(283)もし、神がある人に対して、もはや神以外のどのような楽しみも、また、どのような利己主義もうまく行かないように仕向けるならば、それは神の「選び」と恵みとの最も確実な証拠の一つである。(ヒルティ著
幸福論第3部二三六頁)
・私たちが神から選ばれて用いられるとき、神は真実と正義の神、そして愛の神であるゆえに、このようなことが言われている。私たちがひそかな自分中心の思い、自分の栄光を求めるような心があれば、神は何か困ったこと、苦しみをもたらすようなことを起こしてそれを気付かせる。そしてただ心の深いところから神のため、真理のために行おうとするのでなければ裁かれるのだということを思い知らせようとされる。ここに、神の愛と導きがある。
(285)愛の十字軍
私は何によってこの世界に救いを提供できるだろうか。剣によらず、正義の言葉によってでもない。
天国の喜びを提供して世界に救いを来らせたいのである。 すなわち、「新しい愛の駆逐力」によって、世のすべての低き卑しい思いを排除し、これに代えて天の高き心を注ぎたいのである。私は愛と喜びと希望によって世を征服したいと願う。(「聖書之研究」一九〇四年六月)
・主イエスこそ、この愛の十字軍の先頭となって歩まれた。そして今も我らの眼前にて歩まれている。私たちはこの愛の軍に入れていただいたものであるが、しばしば弱さのために脱落しそうになる。不誠実、怒りや反感、人の苦しみや悲しみへの無関心などこそ、脱落したしるしなのであるから。
(286)神を感じるのは、心であって理性ではない。理性でなく、心に感じられる神。
信仰は、神の賜物である。
神を知ることから、神を愛するまでには、何と遠いへだたりがあることか!
(「パンセ」第四篇より パスカル著)
C'est le coeur qui sent Dieu et non la raison.
Dieu sensible au coeur,non a la raison.
La foi est un don de Dieu.
Qu'il y a loin de la connaissance de Dieu a l'aimer !
・神は単に信じるだけでなく、実感される存在である。魂の深いところで、そのあたたかさや語りかけを感じることができるのがキリストの父なる神である。
神を哲学者的に、理性的にあるいは頭の一部で考えて存在する、と信じることと、神を愛することの間には、はるかに遠い距離がある。聖書にも、神を知っていると思っていた宗教家たちは実は神への愛とは何のかかわりもない偽預言者であるということはエレミヤ書のような預言書ではしばしば指摘されている。イエス当時の宗教家たち、そしてパウロもそうした神を愛することを知らないで、神を知っていると思い込んでいた。
私たちもうっかりしていると、頭のなかで神を知っている、信じていると思い込んでいながら、全く神を愛していないということになる。神を愛する魂のことが、最もリアルに描かれているのが旧約聖書の詩編である。
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