今日のみことば 現在のページ (2003年度)
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内容・もくじ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
添付画像へ | 小題・参照箇所・掲載日時 | 添付画像へ | 小題・参照箇所・掲載日時 | |||||||||||||||||||||||||||||||
リュウノウギク | 「神には何でもできる」 (マルコ福音書10:27) 2003年11月21日 |
カラスウリ | 小さき群れよ (ルカ福音書12:31-32) 2003年1212日 (最新版) |
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オトコエシ | 「望みの港へ」 (詩編107:28-30) 2003年10月10日 |
ヤマハッカ | 「荒野の訓練」 (申命記8:2〜3より) 2003年11月4日 |
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イワタバコ | 「信仰に立っていのちを」 (ヘブル書10:36〜39より)2003年9月1日 |
オトギリソウ | 「生涯、私は主を呼ぼう」 (詩編116:1〜2) 2003年9月29日 |
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オカトラノオ | 深き淵から 詩篇130:1〜6 2003年7月4日 |
苦しみの中から (詩編118:5〜9) 2003年8月6日 |
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スイカズラ | 「常に主を私の前に」 (旧約聖書・詩篇16:7〜11より) 2003年6月5日 |
きのうも今日も、また永遠に (ヘブル書13:5〜8より) 2003年6月13日 |
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アケビ | 愛は罪を覆う (Tペテロ 4:8) 2003年5月1日 |
ガクウツギ | 「平和は川のように」 (イザヤ書48:17−19) 2003年5月14日 |
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ジロボウエンゴサク | 「すべてはあなたのもの」 (歴代誌上29:11) 2003年4月3日 |
タチツボスミレ | 「ふたつの道」 (エレミヤ書21:8 申命記30:19-20) 2003年4月12日 |
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フキノトウ | 「答えて下さる神」 (詩篇86:5〜7) 2003年2月28日 |
ジンチョウゲ | 「きのうも今日も、永遠に変わることなき」 (ヘブル書13:6-8より) 2003年3月15日 |
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ウメ | 「主は打ち砕かれた心に近くいまし」 (詩篇34:18〜21) 2003年1月25日 |
紅梅 | 「一番小さい者こそ」 (ルカ福音書9:48) 2003年2月14日 |
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カラスウリ | 「あなたの上には主が輝き出で」 (イザヤ書60:2) 2003年1月1日 |
マンリョウ | 「主よ、あなたのみ言は」 (詩篇119:89〜93より) 2003年1月112日 |
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信仰を持つとは、たんに神の万能とか、十字架のとか復活とかを表面的に信じているということではありません。それは、この詩にあるように、生きた神からの応答を与えらることです。私たちが最も激しく神を呼び、語りかけようとするのは、楽しいとき、娯楽や趣味で楽しんでいるときではなく、苦しみや悲しみの強まるときです。
そのような困難は人間関係からくることもあれば、家族の問題、また病気や事故など、仕事の上でのさまざまの問題など、人によって千差万別です。しかし、そうした苦しみが自分の内にとどまり、自分でその苦しみや悩みを解決しようとしても、その苦しみや問題が深刻なほど、どうにもならない。また他人に持ちかけても苦しみの程度が激しいときにはやはりどうすることもできないのです。
そのようなとき、神を信じ、キリストを信じる者には、呼びかける相手が与えられています。どのような深い悩みや問題であっても、また死が近いと思われるほどの困難な状況にあっても、なお、叫び、呼びもとめる相手が与えられています。
それこそ、神であり、キリストです。
まわりの人がみんな自分を誤解し、あるいは自分の犯した失敗や罪を赦そうとはしないときであっても、主なるキリストに呼びかけるときには、答えて下さる。
そして一度そうした生ける神からの応答を、魂の深みにおいて受け取ったとき、私たちは悪の力にも打ち倒されない力を与えられる。そして敵対する者に対しても、その悪意に巻き込まれず、冷静にそうした悪しきものを見つめ、その悪意が神によって除かれるようにと祈るように、導かれる。
私たちがそうした悪意持つ人間にたいしても祈ることができれば、そのとき、私たちは悪に勝利したといえます。
そうした勝利へと導こうとされるがゆえに、主イエスは、「この世では苦難がある。しかし私はすでに世に勝利している。」と言われて、そのイエスを信じるときには、そのイエスの勝利を私たちもまた、受けることができ、そこから、「敵を愛せよ。迫害するもののために祈れ」との戒めのように、敵対するものを憎むのでなく、祈ることへと導かれるのがわかります。
人を頼まず、神を避け所とし、神により頼むということがどれほど深い意味をもっているか、長い年月を経て少しずつ明らかにされていきます。
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2003年7月4日 深い淵の底から、主よ、あなたを呼ぶ。 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐えることができようか。 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。 わたしは主に望みをおき わが魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。 Out of the depths I cry to you, O LORD.
