リストボタン魂の空き家とならないために    2007/1

だれでも、心の内に何かが住んでいる。何に動かされて日々生きているか、それによって私たちの内に何者がいるのかがうかがえる。自分が、自分の心のうちに住んでいる、それは当然のことである。自分がまず食べたい、何かをしたい、といった行動をするのは、自分の内に、何よりも自我というものが住んでいることを示している。
しかし、聖書を見ると、「空き家」という表現があり、何も住んでいない状態のことが記されている。

汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」(マタイ十二4145

汚れた霊が、人間を出て砂漠を歩き回るという。しかし安住するところがないので、再び元のところに帰ると、そこはきれいに掃除してあり、また飾りつけまでしていた。 そのような清掃された所は汚れた霊(悪霊、あるいはサタン)にはふさわしくないと思われるのに、そこに七つの悪霊を引き連れてきたという。
これは、とても意外なことである。汚れたところ、暗いところならば、そのような悪の霊が次々に入り込むというのも分かるが、掃除をして整えられているようなところに、なぜ悪霊が、他の七つのもっと悪い霊をも連れて入り込むと言われているのだろうか。
ここで引用した個所の直前には、神を知らなかった異邦人、ニネベの町の人たちですら、悔い改めて神への方向転換をしたこと、また神がソロモン王に授けた真理(英知)を求めてはるか遠くのアラビアから来訪したシバの女王のことが書かれてあるが、そうした絶えざる悔い改めや神の真理への強い求めの心がなければ、信仰の心は古び、空き家になり、悪しき霊が入り込んでくるということなのである。
これは、当時のユダヤ民族に実際に生じることと、一人一人の人間に生じることが重ね合わされて言われているのである。
ユダヤ人たちは、律法によっていろいろとこまかく決まりを定め、神の命令に従って間違ったことをしないようにという名目的には、宗教的な厳しいあり方を規定した。例えば、安息日にはどれほどの距離を歩いてはいけないとか、火を使ってはいけない、などといったこまかな作業についてもいちいちそれは仕事にあたるからしてはいけない、といったようにである。 このようなことは、たしかに表面的に見れば、神の律法に基づいているように見えるから、きれいに掃除をして、人々の日常生活をも整えているように見えたのである。
しかし、そのようなことについて、主イエスは次のように言われた。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ福音書二三・2728

このように、神からの決まり(律法)だと言っても、そこには人間が造り出したものがたくさん含まれていた。そのような人間的な考えでいかに多くの規定を作ってもその内側を清めることはできない。
このように、一度は追いだされた汚れた霊が、再び戻ってくる、しかもそれは掃除して整頓した家である、ということは当時のユダヤ人全体の現状を鋭く見抜いて言われたことであり、さらにユダヤ人たちの将来の暗い前途をも預言的に言われたものであった。
しかし、この主イエスのたとえは、決して当時のユダヤ人だけのことではない。主イエスの言葉、総じて聖書は、特定の時代のことを述べているようであっても、千年、二千年後の数限りない人々にもあてはまることが言われている。
このような普遍性と永遠性を兼ね備えているのが、聖書であり、とくに主イエスの言葉である。
ここでも、この主イエスの言葉は、特定の民族だけにあてはまるのでなく、私たち一人一人、そして現代のさまざまの人間の集まり、社会にもあてはまる。
例えば、江戸時代の厳しい身分差別があり、社会保証もなく人権などという観念もなかった時代から、西洋文明に触発されるかたちで、明治維新となって新たな憲法、法律が制定され、国民の生活は大きく変化した。人権といった考え方も取り入れられ、思想信教の自由も相当の制限がありながらも認められ、教育の面でも国民全体が基礎的教育を受けられるようになった。その他にもいろいろと新しい制度が造り出された。
そうした状況は、たしかに「きれいに掃除し、飾りつけ」をしたと言えるだろう。江戸時代の非人間的、差別的な制度を撤廃して、「掃除」し、欧米から学んだ新たな法律によって「飾りつけ」をしたからである。 しかし、そのような新しい装いをしてきた日本は軍事国家としても急激に成長し、周囲の国々との戦争を通じて領土を獲得していった。国民もそのために相当の犠牲を払わされることになった。
そして日清、日露の戦争、中国との戦争など、さらに米英なども敵にまわした太平洋戦争と、おびただしいアジアの人たちの人命を奪い、自国民も多数が死んでいくということになった。
こうした状況は、「七つの悪霊を連れて入ってきた」と言えるような事態である。
さらに、ただの人間である天皇が「神聖にして犯すべからず」として礼拝されるほどであり、全権を握っていたり、治安維持法など間違った法律なども作られていたが、太平洋戦争後には、それらが撤廃され、「掃除」された。
そして世界的にも類のないような徹底した平和主義に基づく新しい憲法が制定され、その精神に基づいて法律も新たになり、教育の方面でも教育基本法が制定され、さまざまの点で全く新しい歩みを始めたのであった。これは見事なまでに「飾りつけ」された状況となった。
しかし、それから六〇年余りを経て、果たして日本の現状はとくに、全体としてみたとき、若い人たちの心が清くなったであろうか。
最近の、子供たちのいじめとか社会的ないろいろな出来事を見るとき、そのように思う人は、ごく少ないと思われる。
どんなによい憲法が作られ、適切な法律ができても、それらは変えられ得るし、またそれらにもかかわらず、人間の心は奥深いところではよくはならない。 おびただしい数の堕胎、家庭内の暴力、学校などのいじめ、などなど、ここにも、「ほかの七つの悪の霊」が入り込んできたと思わせる状況がある。
主イエスは、このたとえの中で、掃除をして、整頓してもなお、「空き家」である、と言われた。ユダヤ人の宗教もどんなに律法で細かに規定しても、パリサイ派やサドカイ派の人たちなどがいて熱心に宗教的な活動をしてもなお空虚であった。
それは、イエスが魂の深いところに入ってきてそこに住むのでなかったら、主イエスの目からは、「空き家」だということである。このような言い方は、次のような言葉とも通じるものがある。

ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(*
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ十五・4~)
*)ここで「つながっている」と訳されている原語(ギリシャ語)は、メノー(menw)であって、この本来の意味は、次のような個所で用いられているように、「留まる」である。
町や村に入ったら、ふさわしい人はだれかをよく調べ、その人のもとにとどまりなさい。(マタイ十・11

それゆえ、英語訳では、「留まる」という意味の、remain とか、 abide が用いられている。 そして、原文では、「私の内に留まれ」(mei,nate evn evmoi) であって、英語で言えば Remain in me または、 Abide in me となる。それゆえ原文の意味からは、「私の内に、留まっていなさい」となり、イエスは神と同様に霊的存在であるから、そのキリストの内に留まっていようとするべきこと、そうすれば、キリストが私たちの内にも留まってくださる、ということなのである。これは、言い換えると、キリストが内に住むことを意味する。
実を結ぶとは、私たちが心の中に真によきもの、神が持っておられるような真実や愛が生れることであり、それらを少しでも持つようになるためには、主イエスの内に留まること(主につながっていること)、が不可欠なのである。イエスはぶどうの木、人はその枝、というたとえは、穏やかな果樹園のたとえのようであるが、他方このたとえは、厳しい側面を持っているのはすぐにわかる。
主イエスの内に留まり、主イエスが私たちの内に留まって下さらないかぎり、その人は、投げ捨てられて、枯れる、そして火に投げ込まれて焼かれてしまう、という。
このことは、単に人間的な考えで、悪いことをすまい、と決心しても、決まりを作って悪いことをさせないようにしても、決してそれだけでは人間は変わらない、ということを示している。そのような人間的決心というのは、必ず衰え、力をなくしてしまう。そして元のようになってしまう。そうすると、あんな決心などしても無意味だ、決まりなど作っても守れるはずはない、無意味だ、というように考えて、何らかの不正を犯すのは仕方のないこと、当然なのだ、というように開き直ってくるほどになる。
こうしてもはや真実なものを求めるという心すら失っていくなら、はじめよりもっと悪くなる、ということなのである。
盗みや詐欺、暴力などの悪に対しては、追いだすことに力が注がれる。そのために、法律があり、教育や、警察、軍事力などもみなそのような悪を追いだすためにある。そうした努力は当然なされねばならない。人間のからだも絶えず注意して病気にならぬように守らねばならないのと同様である。
しかし、そのようにしてからだの健康を守ったからといって、心までよくなるとは言えない。多くの犯罪は、病気で苦しんでいる入院している人たちが起こしたのでなく、体力もあり、からだは健康な人たちによって起こされていることを見ても分かることである。
どんなに教養や経験、知識を身につけても、神の目から見れば本当によきもの、永遠的なもの、神の国に属するものが住んでいない「空き家 」であり、「罪の奴隷」になったままだということになる。
それゆえ、新約聖書では、真実の主人がおらず、自我というものしか住んでいない事実上の空き家でなく、神が、キリストが住むようになることが最終的な人間のあり方として繰り返し言われている。
信仰を与えられて間もないギリシャの都市の人たちにとって、自分の内に神(キリスト、聖霊)が住むようになる、いわば神殿になるというようなことは考えたこともないことであった。そのような人たちに使徒パウロは、次のように繰り返し強く自覚を迫っている。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(コリントの信徒への第一の手紙三・16
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(同六・19

さまざまの信仰のあり方があり、宗教がある。しかし、どんなに宗教的に熱心なように見えても、人間を超えた永遠的かつ真実な存在(神)が住んで下さるのでなく、宗教的な衣をまとうだけなら、かえって悪くなる。
新約聖書における主イエスや使徒パウロの願いは、そのまま現代の私たちへの願いへと通じる。主よ来てください、という祈り、御国が来ますように、との主の祈りも、やはりこのこと、神が、そしてキリストが一人一人の心の内に、そして人間の集まりであるキリストの集まりの内に、さらにこの世界全体に来て下さるようにとの願いとなる。

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、
あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エペソ書三・17


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