今日のみことば
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(2000年)
(
第二ページ)


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内容・もくじ

リストボタン一度も通ったことのない道だが
image002.gif味わい、見よ、主の恵み
image002.gifいかに幸いなことか
image002.gif神の翼の陰で
image002.gifわたしがあなたと共にいて
image002.gifあなたがたはいつまで・・・

image002.gif主は常に導き
image002.gif主を喜ぶことは
image002.gif海の深みに
image002.gif棄てられた者の祈りを

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今日のみことば2000年度(第一ページ)

 

image002.gif棄てられた者の祈りを


あなたは激しい怒りをもって
わたしを持ち上げて投げ棄てられた。
わたしの日々は移ろう影、草のように枯れていく。……

主は棄てられた者の祈りを顧み、
彼らの祈りを軽んじられない。

かつてあなたは大地の基いを置かれた。
御手によって、天を創造された。
それらが滅びることはあろう。
しかし、あなたは永遠だ。
すべては衣のように朽ち果てる。…

しかし、あなたは変わることはない。

 (旧約聖書・詩編102編より)

 

Because of Your indignation and Your wrath
You have lifted me up and cast me away.
My days are like a shadow that lengthens,
And I wither away like grass.

He shall regard the prayer of the destitute,
And shall not despise their prayer.

long ago you created the earth,
and with your own hands you made the heavens.
They will disappear, but you will remain;

 

信仰をもって、神に信頼して生きる者といえども、つねに安泰なのではない。この詩の作者が非常な苦しみのなかから、言っているように、神はあたかも自分を持ち上げて投げ捨てたと思われるほどに、深悩や痛みを味わうことがある。
 神から見放されたかと思うほどに、希望が失われることもある。自分は枯れゆく一つの草でしかないと思われることもある。
 しかし、それでもなお、神に頼り続けて、「死の蔭の谷」を歩いていくとき、必ず神は助けを与えられる。神は、失われた者、人々から見捨てられた者をこそ、救って下さる。
 それは、神は永遠であり、神の愛と真実もまた、永遠であるから。
 天地が揺れ動き、それらが激変をすることがあろうとも、神はそれらの創造者であるゆえ、変わらないのである。

ヒトリシズカ

ヒトリシズカ
2001.4.6 撮影

 

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リストボタン一度も通ったことのない道だが…

 

これまで一度も通ったことのない道であるが、
あなたたちの行くべき道は分かる。

(ヨシュア記3:4)


 神の契約の箱を先頭に運んでいくならば、イスラエルの人々はこれから全く未知の土地に入っていくにもかかわらず、行くべき道が分かるようになると言われたのです。
 神の契約の箱とは、モーセが神から受けた神の言を収めてある箱ですから、現在の私たちにとっては、神の言そのものと受け取ることができます。
確かに、神の言を先頭に掲げて行くときには、不思議な導きがあり、私たちの前途に道が開けるということ、何が正しく道かを示されるということがこの聖書の言葉から暗示されています。

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リストボタン味わい、見よ 主の恵み(詩編34:9


味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、
御もとに身を寄せる人は。…
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、
損なわれることのないように、彼を守ってくださる。

(旧約聖書 詩編34編より)

 

O taste and see that the Lord is good!
Blessed is the man who takes refuge in him!
The Lord is near to the brokenhearted, and
saves the crushed in spirit.
……… Ps34:9,19

 

 この宇宙を創造し、今も真実と愛によってこの世界を導いておられる神、そのお方は、単にいるのかいないのかわからないお方でなく、味わうことができるお方であると言われています。それは、言い換えると、実感できるお方であるということです。
 目には見えないのに神を「味わう」とはどういうことなのかと、神の存在を信じられない人々は考えるでありましょう。それは、心の奥深くに住んで下さるお方であるからこそ、実感できるのです。そしていつも神を仰ぐ心、祈りの心を持っているときに一層神は実感できるお方となります。
 しかし、どんな心にも住んで下さるというわけではなく、ここで言われているように、「心の砕かれた者、高ぶらない者、自分の弱く足りない者であることを深く知っている者」の心に住んで下さるのです。
 もし、心が固くなっていて、高ぶりの気持ちが心にある場合には、何らかの出来事、例えば病気とか、大きい仕事の上での失敗、事故などなどによって砕かれることが必要なのです。そのような経験を重ねていくことによって、私たちは心が砕かれ、罪を知って悔いる心となっていきます。
 主に従おうとする人、正しく生きようとしている人にかえって災いや苦しみが降りかかってくることも多いのをこの詩の作者は熟知していました。神は愛の神であっても、そうした災いに出会わないようにするのでなく、私たちは、神を信じていてもさまざまの困難や苦しみにも出会います。しかし、そのような困難に押しつぶされてしまうのでなく、その困難を神によって導かれていくことができるのです。そのような経験によって、いっそう神は、生きて働く神であり、私たち一人一人を導く神であることを学んでいくのです。

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リストボタンいかに幸いなことか


いかに幸いなことか、背きを赦され、
罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことか、主に咎(とが)を数えられず、
心に欺きのない人は。

(旧約聖書・詩編32:1-2

 

Happy is the one whom the Lord does not accuse of doing wrong
and who is free from all deceit.
Happy are those whose sins are forgiven,
whose wrongs are pardoned.

