(296)真実にして最大の喜びは、被造物から受けるのではなく、造物主から授けられるものである。あなたがひとたびこの喜びを持つならば、だれからも奪われることはない。...
神がある人に、神を愛するという恵みを与えたならば、その人は十分の祝福を授けられたのである。(「眠られぬ夜のために上」ヒルティ著 六月十三日)
Wenn Gott einem
Menschen die Gnade gibt,ihn zu lieben,so
ist's genug zur Seligkeit.
・喜びというのは誰でも求める。しかし大多数の人は、それは被造物である人間や自分の努力、能力、あるいは事物から得られると思っている。私もかつてはそうであった。たしかに人間によく評価され、愛され、またよき食物や家などを与えられたら喜ぶのはごく自然なことだろう。しかしこれは人間や事物が移ろいやすいためにすぐに失われるし、誰にでも与えられるというのではない。しかし、神から与えられる喜びは、そうした人間の側の制約に左右されないから、いつまでも続くし、本来だれにでも与えられる。
新約聖書には、本当の喜びは、聖霊によって与えられると記されているのも、このような永続的な幸いこそが真実のもので、神はそれを与えようしているからである。
神を愛することができるとき、その人は神からも愛されているのを実感する。そしてその愛が深いほど、人間的には苦しい状況であっても、それに打ち負かされないようなふしぎな力を与えられる。
初めて聖書を手にする人の多くがまず読む、次の箇所もこのことと関連している。
...ああ、幸いだ、心の貧しい人たち。
天の国はその人たちのものとなるから。(マタイ福音書五・3)
真実にして最大の喜びとは、天の国の喜びだからである。
(297)聖霊、あなたは弱い者の上に息を注がれます。
わたしの中で、灰の下のかすかな火のようにまだ残っていた慈しみと愛の炎を、あなたは燃え立たせるのです。
あなたを通して、内なる恐れや闇夜さえも新しい生の夜明けとなるのです。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 一五〇頁)
・聖霊は聖なる息であり、また御国からの風。私たちの弱さのなかに静かに、そしてそっと吹いて来て下さる。そして消えそうになっている私たちの心の内なるともしびを再び燃やして力を与えて下さるという。闇が取り囲むこの世にあって、孤独な弱り果てた魂に、病の苦しみの内に主の息が吹きかけられますように。
(298) あらゆる方面への完き愛こそ、この世につづく正しい存在を迎えうるために達しなければならない、この地上生活の最後の目標であり、しかも同時に、それによってのみ世界が救われうる「魔法の杖」であること...このことをわれわれは、人生のある段階に到れば、十分に洞察することができる。
...このすべての方面への愛が、もしわれわれ自身から、またわれわれの力でもって、実現されねばならないのなら、それはたしかに到達できないであろう。
だがこの愛は、神の真理からひとりでにわれわれの心に流れ込むものであって、われわれはただその流れ入るのを妨げず、心にきざすさまざまな異論に耳をかさなければよいのである。(眠られぬ夜のために
第二部 六月二一日)
水路のように、主イエスの愛、神の愛は上から流れてくる。幼な子のような心をもって見上げるならば、心に天からの流れ来る水を受け入れることができる。
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