、さまざまの裁きが起ったのだと。旧約でも、神の言葉に基づいてヨシヤの宗教改革が成された。
わたしたちも神の言葉によって、本当の心の改革が成される。荒れ果てた心にも復興が起る。神の言葉は本当の心の改革の原動力になる。マルチン・ルターの宗教改革も、ルターが、大学の図書館でラテン語の聖書を見つけ、聖書の真理を知ったことが基となった。個人においても、集会においても本当に変るのはみ言葉の発見である。魂の深い所で、本当にこれは神の言葉だと知ったとき、人間も変わる。改革が起る。
日本人は、一番に立ち返るべき神の言葉を余りにも軽視してきた。唯一の神の言葉を。まわりの自然も神の言葉である。日々新しい神の言葉を発見し、周りにも伝えていく。


五月十七日 火曜日 夕拝 イザヤ書三十八章17~22節「罪をすべて投げ捨てて」
 前回学んだように、ヒゼキヤは病になった時、涙を流して大いに泣いた。死ぬことになっていたが、神はイザヤを通して「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし」と言われた。 1714 平和(シャロームとは、神さまの力によって complete 完全にされた状態をいう。)は苦痛を通ってでないと与えられない。そして「滅びの穴」に陥らないようにしてくださった。この穴からは自分の持つ罪が処理されていないと出られない。自分も正しい道から外れていると知ることが必要で、自分には罪がないと思っている間は、この穴から出られない。175,6 罪を投げ捨てることは人が頑張ってできることではないので、神様が罪を投げ捨ててくださった。だから救われたのだ。
 預言者ミカも「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれ」と啓示された。(ミカ7:19)神さまは私たちの心の根本問題である罪を除き、赦してくださるのだ。人間には罪があるので、いさかい、妬み、争いといったことがある。しかし神によって罪の問題が解決されていたら(すべての罪の問題が)感謝があるだけ。この経験をすべての人に与えるために主イエスの十字架はあった。罪をなくすこと、聖霊をいただくことは人にはできない。19節 神さまの命をいただき感謝できるできるようになった人は、自分が救われた喜びを他者に知らせようと、伝えるようになり、広がりをもってくる。20節 主よ、あなたはわたしを救ってくださった。だから命のあるかぎり主の神殿で、わたしの音楽を共に奏でるでしょう
(私の歌を楽器に合わせて歌う。) 詩篇104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる限り わたしの神に ほめ歌をうたおう。 詩篇23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。私の家にわたしは帰り 生涯、そこに留まるだろう。(そして、絶えず讃美する)


五月二十二日 主日礼拝 ロマ書八・1217
 人間の生き方の道はふたつしかない。肉に従うか、聖霊に従って歩むかである。聖霊に従って生きるとは神に導かれて生きることである。それ以外の道はすべて肉に従って生きることになる。聖霊を知らない限り、肉によって生きることとなる。
 隠されているもので、現れないことはないと主イエスは言われた。霊に従っているつもりでも、気をつけていなければ、自分中心となり、いつの間にか肉に従って生きていくことになる。そして、肉に従って生きていけば、死ぬ、とある。この世の声や自分の感情に従って生きていくなら霊的に死んでしまう。しかし、霊に従って生きていくなら、神の国を受け継ぐことができる。
 人間はしかし、弱い。人間的な感情に従って生きることを断つのは、意志ではできない。ただ、聖霊によってのみ、人間的な感情を断つことができるのである。真実に主イエスにすがろうとするとき、人間的な思いは断つことができる。だから、聖霊が必要なのである。絶えず祈りなさい、と記されている。聖霊をいただくためである。本当の命を生きるとは、聖霊をいただいて生きることである。
 神の霊を受けたら、神様を「お父様」と呼ぶことができる。だから、「天のお父様」と心から祈れる人はすべて、神の霊を受けていると言える。「聖霊によらなければ、だれもイエスを主である(神と同じである)とは言えない」(コリント十二・3)とあるからである。神がすべてを御支配されている。主イエスは神と同質である。そして主イエスは今も生きてわたしたちを導かれている。それが実感できるのは聖霊を受けているからである。主イエスが主であると信じていなければ、礼拝のために継続的に集まることはできない。そして礼拝が全世界でなされてきたから、今までキリスト教も続いてきたのである。キリスト教の歴史もすべて聖霊の導きである。
 天の国は心の貧しい人に与えられると主イエスは言われた。貧しい人、心に誇ることがない人。ただそれだけで、天の国の相続人として下さる。(マタイ五・3)
 キリストを信じた人は、神の国の大事なものを相続させてくださる。人間は弱くつまずきやすく罪深い。そのような者を神の国の相続人として下さる、それもキリストと共に相続人として下さるのである。しかし、そこには苦しみも与えられることがある。キリストと共に苦しむのである。この時代、キリストを信じているといっているだけで、苦しみを受けた。今は迫害のない時代に生かされている。しかし、個人であれ、国家であれ、本気でキリストのことを一番にしようとすると、何らかの苦しみが与えられる。しかし、それはまた祝福につながっていくのである。
 わたしたちも聖霊に導かれ、終わりまで主イエスに従い、神の国を受け継ぐ恵みから一人も離れないように導かれていきたい。


五月二三日(月)藍住集会 詩編一一二編
 最初にハレルヤがあり、主を賛美せよとなっている。「神様は賛美されるべきお方で素晴らしい」それ故、これは無数の人々に対する命令となっている。真理とは誰にでも当てはまり、永続性がある事象である。幸いという意味もこの世が考える事とは違う。それは主を畏れる人、神の言葉を愛する人に本当の幸いがある。たとえ悲しみや苦しみが襲ってきても神の慰めを受けて耐える事ができる。私たちにいろんな悪が攻撃してきても打ち勝つ力が与えられる。不思議と真理は続いていく。神の国は受け継がれていく。これに勝る冨はない。神を畏れ愛する人は最終的な死という闇にも神の光が登るのでそれは闇でなく明るい光の場所となる。主に従う人は決して動かされる事はなくとこしえに神に覚えられる。悪評を立てられても誤解を受けても、神様だけは分かって下さる。しかし神に逆らう人は、滅びて消えていく。これが裁きである。幼子らしいまっすぐな心で神を見つめる人は闇の中にも光が臨む私達もこのみ言葉があれば、どんな状況でも希望をもって信じ祈り続けることができる。


五月二四日(火)移動夕拝 奥住宅 第二コリント9-6~15
 エルサレムでは貧しい人が多くいた。社会保障はない。キリストを受け入れる事は社会的に益がない。キリストを信じた多くの人がエルサレムから追放された。苦しんでいる人達に何とかして援助しよう、このような社会的に排除されているキリスト者を援助する具体的な事がコリント書に書かれている。あなた方の熱心は多くの人を奮い立たせたと、キリストを信じる心の表れとして捧げた。それが他の人達にも励ましとなった。惜しまず豊かに蒔く人は刈り入れも豊かである。表面的な生活を支えるというだけでなく神様の事が伝わるように種をまく気持ちで捧げる。また、出会う人ごとにこの人の心にキリストの種が蒔かれるようにという気持ちで接する。介護を受ける場合でも祈りの心で相手に神様が伝わるようにと願う。そういう人は刈り入れも祝福される。喜んで与える、それを神様は祝福してくださるのだ。私達も溢れる恵みを貰ったら喜んでできるようになる。神はすべての点ですべてのものに充分であらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることができる。イエス・キリストが今も生きていると信じているだけで周囲に何か伝わる。
この日初めて近くに住む矢野和代さんが参加されました。矢野さんは、最近集会に参加されるようになった方です。


5月26日スカイプ集会(参加者19名)マルコ5章35節~43
 この「タリタ・クミ」の箇所に出てくる少女と、前の節の出血が止まらなかった女性の話は深い関わりがある。女性の出血は12年続き、少女は12歳であった。12は象徴的な数字である。主イエスの弟子は12人であり、五千人のパンの奇跡も、残ったパンくずが12の籠にいっぱいになった。このパンの恵みは現在も霊的に続いている、完全な恵みである。12には完全といった意味がある。
 12年間も出血が止まらないというのは完全な苦しみを表す。これは婦人病であるが、レビ記の1525節にあるように、婦人病の出血は「穢(けが)れている」とされた。この女性は12年間、ずっと宗教的に穢れているとして扱われ、多くの医者にかかって苦しめられ、金銭的な苦しみも加わった。そして直接触った人も穢れると思われていたため、誰も助けてくれなかった。
 しかしそのような暗黒のただ中にあって、この女性はただ、主イエスに触れるだけで癒された。そして「あなたの信仰があなたを救った。安心して(シャローム)行きなさい。」と言っていただいた。
 この女性と、35節からの少女は対照的な立場にあった。少女は会堂長という社会的地位のある人の娘である。会堂長は、恥も外聞もなく足元にひれ伏して頼んだ。社会的地位があっても人間の力では助けることができなかった。そしてもう無理という時に「恐れるな。ただ信じなさい。」という言葉を受けた。
 ここでは「信じる」ということが中心になる。
この人たちは、主イエスが神の力を持っていることを信じた。その信仰が彼女たちを救った。
 社会的な抹殺、また身体の死という絶望的な状態にあっても、ただ信じることでよみがえる。そして立ち上がり、平安な状態を与えられる。ただただ信じればよい。
 主イエスが少女に言ったのが、「タリタ・クム(クミ)」であった。特別にアラム語で書かれているが、タリタは少女、クミは起きるという意味である。こんな簡潔な言葉で蘇った。しかし、この言葉は私たち皆に言われている。
 人間は皆罪のゆえに霊的には死んでいると言える。しかしそこから手をとって起こしてもらった者がクリスチャンである。私たちも起き上がらされたものの一人。少女は12歳であったが、それは神の時であったことを示す。私たちも一人一人、目に見えない御手によって、神様のご計画の時に起こしていただける。そして、たった一人が立ち返った時、天で一番大きな喜びが起こる。


五月二十九日 (日)主日礼拝  ロマ書八・1822 26
 この時代は、キリスト者はユダヤ人からもローマ人からも迫害を受けていた。パウロがこの手紙を書いたあとで、ネロ皇帝の迫害がおこってきた。苦しみのさなかである。しかし、たとえ、このような苦しみがあっても、それはキリストと共に苦しんでいるのであり、神の国の栄光を受けるためである。最終的にわたしたちは栄光に輝く姿に変えられる、そこに希望がある。
 この箇所には「被造物」と言う言葉が繰り返し書かれている。補造物とは、造られたものすべてである。被造物は神の子たちが現れるとき、つまり、世の終わり、再臨のときを待ち望んでいるとある。人間以外、動物も植物も岩や山、天体までもが本当に再臨を待ち望んでいるのだろうか。そして、美しい自然や植物も虚無に服している、と書かれているが、どういうことなのか。
 それは、どんな被造物もすべて滅んでいくということである。美しい野の花は神の栄光をあらわしている。大空も然りである。そのような美しい自然であるが、最終的にはすべて消える。イスラエルは、初夏に雨が降らなくなりすべて植物は枯れる。美しい花もそのような空しいものなのである。作られたものは変動する。だから一切の被造物が壊れない永遠を待ち望んでいるのである。これは、主イエスの再臨のときかなえられる。それは神からの啓示によって、それを受けた人が知らされている。全てのものは滅びるが、そこから永遠の命に変えられる。あらゆる被造物が、うめき苦しむほどに、そのときを待ち望んでいる。
 永遠のいのちを受けるための妨げになる者が罪である。それをのぞくために主イエスがきてくださった。
 災害や不幸、差別など、どうみてもこの世界は完全であるとは思えない。しかし、完全な世界が必ず訪れる。そのことを伝えるのが福音である。完全な天と地にこの宇宙はむかっているのである。このような時代だからこそ、聖書にかかれている真理が深く伝達することを願う。


お知らせと報告

MP3対応 CDラジカセ 最近も何人もの方々から、聖書講話のMP3版CDの申込とともに、次々申込がありました。(一般の電器店では置いていないからだと思われます。)
もし、申込したのに、届いていないという方がありましたら、 お手数ですが、左記の吉村孝雄まで、電話または、メールで連絡下さい。県外の方などで申込された場合、帰宅まで期間が長いので、うっかりお送りしていないままになったりすることがあるからです。


6月28日(火)の移動夕拝(午後7時半~)は、スカイプでの参加もできます。参加希望の方は、熊井勇兄まで申込してください。アドレスは、kyrie@mb.pikara.ne.jp です。


原発に関する本は、3月11日以前は、店頭にもほとんど置いてなかったのですが、最近は、次々と発行され、いろいろの種類が店頭にも置かれていますし、インターネットでもたくさん購入できるようになっています。しかし、本屋が遠いとか、体調の問題などで書店に行けない方、またインターネットをしていないとかで、原発関係の本を希望する方は、左記まで申し込みしていただければ、お送りできます。その中の一部を紹介しておきます。
・「プルトニウムの恐怖」高木仁三郎著(岩波新書)、これは、ずっと在庫がなくなっていてインターネットでも、数千円とか、かなり高価になっていたのですが、最近再刊されて、だれでも購入可能になっています。735円。次も岩波新書。価格は800円前後。
・「原発事故はなぜ繰り返すのか」高木仁三郎著も再刊。
・「原発はなぜ危険か」田中三彦著。田中氏は、クリスチャンとのことで、この本が発刊された後、いろいろな迫害、脅迫を受けたとのことです。
・「原発事故を問う」チェルノブイリからもんじゅへ 七沢潔著
・「放射線と健康」 館野之男著
・「世界」6月号。岩波書店発行。840円。これは、まだ余分が私のところにあります。今月号の特集は、「原発からの脱出」と題した内容で、「原子力から離れよう」柳澤桂子(生命科学者)、「東日本ソーラーベルト地帯を」孫正義(ソフトバンク社長)、「ブラックアウト(原子炉の全電源が失われ、冷却ができなくなって、放射能が大量に外部に放出されていく状況)はなぜ起きたか」小出裕章(京大原子炉実験所)、「海のチェルノブイリ」水口憲哉(東京海洋大学)、「原爆から原発へ」春名幹男(名古屋大学)「エネルギー政策は転換するしかない」河野太郎(自民党衆議院議員)「原発核害と立地自治体」金井利之(東京大学)など。
・「隠される原子力・核の真実」小出裕章著 1400円。五月末に長野、山梨、八王子、静岡方面に出向いた折り、この本も持参しましたが、参加者も原発に関心が高く、この本も30冊余り購入されました。
・次のDVDも希望者にお送りできます。
2008年秋に、毎日放送が、大阪ローカルで放映した、「京都大学原子炉実験所の研究者たち」の録画のDVD。政、官、電力会社、原発科学者、マスコミなど圧倒的多数が、原発推進を唱えていたなかで一貫してその危険性を主張していた科学者の歩みの貴重な記録です。(なお、この放送後に関西電力が強い圧力を加えた。)


