今日のみことば
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(2002年

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内容・もくじ

image002.gif「いついかなる場合にも」 (Ⅱテサロニケ3:16) 2002127

image002.gif「神の言葉と祈りによって」(Ⅰテモテ4の4-5)2002年12月26日 (最新)

image002.gif「なぜ恐れるのか」イザヤ書51:12~13 2002年10月31日

image002.gif神の平和 (ピリピ 4:6~7)20021122

image002.gif「彼が私を呼び求めるとき、彼に答え」  (詩篇91:14~16) 2002104

image002.gifその苦しみによって(ヨブ記3615) 2002年10月18日

image002.gif「苦しむことも」(ピリピ書 1:29~30)200299

image002.gif日々、私たちを担い(詩篇68:20~21)  2002928

image002.gif「朝ごとに新しく」(哀歌3:22-23)2002813

image002.gif「主よ、あなたは私のともしびを輝かし」
   (詩編18:28~30)
2002
825

image002.gif「時が来れば」(旧約聖書続編 集会の書39:16)2002717

image002.gif立ち帰れ(エゼキエル書33:11より)2002730

image002.gif「主は私に耳を傾けて」 (詩篇116:1-2)200213

image002.gifいのちの水(ヨハネ福音書4:13-14

image002.gif希望を失った者の救い主 (旧約聖書続編 ユディト記9:1)

image002.gif神の平和 (ピリピ書4:5-7より)

image002.gif主イエスを覚えよ

image002.gif「野の花を見よ」   (9マタイ福音書6:28-30より)

image002.gifだれも失望することはない

image002.gif来たれ そして聞け

image002.gif主の前に黙し (詩編37:7)

image002.gif朝ごとに」(詩編37:7) 2002.03.06

image002.gif祝福を受け継ぐために 2002年1月9日

image002.gif神の言葉が内にあり(新約聖書 Ⅰヨハネ2:14より)  2002年1月30日

 

image002.gif「神の言葉と祈りによって」

 

(Ⅰテモテ4の4-5)


神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるべきものはない。
それらは神の言葉と祈りとによってきよめられるからである。

(Ⅰテモテ4:4~5より)


For everything God created is good,

and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving,
for it is sanctified by God's word and by prayer.


この言葉はもともと食物に関して言われた言葉です。

 しかし、この聖書の言葉は、たんに食物だけにとどまらず、さまざまの方面においてあてはまる言葉です。

 神が造られたものは、皆良いものだと言われる。ここから、病気や弱い人間、病気がちの人、能力の乏しい人、他人によいことのできない人……のこともみなよいものに変わり得るのだ、事故のような何一つよいことはないと思われるようなこともまた、神はよいことに変えて下さるのだ、だから感謝して受け取るとき、捨てるべきものでないと言われています。

 使徒パウロは、常に感謝せよ、と教えています。私たちが一見よくないと思われるようなことであっても、神を仰ぎ、神の言葉を受けて、祈りをもって見つめるとき、それらはたしかに良いことへと働くようになるというのがわかってきます。そのようになるまで、時には何年もかかることもあると思われます。

 しかし、最終的には神の言葉を待ち望み、祈りをもって神を信頼し続けるものには万事が転じて益となるというのが聖書の約束です。(ロマ828

 

 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:18)

 

 人間関係においても、たいていの人には、好感の持てる人もいれば、顔も見たくないというような人もいる。しかし、ここの聖句は、もしそのような人がいても、自分への何らかの鍛錬とか、愛への訓練なのだとして感謝して受け取るとき、たしかに神からの祝福が注がれるということです。

 

 「神の言葉と祈りによって聖別される」

 私たちの周辺にあるさまざまの問題や出来事も、私たちが神の言葉を待ち望み、祈りがなされるとき、転じて良いことになっていくということがいえます。上よりの神の言葉は、神の創造のエネルギーに満ちており、どのように変えていくこともできる力を持っているのです。また、祈りは、神の言葉とちがって、人間の側から上に向かって差し出すものです。その祈りにこたえて神はいっそうの潔めを与えて下さる。その二つによって神はどんなものでも潔めることができます。

 現代の私たちも、真剣に求めるだけで神の言葉が与えられ、祈りもいつでもなすことができます。そのことによって汚れたことの多い世の中において、たえず潔めを受けて前進していくことができるのです。

シュウメイギクの写真(クリックで拡大表示)です。

シュウメイギク (秋明菊) 2002.12.02  我が家にて

 純白の花を、12月はじめき頃まで咲かせたもの。白い花は、キリスト者としては、きよめられた象徴として感じられることが多いのです。黙示録にも、天の世界が啓示されて、「数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、…(神とキリストの御前で)大声で叫んだ。」とあります。

 主イエスを知らないときには、自分が汚れた「服」を着ているなどとは気付かなかったけれども、キリストのことを知らされると、いかに自分は霊的な意味で、汚れたものを着ていたのか、また周囲の人たちも、人間はだれでも同様な汚れた服を着ているのに気付いたのです。キリストはそのような服を除いて下さり、新しく真っ白い服を下さった。パウロも「キリストを着なさい!」 (ローマの信徒への手紙1314)と、勧めています。


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image002.gif「いついかなる場合にも」


どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、

あなたがたに平和(平安)を与えて下さるように!

主があなたがた一同と共におられるように!

(Ⅱテサロニケ3:16)


Now may the Lord of peace himself give you peace at all times in all ways
   

The Lord be with all of you


 使徒パウロの願いは、キリストを知るようになった人々がどんなことがあっても、キリストの平和(平安)を与えられ、日々実感しつつ生きること、主が共にいて下さることであった。

 この世には何が起こるか分からない。突然の交通事故で亡くなる人も年間で1万人ちかくにもなる。また、多くの人がガンで亡くなる。その場合でも、多くの人は健康なときには、自分が本当にガンで亡くなるとは考えてはいなかっただろう。1日先のことも誰一人確実なことは言えない。そのような未来のことをいろいろと考えると、結局は不安になるばかりである。

 大学で学ぶこと、書物やマスコミ、インタネットその他のいろいろの情報を知っても、それらを知れば知るほど将来への不安とか人間の弱さ、醜さを思い知らされることになっていく。環境問題や世界の貧困、テロ、国々同士の対立などなど人間が解決するにはあまりにも大きすぎると感じられてくるだろう。実際、そうした現在や将来の問題が全面的に解決できると考えている人はほとんどいないだろう。

 そうしたとき、いかなることがあっても、壊されない神の平和(平安)を与えられるということは、何という幸いであろう。

 国と国の間には、人々がどのように願ってもなお、平和が破れ戦争となることが歴史にも多く見られた。しかしそのようなときでも、主イエスを仰ぎ、主イエスに求める者には、主の平和が与えられてきた。

 主イエスは、いついかなる時にも平和(平安)を実感することができるような道を開いてくださった。主は、平和を与えるために来られたからである。この世の平和はいとも簡単に破られる。しかし、主の平和(平安)をそのものをだれも破ることはできない。それは、永遠に存在し続ける神に由来するものだからである。

 主の平和、それは主がともにいて下さるということと結びついている。主はいのちであり、主がともにいて下さるとき、私たちの心はどこか水が流れているようにうるおされ、平安が伴う。パウロの願いは現代の複雑な時代に生きる私たちの願いであり、またそれは信じて求める者に必ず与えられる約束なのである。

紅葉したカエデ

紅葉したカエデ 2002.11.14 大分県にて 

 紅葉は樹木からのメッセージをたたえています。緑一色であったのに、見違えるような美しい色になって、自然の不思議さを私たちに感じさせてくれます。そしてこのような色があざやかになるには、冬が近づくときの寒さが関わっていること、もう葉が落ちるというその前にかくも美しい色調になるということも、意味深く感じます。私たちにとって、寒さはよいものを生み出すようには感じにくいのですが、神はそうした寒さをもこうした美しさを生み出す原因の一つとされているのです。

 また、葉が落ちる直前に、美しい色になるということは、太陽が、もう沈むというときに、見違えるような色になり、周囲も赤く染めつつ沈んでいくことを思い出します。神は寒さも、終わりのときも、それぞれに意味を持つように創造されていくのだとわかります。

 人間にとっても、厳しい寒さにあたるときも、その生涯の終わりのときもそれぞれに意味を持っているのが思い出されます。


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image002.gif「神の平和」 

(ピリピ 4:6~7)


どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るであろう。

(ピリピ 46-7


Don't worry about anything;
instead, pray about everything.
Tell God what you need, and thank him for all he has done.
And the peace of God, which surpasses all understanding,
will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.


