(216)不幸な人々の面倒を見るよりも、人を愛することが大事だ。(マザー・テレサ)
この言葉はすぐには納得しがたいかもしれない。 しかし、使徒パウロもどんなよき行為、例えば全財産を貧しい人に施し、我が身を焼かれるために渡しても(殉教のようなことを指していると考えられる)、愛がなかったら一切は無だと言った。ということは、愛なくしてそのようなことをすることがあり得るというのである。
いろいろと病人や一人暮らしの人をみることはある。しかしそこに、聖書が言っているような愛をもってなされているだろうか。例えば看護師やヘルパーはいつも病人や苦しむ人、悩み、孤独にある人たちの面倒を見ている。しかしそこにそうした人々が本当によくなって欲しい、何とかしてその人たちの苦しみや悲しみ、孤独が癒されますようにとの愛を、いつも持ってしている人はわずかではないかと思われる。
(217)この信仰のなかでは、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの区別はいっさいなくなってしまう。
わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰はわざがどんなに数多く、またどんなに異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして存在し、生きて働くからである。(「善きわざについて」ルター著 聖文舎刊 ルター著作集第一集第二巻15頁)
・私たちが何かよきことをしようとするとき、それがどれほど目に見える効果があるかとか、相手や周囲の人々に評価されるか、などを考えてするなら、それは自分の判断や人間の評価を重んじてやっていることである。
しかし、自分のなそうとすることが神の御心にかなうという確信があり、万能の神、真実の神の力を信じて、その神が用いて下さるなら、無から有を生じさせるのだから、小さくとも神は必ず祝福して用いて下さる、と信じてすることは大きなわざと同じ意味を持ってくる。
重い犯罪人であっても最後のときに、イエスへの信仰をあらわした人は、キリストとともに今日パラダイスに入ると、約束されたが、ここにも信仰がどんなわざにもまして神に喜ばれることを示している。
神はどれだけ多くをなしたか、でなく、どれほど、神への愛と信仰をもってなしたかをみておられる。
(218)…この世に存在する、あらゆる種類の、おびただしい量の悲惨事は、社会的ないろいろな活動などによってほとんどなにほども減らないだろう。
結局、人類はただより多くの愛によってのみ、しかも、だれでもみな直接にその「隣人」から始めねばならぬあの個人的な、本当に強い愛によってのみ、助けられるのである。
この愛の精神こそは、また真のキリスト教の精神でもあるが、これが世を救うのであって、その他のすべてはこれと反対に、やたらに声のみ高い無用事にすぎないことが多い。
(ヒルティ著 「眠られぬ夜のために」下 四月二日より)
・ここでヒルティが述べている、愛とは、神から受ける愛、聖霊の実としての愛を意味している。平和運動をしているといいながら、自分の心の深い平和を持てないとか、身近な人の魂の平安のために祈ることも、病気の人を見舞うこともしないといったことでは、その人の平和運動も実りが期待できないということであろう。
主イエスも、弟子たちに、「私の平和を与える」と言われて、霊的な平和、魂の平和を第一とされた。罪の赦しとはそうした主の平和を意味する。
しかし、社会的な平和運動に召されたような人もいるものであって、神はさまざまの人を、いろいろなかたちで用いられるのである。
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