今日のみ言葉 265 「主の道は永遠に変わらない」
2016.1123
とこしえの山々は砕かれ、
永遠の丘は沈む。
しかし、主の道は永遠に変わらない。(旧約聖書・ハバクク書3の6より)
The ancient mountains crumbled and the age-old hills collapsed.
His ways are eternal.
この世の一切は、壊れていく。いかに世間に知られ、世界に有名なものであっても、必ず壊れ、忘却の海のなかに沈んでいく。何かの教義、コンクール等々で優勝したということ、〇〇が世界的な大国の指導者、大統領になった、というようなことも、一時的には世界をかけめぐるニュースになる。しかし、それらすべては、時の大きなうねりの中に呑み込まれていく。
そのような万物流転のなかで、主の道だけは永遠に変わらない。そのことを、いまから2600年ほども昔にすでに啓示されていたのである。預言者ハバククといっても、大多数の日本人には知られていないであろう。旧約聖書においてもわずかに3章の短い文書である。
しかし、ここには、のちの新約聖書でとくに重要となった真理、「義人は信仰によって生きる」ということが記され、このことを使徒パウロは、その代表的な書簡ローマの信徒への手紙の最初の部分(1章17)や、ガラテヤ書3の11などに引用している。
どんなに私たちの世界が変容しようとも、また私たち自身も老齢化や病気、事故その他で弱くなっていき不自由になっていこうとも、決して変わらない真実なものがあり、私たちを見守り、かつ導いてくださるということ―そのことは驚くべきことであり、大いなる福音である。
キリストも、次のように言われた。
…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ福音書24の55)
キリストの言葉、それは神の言葉そのものである。神の言葉は神のお心、ご意志そのものから出ている。それゆえに、このことは、神が永遠であり、いかなるこの世の目に見える世界の変動や流転、あるいは破壊、消滅などにも関わらず、その愛と真実なる存在は続くということである。
私たちの地上の命はーそして地球や太陽の寿命さえ有限であるなか、真の永遠のものを知らされている、そしてそのことは、科学技術や人間の思索、さまざまの学問などによっても得ることはできない。
ただ、信じることによって聖なる霊が与えられ、その永遠の存在は、少しずつ私たちに、またときには突然にその深い真理が示さることもある。
「求めよ、そうすれば与えられる」というキリストの言葉にしたがって、私たちもともに、この永遠の存在たる神とキリストの言葉を求め、新たな力を日々与えられていきたいと思う。
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徳島の風景から 吉野川 2016.10.24
半世紀ちかくにわたり、ずっと私の心を惹きつけてやまないのがこの吉野川です。この川は四国山地から流れ出て、県西部の池田町付近からは、この写真のように途中でゆるやかな蛇行が見られるところもありますが、全体として東へ東へと80kmほども流れています。
これは、河口からだいぶさかのぼったところで、西方に向っての撮影です。
川幅も広く、最長川幅は、日本では二番目に長い約2.4km、しかも河口に近づくにつれて、水は川幅いっぱいに豊かに流れています。長さは200kmちかくあります。
この吉野川を見るたびに、人間の作った公園などがいかに比較にならないものであるかを知らされます。 このような周囲に何ら大きなビルも観光に関する建造物もなく、ただ黙して流れ続けている有り様は、静かに見つめているとき、いろいろなことを語りかけてきます。 広大な流域をうるおす水そのものの深い意味、その力、緑、大空と川の青、そして遠くの山なみ―それら一つ一つは、命にかかわっていると感じます。深い青色は、深く澄んだ創造者の御心の一端を思わせ、緑はゆたかな命と希望、そして流れてやまない川と対照的に動くことのない山々の連なり。
山―それは旧約聖書に、「私は山に向って目をあげる。わが助けはどこから来るか。天地を創造された神から来る」(詩篇121)と言われているように、全能の神による不動の力、救いのたしかさを知らされます。
この雄大な川の流れ―その水はいうまでもなく、すべての生命を支えているものです。そして聖書には、さらに人間の根源を支える「いのちの水」のことについて記しています。
この世界にも霊的に見るときには、聖なる水が、はるか数千年昔から流れ続け、世界をうるおしているのを思います。
このことは、次の讃美歌にも歌われています。
この詩は、江戸時代末期に生まれた永井えい子が17、8歳のころに作った作品とのこと。
天つ真清水 流れ来て
あまねく世をぞ 潤せる
永く渇きし わが魂も
汲みて命に 帰りけり
このような清い水の流れについてはすでに旧約聖書の時代から記されており(エゼキエル書47の1-12)、キリストも、「私を信じる者は、その人の内から命の水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7の38)と言われ、黙示録の最後の部分にも神とキリストから流れ出て世界をうるおす命の水のことが預言的に記されています。 (写真と文 T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 264 「苦難から常に助け出される主 」 2016.10.22
主は助けを求めるひとの叫びを聴き、
苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くにいて、
悔いる霊をすくってくださる。(詩篇34の18~19)
The righteous cry out, and the LORD hears them;
he delivers them from all their troubles.