 

私たちがふつう幸いとか幸福という時には、まず健康があること、お金、家族の仲がよい、気に入った職業についていること、よい友達がいること…等々だと思われます。それらはだれにとっても、幸福であるためにはぜひとも必要なことだと思われるはずです。どんな人でも、病気になりたいとか、家族の不和があって欲しいとか、食べていけないような貧しさを求める人などいないからです。
 しかし、上にあげた詩編においては、そうしたことが一切言われていなくて、驚くべきことには、罪の赦しこそは本当の幸いなのだと言っているのです。
 罪とは過去に他人の心を傷つけたとかだけでなく、私たちすべてが持っている心の不真実、愛がないこと、正しいことを行えないことなどなどです。人をうらやんだり、憎むことも罪です。なすべき正しいことができないこと、自分中心に何でも考えてやっていくこと、…等々いくらでもあります。
 そのような心の汚れや弱さからくる動揺や、ねたみや憎しみ、自分中心の考え方などを持ち続けている限り私たちの心は平和を得ることができず、清い喜びもまた感じることができません。
 しかし、それらの罪そのものを赦し、心を清めて下さり、さらに新しい力を与えて下さるお方がいるのだと聞かされて驚くのです。私たちの心のなかのいろいろのどうにもならない罪というものが赦されること、それは心から求めるだけでだれでもが与えられること等々、そこに最も清い喜びがあり、奥の深い感謝が伴う平安があるのです。
 こうした罪の赦しを受けることこそ、この世で与えられる幸福そのものなのだとわかります。罪の赦しを受けた魂は、自ずから神に近づけられます。そして、聖書に記されている神こそは、私たちのどんな苦しみや悲しみをもわかって下さる神であり、闇のなかにも光を与えて下さる生きて働く神なのです。

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リストボタン神の翼の陰で

 

床に就くときには、あなたを思い起こし、祈りつつ夜を過ごす。
なぜなら、あなたは必ずわたしを助けて下さったから。
あなたの翼の陰でわたしは喜び歌う。
わが魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えて下さる。

(詩編63:7-9

 

When I lie in bed, I remember you;
all night long I think of you,
because you have always been my help.
In the shadow of your wings I sing for joy.
My soul follows close behind You;
Your right hand upholds me.

 

 この詩を作った人は、神との深い交わりのうちに生きていたのがうかがえる。昔の夜は、長い闇の時間であった。電灯のない時代の夜、それは、自動車もなく、ネオンも高層ビルも、騒音を出す工場もない、実に静かな時であったろう。
 その静かなときに、この詩人は、神に心を注ぎ、過去から現在にいたるまで、受け続けてきた神の導きと守りを深く思い起こす。夜の長い時間は、心から自然にわき起こる神への感謝を捧げるときとなり、そのような神の愛によって心が生き返る経験をしてきたことがうかがえる。
 祈りのときを、神のつばさの陰に憩うときと実感することができるのは、なんと幸いなことであろう。
 自分や自分に大きい病があるとき、家族の間での深刻な対立のあるとき、仕事において苦しむとき、あるいは将来への不安などが押し寄せるとき、この世は時として冷たい風の吹きつのる荒野の感がある。
 そうしたただなかにあっても、この詩の作者のように、神のあたたかいつばさのもとに憩うという実感を日々与えられることが約束されている。私たちが幼な子らしい心からの信頼をもって神のもとに、主イエスのもとに行くならば。

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リストボタンわたしがあなたと共にいて


わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、
と主は言われる。

(旧約聖書・エレミヤ書15:20


わたしたちとしては死の宣告を受けた思いであった。
それで、自分を頼りにすることなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。

(新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙 1:9

 

この世で、どうにもならない出来事が生じることがあります。自分の不注意や、他人の過失による大きい事故、思いがけない病気、ことに死に至る病気であるガンになること、また、仕事の上での失敗や、解決できないような問題の発生、そして、他人の悪意ある中傷や、非難など、それから誰にでも生じる、死に対する恐れ…などなど。
 こうした窮地に追い込まれたときに、一体だれが、そのような深い闇や絶望のなかから、救い出してくれるだろうか。
 キリスト教が2000年の間、しかも最もさまざまの民族や国々において、広がってきた理由の一つは、ここにあります。
 今も生きて働くキリストこそ、危急のとき、どうにもならない闇のなかに、光を与え、具体的な助けを与えてくれたのです。
 さらに死に直面するほどのときにさえ、上のパウロの言葉が示しているように、その死をも越える命を与えてくれる神を信じて、新しい力を得、あるいは、揺るがない希望を与えられるに至ったのです。


