憲法を変える問題  2002/5

 憲法のどこが問題なのかよくわからないで、なんとなく戦後五〇年以上も経ったのだから変えたらよいだろうなどと思っている人が多い。住んでいる家も五〇年も経ったらリフォームしたり、立て替えるのが当たり前だ、衣服も何十年も着られない、車でも何でもある程度使ったら新しいのに替えなければなどといったような気持ちで、憲法をも変えないといけないなどと考える人が多い。
 しかし、現在問題になっている憲法を変えるかどうかということは、衣服とか家、あるいは車などとは根本的に違う。憲法がうたっている最も重要ないくつかのこと、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重などは、普遍的な真理を持っているのであって、古くなるということがない。
 ことに現在一番問題となっている、平和主義ということは、聖書でははるか数千年も前から人類の究極的なあり方だと記されているほどである。今から二千七百年ほども昔に書かれた旧約聖書のイザヤ書という書物ですでにつぎのように記されているのは驚くべきことである。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)

 現在の憲法は太平洋戦争において、日本が広大な中国やフィリピン、インドネシア、ビルマ、タイなどアジアの広い地域において戦争を行い、数千万の人々を殺傷したこと、そしてそこでは無数の人々が家族を殺され、障害者となり、人生を破壊された人、家族の平安を奪われた人などはかりしれない害悪を及ぼしたという深い反省に立って作られている。それは憲法の前文を見ればわかる。

再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し…
日本国民は恒久の平和を念願し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…
我らは平和を維持し、…
我らは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
我らは…自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって…