Lord, hear my voice! Let your ears be attentive to the voice of my supplications!
If you, O LORD, should mark sins, Lord, who could stand? But there is forgiveness with you, therefore you are revered.
I wait for the LORD, my soul waits, and in his word I hope;
my soul waits for the Lord.
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深い淵が、この世にはある。そこからどうしても出ることができないと思われるような状況に置かれることがある。ある程度生きてきた人は、そうした淵があるのを体験的に知っている。それは、病気や事故の苦しみであったり、人間関係とか、自分の能力や、職業の問題、日々の生活上の苦しみであったり、老後の孤独などなど、私たちには、どんなにしても自分の力ではどうすることもできない状況に置かれることがある。 今、自分自身はそのような状況になくても、周囲を見ればたくさんそのような深い淵に置かれていると思われる人がいる。
そうした苦しみの根源には、心のなかにある赦されていない罪がひそんでいることが多い。そのようなところから、いかにして救い出されるのか、それは、その淵が深いほど人間の力ではどうすることもできない。過去の罪、日々に犯す罪のこと、病気の重い状況や、死が近づくときには、死という深淵に落ちていくのを誰一人とどめることはできない。
私もかつて大学時代に暗い淵を体験した。そのような、深みに落ちている自分を救い出してくれたのは、神の御手であった。そのことを知らされるとき、神のみがいかなる深い淵にあっても、そこから引き出して下さるとの確信が生まれる。この詩の作者は、そうした苦しみの根源である、罪の赦しを神から受け、そこから主を待ち望む。繰り返し、「(待ち)望む」という言葉が用いられていることによって、いかにこの作者が主を仰ぎ、心の拠り所としていたかがうかがえる。私たちも人間やそのなすところを待ち望むのでなく、すべてを愛をもって御支配なさっている神をつねに待ち望みたいと思う。
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2003年6月13日 「きのうも今日も、また永遠に」 (ヘブル書13:5〜8より) 主は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた。 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができる。 「主はわたしの助け主。わたしは恐れない。人はわたしに何ができようか。」…
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない。 God has said, "I will never leave you or forsake you."
So we can say with confidence, "The Lord is my helper; I will not be afraid. What can anyone do to
me?"