The LORD is close to the brokenhearted
and saves those who are crushed
in spirit.
この世で生きるには、私たちは生まれ落ちた時から数々の他者の助けが不可欠である。母親、病院の医師、看護師、そしてその後の保育士、幼少教育の担当者たち等々の数知れない人たちの助けと支えによって生きてきた。そのような人たちだけでなく、毎日の衣食住はすべて誰かが作ったものであり、そうした人の支えによって毎日の生活が成り立っている。
健康で苦しみを経験していないほど、そうしたことが見えない。私たちが病気や事故、あるいは家族の深刻な問題が生じたとき、どこにその助けを求めたらいいだろう。
「人生の海の嵐に」という賛美があるが、この世という海にはつねに嵐が吹き荒れている。病気、孤独、老年の悲しみ、人間の同士の心の不一致、悪意、ねたみ、背信等々ーそして事故や自然の災害など、そうしたものに直面したとき、それが重大なほどたちまち私たちは一人では生きていけなくなる。
私たちが本当に苦しみに直面したとき、他人にはわかってもらえないーという意識がある。この苦しみはどうして他人にわかるだろうー友人や親にもわかってもらえないと感じる。
実際に命を断つ人が日本では年間2万5千人ほどもいる。しかし、この数には含まれていないが、遺書などがなくて、自殺と断定できない場合は変死とされるから実質ははるかに多いと言われる。それゆえ、もう死ぬしかない…と思い詰めた未遂の人たちも含めると、相当な数にのぼるだろう。
苦難に追い詰められたとき、私たちは何にその苦しい心、悲しみにつぶされそうになる心を持っていったらいいだろうか。そして何が究極的に私たちをそこから救いだしてくれるのだろうか。 聖書には、そのことが随所に記されている。
福音書には、人々から見捨てられていたような人が、キリストに向って、「私を憐れんでください!」 と叫び、実際にその苦しみから救われた人たちのことが記されている。どのような人間も救いを与えてくれないときでも、私たちには求め続けるなら必ず救いだしてくださる御方がいるーそれが聖書に記されている神であり、キリストである。
世界のあらゆる詩のなかで最も深く受けとられ、かつ全世界で読まれ、讃美歌としても世界で用いられてきたのが聖書のなかの詩である。そこにはそうした追い詰められた魂が必死になって、神に助けを求めている心がある。数千年の昔に書かれたものであるけれど、現代の私たちの心に直接に響いてくる。それは、この世で唯一どこまでも私たちが深い苦しみや悲しみを訴える相手は唯一の神だけだからである。
健康なうちはそのようなものは要らないと思うだろう。しかし、重い病気、死の近づくとき、あるいは罪のゆえに見捨てられたとき、親しかった人に裏切られたときーそのようなときに、この聖書の詩篇の叫びや祈りが浮かび上がってくる。
詩篇は、2500年から3000年も昔で全く風土も時代も異なるゆえ、かつ日本語に訳すると十分に伝わらないこともあり、現代の私たちにはわかりにくいもの、違和感を持つ表現などもある。しかし、それらを越えて、砕かれた心、壊れてしまったような心を、深みに落ち込んでしまった心をもすくい取ってくださるのは人間を超えた存在ー聖書で記されている愛と真実な神だけなのだ、ということが伝わってくる。
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野草と樹木たち アサギマダラとフジバカマ 徳島県小松島市日峰山 2016.10.12
これは、山を少し登った所にあるわが家のフジバカマ(植栽)にやってきて蜜を吸っているアサギマダラです。
この蝶は美しく、しかも2千キロという長大な距離を海、山を越えて飛来していくという異例の能力を持つ蝶なので、多くの人に関心を持たれています。
先日、県南の家庭での聖書の学びを終えての帰途、道の駅で見つけた鉢植えのフジバカマを購入して夕方に帰宅、家の庭に置いていたところ、その翌早朝から、このようにアサギマダラが来て、一心に蜜を吸っていたのです。
一時は5匹が来ていて、しかも、朝から休みなくずっと夕方まで、この花からほとんど離れず、時折周辺をひらひらと飛んでは再びこの花に戻って蜜を吸い続けるーという状態でした。
そしてその翌日もまたさらにその翌日もアサギマダラの来訪は続いて、3日間ほどは毎日観察を続けることができたのです。
以前から、11月になってわが家の周囲に自生しているツワブキの黄色い花が咲くと、アサギマダラが時折飛来してくることはあっても、5匹も、しかも1日中とどまっているということは、前例のないことでした。
そしてこのアサギマダラの来訪前には、今年は一度もまだ見かけたこともないので、どこからどうして木蔭の下に置いてあるこの花にやってきたのか、実に不思議なことです。
文字通り一日中夕方までこの花にとどまっていたということは、 よほどこのアサギマダラは、フジバカマの花の蜜を好むのだということ、そしてフジバカマの花から放出されるきわめて微量なある種の香り(化学物質)によって、おそらくかなり遠くを飛んでいたこの蝶が引き寄せられてきたのだと考えられます。 アサギマダラは、フジバカマと同類のヒヨドリバナや、ヨツバヒヨドリも好み、私も剣山などの標高1700メートルほどの草地で群生するヨツバヒヨドリに多くのアサギマダラが来ていたのを思いだします。
フジバカマは 現在では野生のものはまず見られなくなっていて、絶滅危惧種と指定され、日本での一般向けの野草図鑑としては、とくに重要な役割を果たしてきた700頁ほどの野草図鑑(山と渓谷社発行)でも、その写真は、自然のものでなく、植栽のものが収録されているほどです。
しかし、昔は、万葉集の時代に、秋の七草として、詠まれたことでわかるように、野山にごくふつうに見られたようです。
「萩の花 尾花 葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」(山上憶良・万葉集巻8の1538) (なお、ここでの朝顔の花というのは、キキョウと推測されています。)
極微量の化学物質を感知する特異な能力、弱々しく見える羽に2千キロも風雨に耐えて飛んでいくという力、そうした神秘をまとったこの蝶の背後に、そうした能力を与えた神の力がいかに大いなるか、また繊細なものかー天地を創造された神の全能の一端を思ったのです。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 263 「人の歩みを決めるのは 主 」 2016.9.10
人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを決めるのは 主である。 (箴言8の9)
A man plans his way in his heart, but the LORD determines his steps.