現在購入していただける私の聖書講話は、ヨハネ福音書、ルカ福音書、創世記、詩篇1篇~90篇です。(いずれもMP3録音したCD)詩篇の90篇以降は、いろいろな都合があって、遅くなっていますが、近いうちにできる予定です。


集会だより 2011.03 NO.369


あなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に 根ざし、
愛にしっかり立つ者としてくださいますように。
(エペソ書317



二月六日(日)主日礼拝 サムエル上十・116 35
 サウルが神に呼び出されて王になる話である。一般的には王になるには資質や血筋、武力や統率力がなければ王にはなれない。しかし、聖書の世界では違う。サウルが王になるように呼び出されたが、しかし、サウルは普通の人であった。ここにはなんら、王になる資質については書かれていない。しかし、神は指名した。そして神が油を注いで王とした。
 この箇所には、これから出会う出来事、起る出来事が、起る前から詳しく説明されている。特別な霊的な目を与えられて、先のことが見えた。これは神から来たことであると、確信させるためであった。 
 「ベテル」という地名が書かれている。この「ベテル」とは、神の家という意味で、ヤコブの夢の中で、主が共におられることを示された場所であった。そのことが大事なことであったから記念をし、その場所をベテルと名付けた。(創世記二十八・19
 そして、高台から預言者が来ること、そのとき別人のようになることが書かれている。サウルはただの人だった。しかし、主の霊が注がれたら、別人のようになる。神の霊が下ると人は変わるのである。それは主が共におられるということである。神はただの人を用いる。無から有を生み出される神は神の栄光を示すために、御業をなされる。
 これは、わたしたちにも言えることである。自分の罪や弱さを見て、何もできないと言ってはいけない。できなければ、神の霊を求めるべきである。力がないと思えば神に求めるべきである。人間にはできなくても、神の力が働けば変わる。主の霊が注がれるということには終わりはない。主の霊が注がれるまで、祈り求めていかなければならない。
 神が共にいるという事がなければ、どんなにいい生活ができても、祝福はない。苦しみは、神を知るために与えらているのである。そして、新約の時代からは、主イエスが来られたことによって、誰でもが、神が共におられることができるようになった。
 ここに「七日間待つ。」ということも記されている。待つと言うことの重要性が示されている。神と共に歩むものは、自分の感情、気持ちで行動することは罪である。小さな事でも、神に聞き、示されることを待つ。神からの示しを待ち、神が何を言おうとされているかを黙して待つことの大事さが示されている。


二月三日(木)いのちのさと集会 詩編七八の9~42 歴史の中に於ける人間と神がテーマである。イスラエルの子等は戦いの日に裏切り神との約束を守らなかった。サウル王の事を直接に指している。御業を忘れた。弟子達も主イエスの御業を間近に見たが忘れて逃げ去った。私たちも不思議な御業を行って下さって信仰を持つようになった。ある種の海を開いて通らせて下さった。昼は雲の柱、夜は火の光でこちらが道だと導いて下さった。霊が飢え渇く時も命の水を開いて下さった。これは我々にも当てはまる。現実のイスラエルはそれにも関わらず背いた。パンや肉を与えられる筈がないと思った。私達も苦しい事が続くと神は助けてくれないだろうと思う。「それでもなお」が繰り返し出てくるが神は背く民に様々な恵みを与えた。忍耐して導いた。どれほど彼らは荒野で反抗したか。様々な良き事を思い起こそうとしない。人間の歴史は罪深い。これに対して神はいかに寛容であるか。神は繰り返し繰り返し良きものを注ごうとされるお方である。人間は情けない存在である。救いがたい人間の頑なさに神が究極の愛をなして下さる。長い歴史の中の人間性と神の本性の感動を書きつづった詩である。


○26日(日)高松集会(松浦・ローレン パットン夫妻宅)
松浦夫妻のほか、高松市から2名、スカイプ参加と合わせて6名。毎月第一日曜日の午後3時からの集会。


二月七日 (月)小羊集会 マタイ二十三・2739
 律法学者とパリサイ派の人々に対して主イエスが厳しく言われている。律法学者とは、聖書を教える立場にある人たちである。パリサイ派の人々というのは、はじめは神殿にかかわる権益と結びついた祭司のあり方に反対して、聖書に立ち返ろうという改革のために生まれた。しかしそれが徐々に変質し、外側ばかりをきれいにみせかけ、実質は汚れているという状態になり、本来のあり方から外れていった。これらの人々に対して、主イエスは厳しく話されたのであった。
 しかし、このことは、律法学者とパリサイ派の人々に対してだけ言われているのではない。人は外側を取り繕ってきれいに見せようとする。しかし、内側は、どんな方法をとっても、きれいにはならない。人間には罪があり、自分の力で清めることはできないのである。パリサイ派、律法学者がいかに、表面だけをきれいにしているかということを、徹底的に記しているが、きれいにできない内側は、どうすればいいのか。その解決のために、主イエスが来られたということを指し示そうとしているのである。
 内側にある、よくないもの、つまり人間の罪について、旧約聖書にはどのように記されているか。レビ記には、主の戒めを犯したときには、贖罪の捧げ物を屠る、ということが記されている。罪の贖いには、動物を殺して焼き尽くす捧げ物としていた。いのちの代償が必要なためであった。このことが、キリストの贖罪につながっている。主イエスは、ご自分が贖罪の小羊となってくださり、罪の贖いのためにいのちを捨ててくださった。主イエスが身代わりに死んでくださり、その主イエスの十字架を信じ、仰ぐだけで、罪が赦され清められる道を開いてくださったのである。
 白く塗った墓でしかない人間に、命を捨てて赦しと清めの道を開いてくださった主イエス。わたしたちは、ただ感謝して素直に信じ、受け取るだけでよい。そのとき初めて、内側に清いいのちが与えられるのである。


二月八日(火)海陽集会。(賛美堂・数度宅)この海陽町とは、徳島駅から南へ約80キロ、高知県境まで10キロという場所です。数度春代姉、勝茂兄の二人と、途中の美波町からの二人の参加者、それから、インターネットのスカイプでの参加として、福岡県の方と勝浦 良明さんが参加されています。詩篇とマルコ福音書を交互に学んでいます。この日は、詩篇からの学びでした。


二月八日(火)夕拝 イザヤ三三章1324   一〇名 
 一五節からは信仰を守ってどんな中でも主につながる「残りの者」がいる事が書かれている。正義を知ってそこを歩もうとする人を残された。現代は目を閉じて悪を見ない事が非常に大切である。これを意識的にしなければ周りに様々な悪が氾濫している。他の人の悪い点をわざわざ見ようとしないで良いところを見る。私たちは目を開いて良いもの、清い世界を見ていきたい。霊的な食べ物はいつも備えられて水も絶えない。歴史的に危機状態にある時イザヤは光が差し込むように美の中にある王を見た。主イエスは美しさをすべて備えた王であるが、イザヤは遥か先にこの世界に来て下さる王なる主イエスを見た。また遠く隔たった地、あらゆる方向に広がった土地を見たが、キリストの王権はあらゆる方向に広がっている。七00年も前にキリストを見たイザヤの視力は大変なものである。聖書だけは別格の本である。ユダはアッシリヤに攻撃されて侵略されたが、その頃完全な支配をしていたアッシリアの民は後に滅びてどこにも居なくなる。新しい王であるイエスが現れる時には虐げた力がなくなる。自分を苦しめていた不安、心配、悪意が力を持たなくなる。霊的なシオンが実現し、本当の王の時代には安らかな平和の町になりそこは永遠の場所になる。そこに威厳を持った主が共に居る。また多くの川が流れる。最終的に神のご計画が成就する時には砂漠地帯に豊かな川が流れる。清い命の流れが流れる。イザヤ書は大きなスケールで書かれているが、そのただ中にいのちの水が流れる事があちこちに書かれている。


二月九日(水)水曜集会 詩篇110
ダビデは、遥か先のことを予告された。自分は王だが、それとは全く違う方が神の右の座におられることを。わたしたちも罪の赦しを実感し、霊の目が開かれるとそれが見えるようになる。詩篇は、人間の一時的な感情でなく、永遠の真理が語られている。これは千年先のイエス・キリストの預言ともなっている。
本当の王はメシアであり、その敵はサタンだが、悪の力を足台にすることができる。敵のただ中で支配することができる。神の力の杖がどこまでも伸びて来るからである。「曙の胎から若さの露があなたに降るとき」とある。砂漠地帯でも朝は気温が低い。大気中の水蒸気が冷えて凝縮し、露となる。雨が降らなくても植物を潤す。露はいのちを支える。夜明けを知らせる頃にできるこの露が、メシアに降れば力となる。それを、神様が夜明けの中から生み落した。わたしたちも暗い闇から霊的な夜明けを迎えたとき、霊的な夜明けの露が心に滴るだろう。
最後に、川から水を飲むということが書かれている。メシアは霊的な水を飲んで 、頭を高くあげている方である。たえず霊的な水を飲むということは、重要なことである。わたしたちも、いのちの水を飲む。渇くことのない水を。その水を飲んで、頭をあげて主をしっかり主を見つめていくこと。霊的な清い水を飲んでいないと絶えず動揺する。頭をあげられない。わたしたちもメシアなるキリストと結び付いたとき、それに似た者としていただける。悪を踏んで行ける。


二月九日 (水)北島夕拝 使徒言行録三・110
 一番初めに、使徒たちが何を行ったかが記されている。午後三時にともに祈っていたとある。時間を決めてともに祈ることが、このような時代からなされていた。時を決めることは重要である。人間的な思いや、生活の慌ただしさに流されないために、祈りや礼拝の時を決め、守っていく必要がある。
 ペテロとヨハネが足の立たない人に出会った。物乞いをしていたので、ペテロとヨハネにも何かをもらおうとした。その人を、ペテロとヨハネはじっと見つめたことが書かれている。何を見つめたのか。それはこの人の苦しみであった。動くことができず、人に運んでもらい、門の前で物乞いをする生活。その苦しみは誰にもわからない。しかし、ペテロとヨハネは、その深い痛みをじっと見つめられた。それは神のまなざしでもあった。そして、彼らは、自分たちのもっているものでこの人を立たせることができることがわかった。キリストの力である。この人は、その力を与えられ、立つことができた。彼は喜んだ。その喜びは計り知れない。そして、その感謝は人ではなく神に向った。人ではなく神がしてくださったことを感じたのだった。そのとき、神への讃美が彼からあふれた。
 神は苦しむ人を見つめておられる。そして人を用いて神の力を、闇の中で苦しむ人に与えられる。
 今まで歩けなかった人が神の力によって立つことができた。これは、実はすべての人に言えることである。人間は、だれも、神の前に正しく歩くことはできない。足が立たずに歩けない存在である。しかし、神の力を与えられたとき、立つことができ、歩くことができるようになる。そして、そのときに、神への讃美が生まれるのである。


二月十三日 (日)主日礼拝 ローマ五・1221  35
 パウロが繰り返し告げている事は何か。それは、ふたつの支配についてである。この支配とは王としての支配という意味がある。
 人間を支配する力に、罪と死の支配がある。人間の心の深いところには、神に背く思いが潜んでおり、その力によって支配されているといえる。罪と死が、王となって人間を支配しているのである。
 しかし、ここに、もう一つの支配が示されている。キリストによるいのちの御支配である。罪の支配の根本をくつがえす力がキリストによって与えられた。キリストが、十字架の死によって、罪の支配に打ち勝ってくださった。そして、そのことを信じるだけで、罪あるものが正しいとされる恵みの道を開いてくださったのである。人間の罪が死に価するという判決が、主イエスによってくつがえされた。これは、霊の目で見れば全人類の革命的な大きな出来事である。罪と死の支配を、二千年前にキリストが来てくださって、解決してくださったからである。
 パウロは、律法が入ってきたのは罪が増し加わるため、と言っている。これは、律法が示されると、それを守ることが人間にはできないという罪の自覚が生じることを言っている。人間は、神の示す、あるべき姿にほど遠いこと、そして、それは自分の力ではどうしようもないということがわかり、罪の自覚が増し加わっていくのである。その根本的な解決のためにキリストは来られ、解決と恵みを与えてくださったのである。
 最終的に人はキリストによって、罪赦されて、永遠のいのちへと導かれている。聖書はこのことをずっと告げている。創世記、天地創造の時に、はじめにあったのは闇と混沌であった。闇の支配が初めにあった。しかし、その中に、光あれ、と光が存在した。わたしたちに光にいたる道があると言うことを、創世記から暗示されていたのである。このように旧約聖書はキリストを指し示している。創世記第二章では渇ききった世界に神は水を流してくださった。このことも、キリストによって、わたしたちは、新しい恵みを受け、力を与えられ、いのちの水がながれる世界にうつされると言うことを、示しているのである。
 闇の支配と、キリストのいのちの支配。この世には、このふたつの支配がある。そしてわたしたちはすでに、いのちの支配にうつされている、しかし、ともすれば、人間は罪の支配にふたたび帰っていこうとすることがある。このように、共に集まりみ言葉をきくことは、そのような支配から再び神の支配に帰れるようにするためにも、必要なことなのである。


二月一四日(月)藍住集会 詩編一〇六2448
詩編の第四巻の終わりの箇所である。今日の箇所も神を賛美せよが繰り返されている。現実に起こる事はいろいろあるが、神を信じる私たちの人生の区切りも神を賛美し、人生の終わりに向かって喜び、賛美、感謝で高まっていく。詩編全体の構成も非常に祈って決めてある。イスラエルの過去をふり返り全体として神の導きを思っている。神はせっかくイスラエルの人々を砂漠の中で導いたのに人間には不思議な程、頑なな所があり土地の神を信じて本当の神を信じなかった。神が間違いを指摘する為に苦しみが広がった。ピネハスが真剣な祈りをすると疫病が止まった。滅びる所をたった一人の祈りがとどめた。私たちが悪い所へ引き込まれるのを祈りの力はとどめる事ができる。私達はどこまでも悪との接点がなくなる事はないが皆が共に集まって祈り、少しでも悪しきものをとどめる事が大切である。「御国が来ますように」という主の祈りは、神の御支配が来て悪いものが広がるのをとどめて下さいという意味であり、この祈りはどんな時でも使える。イスラエルの民は次々と罪を犯したがそれでも神の民として選ばれたので神が助け出し、徹底して滅ぼさないように残りの民が残されるようにした。散らされたがあちこちに民が守られて残った。最後のところは「散らされた民をどうか集めて下さい。」という祈りがあるが、それは「神に感謝を捧げて、神の御名をほめたたえる為に集めて下さい」と作者の目的が書かれている。この精神は今に生きており、私たちが集まるのは、神を賛美して感謝する為に集まる。二五〇〇年前に言った事が今全世界で実現している。


