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二千年を迎えて 2000/1

 長いあいだ慣れ親しんだ千九百○○年という呼称が終わった。
 過ぎ去った二十世紀は、現代の若者には、特に強く迫ってくるものではないかも知れない。
 しかし、今や音をたてなくなった、過去の歴史のページを注意深くめくっていく者は、それが驚くべき時代であったことを知らされる。二十世紀は、実に多くの人たちが大規模な戦争で傷つき、命を落とし、苦しみと悩みのうちに過ぎて行った世紀であったのである。
 科学技術の発展とともにひとたび戦争となれば、陸からも海からも、そして空からも、おびただしい火薬が投入され、それは国土を破壊し、人の命も体も吹き飛ばし、そして深い苦しみや悲しみを蒔いていった。
 年末にNHKにおいて、連続放映された「映像の二十世紀」(再放送)は、そうしたあり様を従来は見ることのできなかった、当時のままの映像を用いて鮮やかに写し出していた。あのような映像に撮ることができたのは、ごく一部にすぎない。現実は、私たちの想像もできないような過酷なものであっただろう。
 傷ついたまま、重く痛む足をひきずりつつ、どこまでも続く荒野を未知の土地へと戦火を避けて逃れていく人々、また途中の冷たい荒野にて倒れ、そのまま放置され苦しみながら、家族とも引き離され、息を引き取っていった人たちも多かっただろう。
 そのような苦しみがどうしてこんなにもひどいのか、いつになっても絶えることがないのか、それは私たちにはわからない。 
 私たちは、現実の世界のそうした痛ましい部分ばかりを見ていたら、その重さに自分の心も暗くなってしまうだろう。そして希望などは消え去っていく。この世のどこに究極の光があるだろうか。この世を見つめれば見つめるほど、そこには深い闇と、混乱があるばかりなのだから。
 しかし、神は人類に、主イエスを送って、そのような闇のなかにも、光が見えるようにして下さった。
 紀元二千年という新しい時の始まりは、それだけ考えるなら、単なる時間の区切りにすぎないと言えるだろう。しかし、それはキリストが過去二千年もの間、闇にその光を輝かし続けてきたという長い歴史をも意味するのである。どんなに闇が濃く、悲しみが深くとも、そしていかに悪が恐ろしい力をもって迫ってきても、なお、その闇のただなかでキリストを信じ、そこから光を与えられてきた人たちが無数に存在してきた。キリストの光は過去のどのような闇の力にも決して消えることがなかったのである。

「暗闇のなかに光は輝いている。そして光は闇に打ち勝たなかった。」(ヨハネ福音書一・5より)
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