だれでも、自分はいかに生きていくべきか、自分の道というものを考える。自分の今後の夢といったり、単に将来を考えると言ったりするが、その程度の差は相当あっても、自分の今後の道を考えない者はいない。自分で自分の道を切り開いていく―といった強い意志を表す人もいれば、どんなに生きていくべきか全くわからない、将来の計画も建てられないという人もいる。
しかし、人間がいかに聡明であり、緻密に思索して歩むべき道を考えてその道を歩もうとしても、決して考えた通りにはいかない。突然の事故や病気、あるいは家族の病気や離反、また政治や経済状況の変化、さらには予想もしなかった自然の災害、あるいは国によっては武力衝突、内戦―等々、いかなる人でも自分の考えた通りに歩むことができない。
どんな人間でも、明日自分に何が生じるかさえ、予見することができないし、いつも一緒にいる家族や同僚の心に何を思っているかも見抜くことはできないし、たった一人の人間の心に愛を生み出すこともできない、心も清くすることはできないほど、人間の能力にはいちじるしい限界がある。毎日たくさんの人々が交通事故によって命を落としている。しかし、だれも自分が明日たいへんな事故に遭遇するのかどうか―ということは全くわからない。
それゆえに、私たちは不安であり、動揺し、また将来のことを思って悲観してみずから命を絶つ人さえいる。
こうした人間の遭遇する出来事に関して、しばしば運という言葉が使われる。運とは何か、人間にはどうすることもできない成り行きをいうが、偶然ということと結びついている。運よく助かったとは、偶然的に助かった、ということである。
しかし、聖書に示された考え方は、そうした一般的、常識的なものではない。
いかなる偶然も神の前には存在しない。ただ私たちがそうした成り行きを見抜くことができないだけである。
この世界、宇宙は全能の神が創造し、現在もそれを支えておられ、かつその神の本質が愛であるなら、私たちの前に生じるさまざまの出来事も、何らかの意味がそこに込められていることになる。
私たちの歩みを決定するのは、神である。
この短い言葉を本当に信じきることができるなら、何ごとが生じようとも、それは愛と全能の愛なる神の深いご意志による、と受けとることができる。
そして、いかに困難な道、また苦しみや悲しみの伴う道であったとしても、そうした歩みは、私たちの思いをはるかに超えた神のご意志から出たことであり、最終的には、愛の神のもとに導いてくださるーそれが神の御計画なのであり、そのような信仰へと日々導かれたいと思う。
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野草と樹木たち ニッコウ キスゲ
秋田駒ヶ岳 2016.7.22
ニッコウキスゲは、よく知られた花であり、本州から北海道にかけての山地でよく見られます。日光付近で多く見られたということがあってこの名前がありますが日光地方に特に多いということではありません。黄色の花を持つスゲ(菅)に似た葉を持つ植物という意味です。スゲといわれる植物はたくさんあり、日本でも 200種を越えるほどです。身近な野草としてよく山野に見られます。そのうち大きいものは菅笠という名前のように、笠に使ったのです。
秋田駒ヶ岳の8合目からほんど人の行かない山をたどって頂上に達する道で、このように広がっている光景に出会って、まさに天使たちの賛美が聞こえるようでした。
この日は、天候に恵まれ、青い大空と真っ白い雲、そして前日の雨によって大気は清められ、山の緑もいのちに満ちたものとして感じられます。
こうした高山に咲く花々の姿は、黙していながらさまざまのことを見るものに語りかけていて、山々、青空、雲などとともに、清くかつ壮大なハーモニーを生み出しています。
(文、写真ともT.YOSHIMURA)
「あなたは多くの災いと苦しみを 」2016.8.10
あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが
再び命を得させてくださり、
地の深い淵から
再び引き上げてくださいます。(詩篇71の20)
You have shown me much misery and hardship,
but you will give me life again,
You will raise me up again from the depths of the earth.