 私たちは、だれでも、この地上で生きる限りさまざまの問題を抱え、悩みを持ち、
前途のことについて不安を感じることがあります。学校時代は、友人問題や成績、進学のことや就職、人間関係、大人になっても職場や仕事、あるいは家庭や自分や家族の病気のこと、老齢になれば、孤独や病気、前途のことなどなど、そうした悩みや問題を持っていることは、子供であっても、働き盛りの人であっても、また老齢に達した人も同様であり、病気とか健康などの状態にかかわらずだれしも、心の奥では不安を持っています。
 今、何も不安や心配がないという人であっても、もし、一家を支える人がガンになったり、事故に遭ったり、あるいは、家族や職場がうまくいかなくなったりしたらどうだろうなどと考えると、たちまち心配や不安が心に忍び寄ってきます。
 それほど人間にとっては、生きるとはすなわち悩みや心配、苦しみがつきまとうものです。それを何とかしてまぎらわし、または忘れ、あるいは事前にそのような心配を除こうとしているわけです。そのために、さまざまの娯楽施設や飲食、テレビや映画などの番組などもあるし、少しでもよい学校に入り、収入をよくし、よい人と結婚し、健康管理をして…と考えるわけです。
 このような仕方とは全く異なる対処の仕方が、聖書には記されています。それが今日のみ言葉です。それは、どんなことでも感謝をしつつ、神に訴える、うち明ける、すなわち、祈るということです。
 しかし、早速この言葉には疑問が生じます。悩みが大きい問題ほど、「感謝」など到底できない、こんな聖書の言葉は、空しい言葉だと思ってしまいます。
 しかし聖書の言葉には私たちが一見不可解だと思われることでも、実はその奥に深い内容と意味をたたえていることがよくあります。
 私たちがいやな問題と思っていることも、じつは深い神の御計画によってよき意味が秘められているのだと信じるとき、つまりどんなことをも背後で神の愛の御手があると信じるときには、むつかしい問題を抱えたままであっても、心にどこからか平安が生まれてくる。
 心の方向を、愛の神の万能の御手に委ねていくとき、その信頼の心に応えて神は、魂の平安という賜物を下さる。そしてそのような心の平和こそ、苦しみのときにまちがった方向に魂がさまよっていって、悪に負けてしまうことのないように、私たちを守ってくれるのです。
 身近にいたるところにある悪の力には単なる教訓や教えでは勝利できない。そうした悪にうち勝つことができるのは、神から与えられる心の平和であり、主イエスが最後の夕食のときに、弟子たちに約束した「主の平安(平和)」なのです。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れるな。
(ヨハネ福音書14:27)

コウヤボウキの写真

コウヤボウキ 徳島県小松島市 2002.10.20
 植物はたしかに私たちに、「主の平和」のようなものを感じさせてくれます。その色調やたたずまいはどこか御国のおもかげを漂わせ、私たちが不安や心配で動揺するときに、地上から御国へと引き上げてくれることがあります。低山にも見られるこのコウヤボウキは地味な花ですが、近寄って見るとその繊細なつくりと色に驚かされます。
和名は高野山でこの枝を束にしてほうきをつくることから作られたといいます。現代の私たちはほうきはほとんど使いませんが、この白い花によって心のよごれを掃き清めてもらいたいものです。


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image002.gifなぜ恐れるのか

イザヤ書51:12~13


わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。

なぜ、あなたは恐れるのか死ぬべき人、草にも等しい人の子を。あなたは自分の造り主を忘れ天を広げ、地の基を据えられた主を忘れてしまっている。


I, it is I who comfort you.

Why then are you afraid of a mere mortal who must die,

a human being who fades like grass?
You have forgotten the LORD, your Maker,

who stretched out the heavens and laid the foundations of the earth


私たちの根本問題、それは、天地創造をされた神を忘れているところにあります。目に見える宇宙や世界だけでなく、私たちの心をも魂をも創造された神、そして私たちを本当に励まし、慰めを与えて下さる神を忘れていることにあります。

 私たちは、しばしば間違った方向へと進んでしまいます。それは神以外のものを恐れているからです。日々の生活のなかで、いつも何かに恐れて生きています。自分の近くの特定の人間を恐れ、将来の不安、周りの人からの評価、家族のこと、自分の健康問題、世の中の動向、仕事の上の問題や悩み…などなどに恐れと不安を持っているのです。

 それは、私たちが、自分たち自身を創造された神を忘れているか、もしくは、十分に神が万能であることを信じないために、困難な問題を神に委ねられないからです。

 もしも私たちが今も天地創造の神が実際に生きて働いておられると本当に信じることができるなら、そうした恐れや不安はずっと少なくなると考えられます。

 なぜなら、そのような恐れが生じるのは私たちが人間だけを見つめ、この世が愛の神でなく、得体の知れない運命や偶然、あるいは悪が支配していると思っているからです。

 真実な神がこの世を愛をもって支配されているのなら、私たちはそのような万能の神に委ねることができるし、そこでまわりの悪や悩みをも導き、支配されている神が最善にしてくださると信じることができるわけです。

 

 主イエスも、つぎのように言われました。

 

「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらう。

一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ 6:34

 

 明日自身が思いわずらう、この言葉の意味は、過去、現在、そして未来をも支配されている神ご自身が私たちのために明日のことも心配してくださっているということです。 心から神を仰ぐ者には必ず前途をも導いて下さる、そして必要なものを必ず与えて下さるという約束なのです。

アケボノソウの写真及び拡大ページへのリンク

アケボノソウ 徳島県海部郡  2002.10.22撮影 

 

 山のやや日陰の谷川沿いなどにはえています。今から30年ほど前は、比較的あちこちの山間で見られたものですが、最近では少なくなっているようです。その花のすがたと、花びらの模様を見るとだれもが、心惹かれる思いになるような花です。この写真は、県南の聖書の集会に行く途中の小さな谷間で見つけたものです。

 アケボノソウ(曙草)は花の白い色が明け方の空をで、花びらに見られる小さな点を暁の星と見立ててつけられたと言われています。小さな花びらに繊細な美しい模様がついていて、神の創造のわざに驚かされる花の一つです。


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image002.gifその苦しみによって

 (ヨブ記3615


神は苦しむ者をその苦しみによって救い出し彼らの耳を逆境によって開かれる。(ヨブ記3615

 

He delivers the afflicted by their affliction,

and opens their ear by adversity.

 
 耳が開かれる、意外な表現です。目が開かれるというのはよく聞きます。しかし、ふつうの生活のなかで、耳が開かれたなどという言葉はほとんど耳にしたことはありません。そしてまた、苦しむ者を、その苦しみによって救うといった表現も使われることは少ないと思われます。

 苦しみは、それが救いにつながるといわれます。

 それは、苦しみによって私たちの心が耕され、人間の弱さを思い知らされ、そこから何が真理で、なにが、はかなく消え去るものかを学び取るからです。

 さらに、神の言葉に耳を傾けることができるようになり、また実際にそこで感じ取った神の言葉を生かして、神に従う生活に立ち返るようになるからです。

 苦しみがなかったら、私たちは自分中心の生き方にも疑問を持たずに生きていったと思われます。そしてその行き着く先は、次第に心身ともに老化し、心も固まってしまい、ついに肉体の死とともに滅び、消えていくしかありません。

 私たちに降りかかる苦しみは時として耐え難いものがあると思われます。それでも、私たちが、愛と真実の神への信頼を止めない限り、神は、私たちを決して捨てることはありません。

 現代に生きる私たちにとって、真理(神)に対して耳を開かれることは、何にもまして幸いなことです。それは、主イエスの御声を聞き取ることであり、それは、主に愛されていることを実感できることであり、そこから新しい力や主の平安を与えられることであり、私たちが神の国へと招かれることのたしかなしるしであるからです。

 その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネの福音書1016

ツリガネニンジンの写真

ツリガネニンジン 徳島県海部郡海南町 2002.10.8

 青紫の花は多くあります。そしてそれらはいずれも、多くの心を惹くものとなっています。リンドウやソバナなどはとくにそうです。 このツリガネニンジンも同様です。秋の野山にて目に入ると、だれもが野草のよさを感じる花といえます。

 だれでも、心のなかに、青い花が表している深さや澄み切ったものを求めているからではないかと思われます。この野草もだんだん少なくなっているのは残念なことです。この名は花の形が、釣り鐘状をしていることと、ニンジンのような根を持っているからです。若い苗を食用にするのは、古くから見られたとのことです。


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image002.gif彼が私を呼び求めるとき、彼に答え

 (詩篇91:14~16)

 2002104


彼はわたしを愛して離れないゆえに、彼を災いから逃れさせよう。
わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え苦難の襲うとき、彼と共にいて助け彼を栄えさせる。
生涯、彼を満ち足らせわたしの救いを彼に示そう


(詩篇91:14~16)



Because he clings to me

I rescue him,

I raise him high, for he knows my name.
When he calls to me, I will answer him,

I will be with him in distress,

I will rescue him and honor him.