二月十四日(月) 北島集会 列王記(下)13 イスラエルの王ヨアハズは、主の目に悪とされることを行ったとある。王に対する評価が、政治経済の判断を基準とする現代とは全く違う。王であれ個人であれ、基準はみな同じだ。唯一の神を信じる、そこに正義がある。「主の目に正しいことを行う」ことが、正義の究極的な判断の目安となる。
エリシャが死の直前に何を残したか。エリシャは神の言葉を委ねられただけなのに、戦うための強力な力を持っていた。現代のわたしたちにおいてはイエス・キリストが最大の武器であり、み言葉が剣であるが、エリシャも悪との戦いに於いて不思議な力を持っていた。エリシャに「父よ」と泣きながら呼びかけるヨアシュに向って「弓と矢を持ってきなさい」。そこから神の力が臨むように自分の手を王の手に置き「窓を開け矢を射なさい」と言った。一本の矢でも象徴的な意味で、力と励ましを与えることがある。「主の勝利の矢」だ。一本の矢でも、そこから神の力が入ってくれば非常に重い意味を持つ。出エジプト 1416節にはモーセが追い詰められて絶対絶命というとき、「杖」を高くあげると海が開いたとある。主に本当に頼っていくと主が戦ってくださる。「地面に向って矢を射る」のは徹底した勝利を得るために、求め続けることの象徴だ。勝利を信じてすれば、時が来れば神様は必ず業を成される。祈りも「矢」だ。聖霊の矢である。距離は関係ない。
こんなことが起る筈はない、と思う人が多いだろう。死者をエリシャの墓に投げ込んだが、エリシャの骨に触れると生き返り立ち上がったと書かれている。死者に命を与えるほどエリシャは命に満ちていた。わたしたちも、死んでいたのに生き返らせていただき立ち上がることができた。ほんの少しでも本当にイエス様に触れると心が変り、命をいただく。


二月一五日 火曜日 夕拝 イザヤ書三四章
 エドムの審判の記事など読みたくない、私たちと関係があるのだろうかと思ってしまう人が多いと思われるが、聖書は最終的に編集者が祈りつつ、また啓示を待って編集し、このように収められたのである。だから収められた理由がある。私たちもそれを考えながら読むことが大切。
エドムにだけ言っているのではないからこそ、「もろもろの国よ、、近づいて聞け もろもろの民よ、耳を傾けよ。」と言っているのである。聞きたくないと思う内容であるが、聞く意味があるからあえて聴きなさいと。エドムはイスラエルの南東部に位置する国である。
オバデヤ書にエドムのことが書いてある。新バビロニア帝国がユダを滅ぼした時、盟友である筈のエドムは、ユダに行って略奪をした。助けるべきなのにユダに対して不法を行った。だから裁かれるのだと。4~ 天の全軍(all the stars)「万象」とも訳される。
ここでは神の裁きが注ぎ込まれたら、どんなに強力なものでも、天の星々にさえ現わされるのだ。主は裁きの日を定めておられるのだ。そして実際に神の裁きの力が発揮されたら、混沌とした状態になるのだ。軍隊があろうが、経済が安定し、王がいてもみんな滅ぼされてしまうのだ。普通では起こらないと思うことも、神の力が一度介入すると、悪に対してはこのように裁かれるのだ。神に属く民、弱っている民を踏みつけたり、襲ったりする者は滅ぼされる。現代でも神の無限に大きい力に対する信頼こそが大切であり、必要。人々は言う、「この世には一杯悪があるではないか。どこに神の力があるのか、ないではないか。」と。目に見えないものを見ないと真実はわからないのだ。(「星の王子さま」サン・テグジュペリ作の中でに「いちばん大切なものは、目に見えないものなのです。」また「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ。」とも訳されている。)
目に見えるものだけを見ると、みんな滅んでしまう虚しいもの。しかし神の力がすべてに及ぶと信じる時には、死のうが殺されるようなことがあろうとも神のもとに甦るのだ。これは信仰であって思索の結論ではない。このようはことは新約聖書にも書いてある。(マタイ伝24:29、ヨハネ伝15:6、黙示録20:7~など)


二月一七日(木)いのちのさと集会 詩編七八の4072 いつもの参加者のほかにインターネットのスカイプ参加4名
 この詩は他人の事でなくそのまま現代の私たちに当てはまる。人間の力に目がいって背後で働かれる神の事を思わない。主イエスを信じて救われ、過去の暗い日々から贖い出された事を思い起こす。霊的に生まれた誕生日が大切である。一日が無事過ぎて夜を迎えた事まで考えると御手の力が守り支えて下さった事は数え切れない。いろいろな奇蹟はみな神の御手の力。聖書の神はじっとしている神ではなく導く神である。羊飼いに羊は従っていく。彼らの前から諸国の民を追い払って神の相続地を下さった。遺産のように私たちに計り縄で定めて良い所を下さる。その最善のものが信仰であり神の国にある輝かしい相続地である。神は繰り返し背く民に厳しい罰を与えたが、時が来るとイスラエルの民を虐げた異邦人にも厳しい罰を注いだ。神は背く者に厳しい罰を行うが一方ご自分の民を救い導く。人間は明日の事も分からないが神様だけが本当に英知をもって導いて下さる。長い歴史を通して御業がある。どんな事を通しても神が導き養って下さるという強い感動がこの詩にはある。


二月二二日(火)移動夕拝 熊井宅 ヨハネ十・2230 クマイ宅に十二名 スカイプ十名。計22名。
ヨハネはここで「冬であった」とわざわざ書いている。ユダの裏切りの時も「夜であった」と書いてある。人々の主イエスに対する敵意、憎しみが霊的な冬であったと、季節と重ねて書かれている。ユダヤ人が取り囲んで、「いつまではっきりしないのか。メシアだと言え」と言ったが、いくら言っても見ても分からない。主イエスを神の子だと分かるのは神の啓示による。主イエスの家族も「気が狂った」と取り押さえに来た。神から特に選ばれ啓示を受けると主の声を聞き分ける事ができる。信じる者はその声を知っているのでついて行く。主イエスを知って信じたら神の国に向かって動き始める。いつも神は主イエスを通して語りかけている。信仰が続く人は自分の中でこちらが本当だという事を感じる。私達も時に、主イエスの語りかけを聞かないで、蛇の誘惑の声に聞いてしまうが、惑わしの声に聞いてはいけない。聖書には、地面の下に地下水が流れるように本質的な真理がずっと流れている。神の声が聞こえない時は、詩篇にあるように神に向かって必死で叫ぶ。詩編23に書かれてるが、神が私の羊飼い。絶えず私を個人的に導いて下さる。そして青草の原に休ませ魂を生き返らせて下さる。詩編23と今日の箇所は対になっている。み言葉に聞いたら、主が愛して私たちと共に住んで下さり常に主の語りかけを感じる。私達が神を捨てない限り決して捨てられない。死の力さえも奪う事はできない。神の愛だけは揺るがないという強固な確信が聖書の確信である。人間の声でななくすべての出来事の奥に絶えず神の声を聞き分けて行く。それが揺るがない確信となる。


二月二三日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録五章11~六章8万の数万倍の天使たちの声が聞えた。万の数万倍とは何億という膨大な数であり、見渡す限りの天使たちが居るということである。壮大な天の光景。それらがみな、殺されて惨めな小羊のような存在であるのに、力、富、知恵、そして賛美を受けるにふさわしい神とキリストを大声で賛美しているのである。これは聖書全体で最も大きなスケールの賛美だ。霊の目が開かれる(啓示)と、肉体の目で見えるものが暗くて混乱していても、ここにあらゆる力と栄光があるということが見える。宇宙的な大賛美だ。これが聖書の、他の書物と全くちがうところである。肉体の目と、霊の目の、与えるものが違っているところである。
聖書は過去、現在、未来、広く深い視野をおさめている。人間を神とすれば当然視野は狭くなるが、啓示を受ければ視野も広くなる。
六章からは、五章の終りと対照的に、これから起ることが示されていく。白い馬は地上の権力、赤い馬は戦争、秤を持つ者が乗る黒い馬は戦争によって非常に物が高くなることを、青白い馬は死を表し、どれも災いや裁きをもたらすことを言っている。最初に封印を解いて現れるのは大混乱状態であった。歴史の流れのなかで、このような混乱があることはイエス様も、マタイ24章3で言っておられる。だんだんとよくなるとは言われていない。だがそれが終りでない。これらを通って新しい世界を迎える。人間も子供から壮年になり、次第に衰えて死を迎え、そこを超えて復活を迎える。それに似ている。
霊的な目で、天で大賛美が起り宇宙的賛美がおこっていることをしっかり見ていれば揺がされることはない。わたしたちも神様の力を与えられれば、これと同じような希望を持って生きることができる。


2月25日スカイプ礼拝(参加17名)アモス5章4節~15節 アモス書は、イエス誕生よりも750年ほど前の預言者である。このアモスは1章にあるように羊飼いだった。
 今から2700年前、イスラエルの人たちの間違った行いのために、シリアが攻撃されて追い詰められたが、アモスは神の声を伝える者として「このままでは滅んで行く」と力強い訴えかけをした。
 この箇所ではイスラエルの民が何度警告しても神に立ち帰ろうとしなかったことが書かれている。待たれている神の元に帰らなかったので、裁きが起こるぎりぎりの状況である。
 しかし、裁きが差し迫っているその状態からでも、生きる道があるということが分かる箇所である。追い詰められた状況、罪を重ねている人にも「求めなさい生きなさい。」と勧めている。それが旧約のような非常に昔から言われているということは、驚くべきことである。
 主イエスの「求めなさい、そうすれば与えられる」はこの延長線上にある言葉である。「まして天の父は聖霊を与えてくださる。」私たちは、つぶされそうになっても、立ち返って、心からそれぞれの場において、主を求めたら生きられる。それは大きな恵みである。生きるということは言い換えれば、神様が共にいてくださるということ。このことはイエスキリストの本質(インマヌエル)である。命の道がすぐ側にある。「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ書)


○226日(土)土曜集会。植物、手話、手話讃美、聖書の会この日は午後に羽田から飛行機で、登戸学寮の三人の学生と小舘 知子さんが徳島に来られ、そのまま土曜日集会に参加されました。また、この土曜日集会に時々参加している、近藤 政子さんの曾孫の、堀翔太君、 紗彩(さあや)さんー二人とも小学生、それと、保育園児の 彩夏(あやか)ちゃんたちも、ともに植物や手話、手話讃美などをしました。


二月二十七日(日)主日礼拝 ロマ書六・914  51
「信仰によって義とされる」とある。義とされる、とは、神との関係が平和になる、ということである。生まれつきの人間は神との関係が絶たれている状態である。人を憎む心、愛せない心なども神に背いている。そのような、真理や愛に背を向けた心から、神に立ち返る。信仰によって救われると言うことが、義とされる、ということである。
 すべての出発点は信仰による。古い自分に死ぬのも、新しく生きるのも信仰による。古い自分が変わったのは、信じたからである。なすべきことは万能の力を信じて主を仰ぎ見ることである。
 漁師であったペテロは主イエスの呼びかけを聞いて、すべてを捨てて従った。そのときから、変えられていった。しかし、途中で、自分中心の思いが、出てくることがあった。主イエスが十字架の死について話したとき、おもわず主イエスをたしなめた。また、主イエスがゲッセマネで苦しみの祈りをしていたとき眠ってしまった。そして、主イエスが捕らえられたときには、三度も主イエスを知らないと言ってしまった。そのような裏切りをしてしまったペテロが立ち直るためには、何が必要だったか。それは、主イエスのまなざしであった。
 主イエスのまなざしは、ペテロの行為に対する怒りではない。赦し、いつくしみのまなざしだった。その主イエスのまなざしをペテロは見つめ返した。そして激しく泣いた。新しいいのちを受けるためには、主イエスのまなざしを受けるだけ、十字架をとおして注がれている神の愛を信じ、それを感謝してうけるだけでいい。
「すべての民よ、わたしを仰ぎ望め。そうすれば救われる」とイザヤ書にも記されている。信じるだけで、救われるのである。
「あなたがたの体を罪にまかせてはいけない」とある。口も体の一部である。言葉でよくないことを言ってしまうことは、だれでもおこることである。人間はすぐに罪に任せてしまう弱さがある。しかし、そのたびに、神を見上げ、赦しを願うと、神は赦してくださる。
 人間は罪赦されるまでは、死んでいたような者である。しかし、神によって生き返らせていただいた。死んだ者が生き返らせていただいたから、少しでもその恵みを他者にも伝えたいと思うようになる。パウロも、キリストの一方的な恵みを信じてうけた。そこで、古い自分に死んであたらしいいのちを受けたのである。
 自分のからだを神に捧げていくとは、毎日の生活の中で、生きる目的が神のためとなることである。死んで生き返らせてもらったのだから、そのいのちを神に捧げていこうと願う。そして生活の中で祈る。呼吸をするように祈る。それも礼拝である。自分に死ぬことは難しい。しかし、神が力をも与えてくださる。自分に死んで神に生きていく。その力を与えるのが聖霊である。

・この日は登戸学寮から小舘知子さん、学生の三浦佳南さん、小久保史人さん、佐藤泰吾さん、の4人が参加されました。いつもの礼拝に手話讃美とコーラスをしました。そして、講話の後では全員が自己紹介をしました。よき交わりの時を持つことができ感謝でした。


 二月二十七日 (日)つゆ草集会(大学病院の個室での集会) マルコ十二・3242
 主イエスのもっとも激しい霊の戦いの箇所である。ここで勝利がなければ、十字架の救いはなかった。この祈りの勝利で世界の歴史が変わったと言える。
 弟子たちは、「眠っていた」ということが何度も書かれている。主イエスが苦しみの中で祈って、戻ってきたら、弟子たちは眠っていたのである。三年間も行動を共にし、教え、奇跡を見てきた弟子たちであったが、祈っていなさい、と言われたのに、祈れなかった。心は燃えても体は弱い、とある。わたしたちの肉体は弱い。しかし、それを越えているものがある。それが復活である。
 ゲッセマネの祈りは苦しみの祈りだった。主イエスのようなお方が、じっとしていられないほど、もだえ苦しんだのである。
人間の罪の深さに、悲しみと苦しみが主イエスを襲った。恐るべき人間の罪に対して、主イエスは怒りや嫌悪、軽蔑ではなく、悲しみを覚えた。そこに神の愛がある。そして、主イエスはその罪を担ってくださったのである。
 主イエスは祈られた。できるならば、この苦しみを取り除いてくださいと祈られた。苦しみの時、どうか助けてください、この苦しみを取り除いてくださいと祈ることができるのは恵みである。
 そして主イエスはもうひとつ祈られた。それは、自分の思いではなく神様の御意志がなされますようにと言う祈りであった。
自分のしたいことを選ぶのか。神の御意志にかなうことを選ぶのか。しかし、人間には神の御意志がわからないこともある。そして、神の御心にかなうように生きることはなかなかできない。しかし、できないから祈り求める。与えられるまで求め続ける。
 わたしたちも、眠ってしまわないように神様に目を覚まさせていただき、祈りつつ、神の御意志にかなう道を歩ませていただきたい。
・午前の主日礼拝に参加された登戸学寮の小舘知子さん、学生の三浦佳南さん、小久保史人さん、佐藤泰吾さん、の4人がつゆくさ集会にも参加されました