この世では、苦難がある―主イエスは最後の夕食の席でこう言われた。(ヨハネ16の33)
信仰を与えられていても、苦難、悲しみ、悩みが消えるわけではない。そうしたことが生じないということでもない。
しかし、それらに勝利していくことができる。主は、そのための力を与え、主の平安を与えると約束してくださっている。
この詩篇の言葉は、この作者の現実の体験と信仰、希望を語りつつ、はるか後に現れる完全な勝利者であるキリストのことを預言的に言っているとも受けとることができる。
詩篇はしばしば預言である。詩篇に収録された詩が書かれてから数千年を経た現代の私たちの魂の奥深くに生じることをも見抜いたうえで書かれている―と感じることがじつに多い。それは、こうした詩の作者の背後に神がおられて、導いているからである。
人間の言葉でありながら、神がその詩人に語らせているという側面がある。
この世では、病気や事故、災害なとからくる苦しみだけでなく、さまざまの領域における人間関係によって苦しみは生まれる。
それは家族のような最も身近な関係であっても時には大いなる悩みや悲しみのもとになる。
あるいは、事故、災害、職業の問題、私たちが犯してしまうさまざまの真実に反する言動―そこからくる苦しみ。それがひどいときには、この詩にあるように、地の深い淵、闇のなかに沈んでしまう、もう死んでしまいたいと思うような―旧約聖書のヨブ記にも記されている―耐えがたい状況となることがある。
それはこの詩の作者やまたそれ以後の無数の神を信じる人たち、キリスト者の人たちに―とくに迫害の時代には、じっさいに生じてきたことである。
しかし、そうした闇に苦しむ人たちは、この詩にあるような確信が与えられたことによってそのような状況を通り抜けていくことができた。
私たちもまた、ただ幼な子のように神を仰いですべてを御手に委ねるときには、こうした確信を与えられるのだとこの詩は指し示している。
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野草と樹木たち エゾツツジ 大雪山(黒岳から~旭岳への縦走路にて) 2016.7.19
このエゾツツジは、樹木でありながら、このように10~30cmという高さで、火山岩の石ばかりのような場所に美しい花を咲かせます。
このツツジは、アジア北東部とアラスカ、日本では本州北部(早池峰山・岩手山・秋田駒ヶ岳)と北海道の高山という寒冷地に分布するもので、冬の大量の雪、氷点下数十度という厳しい寒さとはげしい風に耐えて生き延びている植物なのです。 その環境の過酷さのために、このような小さな丈の植物となっています。
同じツツジでも、徳島県の高越山(こうつざん 標高1133m)には、高さ6m、樹齢400年にもなるという大きなツツジ群落があり、これは西日本最大とのことで天然記念物にも指定されています。また、市街地の道路際に植栽されているヒラドツツジのような都会の車や人間と同居して生きているツツジもあり、釣鐘形のドウダンツツジの仲間など、同じツツジでもさまざまのものがあります。
このエゾツツジは、岩ばかりのような大地にしっかりと根を降ろして、色彩のはっきりした美しい色合いの花を咲かせます。草のように小さく、手でも抜き取られそうなほど弱々しくみえるのですが、そこにほかのツツジ類では到底耐えられない厳しい環境に耐える強靭さを秘めているのです。
聖書には、「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」(Ⅱコリント12の9)とありますが、こうした高山に咲く植物のことにもあてはまるように思います。
(文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 261 「主を尋ね求める人は、見捨てられることがない 」2016.6.20
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
苦しむ者の叫びを、忘れることはない。
貧しい者は決して忘れられない。
苦しむ者の希望は決して失われることがない。(詩篇9の11、19)
Those who know your name will trust in you, for you, LORD, have never forsaken those who seek you.
The needy will not always be forgotten, nor the hope of the afflicted ever perish.