Jesus Christ is the same yesterday and today and forever. |
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私たちは日々の生活のなかで、さまざまの困難や不快なこと、悲しむべきことに出会います。それは小さい子供のときからで、家庭であったり、学校や社会、友人関係、また職業の場での人間同士の難しい関係、また自分の能力や病気などからくる苦しみなど、また老年になればますます将来のことや病気のことなどが気がかりとなって次第に心の重荷となってくることが多いのです。
そうしたとき、問題が難しいほど、周囲の人間には話せない、話しても分かってはもらえない、自分の考えている問題が相手には分かっていないとか、逆に見下されるとか嫌われるなどと思って人間からの助けに限界があることを思い知らされるのです。
そのようなとき、どんなに困難な問題であっても、いかに他人に話せないようなことであっても、聞いて下さり、見捨てたり嫌ったりせず、かえっていっそう窮地にある私たちを助け、導いて下さる神がおられるのを知ることは、ほかのどんなことにも代えがたい恵みです。
そうした神が私たちの心のすぐ近くにいて下さることを実感するとき、私たちは人間への恐れ自然に少なくなっていくのを感じます。そしてそうした助けを与えてくださる、主イエスこそは、きのうも今日も、そして永遠に変わらずに私たちを見守り、愛して下さって、生きた導きを与えて下さるお方だと分かります。
人間の心は移り変わりが大きく、また人間そのものも一瞬の事故でも死んでしまうはかないものです。そうした人間とは本質的に異なる、永遠的存在であるキリストが私たちの心の友であり、救い主であり、困難のときの助け手であることを聖書は繰り返し述べています。そのようなキリストを与えられることは何にもまさる幸いです。
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2003年6月5日 「常に主を私の前に」 (旧約聖書・詩篇16:7〜11より) 私は、さとしを授けられる主を讃える。…
わたしは常に主を私の前に置く。 主は私の右にいますゆえ、わたしは揺らぐことがない。
このゆえに、わが心は楽しみ、わが魂は喜ぶ。からだも安心して憩う。… あなたは、私に命の道を教え、 み前にあって喜びに満ち足らせ、
右の御手から永遠の喜びを下さる。
I praise the Lord who gives me counsel;
I keep the LORD always before me;
because he is at my right hand, I shall not be moved.
Therefore my heart is glad, and my soul rejoices; my body also rests
in hope.
You show me the path of life. In your presence there is fullness of joy;
in your right hand are pleasures forevermore.
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ここに、私たちがいつも何を前に置いておくべきか、永続的な喜びはどこから生じるのかということが言われています。私たちは自分の悩みや問題、仕事、自分の希望、他人や家族の言動、また病気のこと、老後や将来のこと、社会の現状や前途など、さまざまの問題を抱えています。それらがいつも私たちの前に置かれているといえます。
そうしたことからは、心の深い平安は生まれないで、かえって不安や動揺が生じることが多いのです。そのような自然の状態に留まることなく、私たちの前にいつも神を置くこと、それによって私たちの日々の生活、生涯が根本から変わってくることをこの詩は示しています。
実際に抱えている問題だけを見つめることなく、そのかたわらにていつも神を見つめること、神を側に置くことによって、動揺や不安から免れ、また心が沈むことからも守られるという経験がここに感じられます。
私たちが心から求めるとき、主なる神は私たちのすぐ側にいて下さる。そこから私たちはいろいろの現実の苦しみや闇に引き込まれてしまうことなく、力が与えられ、永続的な喜びと平安も与えられる…。
自然のままの人間の持っている力や喜びなどはいとも簡単に消え失せ、変質していきます。しかし、神の御手には、いつも清い喜びや命に満ちた力が、満ちています。私たちも神を信じ、真実な心をもって神に求めることによって、そのような神の国の賜物を与えられたいものです。
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2003年5月14日 「平和は川のように」 (イザヤ書48:17−19) わたしは主、あなたの神
わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。 わたしの戒めに耳を傾けるなら あなたの平和は大河のように 恵みは海の波のようになる。 I am the LORD your God,
who teaches you for your own good,
who leads you in the way you should go.
