2003年2

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ことば

151)絶え間なき祈り
‥‥キリスト者は絶え間なく祈るべきである。まさにキリスト者の命は祈りである。もし私たちが不完全であるならば、祈るべきである。もし信仰が足りないというなら祈るべきである。よく祈ることができないからこそ祈るべきなのである。恵まれても祈るべきであり、呪われても祈るべきである。天の高きに上げられるような時にも、陰府(よみ)の低きに下げられる時であっても私たちは祈る。私は力なき者、それゆえに私ができることは祈ることのみ。(「内村鑑三全集」第二巻249頁)

日本において、内村鑑三は明治になってから以降、最近百数十年において最も力あるキリスト者であったと言えるだろう。その内村の力はどこから来ていたか、それはこの文章でみられるように、深い祈りにあったのがわかります。真に力ある人とは、このように自らの弱さを自覚し、そこから神に向かって心こを尽くし、精神を尽くし、理性的なものもすべてをあげて神に祈るとき、人間が持っていない力を与えられるのである。

152)…ただ、イエスの御名を繰り返し唱えることだけでも、神との交わりへの渇きを満たすのに十分なのです。…
 神はすべての人間の言葉を理解してくださいます。神のそばに黙ってとどまること、それはすでに祈りです。くちびるは閉じたままでも、心は神に語りかけています。そして聖霊によってキリストは、創造をはるかに超えて、あなたの内で祈ってくださいます。」(「テゼ その息吹と祈り」八九頁)

主は私たちの心をすべて見ておられる。私たちが、イエス様、イエス様とか、主イエスよ、主イエスよ、または、主よ憐れんで下さい!といった最も単純な祈りを心から繰り返し祈るだけでも、聖霊を注いで下さる。わが内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まると主は約束して下さった。聖霊がとりなしをして下さるという使徒パウロの言のように、私たちかただ主の許にとどまるだけで、聖なる霊がとりなして下さる。


2003年1月

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ことば

148)真の聖職者
…いつの時代にも、またどの民族にも、自己と世界との縁を絶ち、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。これこそ真の「聖職者」である。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 一月十五日の項より)

この文章の前に、ヒルティは、ふつうは牧師などの聖職者は、教会のなんらかの聖職授与式などによって、資格が与えられるとされる。しかし、真の資格は「学んで得られるものでも、そうした授与式によっても与えられることはない。それはただ神の直接のゆるしによっているのであって、それは昔も今も変わりがない」と述べている。
 キリスト者は本来、すべてがそのような「聖職者」となるようにと呼び出された者だといえる。それは聖なる霊が与えられることによってそのように変えられる。聖職者とは聖書の用語でいえば、「祭司」であり、ルターに始まる宗教改革の中心にあったことの一つが、「万人祭司」ということであったが、それはすなわち「万人聖職者」ということになる。だれでも、主イエスが約束されたように、「求めよ、そうすれば聖霊が与えられる」。(ルカ福音書十一・1013) 真剣に求めることによって聖霊が与えられるゆえに、万人聖職者への道がみんなに開かれているといえる。

149)より善くなるとき
他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス(*)「語録」第三巻五章より)
 何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
 しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
 聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に
「あなたの罪は赦された」とか
「恐れるな、私が共にいる」
などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。 
 罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。
 また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。 このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。

*)ローマのストア哲学者。(AD五五〜一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。

150)深く学べよ、そうすれば、あなた方は単なる批評家でありえなくなる。深く感ぜよ、そうすれば不平家ではなくなる。
 真理は謙遜であり、沈黙が必要である。宇宙は調和であり、騒がしいことを憎む。深く真理の泉に飲み、近く宇宙の琴線と触れて、われらは、軽薄であることはできなくなる。単なる批評家とか、不平家であるのは、その人が浅薄なる確証である。(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)

これは、すでに旧約聖書から、真理の泉に飲むものは、深く満たされるということを述べているがそのことである。「主は、私を緑の原に休ませ、憩いのみぎわに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩篇二三編より)というのも、こうした深く満たしてくださる神の実感を表している。