二月二八日(月)藍住集会 詩編一〇七 この詩編は何度も同じ言葉が書かれている。この詩人の深いところにあったのが主に感謝する事であった。詩人の長い人生がはっきりまとめられる。こういう所に到達すれば他のものはいらなくなる。感謝すると賛美するは同じ言葉である。神に結びつくと災いも苦難も忌まわしい事も益になる。聖書を学ぶ事が大切だ。本当の真理は難しくない。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。」とありこの事が感謝の裏付けになっている。歴史上にあった事は繰り返される。今も過去も未来も当てはまっていく。主に助けを求めると本当に救って下さる。病気や家庭の問題、職場の悩み、老齢の孤独などどんな問題でも主は解決して下さる。それゆえ主への賛美はずっと続いてきた。主は確かに驚くべき御業を成し遂げられてきた。2930節「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。 彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」とあり様々な嵐があるが主は嵐や荒波をおさめて本当に望みの港に導いてくださる。マタイ八章で、湖が荒れて弟子がもう死ぬと思った時、「主よお助け下さい」と言うと、風や湖さえも従ったという記事がある。
・この日、登戸学寮の佐藤泰吾さん三浦佳南さん、小久保史人さん、小舘知子さんも集会に参加され、共に祈り賛美、み言葉を学べて感謝でした。感話も話されスカイプで参加の
勝浦良明さんと堀弘子さんとも交流ができました。


二月二八日(月) 北島集会 列王記(下)十五章
ここで言っていることははっきりしている。主の目に悪とされることをするか、それとも正しいとされることをするか。この一点に集約される。聖書のこの視点は人生を変える。主の目に悪であっても、政治の世界などでは強引に引っ張る人についていく。だが不正や嘘は祝福されない。祝福されれば救われていく。神の目に完全に正しいことをされたのがイエス・キリストで、そのキリストによって二千年来、多くの人が祝福されてきた。
だが主の目に正しいとされた王でも、偶像を拝する「聖なる高台」は取り除かなかったとある。これは、表面にあるものはきれいに除かれても、どのような人間にもどこかに必ず取り除かれない弱点が奥には残る。そのためにイエス・キリストが来られた。イエスのみ手が触れれば清められる。どんな荒れてた人の心も、イエス・キリストは変えることができる。いわば精神の革命者として来られた。そしてその最後のものを除き去るために自ら死んでくださったのである。
アッシリアの王が来て住民を捕囚として連れ去った。が、きびしい苦難を通り、こからも神の導きによって存続して行くのだ。民族の苦難も神のご計画の内にある。
新共同訳で「重い皮膚病」と訳されているが、口語訳では、「らい病」で、このような特別な記述は単なる皮膚病の一種であるとは考えられない。そのおそろしい病気であってもキリストによって変えられ、燃えるような信仰を与えられてから、召されるまでの三年を生きた青年の話を聞きました。イエス様の手によって、変えられないものはない。
この集会にも、登戸学寮から小舘知子さんと、小久保、佐藤、三浦さんの三人の学生さんたち参加。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N


お知らせ

38回 キリスト教四国集会
日時 2011514日(土)13時~51512
会場 高知共済会館 高知市本町5丁目3-20 電話 0888233211

会費
全日参加(一泊夕朝食写真付)一般9000円、学生5000
部分参加(参加費500円)   夕食2100円、朝食840円、昼食1060
会費は郵便振替にて4月13日までに。郵便振替番号01640-4-56645 加入者名片岡典子
申込先 原 忠徳 alma42pe_pa@yahoo.co.jp 781-0314 高知市春野町南ケ丘8T目1-2

プログラムの概要
○14
日(土)・1310分~1355分 聖書講話 「神の愛と人の愛」冨永 尚(松山聖書集会) 14時~1740分 自己紹介、感話、19時~2050分 自己紹介と感話(その2)など。

○15
日(日)・850分~930分 聖書講話(その1)「解き放たれる」ガラテヤ書5章ほか 原 忠徳(高知聖書集会)
950分~1030分 聖書講話(その2)「主にある自由ー旧約と新約の内に流れるもの」吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会)


集会だより 2011.03 NO.369

あなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に 根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださいますように。 (エペソ書317


 

二月六日(日)主日礼拝 サムエル上十・116 35
 サウルが神に呼び出されて王になる話である。一般的には王になるには資質や血筋、武力や統率力がなければ王にはなれない。しかし、聖書の世界では違う。サウルが王になるように呼び出されたが、しかし、サウルは普通の人であった。ここにはなんら、王になる資質については書かれていない。しかし、神は指名した。そして神が油を注いで王とした。
 この箇所には、これから出会う出来事、起る出来事が、起る前から詳しく説明されている。特別な霊的な目を与えられて、先のことが見えた。これは神から来たことであると、確信させるためであった。 
 「ベテル」という地名が書かれている。この「ベテル」とは、神の家という意味で、ヤコブの夢の中で、主が共におられることを示された場所であった。そのことが大事なことであったから記念をし、その場所をベテルと名付けた。(創世記二十八・19
 そして、高台から預言者が来ること、そのとき別人のようになることが書かれている。サウルはただの人だった。しかし、主の霊が注がれたら、別人のようになる。神の霊が下ると人は変わるのである。それは主が共におられるということである。神はただの人を用いる。無から有を生み出される神は神の栄光を示すために、御業をなされる。
 これは、わたしたちにも言えることである。自分の罪や弱さを見て、何もできないと言ってはいけない。できなければ、神の霊を求めるべきである。力がないと思えば神に求めるべきである。人間にはできなくても、神の力が働けば変わる。主の霊が注がれるということには終わりはない。主の霊が注がれるまで、祈り求めていかなければならない。
 神が共にいるという事がなければ、どんなにいい生活ができても、祝福はない。苦しみは、神を知るために与えらているのである。そして、新約の時代からは、主イエスが来られたことによって、誰でもが、神が共におられることができるようになった。
 ここに「七日間待つ。」ということも記されている。待つと言うことの重要性が示されている。神と共に歩むものは、自分の感情、気持ちで行動することは罪である。小さな事でも、神に聞き、示されることを待つ。神からの示しを待ち、神が何を言おうとされているかを黙して待つことの大事さが示されている。


二月三日(木)いのちのさと集会 詩編七八の9~42 
 歴史の中に於ける人間と神がテーマである。イスラエルの子等は戦いの日に裏切り神との約束を守らなかった。サウル王の事を直接に指している。御業を忘れた。弟子達も主イエスの御業を間近に見たが忘れて逃げ去った。私たちも不思議な御業を行って下さって信仰を持つようになった。ある種の海を開いて通らせて下さった。昼は雲の柱、夜は火の光でこちらが道だと導いて下さった。霊が飢え渇く時も命の水を開いて下さった。これは我々にも当てはまる。現実のイスラエルはそれにも関わらず背いた。パンや肉を与えられる筈がないと思った。私達も苦しい事が続くと神は助けてくれないだろうと思う。「それでもなお」が繰り返し出てくるが神は背く民に様々な恵みを与えた。忍耐して導いた。どれほど彼らは荒野で反抗したか。様々な良き事を思い起こそうとしない。人間の歴史は罪深い。これに対して神はいかに寛容であるか。神は繰り返し繰り返し良きものを注ごうとされるお方である。人間は情けない存在である。救いがたい人間の頑なさに神が究極の愛をなして下さる。長い歴史の中の人間性と神の本性の感動を書きつづった詩である。

○2
6日(日)高松集会(松浦・ローレン パットン夫妻宅)
松浦夫妻のほか、高松市から2名、スカイプ参加と合わせて6名。毎月第一日曜日の午後3時からの集会。


二月七日 (月)小羊集会 マタイ二十三・2739
 律法学者とパリサイ派の人々に対して主イエスが厳しく言われている。律法学者とは、聖書を教える立場にある人たちである。パリサイ派の人々というのは、はじめは神殿にかかわる権益と結びついた祭司のあり方に反対して、聖書に立ち返ろうという改革のために生まれた。しかしそれが徐々に変質し、外側ばかりをきれいにみせかけ、実質は汚れているという状態になり、本来のあり方から外れていった。これらの人々に対して、主イエスは厳しく話されたのであった。
 しかし、このことは、律法学者とパリサイ派の人々に対してだけ言われているのではない。人は外側を取り繕ってきれいに見せようとする。しかし、内側は、どんな方法をとっても、きれいにはならない。人間には罪があり、自分の力で清めることはできないのである。パリサイ派、律法学者がいかに、表面だけをきれいにしているかということを、徹底的に記しているが、きれいにできない内側は、どうすればいいのか。その解決のために、主イエスが来られたということを指し示そうとしているのである。
 内側にある、よくないもの、つまり人間の罪について、旧約聖書にはどのように記されているか。レビ記には、主の戒めを犯したときには、贖罪の捧げ物を屠る、ということが記されている。罪の贖いには、動物を殺して焼き尽くす捧げ物としていた。いのちの代償が必要なためであった。このことが、キリストの贖罪につながっている。主イエスは、ご自分が贖罪の小羊となってくださり、罪の贖いのためにいのちを捨ててくださった。主イエスが身代わりに死んでくださり、その主イエスの十字架を信じ、仰ぐだけで、罪が赦され清められる道を開いてくださったのである。
 白く塗った墓でしかない人間に、命を捨てて赦しと清めの道を開いてくださった主イエス。わたしたちは、ただ感謝して素直に信じ、受け取るだけでよい。そのとき初めて、内側に清いいのちが与えられるのである。


二月八日(火)海陽集会。(賛美堂・数度宅)この海陽町とは、徳島駅から南へ約80キロ、高知県境まで10キロという場所です。数度春代姉、勝茂兄の二人と、途中の美波町からの二人の参加者、それから、インターネットのスカイプでの参加として、福岡県の方と勝浦 良明さんが参加されています。詩篇とマルコ福音書を交互に学んでいます。この日は、詩篇からの学びでした。


二月八日(火)夕拝 イザヤ三三章1324   一〇名 
 一五節からは信仰を守ってどんな中でも主につながる「残りの者」がいる事が書かれている。正義を知ってそこを歩もうとする人を残された。現代は目を閉じて悪を見ない事が非常に大切である。これを意識的にしなければ周りに様々な悪が氾濫している。他の人の悪い点をわざわざ見ようとしないで良いところを見る。私たちは目を開いて良いもの、清い世界を見ていきたい。霊的な食べ物はいつも備えられて水も絶えない。歴史的に危機状態にある時イザヤは光が差し込むように美の中にある王を見た。主イエスは美しさをすべて備えた王であるが、イザヤは遥か先にこの世界に来て下さる王なる主イエスを見た。また遠く隔たった地、あらゆる方向に広がった土地を見たが、キリストの王権はあらゆる方向に広がっている。七00年も前にキリストを見たイザヤの視力は大変なものである。聖書だけは別格の本である。ユダはアッシリヤに攻撃されて侵略されたが、その頃完全な支配をしていたアッシリアの民は後に滅びてどこにも居なくなる。新しい王であるイエスが現れる時には虐げた力がなくなる。自分を苦しめていた不安、心配、悪意が力を持たなくなる。霊的なシオンが実現し、本当の王の時代には安らかな平和の町になりそこは永遠の場所になる。そこに威厳を持った主が共に居る。また多くの川が流れる。最終的に神のご計画が成就する時には砂漠地帯に豊かな川が流れる。清い命の流れが流れる。イザヤ書は大きなスケールで書かれているが、そのただ中にいのちの水が流れる事があちこちに書かれている。


二月九日(水)水曜集会 詩篇110
ダビデは、遥か先のことを予告された。自分は王だが、それとは全く違う方が神の右の座におられることを。わたしたちも罪の赦しを実感し、霊の目が開かれるとそれが見えるようになる。詩篇は、人間の一時的な感情でなく、永遠の真理が語られている。これは千年先のイエス・キリストの預言ともなっている。
本当の王はメシアであり、その敵はサタンだが、悪の力を足台にすることができる。敵のただ中で支配することができる。神の力の杖がどこまでも伸びて来るからである。「曙の胎から若さの露があなたに降るとき」とある。砂漠地帯でも朝は気温が低い。大気中の水蒸気が冷えて凝縮し、露となる。雨が降らなくても植物を潤す。露はいのちを支える。夜明けを知らせる頃にできるこの露が、メシアに降れば力となる。それを、神様が夜明けの中から生み落した。わたしたちも暗い闇から霊的な夜明けを迎たとき、霊的な夜明けの露が心に滴るだろう。
最後に、川から水を飲むということが書かれている。メシアは霊的な水を飲んで 、頭を高くあげている方である。たえず霊的な水を飲むということは、重要なことである。わたしたちも、いのちの水を飲む。渇くことのない水を。その水を飲んで、頭をあげて主をしっかり主を見つめていくこと。霊的な清い水を飲んでいないと絶えず動揺する。頭をあげられない。わたしたちもメシアなるキリストと結び付いたとき、それに似た者としていただける。悪を踏んで行ける。


二月九日 (水)北島夕拝 使徒言行録三・110
 一番初めに、使徒たちが何を行ったかが記されている。午後三時にともに祈っていたとある。時間を決めてともに祈ることが、このような時代からなされていた。時を決めることは重要である。人間的な思いや、生活の慌ただしさに流されないために、祈りや礼拝の時を決め、守っていく必要がある。
 ペテロとヨハネが足の立たない人に出会った。物乞いをしていたので、ペテロとヨハネにも何かをもらおうとした。その人を、ペテロとヨハネはじっと見つめたことが書かれている。何を見つめたのか。それはこの人の苦しみであった。動くことができず、人に運んでもらい、門の前で物乞いをする生活。その苦しみは誰にもわからない。しかし、ペテロとヨハネは、その深い痛みをじっと見つめられた。それは神のまなざしでもあった。そして、彼らは、自分たちのもっているものでこの人を立たせることができることがわかった。キリストの力である。この人は、その力を与えられ、立つことができた。彼は喜んだ。その喜びは計り知れない。そして、その感謝は人ではなく神に向った。人ではなく神がしてくださったことを感じたのだった。そのとき、神への讃美が彼からあふれた。
 神は苦しむ人を見つめておられる。そして人を用いて神の力を、闇の中で苦しむ人に与えられる。
 今まで歩けなかった人が神の力によって立つことができた。これは、実はすべての人に言えることである。人間は、だれも、神の前に正しく歩くことはできない。足が立たずに歩けない存在である。しかし、神の力を与えられたとき、立つことができ、歩くことができるようになる。そして、そのときに、神への讃美が生まれるのである。