If you would hearken to my commandments,
your peace would be like a river,
and your righteousness like the waves of the sea;
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私たちが信じる神、それは真理を教え続ける神であり、神の国へと導いて下さる神です。真理を教えること、それは人間には本来はできないことです。なぜなら、人間は罪にまみれており、罪とは真理に反する心を意味するからです。人はただ真理を指し示すだけなのです。
キリスト教の2000年の歴史で最も重要な使徒は、パウロです。彼の書いた手紙が新約聖書の相当な部分を占めているほどです。
しかし彼のような人でも、真理そのものは、単に人間から学ぶことでは決して与えられず、かえって真理の証人であったキリスト者たちを厳しく迫害していたほどでした。
この世の常識では、大学や書物で、また先人から学べば真理は与えられるということになっています。
しかし、神の教えはそうでなく、神から直接的に教えられねば、真理は分からないのです。だれかに説明してもらって分かったとしても、それはそのときに神がその教える人を用い、聞く人の心を開いて、悟らせた(啓示した)ということなのです。
また、聖書に記されている神は、教えるだけでなく、その教えに従って歩んでいけるようにと導いて下さる神でもあります。私たちは何かに導かれねば、決して正しい道をずっと歩き続けることはできない弱い存在です。主イエスの有名な弟子であった、ペテロも自分は死に至るまでも主イエスに従っていくと、はっきりと述べたにもかかわらず、その少しあとに、人から問われて、イエスなど決して知らないと、激しく否定する始末です。これは、人間は自分だけでは、到底正しい道を歩いていくことができないということを指し示しています。
そのような弱い人間を、どこまでも赦し、導きを与えて下さるのが、聖書で言われている神なのです。
つぎに神の言葉に耳を傾けるとき、私たちに与えられる平和は川のようになるといいます。平和とは何かじっとしているものであって、平和が川のようになる、といったたとえは聞いたことがないはずです。
ふつうの平和はすぐにとぎれます。わずかな言葉、失敗、怠慢などでも壊れてしまい、また遠くに当事者のいずれかが行ってしまうとやはり、その平和は次第に消えていくのです。
そうした平和と違って、神から与えられる平和は、絶えることなく流れる川のようだというのです。神の国にその源を持ち、そこからキリスト者たちにつぎつぎに流れ込んでいく大きな、目には見えない川の流れがあるというのです。
この御国からの大いなる流れは、私たちが霊の耳をすませ、その耳がとぎすまされてきたなら、今も聞き取ることができるでありましょう。そして私たちの魂の深みへと流れ込んでくるのです。
そして、恵み(神の義)も、また、海の波のようになると言われています。神の義とは、悪の力を裁き、打ち砕く力です。そのような神の義だけが、私たちを真の救いへと導きます。それは一方的な神の国からの賜物です。それこそは「恵み」なのです。
海の波、それは繰り返し繰り返し押し寄せてきます。それは途絶えることはありません。目には見えない霊の世界において、広大な海から自分の方へと限りなく打ち寄せてくるその波、それこそは、神の国からの霊的な波なのです。
神が悪を裁き、真実なものを求めるものに与えられる救いと正義は、信じる者には、つぎつぎと海の波のように、打ち寄せてくるものなのです。 私たちがこうした無限に深くつらなる神の世界を知らないなら、逆に、悪の波が私たちにむかって打ち寄せてきて、私たちはその波にさらわれていくでありましょう。
神の国から響いてくる静かな細い声を、真剣に聞こうとする者は、平和が、川のように流れてくるのを見ることができ、かつ、神の恵み(神の義)も、海のように私たちのところに打ち寄せているのがわかり、その波音を聞くことができる…今日の聖書の言葉は、そのようなことを連想させる箇所なのです。
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よく祈りなさい…
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。
愛は多くの罪を覆うからである。
therefore …be watchful in your prayers.
Above all, love each other deeply, because love covers many sins.
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私たちの地上の命は、すべての人にとって、確実に終わりに近づいています。
ある人たちは、ガンの末期だと診断されたときに初めて、何をなすべきか、最も大切なことを少しでもやっておきたいと願うようになります。しかし、たとえガンにならなくとも、どんな健康な人も、力強い人もみな一様に、一日一日と死に近づいているのです。
そのことに私たちが気付くとき、もし、真理を愛する者ならば、最も重要なことは何か、そのような重要なものに力を入れたいと願うようになっていきます。
ここで、聖書が語っているのは、そのようなときになすべきことは、冷静な判断を伴う真剣な「祈り」であり、そうした祈りと本質的につながっていること、すなわち、「相互への愛」だと言われています。
世間でいう、「愛」には真剣さのないものもたくさんあります。不正な愛と言えるもの、単なる自己愛の変形のような愛も見られます。
しかし、聖書でいう愛は、単に心の合った人に心を注ぐということでなく、相手がどうあろうとも、相手のために最善を祈る心を指しています。そしてそのような愛は、相手の罪すらも、覆ってあたかもなかったかのようにしてしまう、罪とか罪を起こさせる闇の力をふさいでしまう力を持っているというのです。
たしかに、主イエスは、私たちのさまざまの欠点、罪、悪をいちいち指摘して、責めることなく、そうした闇の力を覆って、力ないものとされ、そこに神のいのちを注いで下さったといえます。
罪とか悪は、それを見つけて、裁く心、愛のない心で、その人を非難し、糾弾していくと、その罪がなくなるどころか、ますます相手の心のなかに、憎しみや敵意という罪の力を呼び覚ましてしまう場合が多いのです。
私たちにおいても、神はその罪や悪いところをいちいち責めて問いつめることをせず、それを神の愛と、力をもって覆い、その罪の力を滅ぼして下さったのです。雑草を何かで覆うと、その雑草はだんだん枯れていくように、私たちの罪も神の愛をもって覆われるとき、罪の力は弱まり、滅ぼされていくのがわかります。
このことを、キリスト教世界の最大の使徒といえる、パウロはつぎのように述べています。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12:20〜21) こうした他者の罪や悪への祈りの心、愛の心だけが、悪の根源を打ち砕くものだと教えられます。
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2003年4月12日 「ふたつの道」 (エレミヤ書21:8 申命記30:19-20) 見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。(旧約聖書・エレミヤ書21:8)
わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。 あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。(同・申命記 30:19-20より) Behold, I set before you the way of life and the way of death.