 このように、「平和」とか戦争をなくすること、自国中心に考えて他国を侵略してはならないなどという言葉が繰り返し現れる。ここには、太平洋戦争のような悲劇が二度と起こらないようにという切実な気持ちがにじみ出ている。そしてその目的のためには、最も根源的な道は武力を持たないこと、いっさいの戦争を捨て去ることである。それゆえにその道を取ったのが日本の憲法なのであった。
 この平和憲法に反対する人は、武力で守る必要がある理由として、警察を不要とする人はいない、だから軍隊も必要だという人がいる。
 しかし、警察は国内の犯罪者を取り締まるのであって、警察によって、数百万人が殺されたとか、警察が大空襲を行ったとか、あるいは無実な人が、家庭を無数に破壊されるとか、広大な世界が戦火に遭うだとかはあり得ない。内戦による大規模な殺害なども、軍隊が主となって行われてきたのであって、警察ではない。
 また、ある国が警察の人員をふやしたからとて、他国が競争して警察の規模を大きくしていくなどということも考えられない。
 他方、軍隊が動き出して、戦争となるときには、数千人どころか、数万、数十万といった人々が殺されたり傷つけられたりしていくことすらあるのであって、警察と軍隊とを同列において、警察が不可欠だから軍隊も不可欠だなどというのは、こうした事実を十分に考えていないからである。
 そして軍隊の場合は、一国が軍備を増強すれば、隣国も触発されて多大の軍備増強に向かうということは歴史的にもよくあったことであるし、現在もインド、パキスタンとの核兵器装備など多く見られるところである。
 日本が今後も守られていくためには、戦後五十年余り他国を軍事力で脅かすこともなく、実際に戦争にも参加することなく、平和主義を守ってきたその方針を守り続けることである。それが真の意味で日本を守るのである。
 軍隊を造って、アメリカの言うままに、世界のどこにでも軍艦を派遣してアメリカと共同して戦争に加わるという方が、はるかに危険性が高い。軍隊を用いないで、平和主義で一貫していくことこそ、世界につねに新たなメッセージを送り続けることになる。
 人間を本当に大切にしようとする考えからは戦争は生じない。戦争によって数知れない人々が死んだり、障害者となったり、家族を奪い取られたりするからである。
 万一侵略されることがあっても、武力でなく、ねばり強い反対の意思を表していくことこそ、最も力ある守りの道である。
 憲法が全く問題がないかといえば、変えるのが望ましいような点ももちろんある。例えば天皇に関する内容が憲法の冒頭にあるというのは、不適切である。天皇は象徴にすぎないのであって、それが憲法の最初にあるというのは戦前において、つぎのように天皇が絶対的とされていて、天皇に関することが最も重要なものとみなされていたため、憲法の最初に置かれていたことからきている。天皇にかんすることは、もっと後に位置づけするのが適切である。
 それから環境問題のような戦後かなり経ってから次第に大きい問題となったことについての条項を入れることも望ましいことであろう。
 しかし、こうしたことは、現在のままであってもとくに大きな不都合はない。環境に関することもそのための法律を制定し、国や地方の政治を行う上で、いくらでも力を注ぐことはできるのである。
 しかし、憲法の平和主義を変えることは、きわめて重大な問題を引き起こすことになる。去年問題になったアフガニスタン攻撃にインド洋まで自衛艦を派遣したが、後方支援という名でアメリカの戦争に加わることになっていくなら、それは戦争そのものに巻き込まれることを意味する。アメリカはまた、イラクへの武力攻撃を計画していると伝えられるが、それにも加わっていくなら、日本はイラクとも戦争をすることになりかねない。
 日本が武力攻撃されたらどうするのか、そのために有事法制という名の戦争のための法律をつくるという。しかし、日本のような戦後五〇年以上、他国に戦争をしかけたこともなく、戦争はしないというのが国是である国が武力攻撃されて侵略されるというような可能性がいったいどれほどあるというのか。
 そもそも、過去数千年の日本の歴史をとってみても、外国から突然にして侵略されたということは一度もない。十三世紀に蒙古軍が攻めてきたことがあっただけである。現在のような状況で、何にも他国を武力で支配するとか、攻撃もしていない文明国にいきなり攻め込むなど、きわめてありそうもないことである。
 それよりもはるかに可能性が高いのは、アメリカに追随して、戦争に荷担して泥沼状態になり、周辺の多くの国々からも敵国とみなされていくことである。アメリカのいうままに後方支援していくなら、世界のあちこちに敵国をわざわざつくって日本がそうした国々から攻撃を受けるという危険にさらされることになっていく。それがはるかに危険度が高い。
 そうした方向に対して、日本が平和主義を守り、軍備を縮小して、軍備費という巨大な金額を他国の福祉や医療、生活の安定のために用いていくなら、そのような国をいきなり武力攻撃などする国があるだろうか。そんな可能性はきわめて少なくなるだろう。
 軍備のためには巨額の費用がかかる。性能のよい戦闘機一機が百億円、一隻のイージス艦(*)を導入するだけで千三百億円以上というおどろくべき費用となる。
 しかもこれらは、国民の生活に有益なものをなに一つ生み出すことがない。ほかの費用、環境問題や、都会の緑地整備、品種改良とか医療や大学の基礎研究、山村の生活援助、学校の一学級の児童生徒の数を減らす、教師の数をふやすなどなどはそこに費用を用いてもそこからあらたな有益なものが生み出される。外国への教育や生活、医療などに対する適切な援助も同様である。