二月十三日 (日)主日礼拝 ローマ五・1221  35
 パウロが繰り返し告げている事は何か。それは、ふたつの支配についてである。この支配とは王としての支配という意味がある。
 人間を支配する力に、罪と死の支配がある。人間の心の深いところには、神に背く思いが潜んでおり、その力によって支配されているといえる。罪と死が、王となって人間を支配しているのである。
 しかし、ここに、もう一つの支配が示されている。キリストによるいのちの御支配である。罪の支配の根本をくつがえす力がキリストによって与えられた。キリストが、十字架の死によって、罪の支配に打ち勝ってくださった。そして、そのことを信じるだけで、罪あるものが正しいとされる恵みの道を開いてくださったのである。人間の罪が死に価するという判決が、主イエスによってくつがえされた。これは、霊の目で見れば全人類の革命的な大きな出来事である。罪と死の支配を、二千年前にキリストが来てくださって、解決してくださったからである。
 パウロは、律法が入ってきたのは罪が増し加わるため、と言っている。これは、律法が示されると、それを守ることが人間にはできないという罪の自覚が生じることを言っている。人間は、神の示す、あるべき姿にほど遠いこと、そして、それは自分の力ではどうしようもないということがわかり、罪の自覚が増し加わっていくのである。その根本的な解決のためにキリストは来られ、解決と恵みを与えてくださったのである。
 最終的に人はキリストによって、罪赦されて、永遠のいのちへと導かれている。聖書はこのことをずっと告げている。創世記、天地創造の時に、はじめにあったのは闇と混沌であった。闇の支配が初めにあった。しかし、その中に、光あれ、と光が存在した。わたしたちに光にいたる道があると言うことを、創世記から暗示されていたのである。このように旧約聖書はキリストを指し示している。創世記第二章では渇ききった世界に神は水を流してくださった。このことも、キリストによって、わたしたちは、新しい恵みを受け、力を与えられ、いのちの水がながれる世界にうつされると言うことを、示しているのである。
 闇の支配と、キリストのいのちの支配。この世には、このふたつの支配がある。そしてわたしたちはすでに、いのちの支配にうつされている、しかし、ともすれば、人間は罪の支配にふたたび帰っていこうとすることがある。このように、共に集まりみ言葉をきくことは、そのような支配から再び神の支配に帰れるようにするためにも、必要なことなのである。


二月一四日(月)藍住集会 詩編一〇六2448
詩編の第四巻の終わりの箇所である。今日の箇所も神を賛美せよが繰り返されている。現実に起こる事はいろいろあるが、神を信じる私たちの人生の区切りも神を賛美し、人生の終わりに向かって喜び、賛美、感謝で高まっていく。詩編全体の構成も非常に祈って決めてある。イスラエルの過去をふり返り全体として神の導きを思っている。神はせっかくイスラエルの人々を砂漠の中で導いたのに人間には不思議な程、頑なな所があり土地の神を信じて本当の神を信じなかった。神が間違いを指摘する為に苦しみが広がった。ピネハスが真剣な祈りをすると疫病が止まった。滅びる所をたった一人の祈りがとどめた。私たちが悪い所へ引き込まれるのを祈りの力はとどめる事ができる。私達はどこまでも悪との接点がなくなる事はないが皆が共に集まって祈り、少しでも悪しきものをとどめる事が大切である。「御国が来ますように」という主の祈りは、神の御支配が来て悪いものが広がるのをとどめて下さいという意味であり、この祈りはどんな時でも使える。、イスラエルの民は次々と罪を犯したがそれでも神の民として選ばれたので神が助け出し、徹底して滅ぼさないように残りの民が残されるようにした。散らされたがあちこちに民が守られて残った。最後のところは「散らされた民をどうか集めて下さい。」という祈りがあるが、それは「神に感謝を捧げて、神の御名をほめたたえる為に集めて下さい」と作者の目的が書かれている。この精神は今に生きており、私たちが集まるのは、神を賛美して感謝する為に集まる。二五〇〇年前に言った事が今全世界で実現している。


二月十四日(月) 北島集会 列王記(下)13 イスラエルの王ヨアハズは、主の目に悪とされることを行ったとある。王に対する評価が、政治経済の判断を基準とする現代とは全く違う。王であれ個人であれ、基準はみな同じだ。唯一の神を信じる、そこに正義がある。「主の目に正しいことを行う」ことが、正義の究極的な判断の目安となる。
エリシャが死の直前に何を残したか。エリシャは神の言葉を委ねられただけなのに、戦うための強力な力を持っていた。現代のわたしたちにおいてはイエス・キリストが最大の武器であり、み言葉が剣であるが、エリシャも悪との戦いに於て不思議な力を持っていた。エリシャに「父よ」と泣きながら呼びかけるヨアシュに向って「弓と矢を持ってきなさい」。そこから神の力が臨むように自分の手を王の手に置き「窓を開け矢を射なさい」と言った。一本の矢でも象徴的な意味で、力と励ましを与えることがある。「主の勝利の矢」だ。一本の矢でも、そこから神の力が入ってくれば非常に重い意味を持つ。出エジプト 1416節にはモーセが追い詰められて絶対絶命というとき、「杖」を高くあげると海が開いたとある。主に本当に頼っていくと主が戦ってくださる。「地面に向って矢を射る」のは徹底した勝利を得るために、求め続けることの象徴だ。勝利を信じてすれば、時が来れば神様は必ず業を成される。祈りも「矢」だ。聖霊の矢である。距離は関係ない。
こんなことが起る筈はない、と思う人が多いだろう。死者をエリシャの墓に投げ込んだが、エリシャの骨に触れると生き返り立ち上がったと書かれている。死者に命を与えるほどエリシャは命に満ちていた。わたしたちも、死んでいたのに生き返らせていただき立ち上がることができた。ほんの少しでも本当にイエス様に触れると心が変り、命をいただく。


二月一五日 火曜日 夕拝 イザヤ書三四章
 エドムの審判の記事など読みたくない、私たちと関係があるのだろうかと思ってしまう人が多いと思われるが、聖書は最終的に編集者が祈りつつ、また啓示を待って編集し、このように収められたのである。だから収められた理由がある。私たちもそれを考えながら読むことが大切。
エドムにだけ言っているのではないからこそ、「もろもろの国よ、、近づいて聞け もろもろの民よ、耳を傾けよ。」と言っているのである。聞きたくないと思う内容であるが、聞く意味があるからあえて聴きなさいと。エドムはイスラエルの南東部に位置する国である。
オバデヤ書にエドムのことが書いてある。新バビロニア帝国がユダを滅ぼした時、盟友である筈のエドムは、ユダに行って略奪をした。助けるべきなのにユダに対して不法を行った。だから裁かれるのだと。4~ 天の全軍(all the stars)「万象」とも訳される。
ここでは神の裁きが注ぎ込まれたら、どんなに強力なものでも、天の星々にさえ現わされるのだ。主は裁きの日を定めておられるのだ。そして実際に神の裁きの力が発揮されたら、混沌とした状態になるのだ。軍隊があろうが、経済が安定し、王がいてもみんな滅ぼされてしまうのだ。普通では起こらないと思うことも、神の力が一度介入すると、悪に対してはこのように裁かれるのだ。神に属く民、弱っている民を踏みつけたり、襲ったりする者は滅ぼされる。現代でも神の無限に大きい力に対する信頼こそが大切であり、必要。人々は言う、「この世には一杯悪があるではないか。どこに神の力があるのか、ないではないか。」と。目に見えないものを見ないと真実はわからないのだ。(「星の王子さま」サン・テグジュペリ作の中でに「いちばん大切なものは、目に見えないものなのです。」また「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ。」とも訳されている。)
目に見えるものだけを見ると、みんな滅んでしまう虚しいもの。しかし神の力がすべてに及ぶと信じる時には、死のうが殺されるようなことがあろうとも神のもとに甦るのだ。これは信仰であって思索の結論ではない。このようはことは新約聖書にも書いてある。(マタイ伝24:29、ヨハネ伝15:6、黙示録20:7~など)


二月一七日(木)いのちのさと集会 詩編七八の4072 
いつもの参加者のほかにインターネットのスカイプ参加4名

 この詩は他人の事でなくそのまま現代の私たちに当てはまる。人間の力に目がいって背後で働かれる神の事を思わない。主イエスを信じて救われ、過去の暗い日々から贖い出された事を思い起こす。霊的に生まれた誕生日が大切である。一日が無事過ぎて夜を迎えた事まで考えると御手の力が守り支えて下さった事は数え切れない。いろいろな奇蹟はみな神の御手の力。聖書の神はじっとしている神ではなく導く神である。羊飼いに羊は従っていく。彼らの前から諸国の民を追い払って神の相続地を下さった。遺産のように私たちに計り縄で定めて良い所を下さる。その最善のものが信仰であり神の国にある輝かしい相続地である。神は繰り返し背く民に厳しい罰を与えたが、時が来るとイスラエルの民を虐げた異邦人にも厳しい罰を注いだ。神は背く者に厳しい罰を行うが一方ご自分の民を救い導く。人間は明日の事も分からないが神様だけが本当に英知をもって導いて下さる。長い歴史を通して御業がある。どんな事を通しても神が導き養って下さるという強い感動がこの詩にはある。


二月二二日(火)移動夕拝 熊井宅 ヨハネ十・2230 クマイ宅に十二名 スカイプ十名。計22名。
ヨハネはここで「冬であった」とわざわざ書いている。ユダの裏切りの時も「夜であった」と書いてある。人々の主イエスに対する敵意、憎しみが霊的な冬であったと、季節と重ねて書かれている。ユダヤ人が取り囲んで、「いつまではっきりしないのか。メシアだと言え」と言ったが、いくら言っても見ても分からない。主イエスを神の子だと分かるのは神の啓示による。主イエスの家族も「気が狂った」と取り押さえに来た。神から特に選ばれ啓示を受けると主の声を聞き分ける事ができる。信じる者はその声を知っているのでついて行く。主イエスを知って信じたら神の国に向かって動き始める。いつも神は主イエスを通して語りかけている。信仰が続く人は自分の中でこちらが本当だという事を感じる。私達も時に、主イエスの語りかけを聞かないで、蛇の誘惑の声に聞いてしまうが、惑わしの声に聞いてはいけない。聖書には、地面の下に地下水が流れるように本質的な真理がずっと流れている。神の声が聞こえない時は、詩篇にあるように神に向かって必死で叫ぶ。詩編23に書かれてるが、神が私の羊飼い。絶えず私を個人的に導いて下さる。そして青草の原に休ませ魂を生き返らせて下さる。詩編23と今日の箇所は対になっている。み言葉に聞いたら、主が愛して私たちと共に住んで下さり常に主の語りかけを感じる。私達が神を捨てない限り決して捨てられない。死の力さえも奪う事はできない。神の愛だけは揺るがないという強固な確信が聖書の確信である。人間の声でななくすべての出来事の奥に絶えず神の声を聞き分けて行く。それが揺るがない確信となる。


二月二三日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録五章11~六章8万の数万倍の天使たちの声が聞えた。万の数万倍とは何億という膨大な数であり、見渡す限りの天使たちが居るということである。壮大な天の光景。それらがみな、殺されて惨めな小羊のような存在であるのに、力、富、知恵、そして賛美を受けるにふさわしい神とキリストを大声で賛美しているのである。これは聖書全体で最も大きなスケールの賛美だ。霊の目が開かれる(啓示)と、肉体の目で見えるものが暗くて混乱していても、ここにあらゆる力と栄光があるということが見える。宇宙的な大賛美だ。これが聖書の、他の書物と全くちがうところである。肉体の目と、霊の目の、与えるものが違っているところである。
聖書は過去、現在、未来、広く深い視野をおさめている。人間を神とすれば当然視野は狭くなるが、啓示を受ければ視野も広くなる。
六章からは、五章の終りと対照的に、これから起ることが示されていく。白い馬は地上の権力、赤い馬は戦争、秤を持つ者が乗る黒い馬は戦争によって非常に物が高くなることを、青白い馬は死を表し、どれも災いや裁きをもたらすことを言っている。最初に封印を解いて現れるのは大混乱状態であった。歴史の流れのなかで、このような混乱があることはイエス様も、マタイ24章3で言っておられる。だんだんとよくなるとは言われていない。だがそれが終りでない。これらを通って新しい世界を迎える。人間も子供から壮年になり、次第に衰えて死を迎え、そこを超えて復活を迎える。それに似ている。
霊的な目で、天で大賛美が起り宇宙的賛美がおこっていることをしっかり見ていれば揺がされることはない。わたしたちも神様の力を与えられれば、これと同じような希望を持って生きることができる。


25日スカイプ礼拝(参加17名)アモス5章4節~15節
 アモス書は、イエス誕生よりも750年ほど前の預言者である。このアモスは1章にあるように羊飼いだった。
 今から2700年前、イスラエルの人たちの間違った行いのために、シリアが攻撃されて追い詰められたが、アモスは神の声を伝える者として「このままでは滅んで行く」と力強い訴えかけをした。
 この箇所ではイスラエルの民が何度警告しても神に立ち帰ろうとしなかったことが書かれている。待たれている神の元に帰らなかったので、裁きが起こるぎりぎりの状況である。
 しかし、裁きが差し迫っているその状態からでも、生きる道があるということが分かる箇所である。追い詰められた状況、罪を重ねている人にも「求めなさい生きなさい。」と勧めている。それが旧約のような非常に昔から言われているということは、驚くべきことである。
 主イエスの「求めなさい、そうすれば与えられる」はこの延長線上にある言葉である。「まして天の父は聖霊を与えてくださる。」私たちは、つぶされそうになっても、立ち返って、心からそれぞれの場において、主を求めたら生きられる。それは大きな恵みである。生きるということは言い換えれば、神様が共にいてくださるということ。このことはイエスキリストの本質(インマヌエル)である。命の道がすぐ側にある。「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ書)