I have set before you life and death, blessings and curses.
Choose life so that you and your descendants may live,
loving the LORD your God, listening to his voice, and holding fast to him.
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私たちの前には、いつもこのように 祝福と滅びへの道が置かれている。そのいずれを取るのか、それは私たちの自由な意志に委ねられている。ちょうど、エデンの園において、園の中央の木の実を食べてはいけないと命じられたが、その言葉を守るか、背くかは人間の自由意志に任せられていたのと同様である。
ここには、聖書における信仰の道がきわめて単純であることが示されている。それはただ、この宇宙を創造し、いまも愛と真実をもって世界を支配されている神を信じ、その声に耳を傾けて聴こうとしているかどうかにかかっている。
ここには、私たちに絶えず語りかけておられる神が前提となっている。そして人間には、動物とちがって、目にはみえない存在を信じて、見つめ、その存在から語りかけてくる言葉に心の耳をすますということができるように創造されている。これが人間と動物との大きな違いでもある。
それは、「神は自分のかたちに人間を創造された」(創世記1:27)からである。人間は、動物と違って、自然の美しさや、海の波の音、谷川の流れの音、あるいは風にそよぐ木々の音に心が動かされる。それはいわば神の声に聴けという、神からのうながしでもある。野草の花の単純で、きよい美しさもそれらを創造された神に心の目を向けるようにとの語りかけでもある。
私たちの一生というのは、人生のあるときに、そうした声に目覚め、魂の奥深くに語りかけられるその声に聞こうとするようになるかどうかによって決定的に変わってくる。
この不正や混乱に満ちた世界とまったく異なる、神の国がある。その国は武力や権力にもよらず、あるいは環境問題などいかなる問題によってもくつがえされない永遠の国である。そうした天の国からの消息を私たちが真剣に聞こうするならば、だれでもがその神の国からのみ声を聞き取ることができるようになっている。聖書はそのような国への最善の導きの書物だといえよう。
神の声に聞くならば、いのちが与えられるという。それはこの世においても死に打ち勝つ力を与えられ、肉体の滅びの後に、キリストと同じように変えられることであり、それは復活であり、神が持っておられるようないのちを与えられること、すなわち永遠の命に他ならない。
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主よ、偉大さと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのもの。
天にあるもの、地にあるものも皆あなたのもの。
主よ、国もまたあなたのもの。
あなたはすべてのものの上に頭(かしら)として高く立っておられる。
Yours, O LORD, are the greatness, the power, the glory, the victory, and
the majesty;
for all that is in the heavens and on the earth is yours;
yours is the kingdom, O LORD,
and you are exalted as head above all.