御名を知る者―聖書では、名 の重要性が一貫して現れている。名とは、単なるなにかの名前ではなく、その本質を表すものとして用いられている。
神の名を信じる―それは神の本質たる真実や、永遠性、愛、正義―等々を信じるということであり、御名を知るとは、そうした神のことを知ること、体験的に、霊的に知っていることを意味する。
そのことは、例えば、山を知っているとは、単に山を単に遠くから見たことがあり、姿を見てその山の名前を言えるとか、地学的に知っているとか、その高さなどを知っていることでなく、その山がどんなに美しい渓谷、野草、樹木、風景東都があるか、また時としていかにうってかわった厳しい姿を現すか―等々をじっさいに歩き、登って体験的に知っていることであるのと同様である。
そのような意味で 神を深く知ればしるほど、人は、ほかの何ものにも頼まず、ただ神により頼む。私たちが病気になったり、歩けなくなったりするとき、家族や周囲の人たち、あるいは医者や看護師、そして技術(手術)や薬などに助けてもらう。その助けなければ死に至ることもある。
そのような状況では全面的にそうした人々に頼ることになるだろう。しかしそのようなときであってもなお、そうした人間に頼りつつも、その背後におられる神を見つめて頼る。
そのような助けを提供してもらってもなお、人間は最終的には死に至る。あるいは、どんなにしても心の深い孤独感や絶望などは、人間ではどうすることもできないことがある。
死に至るような状況にあって、何に頼ることができようか。
人に頼るといっても、周囲の人は孤独に悩む人間のその深い痛みや悲しみを部分的にしかくみ取ることはできないゆえに、人間に頼ることの限界を思い知らされることになる。
そのようなときでも、なお全面的に頼ることができるのが、目には見えないが確たる存在であり続ける神―聖書に記されている真実でしかも愛の神、全能の神である。それは愛の神であるゆえに、この詩の作者が記したように、いかなる場合でも、見捨てることがないと信じて委ねることができる。ことに、苦しむ者、追い詰められた状況にある者の叫びや祈りを決して見捨てない―というのは、現代の私たちにとってもほかのいかなるものにもまして、大いなる励ましの言葉となっている。
野草と樹木たち ミヤマリンドウ (大雪山(旭岳) 2014.7.22
リンドウには、多くの種類がありますが、このリンドウは、本州の中部以北から北海道の高山地域に見られるものです。
ここに示した以外のさまざまの種類のリンドウもその花の青色―ときに深い色合いを持っていて、それが私たちの心へ向けたメッセージを感じさせるものがあるため、多くの人たちから愛され、親しまれてきました。
この写真のものは、北海道の広大な領域に広がる大雪山系の主峰 旭岳(標高2291m)への登山道で見られたものです。
背景に見えるのがその旭岳の山頂に至る部分です。この花の見られたところから上部は、写真でも少し見えるように、溶岩ばかりが続く山道となっています。
遥かな昔―数千年前に激しい噴火活動がなされ、一帯は溶岩ばかりであったのが、次第にこのようなさまざまの高山植物が現れ、現在のように、高山植物の大群生が見られる豊かな山域となったと考えられています。
荒涼とした溶岩ばかりの大地にあっても、このような可憐な美しさとその深い色合いをたたえた植物が生み出される不思議を思います。
神の御手は、まことに全能の御手であり、いかなる状況にあっても、新たな美しいもの、命を生み出すのだというメッセージをたたえています。
私たちも、また、荒れた地、渇ききったような心の状態にあっても、神の愛の御手によって、いのちの水が流れるようにしていただき、麗しい花を咲かせるようにしていただきたいと願っています。
(文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 260 「私を憐れんでください。…罪から清めてください 」 2016.5.20
私を憐れんでください、神様。 あなたの慈しみをもって。
深い憐れみによって
背きの罪をぬぐってください。
私の罪をすべて洗い、清めてください。
私を洗ってください。雪よりも白くなるように。…
神様、私の心に清い心を創造し、
新しく、豊かな霊を授けてください。(詩篇51の3~12より)
Have mercy on me, O God, in your faithful love,
in your great tenderness wipe away my offences;
wash me clean from my guilt, purify me from my sin.
Create in me a pure heart, O God, and renew a steadfast spirit within me.
この詩は、原文では、上記のように 私を憐れみたまえ、という心からの叫びからはじまっている。
この「私を憐れんでください!」という言葉は、旧約聖書の詩では10数回現れることからもわかるように、はるかな古代―いまから3000年ほども昔から、神への深い祈りの表現だった。
「神よ、私を憐れんで下さい」原語のヘブル語では、「ホンネーニ エローヒーム 」、新約聖書のギリシャ語では、「キューリエ エレエーソン」(主よ憐れんで下さい )となる。
この短いひと言の叫びのなかに、さまざまの苦しみや悲しみからの叫びがすべて込められている。
(ホンネーニとエレエーソンは、(私を)憐れんで下さい、エローヒームは、神、 キューリエは 主よ を意味する)
私たち人間は、生きていく過程で、人間の力ではどうすることもできない苦しみ、悲しみが生じることを思い知らされる。
ただ必死に祈り、叫ぶしかできない。そのときの心からあふれるように出てくる祈りが、この「神様、憐れんでください、あなたの愛によって」である。
新約聖書の時代となって キリストが各地を歩まれたとき、らい病をわずらっている10人が、遠くに立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだこと、道端で物乞いをしていた盲人が、通りかかった主イエスに向って、「私を憐れんでください!」と叫んだとき、先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。(ルカ福音書17の13、18の13、39など)
このように、この叫びは、当時は最も恐れられていたハンセン病の人たち、また罪のさばきの結果だと見なされて、見下され、何もできないでただ道端で乞食をするだけしかできなかった盲人の人たちの主イエスへの叫びとして繰り返し記されている。 彼らの苦しみは、病気や障がいそのものから苦しみとともに、人々から見捨てられ全くの孤独となっていた精神的な絶望であり、それはどこにも持っていくことのできないものだった。