With long life will I satisfy him

And show him my salvation.

 

私たちは、他人の心や、世の中の動きを変えたりすることはなかなかできないことです。自分の心すら思いのままにならないし、変えることができないのに、他の人間やその集まりである社会を変えることなどとてもできないことは容易にわかります。

 しかし、私たちにもできることがあります。それは、神に心を注ぐこと、すなわち神を愛することです。喜ばしいとき、悩みのとき、疲れ果てたとき、あるいは希望もなくなったようなときなど、どんなことがあっても、神に心を向け、そこに心を注ぎ出すことです。それが神と結びついていることであり、神を愛して離れないことです。

 どこまでも神への信頼を失わずにいるとは、神が真実だと知っているからであり、それが神の「名を知っている」ということです。

 主イエスも、「私につながっていなさい、そうすれば私もあなたにつながっていよう」と言われました。

そうした心の姿勢があるかぎり、神は決して見捨てたままにすることはない、必ず答えて下さる、そして共にいて下さる。私たちの苦しさのゆえに、そのことが感じられないこともあります。しかしそれでもなお、神がともにいて下さり、時至れば、神の答えも必ず与えられるということです。

 旧約聖書のヨブ記には、そうしたことが詳しく記されていますし、主イエスが殺される前夜に血の汗を流しながら必死で祈ったこと、十字架上で釘打たれて恐ろしい苦しみのただなかで、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのか!」と、激しい叫びをあげたのも、このような、神にどこまでもすがりつく姿を示しています。

 そのような叫びをあげたからといって、神は見捨てていたのでなく、ともにおられて、復活へと導かれたのでした。人間は肉体を持つかぎり、いかに信仰深くあっても、時には、病気そのほかで非常な苦しみに置かれるときには、神が見捨てたのかと感じることがあり得るのがわかります。

 しかし、神に心を注いでやまない心があるかぎり、外見上はどんなに見捨てられたように見えても、神はその人と共におられ、救いへと導かれる。
 そして私たちを高く上げられる、それはその人の祈りが聞かれるようになるということも含まれます。苦難を、主への叫びと主からの助けによって乗り越えた人は、高く上げられる。それは神の力が与えられることであり、そこからそのような人の祈りは力あるものとなって、他者にも及ぶことになります。

 そのような神の力が与えられることこそ、最も祝福されたことであり、この詩にはそのような道が神を信じる者の前途に用意されていることが示されています。

ゲンノショウコの写真(クリックで拡大画像)

ゲンノショウコ  徳島県小松島市 2002.10.1

 これは、我が家のものです。ゲンノショウコは、古来有名な薬草で、「現の証拠」とかきます。これを煎じて飲むと、すぐにその効果(なおった証拠)が現れる、というので、この名があります。  詳しい薬草の書物によれば、つぎのように説明されています。

「古来下痢止めの妙薬として広く応用されているもので、その効果は実に理想的といっても過言ではないくらいである。腹痛、胃痛、赤痢、疫痢に、おどろくような効用があり、常に胃の弱い人はそれを常用すると最も適当なものとされている。その他、煎じて服用すると魚肉の中毒、心臓病、風邪などにも、奇効がある。また、これを濃く煎じた液を切り傷、腫れ物に用いると切り傷などはその痕を残さないほどに効果がある。」(薬用植物事典168P 福村書店刊による)

 このような多くの効果がある薬草ということですが、その花も、白いものと赤紫色のものがあり、可憐な美しさを持っています。このなかまのうち、四国の高山地帯(例えば剣山周辺の大体標高1500メートル以上の山地)には、シコクフウロという花があり、夏には、美しい薄紫のやや大きい花をたくさん咲かせて目をひきます。


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image002.gif日々、私たちを担い

(詩篇68:20~21) 

2002928


主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。(詩篇68:20~21)

Praise the Lord,

who carries us along,  day after day;

He is the God who saves us.

Our God is a God of salvation,

and to GOD, the Lord, belongs escape from death.

  聖書で言われている神とはどんな存在なのでしょうか。一般の神々については、日本人はほとんどイメージを持っていない人も多いと思います。

 しかし、聖書においては、神とはどんな存在なのかは、はっきりと記されています。ここに引用したのもその一つです。

 神は、私たちの重荷を、そして私たち自身をも担って下さる。歩けなくなったとき、私たちをその御手で立たせ、そして新しい力を与えて再び歩けるようにして下さる。すなわち、弱さを顧みてくださり、助けてくださる神なのです。

 私たちの地上の生活において、しばしばもう歩けないという苦しみのとき、その重荷に耐えかねるときがあります。それは自分の犯した罪のことであったり、人間関係や、仕事のこと職場のこと、あるいはまた家庭問題であったりします。さらに老年の孤独や病気が重荷となり、自分自身が重くどうしようもなくなってしまうこともあります。

 日本は1年間に自殺者が3万人以上という世界的に見てもとくに多い国です。それは、なぜかといえば、重荷を軽くする方法が与えられているのにそれを知らなかったからだと言えます。

 親や、友達などの人間も確かに一時的には、私たちの重荷を軽くしてくれることがあります。しかし、その人間もまた重荷を抱えているのであって、人は本質的に他人の重荷をずっと生涯にわたって軽くしつづけるなどということは、到底できないことです。

 それができるのは、宇宙の創造者であられる、神とキリストのみです。このことは、実際に経験できることです。私自身もかつては、人間の将来、科学技術の行き着く先は何であるのか、またそのほかにもいろいろと心に重くのしかかることがあって、どうすることもできなかったことがあります。そうした暗いときにキリストの福音を知らされたわけです。そして確かに、この詩篇の言葉にあるように、神は私自身を担い、かつ私の重荷をも担って下さっていた、ということに気付いたのです。

 私たちに迫ってくる最終的な重荷は、病気であり、死です。その死ということにすら、キリストは勝利され、よみがえられて現在に至るまでその深い影響を及ぼし続けています。キリストと結びつくときには、「死」という最大の重荷も軽くされ、死のかなたにある、神の国のこと、永遠の命のことが示されてくるのです。

 そのような大いなる神だからこそ、讃美しようと呼びかけられています。そうした救いの経験を与えられた者にとっては、自ずから讃美の心が生まれてくるからです。

センニンソウ

センニンソウ 徳島県小松島市  2002.09.10 

 

白い十字架のようなこの花は、夏から秋にかけて、山野によく見られます。つる性なので、ほかの木々の上に出て、この白十字架の花をたくさん咲かせるので、夏に山沿い地方を車で通るときなどに、目にとまる花です。学名は、clematis terniflora といって、クレマチスの仲間であることがわかります。

 十字架というと、キリストの血を流されたことから赤を連想しますが、白い十字架はキリストによる清めを思い出させてくれます。


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image002.gif苦しむことも

(ピリピ書 1:29~30)

200299


あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。
あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いている。
その同じ戦いをあなたがたは戦っているのである。


For he has graciously granted you the privilege not only of believing in Christ,
but of suffering for him as well--
You are fighting the same battle which you saw me fighting for him
and which you hear I am fighting still.


 キリスト教と言われている信仰のかたちは、戦いをその内に持っている。信仰とは、特定の宗教教団に属して、何かの信仰箇条を信じている…あるいは、困ったときにだけ祈る、目前の入学とか就職、結婚などで祈ること、それが宗教だと思っている人も多い。
 しかし、聖書では、最初から信じるものに降りかかってくるなんらかの敵、悪との戦いがはっきりと記されている。
 この世では、苦しみには必ず直面する。それは何らかの悪の力が私たちに攻撃をしかけてくるからである場合が多い。 主イエスは、「あなた方はこの世では苦しみがある」と明言された。 
 その苦しみに対して、私たちは屈服させられて力を失っていき、ついには滅んでしまうか、それとも、神の力を与えられてその苦しみや苦しみを与える闇の力に勝利していくかである。
 ここに戦いがある。
 キリスト者として生きていく道においては、喜ばしいことばかりでないことを、パウロは、「キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と記した。苦しみもまた、聖書によれば、神からの恵みの一つなのである。

 キリスト者の生は、何らかの意味で戦いとなる。しかし、それは具体的な人間とか人間の集団に対する戦いでないことは明らかである。そうした人間や集団を動かしている、背後の目には見えない悪の力そのものに対する戦いなのである。
 こうした戦いにおいて、単独で戦う人もいるであろう。しかし、キリスト者とは、神との結びつきとともに、横のつながり、すなわちキリスト者同士のつながりを与えられている人たちである。
 神はキリストを信じることを求められる、それと同様にキリスト者同士がいっそう、かたく主の愛によってともに戦いつつ、一つとなることをも望んでおられる。他者のたたかいを覚えて、神に祈りつつ歩むとき、私たちもまた他者の戦いと同じ戦いを戦っているといえる。
 ともに祈り、ともに覚え、思い出す、そうしたなかに、戦いがはげしいただ中にいてもなお、キリストは信じるもの同士を一つにして下さる。そうして敵のためにも祈るという姿勢は、反対者や、年齢、性別、国籍、民族などをこえて、祈るひとの心のうちで一つになっていく。それはその祈りのうちにおられる主がなされることなのである。