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神という言葉で、キリスト者が思い浮かべるのは、しばしば個人的に力や慰め、いやしを与え、罪を赦してくださる神です。それは「父なる神」という表現で表されているように、いかなる存在よりも個人的に深く、密接なつながりを持って下さっている、家族的な存在という実感があります。そしてはるか数千年の昔から、そうした個人的に働きかけ、呼びかける神のすがたは、旧約聖書のアブラハム以来はっきりと示されています。
しかし、他方では、聖書に示された神は、万物を創造された神であり、それゆえに天地のすべてを現在も支配し、保っておられる方です。それはすべての上に立っておられる、「王」としての神です。私たちの心の最も深い苦しみや悲しみなどに近づいてくださり、そこに他の何者も与えることができない、魂のいやしを与えて下さる、繊細な存在であると同時に、世界や宇宙万物を支配して、いまも御支配なさっている、比類のない王でもあられるのです。このふたつのことは本来
相容れないはずのものです。しかし、神は万能であるゆえにそのような、ふつうなら考えられない、親密な父なる神であると同時に、万物の支配者である王であり得るのです。
現代のような、さまざまの支配や権力、そして武力が巨大化し、それがマスコミでも絶えず報道されている時代にあって、私たちはそうした目に見える支配者や武力に目を奪われて、その背後に神がすべてを支配し、いっさいを保持しておられるということが分からなくなってしまう危険性があります。
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「きのうも今日も、永遠に変わることなき」 (ヘブル書13:6-8より) 2003年3月15日 だから、わたしたちは、確信をもって次のように言うことができる。
「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができようか。」
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない。 So we can say with confidence,
"The Lord is my helper; I will not be afraid. What can anyone do to
me?"
Jesus Christ is the same yesterday and today and forever |
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人の心は変わり、時代も移り変わっていきます。平和憲法を持ち、戦争は決してしないと誓ったはずの日本が、アメリカが始めようとする戦争を支持するという。
こうした社会的なことにとどまらず、この世のすべては刻々と変化していきます。私たち自身、一日一日と地上での生活の日々は少なくなり、からだも老齢化しつつあります。どのような好ましい人間関係も時として誤解を生じたり、遠くに行ってしまって、日々疎くなったりすることも多いし、どちらかが命を終えることで、終わってしまう。家族、友人たちも、いつかはいなくなる。会社の仕事にすべてをあげて取り組んだ者も、また退職していく。よき自然に囲まれたところも、環境破壊で永久的に失われていきます。
こうした変化はほとんどの場合、ひとりでによくなっていくということはなく、むしろ私たちが願っていない方向へと変わっていくのです。
そのような変化や衰退、滅びのただ中にあって、星のように変わることなく輝き続けているものがあります。それが永遠の真理である神の言葉であり、キリストご自身なのです。十字架で処刑されたのち、復活されて神のもとにおられるキリストは神と同質のお方として、今日も、明日も、そして永遠に存在し続けるお方です。
そのような確固不動のお方であるからこそ、そのキリストにたより、結びつき、導かれることで、私たちもまた、変わることのない存在へと変えられていくことを信じることができるのです。
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「答えて下さる神」 (詩篇86:5〜7) 2003年2月28日 |
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主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなたを呼ぶすべての者に豊かな慈しみを与えられる。
主よ、わたしの祈りを聞いて下さい。
嘆き祈るわたしの声に耳を向けて下さい。
苦難の襲うときわたしが呼び求めれば あなたは必ず答えて下さる。 |
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Lord, you are kind and forgiving, rich in faithful love for all who call upon you.
Hear my prayer, O LORD;
listen to my cry for mercy.