しかし、その悲しみや苦しみは、ただイエスだけがわかってくださる、癒してくださることを、不思議な直感で感じ取っていた。彼らは、長い歳月にわたる、苦しみと悲しみのすべてをこのひと言に託して、叫んだのであった。 このような叫びは、その重要性のゆえに、ミサ曲には この「キリエ エレイソン」が含まれて、繰り返し祈りをもって歌われている。
今回取り上げた詩篇の言葉、それは人間の根本問題としての心の問題、どうしても正しいことができず、真実たりえないこと、愛のある心が持てないこと等々―罪への苦しみとそこからの清めを心から願っているのが示されている。 雪よりも白くしてください―この願いには、限りなく清いものを切実に愛し求める心情が、数千年の歳月を越えて伝わってくる。 そしてそのような清い心は神によって罪赦され、清められ、さらに、そのような清い心を創造していただき、神の清い霊を注がれてはじめて与えられることを深く知っていたのであった。
このような天来の清いもの―それは私たちすべてが求めるべきことであるゆえに、神は大空全体に決して汚されることなき輝きとして星の光を、また地上にはさまざまの清い自然の姿、また花々を創造されたのである。
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野草と樹木たち イワイチョウ 乳頭山(烏帽子岳) 秋田県 2014.7.24
この白い花、語りかけるようにして咲いています。葉が丸くイチョウのようだというところからこの名前があります。この花を撮影したのは、秋田県と岩手県にまたがる乳頭山(標高1478m)への登山道の湿原です。
この山は、奥深い山で、一般の登山者もごく少なく、秋田駒ヶ岳の登山道入口からさらに奥へとだいぶ車で走ったところから登りますが、その登山口の標識さえもなかったので、あちこち歩いて探しても見つからず、付近の温泉旅館にたずねて初めてわかったものでした。それだけに、数時間その登山道、縦走路を歩いたにもかかわらず、まったく人に出会わなかった静かな山で、神の創造された自然の清い姿にずっと接して心まで清められる思いでした。
この花は、中部の山岳地域から 東北、北海道にかけての高山に見られるものなので、北海道の南西部にある瀬棚地方にての聖書の学びの集りに呼ばれるまでは、見ることのなかったものです。瀬棚からの帰途、時間の許す範囲で、途中の山々に登り、こうした高山にのみ咲く花々とも接する機会が与えられたのです。
―私を洗ってください、雪よりも白く―というみ言葉、高山に咲く白い花々は、そうした神の国の清い世界への招きをつよく感じさせてくれる植物です。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 259 「苦難のときに助けてくださる主 」 2016.4.20
昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。
主を信頼して、失望したものがあろうか。主を敬い続けて、
見捨てられた者があったか。
主を呼び求めて、無視された者があったか。
主は、慈しみ深く、憐れみ深い方、
私たちの罪を赦し、
苦難のときに助けてくださる。(旧約聖書続編 「集会の書」 2の10~11)
Consider the generations of old and see: has anyone trusted in the Lord and been
disappointed? Or has anyone persevered in the fear of the Lord and been forsaken?
Or has anyone called upon him and been neglected?
For the Lord is compassionate and merciful;
he forgives sins and saves in time of distress.
聖書に記されている神、それは、苦難のときに必ず助けてくださる神である。
私は幼いとき、元日には、父に連れられてわが家のある山の上にある神社に行っていたが、そこで見る神社の内部は薄暗く、そこにまつってあるものが、自分が苦しいときに助けてくれるといったことはおよそ考えたことがなかったし、親からも学校の教師たちからも、そのようなことは耳にしたこともなかった。
そして成長していくにつれ、さまざまの問題が生じて苦しいことや悩むことも増えていったが、そのとき神社にいるという「神」に助けを求めようというような気持ちはまったく生じなかった。
およそ、目に見えないものが、自分の心の深いところにある苦しみを知ってくれるなどということも考えたことはなかった。
その後、神の不思議な導きによって、この天地を創造された神がおられること、しかもその神は、じっとどこか天にいるというのでなく、私たち無数の人間の心のもっとも深い部分にある苦しみや悲しみを知ってくださる御方であり、しかもその助けを与え、魂を支えてくださる存在なのだと知らされていった。
そして、その神を知らされて50年近く経った。その間におけるさまざまの困難や苦しみにあっても、たしかに神はここにあげた聖句にあるように、主に信頼し続けることによって何らかの助けは必ず与えられるということを知らされてきた。 そしてここにあげた聖句の終りの部分にあること―具体的な困難な問題への助けとなるだけでなく、そうした問題の根底にある、自分自身の至らないところ、間違っているところ―罪をも赦してくださるということも深く知らされた。
キリスト教とは、罪の赦しの宗教だと言われるほどである。聖書といえば、神の愛が思いだされる人は多いかと思うが、その愛がもっとも深く感じられるのが私たち自身の罪の赦しを与えてくださるということにある。十字架は、キリスト教のシンボルとなっているが、それはキリストが十字架で処刑されるという非常な苦しみを負われたのは、私たちの罪を赦してくださるためだった。
長い歴史のなかで、この聖書に記されている愛と真実の神を信じて、裏切られた者は、だれもいないという。たとえ殉教―殺されることになった人でも、復活して神のみもとで永遠の命を与えられていると信じることができるからである。
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野草と樹木たち クサイチゴ 徳島県海部郡 2016.4.12
