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024-01-6-1

今月の聖句
「聖霊の火を消してはならない」   (Tテサロニケ五・19)
聖霊は自分一人がそれ楽しみのために用いるためならば与えられない。
聖霊はその力を用いて神の事業をなすために私たちに注がれるのである。
聖霊に接して、何らかの行動へと向かおうとしない者は、聖霊の火を消す者である。
神の恵みを拒む者である。
 私は恐れる、聖霊がついに自分を離れ去って、
私が再び聖霊の賜物を受けられなくなる時が来るのではないかと。    (内村鑑三所感集より)
力ある一言

 この世には言葉があふれている。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット、携帯電話などなど。そのような言葉の洪水のなかで、永続的な力を与え続ける言葉、正しい道を指し示し、その道を歩ませる力を与える言葉はどこにあるだろうか。
 聖書には、そうした人間の言葉の洪水のただなかに、まったく違ったところから語りかけてくる言葉があることを、一貫して述べている。
 聖書の巻頭には、完全な闇と深い淵、そして風が吹き荒れているような状況のただなかで、光あれ!との神の一言がすべてを変えていった。
 新約聖書においても、主イエスこそは、その力ある一言を持っているお方だと啓示され、見抜いていた人がいたことが記されている。
 「私の家に来てもらうには及ばない。ただ、イエスが一言、言われるなら、その通りになる」と確信していたローマの軍人がいた。

すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言を言って下さい。そうすれば、わたしの僕はいやされます。(マタイ福音書八・8)

 当時のユダヤ人とローマ軍人とは対立関係にあったので、そうした状況を考えると、この百人隊長は驚くべき人間であった。征服した相手国の若い一人の人(イエス)を、神の言、すなわち神の力をもった言を持っているお方だ、と見抜いていたのである。
 イエスの一言で、重い病気で死にかかっている者ですら、いやされると信じていた。
 現在もそうした力ある一言がある。そしてそのような一言は、日常生活のただ中においても私たちの中に語りかけている。
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