In the day of distress I call upon you,
because you answer me, Lord;
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私たちは、いろいろの日々の悩みや将来の不安、そして過去に犯した罪や不十分なこと、失敗などいろいろなことで心を暗くすることが多くあります。そして、自分の力ではその暗い心を明るくすることができない、立ち上がれないような気持になることもあります。 そのようなことは、数千年昔から変わることなくあったのです。
人間がこの地上で生きるかぎり、苦しみや不安はつきものです。
そこから私たちができること、それは神を信じ、どんな状況が起ころうともそれでもなお神は万事を良きにしようとされていると信じ続けることです。そしてその神に向かって祈ること、つまり叫ぶこと、呼ぶことです。
このことは本来だれでもできることです。病気が重くなってもはや周囲の人も見捨てるような事態であっても、いよいよ、そこから神に向かって叫ぶことができます。
私たちがもし真剣に神にむかって叫び続けるとき、神にむかう光の道が見えてきます。旧約聖書にはこうした人間のかかえる苦しみや悲しみの問題がしばしば見られます。主イエスもあの山上の垂訓の冒頭で、そうした打ちのめされた心や、悲しみに沈む心に対して、驚くべき大いなる祝福が注がれることを述べています。
心の貧しい者は幸だ
天の国は彼らのものだから。
悲しみに沈む者は幸だ、
なぜなら、その悲しみから神を仰ぐときには、私たちを励まし、慰めて下さる主の御顔を、最もはっきりと見ることができるのだから。(マタイ福音書5章より)
必ず答えて下さる神、そこに私たちの希望があります。いつかは分からない。しかし必ず私たちの願いや叫びに答えて下さる。 その希望は永遠の神に結びついているゆえに、滅びることがありません。
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「一番小さい者こそ」 (ルカ福音書9:48) 2003年2月14日 |
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だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。
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Then he said to them, "Whoever welcomes this little child in my name welcomes me; and whoever welcomes me welcomes the one who sent me.
For he who is least among you all-- he is the greatest."
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幼な子を受け入れること、それは自分が大きいと思っていたら受け入れられない。自分が幼な子のように小さい存在であることを思い知らされるまでは、人はだれでも自分が大きい者のように錯覚している。 主の名によって、すなわち主が愛されているのだからとの思いで、幼な子を受け入れるだけで、イエスを受け入れることになり、さらにイエスをこの世界に送った神ご自身を受け入れることになるという。
これは驚くべき言葉である。天地万物を創造された万能の神を受け入れるという大いなることは、ごく身近にあるのがわかる。
最も小さき者をこそ、神は最も大きいとみなして下さるという。この世が大きいとか小さいとか判断する考え方といかに違うことであろう。
私たちの社会は大きいものに注目する。学校でも成績(点)の大きい者、大学入試でもやはり点の大きい者が選ばれ、会社でも同様、芸術やスポーツなども大きい業績をあげた者のみが賞をもらい、世からの賛辞を受ける。小さい者は見下されるばかりである。
ここでは幼な子とあるが、同様に乏しい能力の者、病の人、貧しい者、社会的地位のなき者…そうした者を受け入れる者は、主イエスを、そして神を受け入れることになると言われている。(マタイ25:40)
そのためには自分がいかに小さな存在であることを深く知ることが重要となる。しかしそれは単に自分に能力がないとか、仕事もなにもできないといった弱々しい気持ちを神が大きく見て下さるのではない。
ここで言われていること、自分が小さいと知ることの本質は自分の罪を知ることなのである。どんなに能力があっても、絶対の真実と清さそのものである神のまえには私たちはみんな同じように汚れていて自分中心であり、無力な状態なのである。
こうした神の前での罪を知るほど、私たちは小さな存在であるということを知らされる。そのように罪を知って、主イエスから罪の赦しを受けて、感謝を深く捧げるとき、神はそうした魂を最も大きいものと見なしてくださるという。
ここに、この世と全く異なる見方をしてくれる世界がある。ここに神の愛がある。
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「主は打ち砕かれた心に近くいまし」 (詩篇34:18〜21) 2003年1月25日 |
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主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。
主は心砕かれた者に近く、
魂のなえはてた者を救ってくださる。
主に従う者には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
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The righteous call to the Lord, and he listens;
he rescues them from all their troubles.
The Lord is near to those who are brokenhearted,
he saves those who have lost all hope.
Good people suffer many troubles,
but the Lord saves them from them all;
the Lord preserves them completely;
not one of their bones is broken.