ツユクサの写真(クリックするyと大きな写真で観られます。

ツユクサ 2002.9.5 徳島県小松島市
 ツユクサは広くしられています。しかし、じっさいに自然の状態で咲いているのを見たことがないという人は、市街地に住む人には多いとおもいます。
 ツユクサは万葉集や古今集にも詠まれ、古代から人の心を惹きつけるものであったのがうかがえます。また、やはり古くから、薬用、染料などに用いられてきた植物です。濃い青色のその花には、夏の野にて心惹かれるものがあります。
 深い青は、花だけでなく、空の青、海の青などもふくめて、人間の心にどこかなつかしい、魂のふるさとからの呼び声のようなものを感じさせてくれます。
 私にとって、学生時代に、京都由良川の源流地帯でしばしば見かけたリンドウの濃い青紫の色は、数十年を経てもなお、心に残っています。


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image002.gif主よ、あなたは私のともしびを輝かし

 (詩編18:28~30)

 2002825


主よ、あなたは私の ともしびを輝かし

神よ、あなたは私の闇を照らしてくださる。

あなたの助けによって、わたしは敵に向かって前進することができる。

我が神によって、城壁を越えることができる。

神の道は完全であり、

主の言葉は真実。

すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる(詩編18:28~30)


It is you who light my lamp;

The LORD, my God, lights up my darkness.

With your help I can advance against a troop,

And by my God I can leap over a wall.
This God-- his way is perfect,

The promise of the LORD proves true,

He is a shield for all who take refuge in him.


自然のままの人間の心には、光はなかった。それを私は自分自身の経験として思い知らされた。

光なき人間であった私は、いくら大学の勉強をしてもまた、スポーツによっても、友達との議論などによってもその闇に光はもたらされなかった。ますます深い闇のなかに落ちていくようであった。

 そうした苦しみの中から、救い出され、私はたしかにこの世には、光があることを知った。それは何にもかえがたい経験であった。それは決して消えることのない光を知らされたとも言えよう。

 その光は、ただ神の深い愛によって私に与えられたという実感がある。かつてのあのおそろしいまでの闇を見たゆえに、この世にはどうしても聖書に記されている神の愛が必要であり、神からの光が必要だとわかった。

 その光を与えられて、初めて私たちには力が与えられ、敵対する力に対しても後退することなく、前進していくことができる。しかし、この世はそうした光を知った者をふたたび闇のなかに連れ戻そうとする力があるゆえに、たえず目を覚ましていなければならない。

 光なき心とは、真実なき心である。自分のなかにも真実がなく、周囲の人々の心もまた同様であると知らされる。しかしそうした不真実なものがあふれているただなかに、主イエスは来られた。

 主イエスのうちには、いかなる事態があろうとも、真実を貫いてくださる力がある。 私たちが主イエスを信じるとき、たしかに私たちの目の前に立ちはだかる大きな問題や苦しみの原因にうち負かされないで歩んでいくことができる。

 そして主は「盾となって下さる」と言われているのは、この詩の作者も、神を信じて委ねるとき、不思議にも悪の攻撃からも守られるという経験を重ねてきたからであったろう。

 現代に生きる私たちも、神を信じて委ねるとき、数千年の歳月を越えて、やはりこの詩の作者と同じ経験を与えられるのである。

アキチョウジの写真

アキチョウジ  徳島県剣山  2002825日送付

 青紫の花は心がとくに惹かれるものが多い。ウツボグサ、クガイソウ、リンドウ、タツナミソウ等などいずれも、多くの人々に愛されている。

こうした花の青い色は大空や海の青などと共に、澄んだ深みのあるなにものかを感じさせてくれる。

私たちは、だれでもそのような深さと澄み切ったものを魂の奥底では求めているのではないだろうか。


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image002.gif「朝ごとに新しく」

(哀歌3:22-23)

2002813


主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
あなたの真実はそれほど深い。
「主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。

(哀歌 3:22-24)


The steadfast love of the LORD never ceases,
His mercies never come to an end;
They are new every morning;
Great is your faithfulness.
The LORD is my portion," says my soul,
"therefore I will hope in him."


人の慈しみや親切、あるいは憐れみなどは消えていく。親切を注いだ相手からのお返しがなければ続くことができないほどにもろいものである。親ですら、子供が背き続けるような場合には、子供への愛も失われて、憎しみに変わることすらあるだろう。
 そうしたあらゆる人間のもろさ、弱さのただなかで、神は信じる者への慈しみをどこまでも注ぎ続ける。終わることのない憐れみがそこにある。
 神の憐れみを最も感じるのは、自分が背く者、値打ちのない者であるにもかかわらず、神が愛を注いでくださるのを知った時である。
 私たちが困難や苦しみの時には、それがひどいときほど、ただ、神に向かって「憐れんで下さい!」と叫ぶことしかできないだろう。聖書にもその助けを求める叫びがいろいろ記されている。そのような弱き者の叫びを聞いて下さるのを実感したとき、
神の助けは本当にあるのだと分かるようになる。
 人間の愛や親切は短い期間だけ働き、次第に古びていく。しかし神からの慈しみや真実は、朝ごとに新たになる。それはいわば尽きることのない泉から生まれてくるからである。
   神の慈しみが朝ごとに新たになる、それほどに神は私たちへの愛を深くもっておられるのだと言える。
  この詩の作者にとって、神の真実こそは、いかなることが生じようとも変わることがないということを知っていた。そしてその神の真実をたえず実感することこそ、心が生き生きとされる原動力なのであった。
 ふつう、人間は、地位や、土地や権力、あるいは金、または特定の人間などが自分の獲得しようとするものであって、それはずっと残ると思うかも知れない。しかしこの詩の作者にとっては、そうした地上の宝でなく、宇宙の創造主であり、愛と真実の神ご自身が自分に与えられたものなのだと知っていたのである。神を信じていることとは、神を自分の「分」として、いわば持ち物のように持っていることであり、それにまさる地上の祝福はないことを実感していたのである。

トチノキの写真及び拡大ページへのリンク

トチノキ 徳島県 剣山   2002813日送付
数百年は経ているであろうと思われる、トチノキの大木が剣山にある。このような大木はまれにしか見られない。数百年の間にあらゆる暴風や雨、雪、また厳しい寒さにも耐えてきたことだろう。
 大木の側にいるとふしぎな落ち着きが与えられる。私たちの心になにかどっしりしたもの、揺るぎないものが伝わってくる。そして沈黙のうちに私たちに様々のことを語りかけてくる。

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image002.gif立ち帰れ

(エゼキエル書33:11より)


わたし(神)は悪人が死ぬのを喜ばない。

むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。

立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。

どうしてお前たちは死んでよいだろうか。


I take no pleasure in the death of the wicked,

but rather that they turn from their ways and live.

Turn Turn from your evil ways

 Why will you die


この言葉が語られたのは、今から2500年余りも昔のことである。そのようなはるかな古代においてすでに、神の深いお心が示されている。

旧約聖書の神は義の神である、だから戦いの神であり、悪しき者に裁きをする神であり、怒りの神であるといったイメージがよく持ち出される。

 しかし、本当は神は、悪人が誰も滅びないように、立ち帰ることを待ち望んでおられる。悪人とは、真理を踏みにじろうとし、実際に真理に敵対する人である。普通なら、そのような人は滅んでしまったらいいのに、と思うのではないか。

 だが、神はふつうの人間の心とは全く違っている。そのような悪人だからこそ、いっそう心を入れ替えて、神に立ち帰り、真実な道を歩いてほしい、という切実な願いがある。

 こうした敵への心持は、主イエスの教えとして有名な、「敵を愛し、敵のために、祈れ」に通じるものがある。

 神とキリストを知るまではこのような敵対するもののためにも祈るという心は知らなかった。こうしたはかりしれない愛の実態に初めて触れたのは、私が大学4年の初夏であった。

 私たちもまた、罪を持ち、じつに弱い存在でしかない。

 心の耳をすませば、日々、神のくにから、私たちに向けられた、「立ち帰れ」が聞こえてくるであろう。

 悩みのとき、罪を犯したとき、真実に背くような言動があったとき、私たちは正しい方向からそれてしまいがちである。そのような時にこそ、私たちはこのエゼキエル書の言葉を思い起こし、神に対して立ち帰っていきたいと思う。そこにこそ大いなる祝福がある。

ハンゲショウの写真及び拡大ページへのリンク

ハンゲショウ   徳島県小松島市   2002.07 

半分化粧したように白くなるから、ハンゲショウという名前があるとも言われ、また、太陽暦では梅雨が明け田植の終期とされる七月二日頃をハンゲショウといい、そのころ咲くからとも言われる。

ドクダミの仲間であることはすぐにわかります。控えめなその姿は、見る者の心を和らげるような趣があります。


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image002.gif「時が来れば」

(旧約聖書続編 集会の書39:16)


主の御業(みわざ)は、すべて驚くべきもの!
命じられたすべてのことは、
時が来れば実現する。

(旧約聖書 続編 集会の書39:16


How wonderful they are, all the works of the Lord

and whatever he commands
will be done at the appointed time.


