ことば
ライを病む我が身かなしく事ごとに楯つきし日よ母も老いたり
むらさきの花穂したしく手を触るる 垣根の下のヤブランの花 (宿里禮子)
・このことば(短歌)を残した著者は、十一歳の時に発病し、長島愛生園(ハンセン病療養所)に入所した。母もハンセン病者。自分のつらく悲しい運命を同じ療養所にいた母にこんな病気になるくらいなら生まれて来なかった方がよかったと言って何度も母に楯ついてことを深い悲しみをもって思い起こし、歌ったもの。そのような彼女を慰めたのは、夏に咲くヤブランであった。
神と悪魔
神は助け、悪魔は挫折させようとする。神は善を見るに早く、悪魔は悪を探ることに巧みである。善を残して悪に覆いをかけようとするのが、神である。悪をさらして善を追いだそうとするのが悪魔である。
神の前に出るならば、小さな善であっても植物の芽が日光を受けたように成長する。しかし、悪魔の息に触れるなら、小さな悪も大きい悪となって現れてくる。神は奨励する者であって、悪魔は望みを失わせる者である。(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)
○これもまた、内村自身の経験に裏付けられた確信だと言える。自らが神の前には、小さき者、罪深き者であることを知っていた内村は、そのような小さき者を人間が攻撃するようには決して攻撃せず、自らの内にある小さき善、神を仰ぐ心をば取り上げて下さって、大きく育てて下さったのを実感していたのである。
神はたしかに私たちが望みを失い、自分の罪に倒れそうになっても、なお、そのような者を憐れんで下さり、「立ちなさい!」と励まし、力を与えて下さる。神はまことに、小さき善を認め、奨励して下さる方である。
信仰における三つの支え
私は聖書と天然と歴史を極め、それら三つの上に私の信仰の基礎を定めたい。神の奥義と天然の事実と人類の経験・中ヲ私の信仰をこれら三つの上に築くならば、誤りがなくなるであろう。科学をもって、聖書にまつわろうとする迷信を退け、聖書をもって、科学の傲慢さを退け、歴史が与える知識によって二者の平衡を保つ。これら三つは知識の柱である。そのうちの一つが欠けるなら、我らの知識は欠点あるものとなるし、我らの信仰は健全とはならない。(同右)
○聖書(神の言)と自然と歴史、この三つを内村はしばしば取り上げる。そして聖書そのもののなかに、この三つの重要性がつねに表されている。人間が神からいかに愛されているか、罪の赦し、聖霊、生きた導き等など。また何を為すべきでないか、罪の厳しい指摘等が聖書にある。そして、自然はその神が創造したものであるゆえに、神の心や御意志がそこに刻まれている。実験や研究のなかった古代において、素朴に自然を見つめるだけで、神の性質や御意志をそこに実感できる。大空や夜空の星、夕焼けや広大や海、山々、繊細な美に満ちている植物たち、これらはみな神の心と御意志の目に見える現れである。
そして、そうした自然の研究と実験によって見いだされた科学の法則もまた神のわざを表している。しかしそれはうっかりすると、その法則のあまりにも整然として驚くべきものを生み出すがゆえに、その法則を成立させている神そのものを見失って、科学を偶像化する。そうした傲慢さを聖書はまたつねに警告する。
また、神の御意志は、長い時間の流れのなかで、表されていく。それが歴史である。それゆえ旧約聖書の相当部分が歴史書となっている。真理でないもの、それは一時的には栄え、もてはやされることがあろうとも、必ず長い時間の流れの中で消えていく。
神の言と自然と歴史、この三つはたしかに私たちがつねに忘れてはいけないものである。
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