この植物は、名前のとおり、草のようですが、草の仲間でなく、落葉小低木で、キイチゴの仲間です。
この写真を撮った場所は、県南部の山間部の谷川で、徳島市からは、70キロほど南の山ばかりの地域です。
ここからさらに10キロほど南に行ったところでの月に一度の聖書の学びの集りの帰途に車から降りて山道に入って見いだしたものです。
この花が塾すと赤い実がなって食べられます。
一度庭に植えたらあちこちと広がる強靭な生命力をもった植物ですが、花はこのように、純白で私たちの心を惹くものです。
この花が咲いていた場所は谷川のほとりであったので、その澄みきった水の流れとあいまって、春に満ちている命が花と水の双方から心に流れ込んできたものです。付近には誰一人いないので、ただ谷川の流れの音のみでした。
都会では、このような自然に満ちた場所に行くことはなかなか難しいことです。
田舎ゆえに、また四国の南部という、交通の不便なところゆえに、昔ながらの自然のたたずまいが残されていて、そこに神の創造のうるわしさと清い世界に接する恵みが与えられています。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 258「私の受けた苦しみは平安のため」 2016.3.8
ああ、私の受けた苦しみは 平安のためだった。
あなたは、滅びから、 私のたましいを引き戻してくださった。
あなたは私のすべての罪を、 あなたの後に投げ捨ててくださった。 (イザヤ書38の17)
Surely it was for my peace that I suffered such anguish. In your love you kept me from
the pit of destruction; you have put all my sins behind your back.
今から2700年ほども昔にすでにこのような深い魂の体験が語られていることに驚かされる。私たちが、だれでもこの世に生きる過程で体験する数々の苦しみや悩み、そして悲しみは無意味には生じていない。
それは神が私たちに、魂の平安を、平和を与えるためであるという。この平安とか平和と訳される原語(ヘブル語)は、シャーロームであるが、この語の動詞形は、「完成する、全うする」(*)という意味をもっているため、神からの恵み、祝福によって魂が満たされ、平安を与えられた状態のことである。
(*)「…こうしてソロモンは神殿を完成した。」(列王記上九・25) この箇所の「完成する」というヘブル語が、シャーラム で、この名詞形が シャーロームである。
自分が経験した苦難も、神がそのような何にも動かされないような平安の世界へと導くためであるとこの言葉(詩)を書いた王は深く知らされた。
これは、死の病からいやされた王の歌(詩)であったが、その背後に神の御手があり、神がいわば語らせた言葉であったゆえに、聖書のなかにおさめられている。聖書はまことに、魂の体験の書であり、単に頭で考えたこと、意見、あるいは、…だろうといった推察などではない。
そして、この詩の作者である王はその苦難、苦しみの深いところには、自分自身の罪があったのを知っていた。その罪を清めてくださった神への深い感謝がある。 私たちも自分がいかに正しい道からはずれていたか、いかに狭いところしか見えていなかったか、愛なきもの、真実なきものであったか―しばしば苦しい病気や苦難に遭ってはじめて深く知らされる。
それゆえに、魂の深い平安は罪の赦しと不可分に結びついているのであって、人間の深い罪の赦しのためにキリストは十字架につけられることまでされたのであった。
主イエスも、その最後の夜に語られた言葉の締めくくりとして、次のように言われている。
…これらのことを話したのは、あなた方が私によって平安(平和)を得るためである。
あなた方はこの世では苦しみがある。
しかし、勇気を出しなさい。 私は世に勝利している。(ヨハネ福音書16章33節)
野草と樹木たち ツバキ(ヤブツバキ) 徳島県小松島市日峰山 2016.3.8
このツバキは、わが家のある山のものです。ツバキの仲間は日本、中国、インドネシアなどに広く分布しています。
ツバキは、日本では北海道以外の各地にみられ、昔から広く親しまれてきた花です。冬の寒さの中で見るこの花は、緑濃く、堅くて厚い葉に似合う厚く、真紅の花びらを付けて、花のない冬の山にあざやかな彩りを添えています。完全な芸術家としての神の御手がこの花にも印象的です。 もう60年以上も昔の子供のとき、山で遊ぶことも多くその折りに、このツバキの花をとってその花の奥にある蜜を吸ってその甘さに不思議な思いをしつつ喜んで取っていたのを思いだします。 この写真のツバキにもヒヨドリが来て、食べ物のほとんどない冬の林での貴重な栄養源としている姿をみました。すでに万葉集の昔から、鑑賞用だけでなく、その材も、種も葉も有用な植物であり、その種から造る椿油は食用のほか、化粧品、薬品、また石鹸などの原料としても用いられる重要なものです。そしてさまざまの品種も造られ200種にも及ぶとのこと。
ツバキの仲間として、とくに毎日の食卓に不可欠のもの―それは茶です。茶の花やその葉をみれば、すぐにツバキの仲間だとわかります。
そしてサザンカもツバキ科の植物として広く親しまれています。野生のサザンカは、白い花で、部分的に淡い桃色をまじえているとのことですが、写真でみると白い花として見えます。日本では、野生のものは、山口県、四国南部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)等に少数みられるだけなので、じっさいにその白い花見たことのある人は少ないのではないかと思われます。
この写真にあるような、山中に咲く野生のツバキ、それは神の直接の作品であるだけに、私にはどのような園芸品種よりも心惹かれるものがあります。この花をじっと見ているだけで、静かに語りかけてくるものがあり、魂の栄養となる思いです。
今日のみ言葉 257 「熱心に祈っていた 」 2016.2.16
・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒言行録1の14)
・教会(*)では、彼(牢に入れられたペテロ)のために熱心な祈りが神にささげられていた。(同12の5より)
・…そこでは、(ペテロのために)大勢の人が集って祈っていた。(同12より)
・These all with one mind were continually devoting themselves to prayer.