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神はたんにどこかでじっとしておられることはない。神は人間のなかでも、とくに苦しみにある者、神に向かって叫ばずにはおられない者を探される。
苦しみにある者の声を必ず聞いて下さる。
この確信と、実際に聞かれたという事実こそは、ことに詩篇が今も読み続けられる理由の一つとなっている。
「打ち砕かれた者」とは、英語訳では、
those who are broken hearted
とあるが、これは心が「失意の状態、または悲嘆にくれた」状態を表す。「心が壊れてしまった人」ということである。
私たちは、いろいろな状況に置かれて、大きな苦しみや落胆、また悲しみなどで、心が壊れてしまったかのようになることがある。それが何らかの方法でいやされないときには、壊れたままの心をかかえて学校や職場に行けなくなったり、よきものに感動することができない固い心、無表情な人間になってしまったりする。自らの命を絶つというような悲劇も、心の壊れたところからどうしても回復できなかったゆえである。
そうしたひどい痛みをかかえたときには、どのような人間の慰めも力になれないことが多い。花びんでも少しのひび割れとかであれば直せても、粉々に砕かれてしまったら、もう修復できない。人間の心も同様である。
しかし、神はどのようにひどく壊れてしまった心にも近づいてくださる。そうしてその回復しがたい心にも、新しい力を与えて下さる。旧約聖書の預言書で、枯れた骨すら神の力によって集められ命が吹き込まれることが記されている。(エゼキエル書37章)
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「主よ、あなたのみ言は」 (詩篇119:89〜93より) 2003年1月112日 |
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主よ、あなたのみ言葉は 天においてとこしえに堅く定まり、
あなたの真実は代々に続く。
…
あなたの教えを喜びとしていなければ この苦しみにわたしは滅びていただろう。 私はあなたの戒めを決して忘れない。
それによって、あなたは私を生かしてくださったから。
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Your word, O LORD, is eternal; it stands firm in the heavens. Your faithfulness endures to all generations.… If your law had not been my delight,
I would have perished in my affliction.
I will never forget your commandments,
for by them you have given me life.
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旧約聖書の詩篇119編は最も長い詩であり、それは神の言葉がいかに力あり、恵み豊かなものであるかを詳しく歌っています。教え(律法)、戒め、命令、証しなど多くの言葉が用いられていますが、それらはみな、「神の言葉」の別の表現なのです。要するに神の言葉についての詩であると言えます。
神の言葉は永遠であり、天に堅く立てられていると作者は言います。人間の言葉はそれが政治や社会の場での発言であってもいとも簡単に変わり、あるいは消えてしまうほどのもろいものです。天とは不動のものだと古代は考えられていたのであって、天において堅くされているとは、それが永遠不動のものだということを示しているのです。
神の真実も同様に永遠に続くのです。人間の世界しか知らないときには、万事が移り変わっていくのを見るだけで、決して永遠不動のものを見いだすことはできません。
さらにこの作者の重要な経験は、神の言葉を喜びとし、それによって滅びから免れてきたということです。
人間はいろいろのものを喜びや楽しみとしています。飲食や遊び、読書、旅行等など。しかし、最も根源的な満足を与えてくれるのが、神を喜びとすることです。飲食や旅行、読書などそれぞれらの根源にある「よきもの」は神から来ているのであって、そうしたことで楽しみを感じるところからさらにその根源にあるものによって喜びを与えられることが、より深く、永遠的であることは当然ということになります。
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「あなたの上には主が輝き出で」 (イザヤ書60:2) 2003年1月1日 |
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見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。 しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。 |
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Look! though night still covers the earth and darkness is over the peoples, |
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闇は地上を覆い、至るところで、困難な問題があらわになっている。今から二千数百年も昔に書かれたというこの文を見ると、あたかも現代に書かれたかのような感じを受ける。それらを見つめるのみでは私たちもその深い闇に飲み込まれて行くであろう。私たち自身が光を持たず、私たちは一本の弱い葦のようなものでしかないからである。
しかし、そのような私たちのところに、すでに主は来られ、その光を輝かせて下さっている。その光は永遠の光、いかなる人間の悪や闇によっても消滅させられない光である。私たちはその光を見ることが与えられている。それこそは、人間の究極的な希望の光なのである。その光なくば、私たちの内なる苦しみや悩み、そして悲しみには到底耐えられないだろう。幾多の人たちがそのような闇の中に引き込まれていく。
新しい年も、私たちにさらなる光を与えて下さい!
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