 しかし、軍事費用はいかに巨額のものを使ってもただそれだけで終わる。災害地の復旧などに自衛隊が働くということも、本来はそのようなはたらきのために別に部門をもうけて強化するほうがよいのであって、そうした目的のためなら、一機百億円もの戦闘機などまったく不要なのである。
 さらに、軍事費の増強は、国民生活を圧迫するだけでない。他国をも刺激して、他国も財政が貧しいのに、いっそうの軍備増強をさせていくことになり、その国の生活をも圧迫するということにつながっていくし、さらには、軍備増強は戦争の危険性を増大させていくことになる。もしもそうした軍備増強の果てに実際に戦争が生じるなら果てしない悲劇が生み出される。
 このように考えると、軍備増強の方向は闇の方向に向かっていくことに他ならない。
 現在の小泉政権の危険性はここにあるのであって、靖国神社への参拝を子供だましのような方法で、いきなり行い、周到に準備していたにもかかわらず、「今朝思いついて実行した」などと国民を欺くようなことを言っているのである。直前に中国を訪問し、かつての中国との戦争に反省しているふりをしたのに、このような方法で靖国神社を参拝強行したことで、中国の代表者が、信義を守らないとして非難したのは当然だろう。
 こうした状況を考えると、現在の憲法を変える必要はないのであって、最近の自民党や外務省などの腐敗ぶりを見るにつけても、そのような自民党が熱心にやろうとすることは国民のためかどうかがはなはだ疑わしいし、もし憲法を変えると今でさえ巨額の費用を軍事費に使っているのであるから、ますます公然とそうした方面に使おうとするだろう。そしてアメリカのいうままに世界のあちこちに戦闘機や軍艦を派遣するというような状況となって戦争に巻き込まれる可能性が一段と高まる。それこそが、日本の平和と安全をおびやかし、同時に世界の平和をも乱すことになっていく。日本が今までのように、武力によって国際紛争を解決しようとせず、平和主義を貫いていき、軍事費を削減し、それをアジア、アフリカ、中南米などの貧しい国々への福祉のために用いていくこと、そのようにすることが日本と世界の平和を実際的にも進めていくことになる。
 また、憲法を変えるという人たちは、それがアメリカの押しつけ憲法であるからと言う。しかし、日本の敗戦時のときの指導者たちは戦後日本の方向をどう考えていたか、全く国民のためを思っていなかったのである。例えば、一九四五年八月六日、広島に原爆が落とされ、一瞬にして二〇万人ほども死に、さらにその数日後、ソ連が日本に戦争をはじめ、満州地方に激しい攻撃を開始した。そしてその同じ日に、二発目の原爆が長崎に投下された。その同じ日になされた閣議では、当時の阿南陸軍大臣は「一億マクラをならべて倒れても大義に生くべきなり」と主張した。
 また、陸軍大臣の布告として、発表されたのは、「全軍将兵に告ぐ。ソ連、ついに皇国に冦す。…断固、神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」というような内容であった。
 つまり、日本人がみんな死んでも、天皇中心の国家体制を守るための戦いを続けるべきだというのである。軍の指導者たちも同様な意見であった。このような驚くべき発想で戦争が行われていたのであった。
 また、日本の降伏条件を定めたポツダム宣言を受け入れる決定がされた時でも、当時の政府の考え方は国民を第一に守ることでなく、「今や、最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は最善の努力をしつつある」というものであった。国体、すなわち天皇の支配体制を守ることが唯一の目標とされて、降伏をも受け入れるという状態なのである。
 こうした発想は、天皇が敗戦の日にラジオ放送で国民に発表したいわゆる「玉音放送」においても、同様であった。
「朕ハ、ココニ国体ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾(ナンジ)臣民ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ…神州ノ不滅をシンジ…国体の精華ヲ発揚シ…」
 と言うのがそれである。天皇が最も重要なこととして繰り返し強調しているのは、国体すなわち、天皇が日本を支配するという方式を守るということなのであった。国民の生活と命のことが肝心であるのに、それらには触れてもいない有様である。
 このような考え方の者が戦争を指導していたのであるから、戦後のことも、国民を主体に考えるはずがなかったのである。敗戦後にできた内閣は、なにを第一に考えたか、天皇制を守ること、天皇が以前と同じように国家の元首として支配し続けるということを掲げたのであり、従来の秩序をできるだけ残そうということを考えたのである。当然、人々を苦しめてきた治安維持法、治安警察法などを温存していき、当時の岩田法務大臣は天皇制の議論をしようとするものには、不敬罪を適用して逮捕すると言明する状況であった。
 それゆえに、一九四五年十月に、連合国軍総司令部(GHQ)は治安維持法や治安警察法などの撤廃や、治安取り締まりの中枢であった内務省警保局を廃止し、内務大臣や警察官僚を大量に辞めさせることを要求した。これが契機となって東久邇内閣は退陣し、幣原内閣が生まれた。

