2014年8月 |
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ことば
(366)悲しみと憎しみが消えるとき 復活されたキリストの 御声を聞いたその時に わが心からわが心から 悲しみはたちまち消え去る 復活されたキリストの 御愛に触れたその時に わが心からわが心から 憎しみはたちまち消え去る (「今あるは神の恵み」水野源三詩集123頁) (366)キリスト者 「キリスト者ってどういう人たち人? 誰かが、ヒンズー教徒に尋ねました。 「キリスト教の人たちは、もらうことより与えることを考える人たちだよ」というのが答えだったそうです。(「マザー・テレサ愛と祈りの言葉」渡辺和子訳 PHP文庫46P) "What is a Christian ? " someone asked a Hindu man. He responded."The Christian is someone who gives. " (MOTHER TERESA ;IN MY OWN WORDS 17P) キリスト者とは―という説明にはいろいろな表現がある。これはそのひとつだが、キリスト者の最高の模範であった主イエスは確かに与え続けるお方だった。それほど神の力、神の祝福に満たされていたからである。神の言葉、そのいやしや悪霊を追い出す力を与え続けた。さらに、人間の根本問題である罪からの赦しを与えるために、命まで人々に与えたのだった。 そのキリストを魂に受け、その祝福を受けるとき、私たちも少しずつはこの「与える」人へと近づいていけるだろう。お金も財産や技術も知識も経験も与えることができない者であっても、神からの祝福を他者に注がれるようにと祈りを注ぐ(与える)ことはできる。 あるいは、大きな罪を犯してしまった者であっても、他者がそのような罪を少しでも犯さないように、またその罪を赦してくださるキリストを信じるようにと祈ることはできる。 そしてそのような弱いものの祈りを神は祝福してくださる。 私たちもこの日本で決定的に欠けているもの―神の言葉―を他者に与え続けるものとされたいと願う。 そしてそのための祈りもを与え続けるものにならせていただきたいと思う。 (367)神へのおそれ ある人が、極度に恐れないといって、そのため神々をも恐れない、と言うならば、彼は、勇敢なのではなく、狂気なのである。(「大道徳学」アリストテレス全集第14巻19頁岩波書店) アリストテレスやプラトンなど、世界の哲学、思想の歴史に多大の影響を与えた人たちであっても、唯一の神が存在するということは啓示されていなかった。しかし、それでも、このように、この世界や人間の背後に目には見えないある存在がいること、そして大いなる力をもって人間に影響を及ぼしていることははっきり認識していた。 そして、人間と動物の根本的相違とは、そうした目には見えない偉大な存在を直感する能力があるかどうかということであり、それゆえに、そうした見えざる存在より自分が大きいのだ、などと言う人は、気が狂っているとまで言っている。そのような者は、人間としての正しい精神の働きが失われた者だと言っているのである。 かつてビスマルクは、神以外の何者をも恐れないと演説した。それを聞いたある日本人が、我々は、神をも恐れないぞ、と得意げに言った。それを聞いた新渡戸稲造は、その精神の貧困に驚き悲しんだことを記していたのを思いだした。 今日の日本の最大の問題は、真に畏れるべきものを恐れず、恐れるべきでないものや国々を恐れて、まちがった方向へ行こうとしていることである。 巨大津波による災害、そしてさらに、4基もの原発の大事故という世界の歴史はじまって以来の大きな出来事、それゆえにそこから生じた苦難は3年経っても消えることなく、今後もその廃棄物などの放射能の悪影響まで考えると、原発事故にかかわる問題は、10万年という果てしない歳月を越えていつまで続くか分からない状況である。 それほどのことが生じてもなお、この世界の背後の存在を畏れず、欲望を第一としようとする―こんな状況が続くのであれば、その姿勢そのものがさらに厳しく罰せられるときが来るのではないか。 私たちは、神を畏れねばならないのである。 |