ことば
(195)人の生涯には、いつか突然、単純な信仰の境地が訪れて、神への真の愛がなければ、どんな信仰も、教義的な知識も、魂の向上に役立たないことがわかり、反対に、心のなかに神への愛があれば、一切が明らかになり、容易になり、単純になる、ということを示される。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」
上・八月二日の項より)
Einmal im Leben des Menschen kommt plozlich das Einfach und zeigt ihm,das ohne die rchte Liebe zu Gott aller
Glaube und alle dogmatische Kenntnisnicht vorwarts hilft,warend mit dieser Liebe im Herzen
alles klar,leicht und einfach wird.
○これは、主イエスが、一番大切なことは、神を愛すること、それと同様に隣人を愛すること、と言われたことに通じるものである。神への真の愛、それはいつも主イエスによってうるおされているものであるが、それがなかったら、いろいろの学問的な知識も、それをもって誇り、他者を裁いたり、見下したり、自分を正当化したりするのに使われてしまう。また神への真の愛があるなら、神もその聖霊と愛を注がれるゆえに、主イエスが約束されたように、「聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる」(ヨハネ十四・26)となる。神への愛があればあるほど、神と一つになるということであり、神のお心、ご意志も伝わってきて、隣人への愛も与えられ、いろいろの出来事、自然のたたずまいなどにもその背後に神の愛の御手を実感できるようになっていき、ただその愛を日ごとに受けて、またそれを他者に与えるという単純な生活へと導かれる。私たちもそのような聖なる単純さを与えられたいと思う。
(196)この逆境の中にもいいことがある。私たちの眼と耳とがだんだん開かれてきているんだ。神が私たちに語られるとき、神の声など聞こえっこないようなところから、静かな小さな声で神は話しかけておられるんだ。(「死の谷を過ぎてークワイ河収容所」)
○この本は、今年五月号の「はこ舟」誌で紹介したことがある。太平洋戦争のときに日本軍は、タイとビルマを結ぶ密林や山岳地帯という困難な場所に430キロメートルに及ぶ鉄道を建設した。あまりにも苛酷な労働酷使のために、毎月二千人を超える人たちが死んでいくというおびただしい犠牲者が生じた。その地獄のような生活を強いられた人たちのなかで、驚くべきことに神への信仰を強く持ち続け、キリスト者としての生き方を貫き、他者のために犠牲になる人、死に瀕している人たちへ献身的な愛を注ぐ人たちが現れた。この本の著者も同様であった。自分が置かれている恐ろしい状況、毎日やせ細った人たちが病気の苦しみにさいなまれ、死んでいくという光景を目の当たりにしながら、それでも神からの語りかけが一層よくわかるようになっていくという驚くべきことが生じていった。神はたしかに、思いも寄らない苦しい状況、敵対する人、あるいは病気で寝たきりの人、また野の花や空にひろがる青い空、吹く風の音など、またそれとはまったく異なる都会の喧騒のただなかなど、さまざまのことから神は語りかけておられる。私たちが心の耳をすまし、静かな小さい語りかけに耳をすますことが求められている。
(197)弱い者が強い者を必要とするだけでなく、強い者もまた弱い者なしには存在しえない。弱い者を排除すればそれは交わりの死である。(「信じつつ祈りつつーボンヘッフアー短章366日」 70P 新教出版社 )
○病気や性格、または能力、老年などでさまざまな意味で弱い者は強い者が必要だというのはすぐにわかる。医者とか健康な者、能力のあるもの元気なものがそうした人たちを支え、いやし運ぶからである。
しかし、強い者が弱い者なしには存在できないのだ、というのは多くの人たちにとって不可解であろう。それは新約聖書のなかに深く見られる。パウロが「弱いところに神の力は完全に現れる」(Uコリント十二・9)と言ったが、弱さのなか、弱い者と自覚するところや、そのような弱さを持った人たちとの関わりによって神から力を与えられて強い者も支えられる。それゆえ弱い者を排除しようとするような人間の交わり、集まりは神の命を与えられなくなって、枯れていく。
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