(258)神の明らかな許可なしには、ごくささいなことも、
あなた方の上には起こりはしない。 あなた方の敵は、自分では気付かずとも、すべて神の器であり、もしあなた方が憎しみや復讐心を持たずに彼らを見ることができれば、結局、彼らはあなた方のために最も有益に働くことになる。
憎しみや復讐心だけが、あなた方を損なうのである。
(「幸福論」第三部 ヒルティ著 岩波文庫二四九頁)
・このヒルティの言葉は、聖書の言葉が元にある。私たちが神を信じ、神の愛に留まっているかぎり、すべては相働いて最終的に善きようになる。敵対する者であっても、神の器として用いられる。
「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」 (ローマ八・28)
しかし、もし私たちがそのような人たちに憎しみや恨みをもってみるならば、相手の人間でなく、そのような私たちの内に生じる憎しみこそが、私たちの深いところで害を与える。
とすれば、私たちを本当に害するのは、悪人でなく、私たちの内なる罪である。そのような憎しみを持たないようにすることが、重要となる。そのためには、相手の悪意がひどいほど、その人を見ていると、憤りや憎しみが生じてくるだろうから、神を仰ぐことこそが、憎しみを宿らせない道となる。そして何かなすべきよきことに心を集中することである。
主イエスが、敵を愛し、迫害するもののために祈れ、と言われたのは、相手のためばかりでなく、自分自身にとっても、敵対する者を憎めば、自らが害悪を受けるからでもあった。
(259)戦いに勝ち、敵を倒すということより、大きな満足がこの世にあるとでも言うのか、もしくはこれに比べられる喜びがあるとでも言うのか。何一つないということは、いささかの疑いもない。)→「ドン・キホーテ」セルバンテス著 筑摩書房版 三一三頁 世界文学体系10
・この戦いというのは、聖書にあるような霊的な戦いを指し示している。セルバンテスの「ドン・キホーテ」は、単なるユーモラスな物語りなどではなく、その全体が比喩的、象徴的な内容といえる。
ロシアの大作家ドストエフスキーはその著作「作家の日記」の中で『ドン・キホーテ』を次のように評している。
「...ここには、人間の魂の最も深い、最も神秘な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、見事にえぐり出されている。
これは、偉大な書であって、今どき書かれているようなものではない。このような書物は、数百年にようやく一冊ずつ人類に贈られるのである。」
(ドストエフスキー全集第15巻「作家の日記」下巻 二八二頁 河出書房新社刊)
ドン・キホーテのまたの名は、「憂い顔の騎士」(「ドン・キホーテ」 第一九章)ということも、キリストが「悲しみの人」であったことを思い起こさせる。
「私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく、悪の諸霊を相手にするものである」
(エペソ信徒への手紙六・12)
主イエスはその伝道の生涯のはじめから、激しい霊的な戦いの連続であった。
私たちも、聖書にいう霊的な戦い、目には見えない悪との戦いに、主によって日々勝利していくことが、最もさわやかな喜びであり、満足をもたらすことを知らされている。
罪が赦されたという平安や喜びは、罪という霊的な悪に対して、信仰によって勝利を与えられたゆえである。
(261)沈黙と安息のうちに、敬虔な魂は進歩向上して、聖書の隠された真理を学ぶのである。
人が、知人や友達から身を遠ざけるとき、その人には神が、聖なる天使を引き連れて近づいて下さる。 (「キリストにならいて」岩波文庫版 46頁)
(初めの部分の原文と英訳) In silentio et quiete proficit anima
devota et discit absconditat scripturarum.. (ラテン語原文)
・In silence and quietness the devout soul makes
progress and learns the hiddeen things of the Scriptures.
・地上での最後の夜となったゲツセマネでの主イエスの必死の祈りでは実際に御使いが来て、汗が血の滴り落ちるほどに祈るイエスを励ました。(ルカ福音書二二・44)
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