徳島聖書キリスト集会について

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徳島聖書キリスト集会について


戦後まもない1949年6月、横浜から徳島学院長として赴任した堤道雄が、県内の少数の無教会キリスト者に呼びかけてによって、「徳島無教会主義聖書研究会」が始められた。堤はその数年後に横浜に帰ったが、太田米穂(18861965)が中心となって集会が続けられた。

太田が天に召されて後は、杣友豊市(18951997)によって受け継がれた。1968年には、大学を卒業して京都から帰って来た吉村 孝雄(1945~)が加わり、その後、高齢になった杣友に代わって代表となり、徳島市南田宮にて主日礼拝と火曜日夜の夕拝、水曜日午後の集会が行われている。さらに、板野郡北島町、海部郡海陽町、同応神町などでも、家庭での集会が継続されている。



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無教会について


 無教会とは、内村鑑三によってとくに主張された、キリスト教信仰の精神を指してい う言葉である。その精神とは、キリストの十字架のあがないによる罪の赦しの信仰を根本におき、 霊と真実をもって神を礼拝しようとするものである。
 このようなあり方は、歴史的に生じたさまざまの制度や組織によらず、直接に生きて働くキリストと聖書を中心にする信仰の姿勢へとつながっている。
 無教会というとき、このようなキリスト教のあり方を指すとともに、そのような信仰を持つ、キリスト者の集まり(エクレシア)をも指している。



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内村鑑三について(18611930)


日本を代表するキリスト者の一人。札幌農学校出身。救いはただ信仰によるという十 字架のあがないの信仰を徹底して生きた。
この信仰のあり方は、無教会と言われるようになった。
イエス・キリストの教えと生き方に基づき、非暴力、非戦論をつよく主 張した。
 信仰上の弟子に、塚本虎二、黒崎幸吉、矢内原忠雄、藤井武、南原繁などがとくに知られている。
そのうち南原繁、矢内原忠雄の二人は、戦後、東京大学総長となったため無教会ということも広く知られるようになった。
 雑誌「聖書之研究」を創刊。著書には「基督信徒の慰め」「求安録」など多数がある。
教文館から、「内村鑑三聖書注解全集」全17巻、「内村鑑三信仰著作全集」全25巻他多く出版され、岩波書店から、「内村鑑三全集」全38巻が発行されており、日本人のキリスト者としては最も多くの著作を生み出し、今日もその著作や研究書、伝記 の類が続いて発行され、読まれ続けている。



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徳島聖書キリスト集会案内


・場所は、〒770-0004 徳島県徳島市南田宮1丁目1-47
          徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
  (1)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前1030分から。
  (2)毎月、第1、第3火曜日の夜730分~9(旧約聖書を学んでいます)
・主日礼拝は、現在は、毎月第1日曜日は、列王記上、その他の日曜日は、ヨハネ福音書を学んでいます。
 そして夕拝は詩編を継続して学んでいます。
その他、上記集会場にて、毎月第2水曜日の午後1時から、聖書の学びの会(水曜集会)、
    また、徳島県内では、海陽町、板野郡北島町、徳島市応神町などでも定期的な集会があります。
  各集会についての問い合わせは、代表者(吉村孝雄)まで。
電話
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代表者のプロフィール


吉村孝雄

・1945年 中国満州生まれ

・1967年5月末 矢内原忠雄(元東京大学総長)の本を古書店でその一部を読んで、
 キリスト教信仰を与えられる。
 その少し後に、下宿の近くで行われた、「矢内原忠雄記念講演会」にて、
 富田和久(京大理学部教授)の「静かなる細き声」と題する講演を聞いて、
 京都の無教会のキリスト教集会である、北白川集会に加入。
 同時に、京大聖書研究会にも加わる。キリスト者となったことで、高校教員となり、
 理科教育を通して、キリスト教の福音を伝える道へと導かれる。

・1968年 京都大学理学部卒業。

・1968年6月 赴任先の高校で、放課後に読書会をはじめる。ヒルティと 聖書などを用いる。
 その後、転勤先の学校でも読書会を継続。

・1968年11月 無教会徳島集会(現在の徳島聖書キリスト集会)に加わる。

・1975年 「はこ舟」(徳島聖書キリスト集会発行の月刊伝道誌で現在は「いのちの水」と
 改称)には、それまで時々投稿していたが、この時から、定期的に執筆を始める。

・1994年3月 キリストの福音を伝える働きに専念するために、教職を辞す。

・現在 徳島聖書キリスト集会代表、月刊「いのちの水」誌主筆。
 著書「原子力発電と平和キリスト者の視点から」2011年8月。


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