 このように、当時の政府は頭の切り替えなどはできずに、明治以来の天皇中心の考えがしみこんでいたのである。彼らがどうして憲法を造りかえようなどと考えるだろうか。
 敗戦後の内閣は憲法を改正する積極的な意思もなかった。しかし、敗戦後二ヶ月後に、マッカーサーから憲法の改正を示唆されてからその方向に動きだした。しかし数ヶ月後に出されたのは、天皇が統治権を全面的に持っているということなどは、以前の大日本帝国憲法(*)とまったく変わらないものであった。わずかに、第三条の「天皇は神聖にして犯すべからず」というのを、「天皇は至高にして…」と変えただけなのである。

(*)大日本帝国憲法より
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬(そうらん *)し、し此の憲法の条規に依り之を行ふ (読みやすくするために、カタカナの部分を平かなに変えてある。)

(*)総攬とは一手に掌握すること。

 そのような状況であったから、GHQが自ら憲法草案を作って政府に示したのであった。もし、そのとき、日本の自主性に任せていたら、明治憲法とほとんど本質が変わらないものとなっていて、もちろん平和主義、つまり戦争放棄や軍備撤廃などの条項も入ることはなかったのである。
 実際、憲法だけでなく、治安維持法や治安警察法などの撤廃もGHQ(連合国軍総司令部)の強力な指導のもとになされていった。農地改革も政府案では地主を温存させるものであったから、やはりこれもGHQが徹底した改革を指導した結果、長い間農村を支配していた地主制度が一掃されたのである。その他、婦人の解放、労働者の団結権の保障、学校教育の自由化、経済の民主化など、こうした各方面に及ぶ大改革はすべて、連合国軍総司令部(GHQ)の強力な指導のもとになされたのであった。
 これらの改革があったからこそ、学校教育も国民がだれもが中学教育まで保障されるようになり、小作人の多かった農村の苦しい状況も大幅に改善され、女性の権利や労働者の権利も認められるようになっていった。そしてこれらの改革によって日本人は現在も大きな恩恵を受けている。
 以上のように、連合軍総司令部の強力な指導がなかったら、これら一切は行われなかっただろうし、行われたとしても憲法のようにごく小規模の改変でしかなかっただろう。それらはみな、いわばGHQの「押しつけ」によって始まったのである。
 内容そのものがよいかどうかなのであって、押しつけが悪いなら、それらの教育、農地改革、経済改革、女性や労働者の権利の保障などもみな、棄てるべきものとなるがそんなことはだれも言わない。これにらっても、憲法が押しつけだから変えるなどという議論は間違っているということになる。
 肝心なことは、その内容が正しいものであるかどうかであって、それが正しいものならば、押しつけであっても、それを守り尊重していくことが重要なのである。押しつけでなく、自主的に決めたということが、国民や日本の前途に悪いものであるなら、それは撤廃すべきことである。
 日本の降伏に関する処理を決めたポツダム宣言の受け入れそのものも、諸外国から押しつけられたのである。その強力な押しつけがなかったら、日本の天皇や政府、軍部支配者たちははまだまだ数知れない国民の命を奪う戦争を続けていただろう。
 日本の憲法もまた、こうした一連の動きのなかでなされたのであって、もともと戦後の内閣は憲法を根本から変えるなどは考えていなかったのだが、そのことはこうした一連の動きを見てもわかることである。連合国軍総司令部(GHQ)の強い要求がなければ日本はまったく古い体制のままで戦後を歩むことになったのである。
 こうしたことから考えてもわかるが、憲法が押しつけだから変えるなどというなら、古い治安維持法の撤廃や農地改革、教育改革などさまざまのことも変えねばならないという議論になるがそんなことはだれも言わない。
 テロについては、げんにアメリカの世界最高の設備をもってしても去年のニューヨークの事件のようなことが生じたのである。テロとはどのように防備しても本来生じうるものである。根本的なテロ対策とは、そうした武力に頼ったり、さまざまな組織の改編とか戦争対策でなく、日本がつねに世界の平和と福祉のためにエネルギーと資金をも使っているという事実である。
 そうしたことは、個々の人間でも周囲の人たちにつねによきことを計っているなら、自然と周囲にわかるように、おのずと世界にはわかることである。そのような世界の平和と福祉のために貢 している国をテロで襲うなどということはきわめてありそうもないことである。こうした武力によらない方法こそが根本的なテロ対策であり、また戦争を起こさない、加わらない道なのである。
 このことは、新約聖書において、キリストやパウロが繰り返し述べている隣人への愛と、敵や迫害するもののためにも祈れという精神とも合致するものである。

(*)イージス艦とは、アメリカ海軍が開発した新型艦対空ミサイルシステム(イージスシステム)を装備した艦艇。強力なレーダーとコンピューター、ミサイルをもち、同時に飛来する10以上の 標を迎撃できる。防衛庁は洋上防空体制の一環として87年に導入を決定した。イージス(Aegis)とはギリシア神話のゼウスが女神アテナに与えた盾のこと。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。