20058

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214我、ここに立つ。私はこうするより他ない。神よ、私を助けたまえ!
Hier stehe Ich.Ich kann nicht anders. Got hilffe mir.
(R・ベイントン著「我ここに立つ」聖文社 234頁 )

・宗教改革者、ルターがドイツ国会で審問されたとき、自分の書いた書物を間違っていたと認めるかどうかを迫られた。ルターに対して激しい敵意を持った人たちもいる中で、ルターは、次のように語った。
「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威を認めない。…私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。 私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからだ。」
その後で言われたと伝えられている言葉が、ここで引用した言葉である。
私たちは、「我、ここに立つ」と言えるほどの強い基盤をもっているだろうか。私たちは一体どこに立っている、といえるだろうか。 また、日本人の代表が集まった国の政治は、どこに立っているのか、あるいは、代議士たちもどこに立とうとしているのだろうか。
唯一の神を知らないときには、だれでも、自分の利益、自分の考え、特定の人間、あるいは金や地位の力、組織等々の上に立っている。しかしそれらがいかにもろく弱いものであるか、それは生きていく過程のなかで、思い知らされることである。
旧約聖書の詩編において、しばしば「神はわが岩、わがとりで」という言葉が表れる。それは不動の土台を知っていて、私はここに立つ、ということが確言できるひとの言葉である。

215(神の)摂理は倒れた者を起こし、くずおれた者を立ち上がらせるために、千もの手段を持っている。ともすれば我々の運命は冬の果樹のようにも見える。その憐れな様子を見るとき、このこわばった大きい枝やぎざぎざした小枝が次の春にはふたたび芽を出し、花咲き、それから実をつけることができようと、だれに考えられるだろう。しかし、我々はそれを期待している。我々はそれを知っているのである。(「ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代」第一巻12章より ゲーテ著 筑摩書房 世界文学体系 411頁)

・これは第一巻の最後の言葉であり、著者がこの言葉に特別な重要性を与えているのがうかがえる。人間は突然、事故や災害、病気に会い、または人間関係が壊れたりして、もう将来は絶望的だ、幸いは永久に去ってしまったと思われるような事態に直面することがある。
しかし、冬の枯れたように見える樹木はまた芽を出し、花咲き、実をつけることができる。
人間の世界も同様で、いかに人間の考えでは苦しく悲惨なように見えても、万能の神は我々の到底想像もつかないような手段を持っておられ、私たちを導かれる。 それを、あるかどうか分からないが単に信じるというのでなく、「知っている」という。知っているからこそ、確固とした希望がある。そのような希望こそ、聖書に言われている、いつまでも続く希望、決して壊れることのない希望なのである。