 今、私たちの目に入る神の業、それに容易に触れるには、自然の中に出ていけばよい。
 大空や夜空の星、真っ白い雲の姿、そしてあかね色の夕焼け雲、いのちの流れのような谷川、野草の繊細な美しさなどなど、いたるところに神のすばらしいわざがある。
 けれども、そのような自然からひとたび人間世界をみるとき、神のわざとは思えないような出来事がつぎつぎと生じている。しかし、そのようなただ中においても、ひとたび神を信じるとき、人間世界の汚れや混乱のただなかであっても、神はたしかにその御業をなされているのがわかる。
 それは、驚くべき御業であり、私たちが人間の力ではどうにもならない困難なことであっても、神は万能であり、時至れば必ずみ心にかなったことをなされる。ここに私たちの希望がある。
 主イエスの最後の言葉は、「成し遂げられた!」( It is finished)であった。 まわりのすべての人たちは、イエスが無惨にも十字架上で処刑されたのをみて、すべてが挫折したと思ったであろう。しかし、そうではなく、逆に神のわざが実現し、万人の罪をあがない、信じる者をすべて救いに入れるという大事業の根底が成し遂げられたのであった。
 人間には絶望的であり、悲劇的と思われることであっても、そのようなことを通して神はその大いなる御計画を実現されていく。私たちも前途にどのようなことが生じるかわからない。けれども、神を信じるものには、いっさいを転じて良きにされるのであり、時が来れば、私たちは万事が最善になされたということを、はっきりと知ることになるであろう。(Ⅰコリント 15:12)

オニユリとナガサキアゲハの写真

オニユリとナガサキアゲハ  我が家にて 2002.7.12
オニユリは、たくましいユリです。堤防などにほかのくさの雑草のなかからでもぐんぐんと伸びてその野性的な花を咲かせます。
こうした点は、同じユリでもテッポウユリなどとは大きく違っています。
 ほかの雑草と言われる花は花びらすらないのがたくさんあります。
それに対してこのユリはひときわ目立つものです。神は自然のなかにこうした驚くべき多様な姿を持つ草花を創造されています。
 オリユリは、球根(鱗茎)を食用として栽培する多年草。もとは中国原産で古い時代に伝来したものが栽培中に逸出して野生化したと
言われています。ナガサキアゲハは美しいチョウですが、最近はとても少なくなっています。


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image002.gifいのちの水


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

(ヨハネ福音書4:13-14


Jesus said to her, "Everyone who drinks of this water will be thirsty again,
but whoever drinks of the water that I will give them will never be thirsty.
The water that I will give will become in them a spring of water welling up

to eternal life."


 人は誰でも渇きを持っている。どんな仕事をしても、またよき家庭が与えられても、あるいは旅行、娯楽、趣味などに時間をかけても心の奥深いところでは満たされない。どこか空しいような気持ちになる。
 自分の心の奥に光が輝いていないし、魂にうるおいがなく、渇いているという実感を持つ人は多いだろう。
 そのような渇きがどこから来るのか、学生時代など私もまったく分からず、また周囲の人たちもそのような渇きを持たないというような者はいないのであった。
 そうした渇きのただなかで、私はキリストを信じるようになった。そして驚くべきことに、それまでずっと生きる目的とかも分からず、渇いていた心、うるおいのない状態であったにもかかわらず、そのただなかに注がれたものがあった。それが、ここに言われている「命の水」である。
 目には見えないキリストから流れ出てくる水の流れが私の魂の奥深いところに流れ込んできたのであった。キリストからいただく、「いのちの水」は、傷ついた心をいやし、不安や絶望的な状況にある魂や、弱さに打ちひしがれた心にも流れ込んでいく。
 そして、そのいのちの水を頂くためには、ただ、心から求めさえすればよかった。
そしてこのようなふつうの目には見えない水のながれがあることを知った者は、日常のあわただしい生活のただなかにおいて、そのいのちの水をくみ取って飲むことが許されるようになる。

カワラナデシコの写真及び拡大ページへのリンク

カワラナデシコ 2002.07.07 徳島県麻植郡
 これは、数多いナデシコのなかまでは、とくに心を惹くものです。実際の山を歩いているときに、時折見つけることがあります。それは自然の野草の美しさの典型的なものと言えます。草が茂っているところにすっとその茎を立てて、この写真にあるような美しい花を咲かせているのに出会うとその場所とともに記憶に留まっていきます。
 これは日本にあるナデシコの代表的なものなので、ヤマトナデシコとも言われます。中国原産のナデシコをセキチクといい、ヨーロッパ原産のものはアメリカナデシコといいます。この野草の全体的に質素なすがたと花の美しさが相まって、日本女性の美称となっています。

 

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image002.gif「主は私に耳を傾けて」 

(詩篇116:1-2)

 200213


私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう(詩編1161-2


I love the LORD, because he has heard my voice and my supplications.
Because he inclined his ear to me, therefore I will call on him as long as I live.

  

 信仰といえば、単に信じるだけと思っている人もいるだろう。単に神がいると信じているだけでは、自分との心の関わりはあまりない。しかし、私たちは神を信じるところから、神への愛へと導かれる。

 信仰を持っても何にもならないと思って捨てる人は、神への愛に進まなかったからでもあろう。主イエスも「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」と言われて、信仰から愛へと進むべきことを教えられた。

 私たちが神(主イエス)を愛するようになるのは、主が私たちの心の叫びを聞いて下さると実感できるからである。この詩の作者が、神を愛すると告白しているのも、神が遠くにいて、弱い人間の一人一人の苦しみや悲しみに答えてくれないのでなく、個人的に確かに聞いて下さっているという実感があるからであった。

 これは単なる学問や多くの書物、また外国への旅行や芸術あるいは、人生経験を重ねたからといって、与えられるのではない。はるかな遠い昔から、これらすべてを持たない、文字も読めないような奴隷たちでも、主イエスは確かにそういう苦しむ人たちの心の願いや苦しみに応え、励ましと力を与えてこられた。

 人間同士もそうした苦しみや悲しみの応答は部分的にはできる。しかし人間の心は移ろいやすいし、いつまででも生きているのでもなく、ある人の苦しみの深まるときには到底他人では理解できない状況となり、正しく応答など到底できない。

 そうした時、いかなる苦しみであっても、また、どんな孤独な状況に置かれた人であっても、私たちの語りかけや、叫びに応えてくださるのは、主イエス・キリストであり、父なる神だけなのである。

 そのことを実感したとき、私たちは生きる限り、たえず主を仰ぎ、主に向かって語りかけることを止めない者となるであろう。

ウツボグサの写真及び拡大ページへのリンク

ウツボグサ 2002.6.10  徳島県小松島市 

6月の野草としてとくに愛されているものの一つ。野草としては、青紫色の美しい花を咲かせるので、山野ではとくに目をひくものです。しかし、徳島県でも少なくなっているようです。
これは日当たりのよい山野の草地にはえる多年草です。カコソウ(夏枯草)とも言われるのは、花穂は枯れると褐色になるからです。強力な利尿薬になると薬草の書物には記されています。靫草(うつぼぐさ)という名前は、花穂の形が弓矢を入れる靫(うつぼ)に似ているから。

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image002.gif神の平和 

(ピリピ書4:5-7より)


主はすぐ近くにおられる。
どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる理解を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るであろう。

(ピリピ書4:5-7より)


The Lord is near.

Do not worry about anything,

but in everything by prayer and supplication with thanksgiving let your requests be made known to God.

