2014年9月
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(369)弱さと強さ

善き人は弱さや欠点さえ味方につける。自慢のたねが、わが身に害にならなかった者が一人もいないように、欠点がどこかでわが身のために役だたなかった者も一人もいない。

 われわれの強さは、弱さから生い茂ってくる。…非難を受けるほうが、称賛より安全だ。(「エマソン論文集」岩波文庫 268~269頁より )

 

・これは、次のパウロの言葉によって生まれたのがわかる。

…それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、それに行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足している。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだ。(Ⅱコリント12の10)

 私たちは、精神のより高きを目指すなら、他者からほめられることよりむしろ批判、非難されることによって傲慢から守られ、より真剣な歩みへとうながされることが多い。 

(370)何かよきことを

力の許すかぎり、中断せずに何かよきことをすることは、絶えず神とともにあることと共に、この世での生活から与えられるいっさいのもののうちで、最も善い、人の心を満たすものである。(ヒルティ「眠れぬ夜のために」下巻3月7日」)

 

・何か良いこと―何らかのよき仕事をすること、それは病弱で仕事につけない人であっても、また定年で仕事がなくなった人においても、ベッドで寝たきりになった重病の人…そのような通常は仕事ができるとか、よい何かができるなどは考えられない、と思われるような場合でも、なすことができる。

 それが、祈りという仕事―よきはたらきである。

 それは、健康で通常の職業について働いている人にも言える。神を仰ぎつつ、主にあって仕事に従事するということである。主にあって、それは主の霊に浸されつつ、ということであり、主からたえず善きものを注がれつつ、物事をなすということである。神のそば近くにあること―神とともにあることによって、そのような絶えざるはたらきをなすことができる。

 

(371)イエスを見いだす

 あらゆるものにイエスを求めるならば、必ずそこにイエスを見いだすことができる。

 だが、あらゆるものに自分自身を求めるならば、あなた自身を見いだすであろうが、そのために滅びに至る。(「キリストにならいて」第2巻7章2 岩波文庫)

 

・キリストは、ヨハネによる福音書やヘブル書の第1章などに記されているように、神であり、神とともにあったお方であり、万物の創造者でもある。

それゆえに、キリストは万物のなかに刻印されている。それゆえに、真剣に求めるならば、イエスに出逢う。健康のときも病気のときも、人からほめられてもけなされても、あるいは苦しい常にキリストを求めるとき、そこで出逢うことになる。 野の花や大空、夜空の星々、秋の夜の虫の歌声等々のなかにも、それらを見つめるときには、そこにそれらの自然の根源にあるものとして、キリストを見いだすに至る。

 

(372)海のような恵み

 使徒パウロは繰り返し言った。

 我々の神は愛の神だ。お前は、海のほとりに経っていくら石を投げ込んだところで、海の深みを満たすことができようか。

 キリストの恵みは海のようなもので、石が深淵に沈むように人間の罪やとがは、その中に沈む、と言いたいのだ。

 また、山も海も覆っている空のようなもので、それは至るところにあり、限界もないと言いたいのだ。

(「クォ・ヴァディス」シェンキェヴィチ著 岩波文庫 下巻235頁)

 

・この「クォ・ヴァディス」という作品は、 1895年発表。著者はポーランド人。50以上の言語に翻訳され、著者が1905年にノーベル文学賞受賞につながったと言われる。この題名は、ラテン語で、「(主よ)どこへ、行かれるのか」という意味。この作品の終りに近い部分で、厳しい迫害のもと、ほかの多くの弟子たちからこのままでは殺されてしまうからほかのところに逃げて、そこで福音を伝えてほしいとの願いにより、ペテロはローマを去っていく。そのとき、街道の途上で、復活のキリストが現れ、どこかへと行こうとされていた。ペテロは、「クォ・ヴァディス ドミネ(どこへいかれるのか、主よ!)」

と 叫んだ。主は言われた、「お前が、私の民を捨てて行こうとするゆえ、私はローマに行って再び十字架にかけられるのだ」 …。この記述は、新約聖書続編に含まれるペテロ行伝の中に記されている。

 このペテロ行伝は、キリストの死後150年ほどに書かれたとされる古くからの文書である。(「新約聖書外典別巻3・新約1155頁」講談社刊)