○226日(土)土曜集会。植物、手話、手話讃美、聖書の会。この日は午後に羽田から飛行機で、登戸学寮の三人の学生と小舘 知子さんが徳島に来られ、そのまま土曜日集会に参加されました。また、この土曜日集会に時々参加している、近藤 政子さんの曾孫の、堀翔太君、 紗彩(さあや)さんー二人とも小学生、それと、保育園児の 彩夏(あやか)ちゃんたちも、ともに植物や手話、手話讃美などをしました。
二月二十七日(日)主日礼拝 ロマ書六・914  51
「信仰によって義とされる」とある。義とされる、とは、神との関係が平和になる、ということである。生まれつきの人間は神との関係が絶たれている状態である。人を憎む心、愛せない心なども神に背いている。そのような、真理や愛に背を向けた心から、神に立ち返る。信仰によって救われると言うことが、義とされる、ということである。
 すべての出発点は信仰による。古い自分に死ぬのも、新しく生きるのも信仰による。古い自分が変わったのは、信じたからである。なすべきことは万能の力を信じて主を仰ぎ見ることである。
 漁師であったペテロは主イエスの呼びかけを聞いて、すべてを捨てて従った。そのときから、変えられていった。しかし、途中で、自分中心の思いが、出てくることがあった。主イエスが十字架の死について話したとき、おもわず主イエスをたしなめた。また、主イエスがゲッセマネで苦しみの祈りをしていたとき眠ってしまった。そして、主イエスが捕らえられたときには、三度も主イエスを知らないと言ってしまった。そのような裏切りをしてしまったペテロが立ち直るためには、何が必要だったか。それは、主イエスのまなざしであった。
 主イエスのまなざしは、ペテロの行為に対する怒りではない。赦し、いつくしみのまなざしだった。その主イエスのまなざしをペテロは見つめ返した。そして激しく泣いた。新しいいのちを受けるためには、主イエスのまなざしを受けるだけ、十字架をとおして注がれている神の愛を信じ、それを感謝してうけるだけでいい。
「すべての民よ、わたしを仰ぎ望め。そうすれば救われる」とイザヤ書にも記されている。信じるだけで、救われるのである。
「あなたがたの体を罪にまかせてはいけない」とある。口も体の一部である。言葉でよくないことを言ってしまうことは、だれでもおこることである。人間はすぐに罪に任せてしまう弱さがある。しかし、そのたびに、神を見上げ、赦しを願うと、神は赦してくださる。
 人間は罪赦されるまでは、死んでいたような者である。しかし、神によって生き返らせていただいた。死んだ者が生き返らせていただいたから、少しでもその恵みを他者にも伝えたいと思うようになる。パウロも、キリストの一方的な恵みを信じてうけた。そこで、古い自分に死んであたらしいいのちを受けたのである。
 自分のからだを神に捧げていくとは、毎日の生活の中で、生きる目的が神のためとなることである。死んで生き返らせてもらったのだから、そのいのちを神に捧げていこうと願う。そして生活の中で祈る。呼吸をするように祈る。それも礼拝である。自分に死ぬことは難しい。しかし、神が力をも与えてくださる。自分に死んで神に生きていく。その力を与えるのが聖霊である。

・この日は登戸学寮から小舘知子さん、学生の三浦佳南さん、小久保史人さん、佐藤泰吾さん、の4人が参加されました。いつもの礼拝に手話讃美とコーラスをしました。そして、講話の後では全員が自己紹介をしました。よき交わりの時を持つことができ感謝でした。


 二月二十七日 (日)つゆ草集会(大学病院の個室での集会) マルコ十二・3242
 主イエスのもっとも激しい霊の戦いの箇所である。ここで勝利がなければ、十字架の救いはなかった。この祈りの勝利で世界の歴史が変わったと言える。
 弟子たちは、「眠っていた」ということが何度も書かれている。主イエスが苦しみの中で祈って、戻ってきたら、弟子たちは眠っていたのである。三年間も行動を共にし、教え、奇跡を見てきた弟子たちであったが、祈っていなさい、と言われたのに、祈れなかった。心は燃えても体は弱い、とある。わたしたちの肉体は弱い。しかし、それを越えているものがある。それが復活である。
 ゲッセマネの祈りは苦しみの祈りだった。主イエスのようなお方が、じっとしていられないほど、もだえ苦しんだのである。
人間の罪の深さに、悲しみと苦しみが主イエスを襲った。恐るべき人間の罪に対して、主イエスは怒りや嫌悪、軽蔑ではなく、悲しみを覚えた。そこに神の愛がある。そして、主イエスはその罪を担ってくださったのである。
 主イエスは祈られた。できるならば、この苦しみを取り除いてくださいと祈られた。苦しみの時、どうか助けてください、この苦しみを取り除いてくださいと祈ることができるのは恵みである。
 そして主イエスはもうひとつ祈られた。それは、自分の思いではなく神様の御意志がなされますようにと言う祈りであった。
自分のしたいことを選ぶのか。神の御意志にかなうことを選ぶのか。しかし、人間には神の御意志がわからないこともある。そして、神の御心にかなうように生きることはなかなかできない。しかし、できないから祈り求める。与えられるまで求め続ける。
 わたしたちも、眠ってしまわないように神様に目を覚まさせていただき、祈りつつ、神の御意志にかなう道を歩ませていただきたい。
・午前の主日礼拝に参加された登戸学寮の小舘知子さん、学生の三浦佳南さん、小久保史人さん、佐藤泰吾さん、の4人がつゆくさ集会にも参加されました


二月二八日(月)藍住集会 詩編一〇七
 この詩編は何度も同じ言葉が書かれている。この詩人の深いところにあったのが主に感謝する事であった。詩人の長い人生がはっきりまとめられる。こういう所に到達すれば他のものはいらなくなる。感謝すると賛美するは同じ言葉である。神に結びつくと災いも苦難も忌まわしい事も益になる。聖書を学ぶ事が大切だ。本当の真理は難しくない。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。」とありこの事が感謝の裏付けになっている。歴史上にあった事は繰り返される。今も過去も未来も当てはまっていく。主に助けを求めると本当に救って下さる。病気や家庭の問題、職場の悩み、老齢の孤独などどんな問題でも主は解決して下さる。それゆえ主への賛美はずっと続いてきた。主は確かに驚くべき御業を成し遂げられてきた。2930節「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。 彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。」とあり様々な嵐があるが主は嵐や荒波をおさめて本当に望みの港に導いてくださる。マタイ八章で、湖が荒れて弟子がもう死ぬと思った時、「主よお助け下さい」と言うと、風や湖さえも従ったという記事がある。
・この日、登戸学寮の佐藤泰吾さん三浦佳南さん、小久保史人さん、小舘知子さんも集会に参加され、共に祈り賛美、み言葉を学べて感謝でした。感話も話されスカイプで参加の
勝浦良明さんと堀弘子さんとも交流ができました。


二月二八日(月) 北島集会 列王記(下)十五章
ここで言っていることははっきりしている。主の目に悪とされることをするか、それとも正しいとされることをするか。この一点に集約される。聖書のこの視点は人生を変える。主の目に悪であっても、政治の世界などでは強引に引っ張る人についていく。だが不正や嘘は祝福されない。祝福されれば救われていく。神の目に完全に正しいことをされたのがイエス・キリストで、そのキリストによって二千年来、多くの人が祝福されてきた。
だが主の目に正しいとされた王でも、偶像を拝する「聖なる高台」は取り除かなかったとある。これは、表面にあるものはきれいに除かれても、どのような人間にもどこかに必ず取り除かれない弱点が奥には残る。そのためにイエス・キリストが来られた。イエスのみ手が触れれば清められる。どんな荒れてた人の心も、イエス・キリストは変えることができる。いわば精神の革命者として来られた。そしてその最後のものを除き去るために自ら死んでくださったのである。
アッシリアの王が来て住民を捕囚として連れ去った。が、きびしい苦難を通り、こからも神の導きによって存続して行くのだ。民族の苦難も神のご計画の内にある。
新共同訳で「重い皮膚病」と訳されているが、口語訳では、「らい病」で、このような特別な記述は単なる皮膚病の一種であるとは考えられない。
そのおそろしい病気であってもキリストによって変えられ、燃えるような信仰を与えられてから、召されるまでの三年を生きた青年の話を聞きました。イエス様の手によって、変えられないものはない。
この集会にも、登戸学寮から小舘知子さんと、小久保、佐藤、三浦さんの三人の学生さんたち参加。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N

お知らせ

38回 キリスト教四国集会
日時 2011514日(土)13時~51512
会場 高知共済会館 高知市本町5丁目3-20 電話 0888233211

会費
全日参加(一泊夕朝食写真付)一般9000円、学生5000
部分参加(参加費500円)   夕食2100円、朝食840円、昼食1060
会費は郵便振替にて4月13日までに。郵便振替番号01640-4-56645 加入者名片岡典子
申込先 原 忠徳 alma42pe_pa@yahoo.co.jp 781-0314 高知市春野町南ケ丘8T目1-2

プログラムの概要
○14
日(土)・1310分~1355分 聖書講話 「神の愛と人の愛」冨永 尚(松山聖書集会) 14時~1740分 自己紹介、感話、19時~2050分 自己紹介と感話(その2)など。

○15
日(日)・850分~930分 聖書講話(その1)「解き放たれる」ガラテヤ書5章ほか 原 忠徳(高知聖書集会)
950分~1030分 聖書講話(その2)「主にある自由ー旧約と新約の内に流れるもの」吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会)


集会だより NO.368 2011.02


その日、夕べになっても光がある。命の水が湧き出て、夏も冬も流れ続ける。
(ゼカリヤ書1478より)


 

一月一日 元旦礼拝 哀歌三・1627
 哀歌は、バビロンの軍による攻撃によってエルサレムが破壊され、人々が捕囚となって連れ去られたという背景がある。敵の攻撃によって町は焼かれ、若者は捕囚として連れて行かれた。戦争状態にあって、非常に苦しいとき。どこに神がいるのか。希望もない。神の助けはどこにいったのかという苦難の時であった。この国家、民族の非常事態のときにあらわれた預言者がエレミアであった。
 生きる力も絶えたと思うようなとき、閃光のように、この詩がある。
 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌三・2224
 希望がないと思うときでも、上からの光によって、希望を示してくださる。不思議な確信が与えられ、朝ごとに新しくされ、新しい力と希望を与えられていたことがわかる。「主こそわたしの受ける分」とは、作者に神様ご自身が与えられているという実感を示している。決して幸いがないと思われているような所に、決して希望は絶えることはないと示されている。このことをパウロはこのように表現している。
「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。」(第二コリント一・20)この「然り」とは英語では「」である。旧約聖書の中では、すべてがまだ、はっきりしていなかった。真実、愛、復活。すべて本当によきことは、主イエスを受け取るときに、成就する。キリストがなければ、未来に希望はなく、死後のことも漠然としている。主イエスはそのような漠然とした中に、はっきりとした希望の確信を与えてくださった。神の約束は、すべて然り、つまりすべて、大いなるYESであると言える。このことは、新しい年、ここに希望がある、という確信を告げている。
願いが聞かれているのか、聞かれていないのか。人間にはわからないこともある。しかし、神は約束してくださっている。
「何事でも、神の御心にかなうことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事はなんでも聞き入れてくださるということがわかるなら、神に願ったことはすでにかなえられていることもわかります」(ヨハネの手紙五・14
 新しい一年も、キリストにあって、 よき約束が皆、YES(然り)といえる一年でありたい。
早朝午前630分からの開会であったが20キロほどの遠くからの人も含め、18名が参加した。


一月二日 (日)主日礼拝 黙示録二十一・15 32
 わたしたちは、常に新しいものを求めている。出来事、知識、絶えずあたらしいものを待ち望んでいる。
 しかし、どれほど新しいものを求めても、まるで列車の窓からの風景が過ぎ去っていくように、すべて消えていく。消えないもの、変わらないものはあるのだろうか。
 聖書の中に示されている新しさは、消えない。そして、その新しさは神が人に与えようとされていることである。創世記のはじめ、闇と混沌の古いものがうごめいている中を、神の霊の風が吹いていた。全くの闇の中に神の風だけが吹いていた。それは光を生み出すためである。光こそが、あたらしいものを生み出す基である。
 光がなければ、真理はわからない。聖書も、神がいないと思う所からは、深い意味をくみ取ることはできない。しかし、神の光をもって聖書を読むときには、そこから神のことばが浮かび上がってくる。そして、読むものが新しくされてくる。
 十戒で、人の歩むべき柱となる言葉がある。「わたしは主、あなたの神である。わたしをおいて、ほかに神があってはならない」(出エジプト記二十)
 神の啓示がなければ、ここから新しいことをくみ取ることはできない。しかし、神の光を受けるとき、そこから力を得ることができる。
「わたしは神である。あなたたちを奴隷の国から連れ出した」という前文からも、この世の力に引き回されて、疲れ果てて朽ち果てていたところから導き出され、新しい世界へと移されたことが示されている。
 その神が「唯一、真実の神以外に神があってはならない」と言ってくださる。神の真実と愛を一番大事なこととするとき、日々新しいいのちが与えられ続けていく。神の愛故に与えられた、神からのメッセージである。
 人間的なものだけを大事にしていたら、それははかなく変質していく。しかし、神を第一にしていくとき、たとえ、親しい人が死んでしまったり、また、裏切られたりしても、そこから神が引き出してくださる。人間の暗い感情の中から引き上げてくださるのである。
 詩編二十三編、1~3には、主がわたしの羊飼いであると記されている。主が導いてくださるときには、欠けることがない。なぜか。緑の青草の中で休ませ、必要な食べ物があたえられ、水のほとりに生き返らせてくださるからである。
 この詩も魂を本当に生き返らせるものは、神によって導かれ、いのちの水が与えられることであると示している。敵を前にしても食卓を整えてくださるとは、自分をこわそうとする力が働いても、そこから、新たな力を与えてくださるということである。そして、恵みと慈しみが、追いかけてくるのである。これがあれば、人間は古びていかない。生きている限り、絶えざる清さが追いかけてくるような、斬新な世界が確かにあるのである。
 そしてそれは主イエスが来てくださり、完全に成就された。主イエスが罪の力を止めてくださったのである。
完全な新しさがそこに来た。新約聖書には一貫して、新しい世界が示されている。それが福音である。
聖書の最後には、これ以上の新しさはないと言うほどの壮大な世界が提示されている。
「わたしは新しい天と、新しい地をみた。」とあるように、新しい都が天から下ってきたのである。新しい天と新しい地。最後に、そのような世界をきたらせるために、主イエスが、こられる。「わたしは万物を新しくする。」と言ってくださる神は、すべてを新しくされる。どんな罪を犯しても、赦してくださり、新しくしてくださる。わたしたちも、いとろいろな事が起こる。しかし、どのようなことがあっても、御心のなるときには新しくされる。敵対する人の心も、また、自分の心も変えてくださる。そのように信じて新しい年も生きていきたい。


一月三日 月曜日 小羊集会 創世記一章15
 「初めに神が天と地を創造された。」とある。創造された、ということは、創られた方がいる、ということである。
 一般的な考えでは、世界は偶然発生したと思われている。しかし、聖書は創造した、と記されている。天と地が創造されたということは、すべてのものが創造されたということである。神が愛をもって創造されたということと、自然に発生したのだと考えることとの大きな違いは、目的がある、ということである。どのようにして世界が生まれたか、ということ以上に、大切なのは、なぜ、いかなる意味をもって生じたのかということなのである。
 すべてを創られた神は、人間も創られた。神は英知であり真理であり、愛である。その神が創造されたのであれば、ひとりひとりに意味がある。深い目的がある。神が創られたから、いらないものは創らない。
 神が創られた海も空も星も、その美しさから、人間に対する目的を感じることができる。神が創られた天地宇宙、すべてに目的があるといえる。
 そして、これは、世の中におこる出来事の中にもいえる。喜ばしいことの中にも、苦しいことの中にも、神が創造された意味がある。
 わたしたちは、神が創造してくださったのであるから、途中で捨てられたりはしない。そして、病気になっても、老人になっても、神は必ず守ってくださる。
 天地創造の前、一番最初の状態はどうであったか。それは混沌であった。無秩序であった。そして闇であった。そこに、神の霊風が激しく吹いていた。
 闇の中に神の風がふいている。まず、闇から始まっている。神を知らないときには、闇があり混乱があり、動揺している。個人も社会も昔から今に至るまで、混乱している。そこに光を与える方が神である。わたしたちにどんなに闇があっても、混乱していても、そこに光を与えてくださる方が神なのである。
 夕べがあり朝があった、という表現からもそのことが示されている。神の働きは、闇が先にある。夜があって朝がある。混乱があり闇があり、そこに神の光が与えられるのである。
 闇の中の光こそ聖書のテーマである。ヨハネ福音書は、四つの福音書のなかでは、最後にかかれた福音書である。最後にその冒頭部分に、主イエスこそが光であることが示されている。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
創世記の初めに記されている光は闇を照らす、主イエスの光なのである。