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吉野川


徳島市の吉野川河口に近いところ。

そのゆたかな水量と広い川は満ちあふれ
る命の水を思い起こさせてくれます。


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リストボタンあなた方はいつまで……


エリヤはすべての民に近づいて言った。
「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。
もし主が神であるなら、主に従え。
もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」 

(旧約聖書・列王記上 18:21


 私たちの前途を導くものは、本当の神か、もしくは、偶像のどちらかです。偶像とは、真の神でないもののことで、木や金属で造った崇拝の対象とされる像のことです。そしてさらに、金、地位、人間、世間の評価、等などがある人のなかで第一とされるとき、それが偶像となります。

 いつまで、迷っているのかと叱責されています。私たちの毎日の生活や、人生は、どちらにつくかで決定的に違ってきます。
 真の神につくならば、真の神が持っているあらゆるよきものをだんだんといただけることを期待できます。
 しかし、偶像につくならば、私たちが持っているよいものまで次第に取り去られ、奪われていくことになります。
 私たちが、人間のうわべの評価をまず求めていこうとするとき、それは人間の評価という偶像につくことだと言えます。そのような偶像につきしたがっていくとき、一
時的には、増えるものがあっても、次第に、しかも確実に自分が持っているものも奪われていくことになるでしょう。

 あなたは今日の一日を、偶像につくのか、神につくのか…それが日々問われています。

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リストボタン主は常に導き


主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

(イザヤ書 58:11


 私たちの信じる神は、どこかにじっとしている神でなく、私たち一人一人を導く神である。
その導きは、時には厳しい焼けつくような地、苦しみにさいなまれるようなところを通っていくことがあるかも知れない。
 しかし、もし私たちが神からの呼びかけを拒絶することなく、無視することなく、耳を傾け、その呼びかけに従っていくとき、私たちの道がたとえ「焼けつくような地」であり、渇きのために死にそうな地であっても、私たちを助け、そこを歩むための新しい力を与えて下さる。
 魂の奥深いところに、神からのいのちの水を与えて下さる。それによって私たちは、たしかに神は生きておられる!との実感を与えられる。

カラスウリの写真及び拡大ページへのリンク
(我が家の庭でのカラスウリ)

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リストボタン主を喜ぶことは


悲しむな、
主を喜ぶことはあなた方の力である。

(ネヘミヤ記8:10)


Do not sorrow,
for the joy of the Lord is your strength.

NKJV

 私たちの力はどこから、来るのでしょうか。
それは、神から、神を喜ぶところから来ると記されています。
聖書には、神への讃美が随所にみられます。
とくに詩編とは、神への讃美が集められたものです。
まちがったものを楽しみ、喜びとすることは、かえって内なる力を失わせていきます。
しかし、内に住んで下さっている主を喜ぶことは、万人に開かれている力の源なのです。

 

リストボタンパウロが繰り返し説いたこと、


「主によって、常に喜べ、
重ねて言う、喜べ!」

(ピリピ書4:4)

という言葉も、この力の源へ帰ることをうながしていたのです。

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リストボタン海の深みに


誰かあなたのごとき神があろう、
咎(とが)を赦し、不義を見過ごす者、
永遠に怒りを持ち続けず
何よりも慈しみを喜ぶ者。
主は再びわれらを憐れみ
われらの咎を克服し
われらのすべての罪を
海の深みに投げ入れられる。

(旧約聖書・ミカ書7:18-19


私たちを最も心の深いところで苦しめるものは何でしょうか。
 病気、貧しさ、他人から捨てられたり、認められないこと、仕事ができないこと、孤独、家庭の不和等々。
 それらはどれもその度合いがひどくなれば、生きていけないほどの苦しみとなります。それゆえにそのような苦しみのゆえに自らの命を断つ人も多くいます。
 しかし、それらの苦しみの奥に、当事者が気づいていないときにも深い根のように張っているのが赦されない罪からくる苦しみだと思われます。
 だからこそ、寝たきりになっている病人を連れてきた人たちに向かって、主イエスは「あなたの罪は赦された」と言われたのです。

 どんな人でも、自分の過去を振り返るとき、さまざまの不十分なこと、失敗、よくない言葉や行いを思い出すはずです。私たちの心が濁っているとき、鈍くなっているときにはそうした自分の犯してきた真実に反することや愛にそぐわないこともはっきりとはわかりません。しかし、少しでも心が真理に目覚めてきたとき、私たちの罪はどれほどあるかと、思われるほどです。
 そのようなとき、過ぎてしまった罪、もうどうすることもできない罪をも完全に赦して下さるお方がいるということを知らされた者は、そのお方こそ神だと実感するのです。
 この箇所には、私たちの罪を、もし悔い改めて神に立ち返るならば、海の深みに罪を投げ込んで下さり、一切を赦して下さる神の愛が記されています。
 このことが完全になされて、全世界に告げられたのが、キリストの十字架でした。
キリストが十字架にかかって死なれたということは、私たちのすべての罪が海に投げ込まれたということであり、それを感謝して、信じるだけでその赦しの平安がだれにでも与えられるようになったのです。

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