And the peace of God, which surpasses all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus


多くの人は、神がいるとしても遠くにいる、あるいは神など無限の遠くにいるのであって今の私たちとは何の関係もない、さらに、神などいないというように考えている。そこから神の裁きなどもないと考えている。

 しかし、じつは主はすぐ近くにおられる。そして、主は正義の神、万能の神であるので、悪の力に対しても、必ず裁きをも与えられる。私たちを苦しめる周囲の悪の力は決していつまででも続くのではない。主は救いのために、また裁きのためにも再びこられるし、その時はいつかはわからないが、間近であると記されている。

 現代の私たちにとってもさまざまの悪がはびこり、どこに真実の神、正義の神などいるかと思われるような状況がある。しかし、そうしたこの世の実態は深く見るときには、昔も今も変わりない。

 そのようなただ中に神は来て下さった。今も生きて働く主イエスが、心から求める人にはだれでのところにも来て下さる、しかもその人の魂の中にまで来て下さって住んでくださる。これ以上に近いところはない。

 神(キリスト)が近くにいて下さるからこそ、私たちはいろいろなことについても感謝をもって見つめる道を与えられた。キリストが内にいて下さるとき、私たちの悩みや苦しみを直接に訴え、なんらかの励ましや慰めを受け取ることができる。

 そのことだけでも、私たちは最上の賜物を頂いているという実感を持つので、自ずから感謝と喜びもわいてくる。そして明日のことは主に委ねる心をも与えられる。そこから前途への不安や恐れも取り去られて、心の平和が与えられる。

 そしてそのような平和は神から来たと感じる。こうした「あらゆる理解を超えた神の平和」によって、私たちの心や考えがこの世のさまざまの悪から守られると約束されている。

 私たちの心の願いや苦しみを神に訴えても、聞かれないように見えることもしばしばである。しかし、真剣に祈るときには、目にみえるようには事態が変わらなくとも、そのただなかに、神からの平安が帰ってくる。

クサイチゴ

クサイチゴ バラ科 徳島県小松島市日峰山 2001.5.10 

これは、クサイチゴとありますが、草ではなく、木です。せいぜい50cm程度にしかならないものですが、実は赤くなって食べられるものです。野山にある木のイチゴは30種類ほどもあります。上にあげたほかに、私の家のある山のあたりで、割合身近にみられるものには、カジイチゴ、モミジイチゴ、フユイチゴなどがあります。これらはたいてい白い花を咲かせ、赤い実がなります。ふつう木イチゴと言われているのは、モミジイチゴを指す場合が多いようです。こうした木イチゴの仲間は、むかしはこどもたちの遊びとともに数少ない自然の食べ物ともなり、心身が自然と親しみつつ育まれたことと思われますが、現代では都会地方なら見かけることもないかと思われます。白い花びらの清楚なすがたは、私たちになにかを語りかけているようです。


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image002.gif希望を失った者の救い主


あなたの力は人の数によるものではなく、

あなたの主権は強者に頼るものでもない。

あなたは虐げられた者の神、小さき者の助け主、

弱き者の支え、見捨てられた者の守り、希望を失った者の救い主。

 

 (旧約聖書続編 ユディト記9:11)

 

For your strength does not depend on numbers,

nor your might on the powerful.

But you are the God of the lowly, helper of the oppressed,

upholder of the weak, protector of the forsaken, savior of those without hope.


私たちの世界では、数が力だ、金の力、また武力こそは重要だという考え方があります。数の小さいことのゆえに、私たちはしばしば希望を失いそうになります。

 しかし、このような数えられるものに頼る傾向とは全く逆に、神はここにあげたように、いかに少数の人しか認めなくとも、神は数にはよらない、人間の権力や武力によらない。

 それがただ神の御心にかなっていれば、神ご自身がそれを祝福されるし、用いてくださる。そしてその小さきものを守って下さると言われています。  

 神は、はるか数千年の昔から、このように弱き者、寄る辺なき者、そして小さき者の助け手であり、救い主なのです。

 人間は、この世のさまざまの困難に直面します。飢えと貧困、国の内部の争いや他国との戦争など、個人ではどうすることもできないような困難ななかに置かれている人も多くいます。

 また日本のように平和にみえる国にいても、病気や事故、あるいは仕事のうえでの失敗や中傷、仕事そのものを失うこと、さらには職場だけでなく、最もみじかな人間である家族との間にも深刻な対立が生じてしまうなど、苦しみや悲しみを持っている人はじつに多いと思われます。

  それらを何とか切り抜けてきた人も、老年という最大の試練はときには容赦なく人間の心を固くしてしまい、希望なき日々を送っていく人も多くいます。

 そうした重荷を感じる人、孤独にある者に対して、この聖書でいわれている言葉は深い慰めを与えてくれるものです。

 いかなる状況にあろうとも、私たちが心から神を信じ、神を仰ぐときには、たしかに、神は私たちの倒れようとする心を支え、失われていこうとする希望をも再生させ、もはや歩けないと思われた足をつよくし、再び歩みはじめることができるようにして下さる―。

アマドコロの写真及び拡大ページへのリンク

アマドコロ 2002.4.20  徳島県小松島市

 緑と白の控えめなたたずまいの花は、だれもが心ひかれるような雰囲気をたたえています。茎から下に垂れた、白くて細長い花の先に緑色がぼかしのように入っている様は日本で自生している花としては珍しいかたちのものです。

  20~30年ほど以前には、我が家のある日峰山の谷筋にこの花がいくつか自生しているのや、尾根筋にもだれにも気付かれないようなところにひっそりと咲いていたのを見たことがあります。 しかし、最近はもう見かけなくなってしまいました。

この仲間には、ナルコユリや、ホウチャクソウなどがありますが、私は前者は長野県でたくさん自生しているのを見たことがありますが、徳島県内ではまだ見かけたことはありません。ホウチャクソウは徳島市周辺の山にも時折みられます。アマドコロという名前はトコロ(ヤマノイモに似た、オニドコロという植物)に似た地下茎が少し甘味を帯びていることから。


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image002.gif「野の花を見よ」

(マタイ福音書6:28-30より)


野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか


Consider the flowers of the field, how they grow;

They do not labor or spin.
Yet I tell you, even Solomon in all his glory was not clothed like one of these.

But if God so clothes the grass of the field, which is alive today and tomorrow is thrown into the oven, will he not much more clothe you.


 野の花を考えてみよ、と主は言われた。単にその美しさを見るだけではない。静かに考えてみよと言われたのである。
ソロモンとは、キリストより1000年ほども昔の王であり、そして栄華を極めた王として有名である。
しかし、そのような有名な王の栄華よりも、道ばたに咲き乱れる野草の花がまさるという。

 主イエスは日夜、神の言葉の伝道にはげんでおられ、夜すらも徹夜で祈られたこともある。
しかしそのような激しい戦いの日々であっても、しずかに路傍に咲く一輪の花を見つめ、そこに深い真理をくみ取るようなお方であった。

 野草の繊細でかつ美しいその姿にだけ、感じているのではない。
その背後にあって、一つ一つの花をも驚くべき精密、かつ美しい姿に作られ、その植物を日々支えている神の御手にこそ、主イエスは注目されたのである。

 そして、その御手は、私たちをも必ず支え、導いて下さると言われたのである。

 私たちも、見えるものの背後にある、神の御手をいつも思い出すようでありたいと思う。

タツナミソウ

タツナミソウ 2002.04.19  徳島県小松島市日の峰山 

この名前は、泡立って寄せてくる波に見立てたもので、山の野草らしい自然な美しさをたたえた花です。ふつうは、平地の田畑などには見られないものなので、自然に咲いている姿を見たことのない人が多いと思われます。青紫の濃い花、薄いもの、赤色を帯びたものなどいろいろありますが、この写真のものはとくに鮮やかな青紫の美しいものです。この下側の花びらにはこまかな模様があって、こうした人知れず咲いている野草にも神は、驚くべき繊細な美しさを与えているのを感じます。

 

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image002.gif主イエスを覚えよ

(新約聖書 テモテへの第二の手紙2:8


死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。…

(新約聖書 テモテへの第二の手紙2:8


Remember Jesus Christ, raised from the dead,
 that is my gospel.