一月六日(木)いのちのさと集会 詩編七八編 1~8
 この詩は神の言葉の連続性が書かれている。いにしえから伝えてこられ、これからも伝えられていく。神のことばは中断されることなく連続している。長い年月がたっても、この聖書の言葉は変わることはない。 
 神のことば、神の力とは何か。まず、十字架による罪の贖いがあげられる。キリストは万人の心の中の罪を取り除いてくださった。十字架の贖いはおどろくべき力である。そして、主の復活、再臨。この大いなる神の力が途絶えることなく二千年間伝えられてきた。
 自然界のさまざまな力もすべて神の力である。世界はどこを見ても、神がなされている大いなる御業である。その偉大さを語り伝えていく。
 神の御業を忘れないために語り継ぐ重要性が示されている。神の力、神の業を忘れてしまうことから、混乱が生じてくる。聖書全体は、神の国と神の義を求めていけば、必ず祝福があるということを一貫して告げている。
 もし、本当に神の御業を覚えていたら、敵対する人があらわれたり、不当な仕打ちを受けても、神に委ねていくことができる。強力な神の言葉の流れに逆らうことなく、その流れの中に身を置きつつ生きていく。そこに祝福がある。


一月九日(日)主日礼拝ローマ人への手紙四・916 33
 「この幸い」とは罪を赦されたものの幸いである。この世では、重い罪は赦されない。たとえ、誤って事故で他者の命を失わせてしまっても一生、罪を償わなければならない。しかし、神は心からの悔い改めによってどんな罪をも赦してくださる。
人間には罪の力を解決する方法はない。そして罪があるから他者を憎み、ねたみ、いさかいが起る。そのような罪の力をすべてを根本的に解決してくださるのが主イエスの十字架である。そして、それは、信じただけで与えられる。
 旧約聖書の時代には、割礼が重んじられていた。それが新約聖書の時代になり撤廃された。しかし、撤廃されたといっても、長く続いていたので、それが受け入れることができない人も多くいた。しかし、割礼を受けた人だけが救われるのであれば、キリスト教はただのユダヤ教の一派となっていた。ここであえて割礼の問題を繰り返し記しているのは、そのような歴史的な背景があるからだった。割礼や律法の撤廃。信仰による救い。それが、神の大きな計画であった。
 アブラハムは世界を受け継ぐ者、世界の相続人とされたとある。人は何かを受け継いで今がある。しかし、ここで言われている、世界を受け継ぐとはどういうことか。それは、受け継ぐものが、あらゆる民族の祝福となり、世界に及ぶということである。そして、今、わたしたちのところにまで及んできた。この世の物は、何をもらっても、はかないし悪用されることもある。しかし、神の祝福の力は、壊れない。どこまでも受け継がれて世界に流れていく。
 主イエスは「柔和な者は地を受け継ぐ。」と言われた。柔和な者とは「圧迫されている者」という意味がある。さまざまな圧迫、苦しみを受けても、神を信じて希望を持つ。それが祝福を受け継いでいくことになるのである。
「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、 一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの。」(第一コリント三・22)とある。信じる者に与えられる祝福がどれほど大きいか。
 新しい年、信じるだけで与えられる、この大きな祝福を待ち望みたい。


一月十日(月)藍住集会 詩編一〇六 1~23
 この詩編は過去の歴史をずっと振り返っている。私たちが非常な苦しみにある時、痛みのある病気の時、現状だけを見ていたら神が分からなくなる。「ハレルヤ、恵み深い主に感謝する」という気持ちにはとてもなれない。苦しい時、過去から現在までいろいろな場面で神が導き助けて下さった恵みのみ業を思い起こす。振り返る目的は、神を賛美する為である。この詩編は最初も最後も「主を讃えよ」と賛美がある。神の慈しみが永遠だと分かるのは、神の力強い御業を見た時である。次には、御業ばかりでなく、大きな裁きの事も書いてある。神の大きな御業の前に立った時、どれほど自分が小さな罪深い者であったかと認識している。自分は本当の意味で何も良い事ができないと実感する心の貧しさの中に神の恵みが注がれる。エジプトでモーセが率いたイスラエルの民は紅海の水が干上がってエジプトから脱出できた。それは大きな事だったのでそこから出発している。大いなる救いが与えられて賛美の歌を歌った。しかし、民はたちまち御業を忘れ去り、日常的な事で不平、不満を言った。それでも神は、願いを叶えられた。私達も良い事をいっぱいしてもらってもすぐに忘れる。モーセが民の破れを担って立ち、執り成しをした事が書かれている。その延長上に、人類全体の破れを担った主イエスの十字架の死がある。


一月十日(月)北島集会 列王記(下)11
紀元前840年頃のことが細かく書かれてある。偶像を拝するイゼベルの娘アタルヤは王族(ダビデ王家)の者、つまりイスラエル民族を絶滅させようとしていた。しかし、絶えず神は残りの者を残してきた。不思議とかくまわれ、残されてきた。
どこまで行っても神によって、必ず残される者があるのだという信仰がなければ、次第に悪が広がって、よいものが滅んでいくのではないかという漠然とした不安が起る。が、歴史の中でもモーセ(出エジプト一章15)がそうであったように、生まれた男の子はみな殺されていく中で、可能性としては非常に少い不思議ないきさつを通って生かされ、残された者がいた。この章でも、アタルヤが支配していた六年間、ヨアシュは乳母とともに神殿の中にかくまわれ七年目に王となったと記されている。すべてを支配下に置こうとしていたアタルヤは捕えられ、殺された。
悪や悪意また迫害はいつもある、だが、それも一時的で、神様を信頼していれば、弱いもの、能力のないもの、どんな小さな者も、神様が残して使おうと思えば、その人はかくまわれ残され、神様の力を受けて大きな働きをしていく。誰も予想できない方法で残される。神様は無から有を呼び出される。


一月一一日(火)夕拝 イザヤ三二章 一三名
 この世のものに頼ろうとする者は裁かれる。しかしそのただ中で正義の王が支配する。イザヤ書ではイエス・キリストの事が様々な箇所で預言されているが、それから七〇〇年ほども後にその預言の通り実現した。ここでもメシアの本質が部分的ではあるが、イザヤに明らかに示された。1節では、「正義によって一人の王が統治し」とあるが、この世の王(支配者)はしばしば不正で満ちている。徳川幕府は、国民の居住移転、職業選択の自由なども奪い、反抗させないために教育も受けさせない、キリスト教を弾圧する為に、人々に強制的に各地の寺に所属させた。歴史の本当の王は主イエスである。この王は「風をさえぎり、雨を避ける所のように、水のない地を流れる水路のように、乾ききった地の大きな岩陰のようになる」と書かれてある。苦しむ者、弱い者を強い風から、雨から守り、悪い事、困難な事から裂けて下さるお方。王とは、みつばさの陰に守って下さる親鳥のような愛を持ったお方である。この王によって人々はどのような恩恵を受けるかが次に書いてある。「目が曇っていたがはっきり見えるようになり、聞く者の耳がよく聞き分けられるようになる。」ヨハネ福音書九章、一〇章に見えるという問題と聞くという問題が書かれている。主イエスが来たのも見えるようになる為である。また、キリストの声は神から来ているので羊(信徒)はそれを聞き分けて従う。二千年間、これこそ本当だとキリストに従う者が続いてきた。イザヤは新しい時代には、メシヤがこのようにすると預言したが、当時の現実は安閑として収穫のお祭り騒ぎを楽しんでいた。預言者の裁きの警告を受けてもそんな事はないと言った。しかしどんなにこの世が混乱しても、預言の通りメシアは来られる。


一月十三日(水)水曜集会 詩篇109
一般的には、あまり読まれないと思われるこういう詩が、どうして詩篇にあるのか。現代のわたしたちにどういう関わりがあるのか。その意味を考える。
神に逆らう者とは「悪人」のこと。悪しき者があざむいて語る。してもないことをした、と言われることは非常に苦しいことだ。その典型がイエス様であった。わたしたちも、正しい生活をしていたら、こういうことを言われないということではない。この人も、神様に従っていこうとするのに嘘や中傷で攻撃を受けている。善意や祈りに悪意を返す者がいる、善意が通じないことがある、とはっきり書いてあるということは、この世に対して甘い期待を持たないようにしなくてはいけないというメッセージである。個人的な攻撃と、弱い人をも踏み付けていくような、非常に残酷な両面。あまりのことにこの人は、神様がこういう人を裁き、滅ぼしてくださるように祈った。神に従おうとする人への敵意は、背後の神様への敵意である。まわりは敵ばかり、誰一人として助けてくれる人はいない。祈りはひたすら神に向った。呪いの祈りではなく、悪を徹底的に滅ぼしてください、と。この祈りが聴かれた。
現代も、悪人にでなく悪の霊が滅ぼされるようにという祈りは激しいものでなければならない。主イエスはまさにそのような悪の霊と戦われたのであった。使徒パウロも「キリスト者の戦いは、血肉に対するものでなく、悪の霊に対するものである」と述べている。(エペソ書6の10以降)悪に対してどうでもいいというような気持は、自分の中の罪、まわりの人の罪もどうでもよい、ということになっていく。この詩人の悪に対する激しい気持を、今のわたしたちも持つべきである。イエス様も弟子たちに「悪の霊を追い出す権威」を与えた。今も悪の霊に対する激しい戦いは弱まっていない。信仰をもって歩もうとすればこの力が不可欠となる。コロサイ四章12で「あなたがたのために熱心に祈っています」とある。これは悪の力が追い出されるよう、祈りの内で戦うと言う意味(ローマ1532にも)だ。この「熱心」は普通の熱心とちがう。み言葉を伝えた人は皆、悪の霊を追い出すための激しい霊的戦いを持っていた。そうでなければみ言葉は伝わらなかった。わたしたちも「自分」というものを守ろうとするとき悪の霊に負けている。心の中のよくないものを追い出してもらって初めて、尽きぬ感謝を神様にささげることができるようになる。

・「いのちの水」発送準備。集会だよりを折り、すでに封筒に入れた「野の花」文集に加えて、「いのちの水」誌の印刷できている分を一部封入しました。今月は、「野の花」が60数ページあり、「いのちの水」誌の3倍ほどの分量があったため、通常の何倍もの量となり、封入が終わったものを車にトランクと座席をすべて使って載せても、全体の6割ほど。それらを、小松島の営業所へ運び、残りは、夜の北島夕拝の後、八時半すぎから十時近くまでかかって封入、発送作業。その後は笠原正子姉が、軽自動車に載せて夜遅い時間となりましたが、鳴門市のクロネコ営業所に運んで下さいました。)主が福音のために用いて下さることを祈って発送しています。


一月十四日 天宝堂集会 マルコ三章2035
 イエスの姿を見て、何か状態がおかしい、と家族が捕まえに来たとある。家族ですら、イエスのことはわからなかった。 イエスの生前に、家族や兄弟が主イエスに従った、という記事は書かれていない。キリストの真理は、距離の近さや血縁で伝わるのではない。神の御意志によって伝わるのである。福音は神秘である。だから、わたしたちはあきらめないで、どんな人に対しても希望を持つことができる。
 ここで、もうひとつの無理解が挿入されている。それは律法学者という、聖書を細かく研究し教える立場の人の無理解である。そしてそれは主イエスの全面否定であった。主イエスの働きを、悪魔の主導者の力で悪魔を追い出しているとまで言った。宗教指導者であるのに、そこまでイエスを否定したのである。キリストが伝わるということが、人間の知識とかけ離れているということがわかる。キリストの真理は聖書を知的に研究してわかるのではなく、幼子のような心で信じてわかるのである。
「強い人をしばってから家財道具を取る」というのは、サタンを縛り上げてから、サタンにしばられている人たちを開放する、ということをさし示している。世界全体が、サタンの支配下にある。それを主イエスが解き放ち、開放してくださることを示しているのである。
 人間は神の前に正しく生きることができない弱さがある。しかし、どんな罪も主イエスの十字架によって赦される。しかし、ここにゆるされない聖霊を汚す罪が示されている。それは、イエスのことを悪魔だ、と全面否定するような心である。故意にイエスを全否定していくことの罪が書かれている。
 そしてまた、信仰による新しい家族の形が書かれている。血縁によらない家族である。イエスを信じて集まっている人に対して主イエスは家族であると言われた。人間の家族のつながりは壊れることがある。しかし、神様の御心を中心にして集まった関係は壊れない。
 イエスは、さまざまな革新を起こされた。その一環として、家族関係の革命をも起こした。血縁の家族だけではなく、信じるものの集まり、主イエスのもとにあつまるものが、新しい家族となっていく。そのような新しい道を開いてくださったのである。


一月十七日(月) 北島集会 詩篇111
ハレルヤ(主を讚美せよ)という感動の言葉で始まるこの詩。詩編の最後に近づくほどハレルヤが高まり、150篇では全部が讚美のひろがりの中で終る。
神様が最終的にわたしたちを連れて行こうとする世界は、感謝と讚美の世界だと指し示している。多くの本は人間の現状を書く。しかし、詩篇は神が創られたものをも指し示す。様々な自然、大気や空も、神を信じる立場から見ると、いつも何かを指し示している。今輝いている夜明けの金星は、イエス・キリストを指し示す(黙示録)。人間は、高みにある指し示されたものを見つめていないと、力が与えられない。
だがなぜそっれほど感謝できるのか、神様の大きなみ業を知ればおのずから素晴らしいと感じ、感謝できる。神様を知らないところでは感謝をささげることなどしない。偶然だと思う。自分でしていると思う。詩篇を知ってはじめて、神様が人間に何を指し示しているかを知るようになる。全ての心をもって讚美し感謝しよう。その讚美は証しとなる。心から信じて祈りつつ讚美すること自体が神様の臨在を指し示す。
神様のみ業は大きい。人々はそれを訊ね求める。主の成し遂げられるそのに業はどこまでも奥が深い。信仰を持てば人はおのずから学ぶ気持が起る。万有引力の法則を見いだしたニュートン、その元になったケプラーの法則で知られるケプラーなど多くのすぐれた科学者は神を信じる人であった。、特にケプラーは天体に数学的法則性を見いだしたのも、神が創ったこの宇宙には必ず法則性がある、と強く信じたからである。
神を愛する者は、たずね求めるようになる。神様が、神様の方を向くようにと色々なものを創られていると思えば、自然の関係ないようなものまで生きて近づいてくる。信仰は全てを近づける。尋ね求める目的は、神様のみ業を知りたいという気持の表われである。み業を記念(覚える)する。歴史の上で、個人の中で神様が行われたこと。天体や自然のなかにも現れた神のみ業。その神様の業を覚える。
み手の業はまことの裁き、また真実。なぜそれが言えるのか。それは神様に対する深い信頼があったからだ。表面上でなく、神様の愛をまず信じ、堅い信仰に立つことによりこのことが言える。どんなことがあってもその背後では神の真実と正義が行われているのだという強固な信仰がある。み名は「聖」なるものである。主を畏れることは知恵(ソフィア)の初め。主への讚美は永遠に続く。


