(240)神を信じる人々にとっては、すべての憂いが次第に消えて、その代わりに、ある確かな信念が生れる。
すなわち、一切のことが必ず良くなるに相違なく、そして何ごとも、たとえば不幸にせよ、人の悪意や怠慢にせよ、自分の過ちにせよ、本当のわざわいをもたらすことはない、という信念がわいてくる。(「幸福論」第三部 ヒルティ著101頁)
・この確信は、愛の神であって、かつ万能の神を信じるときに与えられるものだと言えよう。そのような神だけが、あらゆるこの世の悪しき出来事をも善きものへと変えることができるからである。
(241)われらキリスト教徒であって、遍歴の騎士たるものは、この世の空しい名声ではなく、至高の天国において永遠に続く、後の世の栄光を求めねばならない。この世の名声などは、いかに持続しても、定められた終りのあるこの世とともにいずれは滅び去ってしまうのだ。
したがって、我らが殺すべきは(敵対する人間でなく)、たかぶり、傲慢、気高い胸にも宿るねたみの心、落ち着いた心にも宿ろうとする怒り、食事をとりすぎること、寝ないで番をするときの眠気、…さらに、われらキリスト教徒として、優れた騎士となさせて頂くための機会を求めて、この世の至るところを遍歴するときの、怠惰である。(セルバンテス著「ドン・キホーテ」後編第八章より)(*)
(*)セルバンテス(一五四七年〜一六一六年)の主著である、「ドン・キホーテ」は、聖書の次に世界的に出版されており正真正銘のベストセラー小説だと言われている。二〇〇二年五月八日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者百人の投票による「史上最高の文学百選」で一位を獲得したという。(インターネットの辞典による)
このドン・キホーテという小説は、「近代小説の嚆矢(物事のはじめ)となる壮大な試みだったのである。」とされ、「『ドン・キホーテ』のもつ深い意味が認識され始めたのは19世紀に入ってからで,その先駆者はシェリングやハイネであり、フローベールやツルゲーネフであった。」(「世界大百科事典」平凡社)
・一般の人には、この「ドン・キホーテ」という本は、風車に向かって突進していくなど、単なる変わり者のことが書いてあるのだと思われていることが多い。しかし、この書は、決してそのようなものでなく、キリスト教の深い真理を内に秘めた作品である。スイスのキリスト教思想家
ヒルティも、この作品について「真理をユーモアの衣を着せて述べることはとくに困難なことであるが、セルバンテスの作品はこれを成し遂げている」と高く評価している。
ドン・キホーテは、「遍歴の騎士」であるが、これは、この世を神の国を目指して旅していく者を象徴しており、その過程で、戦いが必ずある、それを騎士ということで表している。その戦いとは、ここに引用したように、悪人そのものを殺すことでなく、私たちの内に宿る妬みや怒り、高ぶりなどであり、飲食などの欲や、なすべきことができるのに、しようとしない怠惰の心との戦いであり、霊的な目を眠らせようとする悪の力に対するものだと言っているのである。
つねに霊的な目を覚ましていることの重要性は、主イエスが繰り返し警告されたことであり、私たちの戦いは、血肉に対するものでなく、霊的な悪の力との戦いであるということも、エペソ書において詳しく記されている。
なお、次のような言葉もある。
「お前がだれと歩いているか、言ってみろ。お前がどんな人間か言ってやる。」
「お前が誰のところで生れたかじゃない。誰と一緒に草を食べているか、だ。」(同右第10章より)
キリスト者とは、今も生きて働いておられる、主イエスとともに歩み、イエスとともに霊的なパン、神の言葉を食べている者だと言えるが、ここに引用した言葉はそのことを指していると言えよう。
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