 

 この手紙を書き残した使徒パウロにとって、キリストの福音は単純であった。死からよみがえったキリストに出会ったこと、キリストの十字架の死によって、自分の罪が赦され、滅びから救い出されたことの体験そのものであった。キリストがすべてであった。

 それゆえ、パウロにとって福音とは、よみがえったイエス・キリストを常に覚え、また思い出すことであった。英訳にあるように、リメンバー ジーザス・クライスト! なのである。

 このパウロの言葉で思い出す言葉がある。

 それは、「リメンバー パール・ハーバー」(Remember Pearl  Harbor)である。「真珠湾を忘れるな」ということである。太平洋戦争は真珠湾(パールハーバー)への奇襲攻撃から始まった。アメリカ人はそのことを、決して忘れないで反撃への合い言葉として使った。

 そして現代のアメリカ人も昨年9月のビルへのテロ攻撃を決して忘れるなという気持ちでアフガンのタリバンへの攻撃を支持してきた。悲しむべきことに、こうしたやり方は、現在のイスラエルも受け継いで、パレスチナ人への攻撃を続けている。

 しかし、本当のキリスト者はそうした悪の攻撃などを決して忘れずに復讐するというのでなく、この世のすべてを滅ぼしていく、最大の力ともいえる「死の力」にうち勝ってよみがえられたキリストを覚え続けることである。

 死に勝利したゆえに、キリストは単なる人間ではなく、神と同質の存在であり、人間の罪をも赦す力を持っていることが明らかになったのである。

 キリストを覚えるとは、キリストが私たちの罪のために死んで身代わりに死んで下さったことを覚え続けることであり、そしてそのことを感謝をもって信じるものに確かに新しい命を下さるということを覚えることであり、目には見えない聖なる霊を下さること、その結果、私たちは「主の平和」を与えられ、敵対する者にすら、祈りと愛の心もって対することができるという約束をも覚え続けることである。

ヒメハギの写真及び拡大ページへのリンク

ヒメハギ (ヒメハギ科) 2002.4.9 徳島県海部郡 

日当たりのよい山野にはえる常緑の多年草。この写真は徳島県南部、高知県に近い所で見つけたものですが、私のいる小松島市の日峰山の山道にも時折見いだされます。小さい花で、この写真のように草むらに咲いていることもあります。花が咲いている時でも10cm前後の草丈にしかならないので、歩いていても見付かりにくいほど。紫色の小さい花がハギに似ているのと小さいのでヒメハギの名が付けられています。こうした小さい花は花屋の店先には出ないために、野山でしか見られない野草らしい花です。これは見る者に「主の平和」を感じさせてくれるものです。このような小さい植物は他の雑草にうずもれてすぐに消えてしまいそうなほどですが、はるかな遠い大昔からこの植物は存在してきたのです。そのことを思うと、自然のなかに「小さきもの」をも保護する不思議な力があるのを知らされます。

 

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image002.gif来たれ そして聞け


わたしに聞け、よく聞くのだ。

そうすれば、良い物を食べることができ、

最も豊かな食物で、喜ぶことができる。


耳を傾けよ、そしてわたしのもとに来たれ。

聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。

(旧約聖書 イザヤ書55:2-3

 

Listen, listen to me,
and eat what is good,
and your soul will delight in rich food.


Incline your ear, and come to me;
listen,  and you will live.

 

 この短い箇所で、原文では「聞く」という意味の言葉が4回も使われています。私たちが「生きる」ということと、「聞く」ということは、普通は何の関係もないこととおもわれています。

しかし、キリスト以前数百年も昔にすでにこのように、預言者によって、「神に聞く」ことと、真に「生きる」こととの深い関わりが強調されているのです。

 私たちがもし自然のままに生きていくとき、それは自分中心に生きていくでありましょう。

例えば、自分だけが得をするようにとか、人から誉められるように、自分が人から注目されるように、自分が安楽な生活ができるように、自分に不正なことをした者を憎み…等など。
 そのような自分中心の方向から転換させられるのは、自分を越えた存在からの語りかけによってです。その語りかけに心の耳をすませる時、私たちは自分中心とは違った方向へと転換させられます。それは真実な神への方向であり、それこそ本当に「生きる」ということです。その道を歩み始めるとき、私たちの心に以前は全く知らなかった心の平安が生まれ、神からの賜物を注がれて、目には見えない賜物によって喜びを与えられるようになっていきます。

 「生きる」とは「神からの語りかけに耳を傾けること」である、そのことをこの聖書の言葉は私たちに強く語りかけているのです。

ジロボウエンゴグサ

ジロボウエンゴサク 02.03.26 徳島県海部郡 

 山の渓流沿いにしずかにその可憐なすがたを見せていたものです。小さい植物ですが、誰しもがこの花を見れば近寄って見ると思われます。私は県内のあちこちを移動することが多いのですが、この植物は一箇所でしか見たことがありません。滅びないで生き続けてほしいものです。

  関東地方以西,四国,九州などに分布。次郎坊えんごさくという名前は、一部の地方ではスミレを太郎坊と呼び,これを次郎坊と名付けたと言われます。


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image002.gifだれも失望することはない


聖書には、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてある。…
すべての人に同じ主がおられ、主を呼び求めるすべての人を豊かに恵まれるからである。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のである。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙10:11-13より)


The scripture says, "Whoever believes in Him will not be disappointed."

The same Lord is Lord of all and richly blesses all who call on him,

Everyone who calls on the name of the Lord will be saved.

 

 この世は失望させられることで満ちています。自分自身の能力の問題、罪や失敗など、また職場の状況から、国内政治や国際状況などどこをみても、人間の弱さや悪が目につきます。

 しかし、そのようなただなかにおいても、私たちが神を仰ぎ、神の万能を信じるとき、そうした失望のただなかに、新たに希望が生まれてきます。神はすべてのことを、良きに導くお方であるとの実感が湧いてくるからです。

 ここで強調されているのは、「だれでも、すべて」ということです。この世では、どのようなことでも決して「だれでも」ができるようにはなっていません。職業においても、何らかの資格や条件が必要ですし、せっかく得た仕事も、病気になって治らなければ辞めるほかはありません。また、自分がスポーツを楽しむためには健康でなければできないし、音楽も耳が聞こえなくなれば音楽の世界からは退けられます。だれでも、すべての人が招かれているというのは、どこにもないと思われます。

 しかし、宇宙を創造し、愛そのものである神からの恵みは、求める人はだれでも与えられること、ただ、「主を呼び求める」だけでよいと言われています。

 この言葉が真実であることは、過去2000年の世界の歴史において示されてきたところです。キリスト教の初期の時代に、当時も最も恐れられていた病気であったハンセン病の人、また各地にたくさんいた奴隷のような圧迫されていた人たちも、この聖書の言葉通りに、ただ主を仰ぎ、求めるだけで大いなる神の祝福を受けて、恵みを与えられてきたのです。そして今も、時代がいかに変わろうとも、この神の約束は変わることなく続いています。

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セントウソウ セリ科  (徳島県小松島市日峰山 3.12

 この野草は、山野の林に生えて、小さい白い花が目を惹くものです。
早春の山道などでこちらでは2月下旬からもう咲き始めます。
わずか数ミリの小さい花で、花屋に並ぶこともなく、人の話題になることもほとんどないようですが、それがいっそう自然のよさを感じさせてくれるものです。
この花が見られるようになると、春は近いと感じるもので、
その後は、つぎつぎとスミレの仲間などの野草が花開くようになり、木々の新芽などもふくらんでいきます。


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image002.gif朝ごとに

(イザヤ書 332 2002.03.06


主よ、我らを憐れんでください!

我々はあなたを待ち望む。

朝ごとに、我らの腕となり、

苦難のとき、我らの救いとなってください。


LORD, have mercy on us,

we wait for you.

Be our arm every morning

and our salvation in time of distress.

 主よ、憐れんで下さい!という叫びは、新約聖書にも、いろいろみられます。例えば、二人の盲人が主イエスが来たのを知ると、大声で叫んでこういったのです。

「主よ、憐れんでください!」 

 追いつめられた人々、地位も、学問も、また金もない人たち、そのような弱い立場の人たちにも与えられていること、それはここにあるように、主に向かって、「憐れみたまえ!」と祈ること、叫ぶことです。

 この叫びは、どんな状況にある人にもできることです。健康な人、病気の人、また地位の高い人、低い人に関わりなく、大人、そして子供、老人などなど、だれでもできます。

 そして、病気の苦しみで、また人間関係のあつれきによって、あるいは、仕事の上の問題とか、生きるとは何であるのか、分からなくて苦しんでいるとき、そして誰もがそこに向かっていると言える死が近づいているときに、私たちの魂の深みから生じる叫びはこの「主よ、憐れんで下さい!」という叫びなのです。

 私たちの日常生活で、いろいろの罪を犯すとき、そのような罪の赦しを願う心もまた、「主よ、憐れんでください!」ということです。神の憐れみによってのみ、私たちの罪は赦され、清めを受けるからです。

 朝ごとに、私たちは罪や悪の力に負けないように、新しく神の力を与えられる必要があります。それゆえ、「主よ、どうか私たちの腕となって下さい、私たちの力となって下さい…」という祈りが自然なものとなります。そして主はそのような願いを聞いて下さるのです。

 主よ、憐れみたまえ!という祈りは、私たちの祈り、願いを最も簡潔に現したものといえます。

 ミサ曲の中にも、「キリエ、エレイソン」というのがあります。これはギリシャ語で、「主よ、憐れんで下さい!」(kurie elehson)という意味なのです。この短い一言のなかに、私たちの悲しみも苦しみもまた、願いも込めることができるのです。

ヤマガラ

ヤマガラ(我が家の庭にて 2002.02.27)

 美しい小鳥で、鳴き声もまた心に響くものです。
ツツピー、ツツピーと、だれもが、気付くようなさえずりをします。
我が家の水槽に水を飲みに来て、なかにいる金魚を見ているところです。


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image002.gif主の前に黙し

(詩編37:7)


主の前に 静まり、耐え忍びて主を待ち望め。

自分の道を歩んで栄える者のゆえに、

悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

(旧約聖書 詩編・37:7)


Be still before the LORD, and wait patiently for him;

do not fret over those who prosper in their way,

over those who carry out evil devices.