・The church was earnestly praying to God for him.
・…many people had gathered and were praying.
(*)「教会」とは、新約聖書の原語であるギリシャ語「エクレーシア」の中国語の訳語で、それを日本の聖書でもそのまま取り入れた。もともとは、エク(~から)カレオー(呼ぶ)という言葉から成っていて、「この世からキリストのもとへと呼び出された人たちの集り」を意味しているので集会とも訳される。
キリスト教が世界に伝えられていくその出発点のことを記したのが使徒言行録である。その最初の部分で、主イエスが約束のものを待っていなさいと言われた。(使徒言行録1の4)
その言葉にしたがって、人々は集って熱心に祈り続けていた。
そこに聖霊が注がれ、初めて弟子たちは、キリストのことを世界に宣べ伝える力が与えられ、キリストのことが証しされていった。 イエスの生前にその教えを受けて、イエスの死後、そのまま伝道を続けたのではなかった。弟子たちは、イエスが十字架に捕らえられたときには皆逃げてしまっていた。ペテロは何度もイエスなど知らないと言い張ったほどだった。
イエスの教えを聞いたり、その奇跡を見たりしただけでは決して福音を伝える力は与えられなかった。
彼らが一転して命をかけても福音を伝えようとする力が与えられたのは、聖霊を受けたからだった。そしてその聖霊を受けるために、イエスの弟子たちやその仲間たちという集り(共同体)の人たちによる祈りがあった。
イエスは復活したのだ―という単純な証言が福音の出発点であったがそのことによってペテロは牢獄に入れられた。そのとき信じる人たちの集りは、熱心に祈りをささげていたと記されている。武力や権力をもってペテロを救いだすことはできない。しかし、神の力によって救いだしていただくことを皆が心を合わせて祈り続けていた。そこには神の全能を信じる信仰があった。一人だけで祈るのでなく、集りとして祈ること―のちに使徒パウロが言ったように、信じる人たちの集りは、キリストの目に見えない体であるという言葉を思い起こさせる。
そしてその祈りに応えて神は驚くべき手段でペテロを牢獄から救いだされた。学問や知識、経験もない者、ごく普通の人たちの真実な祈りを神は聞いてくださることが記されている。
近くにいても遠くにいても、互いに覚えあって祈ることの重要性をこうした箇所は指し示している。
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野草と樹木たち ミツバオウレン(三葉黄蓮)キンポウゲ科 大雪山 2014.7.22
この花は、北海道と本州中部以北の高山に生える常緑の多年草で、その名のとおり、葉が三つ葉となっています。植物学的には、白い花びらと見えるものが、萼片(がくへん)で、一般に花びらといわれる花弁は、黄色い小さな雄しべの花粉のように見えるものです。高さは5~10センチ程度、花も1センチほどの小さな植物です。 白と黄色の単純な配色ですが、多数の雄しべや花びらなどのつくりに繊細かつ清い雰囲気をたたえています。
このような可憐な花が、東北や北海道の高山の厳しい寒さに耐えて咲く―ということは、とても不思議なことです。
弱々しく見えるものなのに、厳しい寒さと風雪、大量の積雪等々に耐えてはるかな古代から生き延び、そこで繁殖してきた強靭さを思わせます。
これらは、神が計り知れない英知と御計画をもって太古の昔に創造され、このような弱いと見えるなかに驚くべき力を与えられたわけです。
神は人間にもそのようなこと―弱いと見えるところに力を与えられることが記されています。
…主は、言われた、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮される。」(新約聖書 Ⅱコリント12の9)
いかに弱く、力ないものであっても、そこからキリストを仰ぎ、求めるときには、その弱さのただなかに神の力が与えられるという約束は私たちにとってまさに福音です。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)