二〇一一年一月十八日 火曜日 夕拝 イザヤ書三十二章15~20「神の霊の働き」
 ここは新約に直接繋がる重要な預言がなされる。遥か後に実現することが、七百年ほども前にイザヤに啓示されたのである。驚くべきことである。そのような長い歳月を超えて、新しい時代をありありと見せられたのである。その時には、荒野が木の茂る森にまた園になると。ここに言われていることは、私たちの魂の世界を象徴しているのである。私たちの魂も荒野であったが、聖霊の助けによって緑なす森に、園のようになるということが詩のかたちで書かれている。聖霊が働きかけると、荒れていた私たちの心に、花が咲き、木が育っていく。一変して新しくなる。私たちもそのようになる時を待ち望む。
 神なしに、聖霊なしにこの世を見れば、、教育、医療、若者、国際など実態を知れば知るほど こころが暗くなり、憂鬱になる。このような現実の世界、闇の世界を越えて、聖霊によって別の世界が神さまから直接示される時、それは強力な希望であり、来るべき栄光の姿を垣間見せていただいているのである。イザヤはまさに来るべき世界の栄光をはっきり見た人だった。
 聖霊が注がれたら、正義が荒野に宿るのがわかる。正義が作り出すのは平和であり、永久の信頼である。このことは新約になって初めて実現した。イエスの復活によって。イエス様が私たちの罪を担って死んでくださり、その血によって罪ある私たちの罪が帳消しにされ正しいとされた。この正しさ(正義)が生み出すのが主イエス様との平和の関係。
18
節 主と共におるならば、私たちは永遠の平和の住みかにおることになる。「我が中におれ」とイエス様は言われた。そうすればイエス様も私たちの心に留まってくださる。イエス様と私たちが相互に住むことになるという、驚くべき約束が書かれている。この道はすべての人に開かれている。


一月二四日(月)藍住集会 詩編七八
 詩編七八は特に長い内容でどういう事が言われようとしているのか。神が人々に与えた律法(神の言葉)を後の世代に語り継ぐようにと勧めている。それがこの詩の目的である。真理なので語り継げる。この考えが、伝道、宣教につながった。弟子達に聖霊が与えられた時主イエスの復活を伝えていく原動力になった。
 力は聖霊がもたらす。私達も聖霊をいただき、主が自分に成し遂げてくださった事を証しする使命がある。ここで神の大きな御業にも関わらすイスラエルの民は背いて従わなかった事が書かれている。 神はそれにも関わらず、裁き、赦し、導いた。正しい罰を与える事は人間にはできない。
 出エジプトの時、神は海の水をせき止めたが、それは、憎しみ、恨み、絶望的な気持ちや怒りをせき止め、私達を真実、愛、勇気へと向かせて下さる事だと取る事ができる。いつも私達に悪い水が流れきて呑み込もうとするが、神がせき止めて下さる。
 シナイの砂漠は直射日光が強い。その中ではとても生きていけない。神が雲をもって生命線を助け良くないもの、攻撃からも雲をもって導いて下さる。暗闇でもともしびをもって灯して下さる。荒野で一番必要なものは水である。この世は荒野であるが霊的ないのちの水を神が下さる。
 このように奇蹟を起こし守って下さる神に対しイスラエルの民は反抗したが、神は最初からずっと導かれたという内容が書かれている。長い歴史の中で様々な事を通して神の憐れみ、慈しみ、英知による導きがなされてきた。


一月二四日 北島集会 列王記(下)12
紀元前800年も昔の話で、今日のわたしたちと関係なさそうだが、神様のどんなご意志があるのだろうか。ヨアシュという王は、主の目に正しいことを行ったが、聖なる高台は除かなかった。間違ったものを取り除くことはなかなかできない。過去の話ではない。本当の改革の困難さ
神殿の破損の修理が、非常に長い年月後回しにされていた。「神殿が廃虚のままであるのに」(ハガイ一章9)と、それが人間の生きる根元であるのにもかかわらず自分の生活(共同体も同じ)のために走り回っているとある。内なる神殿が壊れているのに、他のことにばかり目が向いている。これは今日のわたしたちにも言われている。原点に立ち返れと。
現代のわたしたちの「神殿」とは何か。これはリアルな問題だ。あなたがたは神の神殿である(一コリント三章9)。個人も集団としても。また、パウロは「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか(六章15)」とも。信仰を持っての年月の長い短いは関係ない。これを感謝して受取れば、主が喜ばれる。
聖書には、いつの時代にも当てはまることが、不思議と見抜かれて書かれている。イエス様に立ち返れば、聖なる霊を与えられ、新しく創り変えてくださる。


一月二五日(火)奥住宅 移動夕拝 コロサイ三章1417
  この箇所はコロサイ書の最後のまとめの部分である。主イエスが死して数十年経った頃の手紙とされる。神はコロサイの信徒を愛する為に選び分かたれた。キリストの愛を着なさい。つまりキリストの服を着ること。キリストを着るとパッと変わる。信じたらすぐに義とされる。キリストを信じてキリストを着ましょう。そうしたら変わります。愛はすべてを完成させるものである。
 他のどんな学問があっても技術があっても愛がなければ未完成である。愛を受けたら完成しているのだ。その為にしっかりキリストを着たら良いのだ。主の平和があなた方の心を支配するようにしなさい。キリストの平和をあなた方も一緒に持つために召されて一つの体となった。その為に集まる。平和がなかったらせっかく招いてくれた意味がない。自分が駄目だと落ち込んだり怒ったりするのでなくキリストの平和が私達の中にあると信じる。
 互いに諭しあい互いに賛美しよう。詩編と賛歌と霊的な歌とあり、キリスト教賛美には三種類の賛美があると記されている。第一に詩編の歌。これは讃美歌21に詩編歌として六十曲収められている。重要だという事でたくさん入っている。
 次の賛歌は、聖書の中の詩編以外の讃美歌で詩編より古いのもある。出エジプト記十五章の主に向かって歌おうという歌などである。 霊の歌とは聖霊に感じてメロディや詩が浮かんで作られた歌。霊的な歌によって教えあい諭しあい、戒めたりする。 何を話す場合でも主イエスの心をもって話す。みんなが共通に目指す高い目標が書かれているが、最終的には必ず行ける。人間はこのようなところまで霊的な翼で登っていく事ができる存在なのだ。


二月一日 火曜日 夕拝 イザヤ書三十三章1~12
 この時代は北からのアッシリヤの攻撃によって北王国は滅亡し、南王国も危機的状況にあった。その原因は1節にあるように、まだ攻めても来ないのに指導者も民も理由もなく悪い事を続けているからである。このようなことは、人間の初めからあったこと。アダムとエヴァは、神様が至れり尽くせりのよいことを提供されたのに、神に背いた。
 また、カインも兄弟の命を奪うという重い罪を犯した。
 人間には生まれつきこのような性質があり、他人ごとではない。2節にはこのような状態から救われる道が示されている。いつでも「主よ、憐れんで下さい」という道が残されている。「キリエ、エレイゾン」ミサ曲に含まれる言葉として知られている。 罪は、海のように深く、山のようにどこまでも続いているが、そこを泳ぎ、また飛んでいく道がある。「朝ごとに、我らの腕となって下さい」ここに記されているのは、すべての人が祈ることができる言葉なのである。自分の弱さを痛感している人の祈りである。私たちも朝ごとにこのように祈ることができたら、生活も変わるだろう。
 朝ごとに祈るためには、心に何か欠乏を感じていなければならない。言い換えると心の貧しさを持っていなければならない。 エジプトを出立したイスラエルの人々に神はマナをくださった。それは貯めておくが出来ないもので、毎朝拾わなければならなかった。((出エジプト記16:4~)大切なものは貯えができず、毎朝求めなければならなかった。目に見えない一番大切なものは毎日求めなければいけないし、これを怠ると私たちの魂が滅びていくことになる。良いものほど私たちも新しい気持ちで求めなければいけないのである。34節の現実の状況の後、5、6節には神さまのご支配の様子が書かれる。「主はあなたの時を堅く支えられる。」あなたの生涯を、あなたの今住んでいる時を、どんな時でも神は支えてくださっている。そうでないと弱い私たちは誘惑に引っ張られる。また主は叡智を与えられる。その主を畏れることは宝である。と、たたみかけるように言われる。滅びと混乱がいっぱいある中で、このような世界があるのだ。だからそのような世界に目を向けなさい。と、イザヤは啓示を受けた。「主を畏れる」ことから、すべての善きことが繋がっている。


一月二六日 水曜集会 ヨハネ黙示録 五章6~9
屠(ほふ)られた小羊とはイエス・キリストのこと。小羊には七つの角と目があった。犠牲のために殺されたが、同時に完全な力をもっておられた。それを七つの角と七つの目で表している。
神の霊が与えられると現実の本当の姿、また将来のことなど色々なことが見えるようになる。目とは、肉眼ではなく霊的な目である。ヨハネの黙示録は、色々なことが見えなくなる圧迫された時代に、聖霊を受けたヨハネが、次々と見えたものを書いてある。聖霊を受けたら霊的な目が見えるようになる。
小羊なるキリストが巻物を受取った。その巻物をこれから開く。しかしまず、準備として讚美が歌われ、祈りがささげられた。大事な巻物だから讚美と祈りで待つ。現代のわたしたちも、み言葉が開かれる前にまず祈り、讚美して待つ。
「新しい歌」とは時間的なものでなく、霊的な新しさであり、質的に新しい気持を言う。神の霊を受けたら、老人であっても新しい歌を歌う。閉じられている巻物を開くことができるのはイエス・キリストだけ。パウロも、キリストに出会ってその霊を受けて、新しい世界を開くことができたのである。今のわたしたちも死の彼方が開かれ、死後にも希望をもつことができる。キリストが来られて初めて、受けた苦しみの封印も開かれ、その意味がわかるようになる。


1月28日(金)スカイプ集会(18名参加・各地の14台のパソコンにて参加者があった)
 25編は、神のみに心を向けている人の魂の世界が鮮やかに現されている。作者は苦しい孤独な中から、神に全力で向かっている。そこから人間の根源的な魂の世界が見える。
「仰ぎ望む」という原語に「見る」という言葉は使われていない。ヘブライ語では「我が魂を、あなたに向かって、引き上げる」という表現で書かれている。神様に向かって、自分の魂を引き上げようとする状態。それは、私達が絶えず神に向かっている時に本当の意味で可能となる。
 知識は人を誇らせ魂を下降させるという側面があるが、自分の貧しさを知ると、砕かれて神様によって引き上げられる。
「望む」とはこの世の希望とは違う。この世の希望は実現しないため、却って落ち込むことになる。しかし、神に希望を持っていれば、「いつも守ってくださる」という力になり、平安と希望が与えられる。クリスチャンは80歳・90歳を越える老年となっても、「感謝」や「喜び」を実感している人たちもいる。いろいろ身体に不都合が生じても、守ってくださるという希望が力となっているからである。「キリストぞ我が望み、栄光、神にあれ」である。
 4節からは「道」について書かれている。神様は、心の貧しい人、罪人、主を畏れる人に、選ぶべき道を教えてくださる。
人間の生き方は、古代から「道」と表現されていたことが分かる。広い道があれば、細い道もある。だんだん消えていく滅びの道もある。道について主イエスは「狭き門から入れ。命に繋がる道は、何と狭く、細いことか。」と言われた。しかしその細い道は確実に救いへと繋がっている。また「私が道であり、真理であり、命である。」とも言われた。
 キリストは本当に真実な方で、相手を報復したり攻撃したりしない、真実で清くて愛に満ちた方。その方を「いらない」と言えば、清い愛と真実をいらないと言っていること。だからそのような善きものが受け取れないのは当たり前のことである。
主イエスを信じれば、まるで動く歩道のようにしっかりと目的地へ行ける。いくら狭くても通れる。バニヤンも「天路歴程」でそのことを表現した。神の道は常に前進である。
 またダンテの「神曲」では、煉獄の環道を上がる登り口が、人間には分からない。主の使いに「ここだ」と示してもらって、やっと通れる。神の国への道はある意味狭い。狭いけれども、私達が神に向かっており、絶えず見つめていれば上っていける。
「あなたの道を示してください」と神に真剣に求めるならば、罪人に道を教えてくださる。
「私こそ道だ」と主イエスは言われる。
     (まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y&Y.N


お知らせ

2月13日(日)午前10時~12時 神戸の元町駅前での阪神エクレシアに、午後2時~4時頃まで、高槻聖書キリスト集会にて、私(吉村)は、聖書講話を担当する予定です。

今月の移動夕拝は、2月22日(火)熊井宅にて。「奪うことのできないもの」ヨハネ102230
読書会 2月20日(日) ダンテの神曲・煉獄篇30曲
登戸学寮の学生3人と学寮で事務を担当している小舘知子さんが2月26日(土)~28日の三日間来徳して、主日礼拝を中心としていくつかの家庭集会に参加予定です。
2月27日(日)午後の、大学病院でのつゆ草集会は、右に書いた学寮の方々の来徳のため、いつもより遅く、午後2時半からの開会となります。
今月のスカイプのみによる集会は、テーマは、「主を求めよ、そして生きよ」聖書箇所は、アモス書5の4~15
(中川 陽子さん司会、スカイプも担当 問い合わせは、
電話 0883241330  E-mailmyrtus7@khc.biglobe.ne.jp
詩篇の聖書講話(MP3版)多くの方々からの申込が届いています。発送まで、まだしばらくお待ち下さい。
キリスト教独立伝道会に入会して、ともに福音伝道にかかわりたいと希望される方々が私たちの集会でも新たに与えられて感謝です。福音を伝えたいという気持ちがどれほどあるかは、信仰の真剣さの一つのバロメーターとも言えます。小さなことでも、それぞれが何か方法を用いて福音を伝えることに関わっていくことの重要性を思います。
「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」(エペソ 6:15
 主の平和が与えられるという福音を伝えることを履物とする、ー履物という日常的なものにたとえたほど、伝えることが日常的な思いとなるように、と言われています。
「野の花」文集、まだ若干部数がありますので、希望者は申し出て下さい。
今年のイースター特別集会は、4月24日(日)です。イースターは、日が固定していないのですが、今年は、特に遅い日となっていて、紀元2000年からの30年間を見ても、最も遅い日付のイースターです。



今日はです。更新はです。