 

私たちは、たえずいろいろの困難や、悩み、悲しむべきことなどに直面します。現在の日本では、国に内乱や戦争状態にもなく、飢餓や貧困もほとんど一般的には見られない状況ですが、アジア、アフリカなどの貧しい国々では、食べるものすらほとんどない、病気になっても医者にもかかれず、薬もないという人々は数多くあります。そのような人々は、いつも苦しみ、悩みがつきまとっているはずです。

 しかし、日本でも一歩立ち入って人々の心の中まで見るならば、自分にふりかかる苦しみや問題に耐えかねている人もたくさんいるのです。そして人をだましたり、中傷したりして平然と過ごしている人に接するのです。

 そうした困難や苦しみに直面したとき、いかにしてその状況にうち倒されずに生きていけるのか、それをこの詩は語っています。旧約聖書の詩には、このように単に個人の、自然への美しさとか人間同士の感情などを歌うのでなく、神への叫びや感謝、讃美とともに、人々に自分の経験した深い真理を、語りかけずにいられないという心情が表されているのもあります。

 それは、まず神の前に静まることだというのです。ここで神と言われているお方は、私たち人間の心の苦しみや悲しみを最も深くわかって下さっているお方、目には見えないけれど、ともにいて下さるお方を指しています。

 そのような神がおられるなら、確かにまず第一に大切なことは、その神が私たちに語りかけている言葉を心を開いて受けることです。

 自分の道、自分の欲望中心の道を歩いている人たちが栄えている、平然としていることを見つめるのでなく、そこから目を転じて神を見つめ、神の万能の力が発揮されることを待ち望むのが正しいことだと言われています。

 神の前に、静まって神の言と憐れみを待ち望み続けるとき、動揺していた心にも、また闇に包まれたような心にも、ある平安が訪れるものです。キリスト教が2000年の間、続いてきたのも、そのような心の安らかさが確かに与えられるゆえ、そしてその平安はほかの何ものにも代えがたいものであったのです。そしてこれこそ、「求めよ、そうすれば与えられる」という言葉の真理性を確信させてくれる経験なのです。

わがやのウメ

ウメ(我が家の梅) 徳島県小松島市 2001.2.7
この純白の花びらは、おしべのかたちと色などとともに私たちの心に、
清澄ななにものかを注いでくれるような雰囲気があります。
それは人間世界にはないものです。
こうした清い美しさを持った自然のすがたはまことに私たちにとって、神の国をしのばせるものがあります。


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image002.gif神の言葉が内にあり

(新約聖書 Ⅰヨハネ2:14より)


神の言葉があなたがたの内にいつもあり、

それによって、あなたがたが悪しき者に打ち勝ってきたからである

(新約聖書 Ⅰヨハネ2:14より)


God's word remains in you,

and you have overcome the Evil One.

 

私たちはたえず、悪との戦いにさらされています。そして悪の力に敗北していることが実に多いのです。嘘を言ってはいけない、これは誰もが知っています。しかし、私たちの内に時として、嘘を言わせるある力が働くのです。そして真実に反することを語り、偽りのことをやってしまうのです。何十年も前から全国的に知られていた大きい会社が、偽りのことをやっていたことが発覚したために、会社が存亡の危機に立ってしまう、ということは、私たち自身と関わりのないことではありません。私たち自身も真実でなかったら、魂の大事な部分が滅んでしまうからです。

 けれども、人間のどうすることもできない弱さのために、どうしても何らかの嘘、不真実を言ったり、行ってしまうということもまた事実です。

 だから、真実など言ったところでなんにもならない、この世はそうした嘘で成り立っているのだと開き直る人も多くなります。

 しかし、そのような弱い私たちであるのに、嘘のない道を歩いていくことができるようにして下さったのが、主イエスであったのです。主イエスは、私たちの犯す嘘や不真実に対する裁きを自らが身代わりになって受けて下さり、十字架にて死んで下さったのです。

 そのことが、私たちへの赦しであり、清めであると、感謝して信じるとき、それまでの嘘や不真実がぬぐい去られるという、考えられないようなことが約束されています。そしてこのような驚くべき道が本当に存在しているからこそ、キリスト教は2000年の歳月を経てもなお、その力を全く失っていないのです。

 私たちが悪の力にうち勝つための出発点、それはキリストの十字架を信じることです。ただそれだけでよいのです。そして次に、その勝利を継続的なものにするためには、キリストの言葉、キリストの霊を受け続けることが必要だと言われています。神の言葉とはキリストの言葉でもあり、キリストの霊でもあります。

 生きて働くキリストの言葉が私たちの内に留まり続けるとき、そしてキリストご自身が私たちの内に住んでくださるとき、私たちは継続的に悪の力に勝利し続けることができるのです。 

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ウメ (我が家の白梅です。) 

古来、ウメが広く愛好されたのは、雪降るような寒さのなか、ほかの草木が芽もだせずにいるときにも、その純白の花を咲かせること、そのほのかな香りを近づくものに感じさせること、実もクエン酸含有量の最も多い果実であり、食用としても貴重であることなどによると考えられます。

 人間においても、冬のただ中でも、花を咲かせることができるとは、中傷や誤解を手ひどく受けても、神からの愛をもって相手を見つめることができるということです。上のみ言葉にあるように、神の言によって、悪にうち勝った心とは、そうした花を咲かせている状態だと言えます。

 もしも、私たち神からの祝福を受けて、そのような心をわずかでも持つことができるなら、それは梅の花の香りのように、この世への香りを漂わせるものとなると思われます。


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image002.gif祝福を受け継ぐために

(新約聖書 ペテロの第一の手紙3:9 )

 200219


悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない。
かえって祝福を祈りなさい。
祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのである。

(新約聖書 ペテロの第一の手紙3:9 )


Do not repay evil with evil or insult with insult,
but with blessing,
because to this you were called so that you may inherit a blessing.


 キリスト者とは、祝福を受け継ぐものだと言われています。私たちが真実に背いたり、神の御心に反する生活を続けていたにもかかわらず、私たちに祝福を与えて下さって、そのような闇から救い出してくださった。それゆえに、私たちもまた、悪をしかけてくる人、侮辱するような者に対しても、憎しみをもって返すことなく、その人たちの心が祝福されるようにと祈るようにと言われています。祝福を祈るとは、その人に宿る悪しき霊が追い出されて、神の真実な霊が宿るようにと祈ることです。
 キリストの第一の弟子であったペテロは、キリストが捕らえられて殺されるというとき、逃げてしまい、繰り返して「イエスなど知らない」と言ってしまったのです。そのような悲しむべき事態になったけれどもなお、イエスはペテロに祝福を与え、それによってペテロは聖霊を受けて、福音を宣べ伝える者となりました。自らが神(キリスト)の豊かな祝福を受けたことを深く体験して、はじめて他者にもそうした祝福を祈る心が芽生えることになります。
 私たちに悪意をもつ者、敵対者に対してどのような態度をとるか、それが私たちが神の祝福を受け継いでいるかどうかのしるしになるのがわかります。神の祝福のしるしは、決して単なる健康や長寿とか、豊かな物質的生活というものでなく、(それらは、悪しき人にもいくらでも見られることです。)小さい者、とるに足らない者、あるいは、敵対する者への祈りがなされるかどうかなのです。私たちがそのような祈りへと導かれるとき、神からの確かな祝福を受け継いでいることを知らされるのです。私たちが神から召された(呼び出された)のは、たんに自分だけの安心を得るためでなく、この世にあってそうした祝福の祈りを受け継ぎ、続けていくためだと言われています。

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カラタチバナ  2002.12.20 (我が家にて)

 冬に赤い実をつける樹木は多くあります。なじみが深いものは、モチノキの仲間や、ナンテンとか、ここにあげたカラタチバナや、センリョウ、マンリョウの仲間です。 関東地方南部から西の地方、琉球列島および台湾,中国の暖帯から亜熱帯に分布すると記されていますが、私たちの地方では野生ではほとんどみられないものですし、花屋の店頭でも私は見かけたことはありません。上の写真は、15年余り前に、たまたま見つけた野生のものが実をつけていたので、その種を蒔いておいたら、発芽して今日まで実をつけているものです。冬の間中、花のないときでも、赤い実をつけて庭に彩りを添えてくれます。本来は春までこの赤い実が見られるのですが、たいていは、小鳥が見つけて食べてしまいます。色の美しい実は、人の目を楽しませ、神のわざへと心をむけてくれるものであるとともに、動物たちの食物としても役立っているのです。

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