リストボタン水を求める    2007/2

わが家には直径一メートル足らず、深さ六〇センチほどの円柱型のコンクリート製の古い水槽がある。五〇年以上前にはそれは、山の斜面から湧き出る水をためるために使っていたもので、水道が使えるようになってからは、水槽になっている。そこに金魚を飼っているが、その小さな水槽に、小鳥が水を飲みに来る。広い山域の中のわずかな大きさであるにもかかわらず、さまざまの小鳥がやって来る。メジロが一番多く、キジバト、ヤマガラやヒヨドリ、時にはウグイスも飲みに来る。
山の高さが二〇〇メートルほどなので、谷川も小さく、水を飲めるところは、その谷のわずかの区間でしかない。去年から今年にかけてほとんど雨がないため、その小さな谷はもう水は少ししか流れていない。そのため、小鳥たちにとっては、わが家の水槽は貴重なもの、人家のすぐ側であっても恐れずに入れ替わりやって来る。付近一帯には池のようなものもなく、山全体でも水たまりなどはないから、ごく小さな水槽にすぎないが、よく覚えているのだろう。
私たちも、このような水が必要だ。どこに行っても心を潤すような水はない。この世では、家庭があってもそれゆえに悩み苦しむことも多くあり、またそうしたわずらわしさのために、結婚しない場合でも若いときには予想してなかった孤独や淋しさが、老年になると忍び寄ってくる。
職業生活でも心は渇くことが多いだろう。自分の仕事が評価されず、他のもっと仕事をきちんとしていないような人が、地位が上がっていく、自分との適性などでも悩むこともある。そして外に仕事を持たない場合でも、今度は昔のように家事や多くの子供の育児に時間をかけることもないために、その単調さに苦しむようになる。
健康で不自由なき生活をしている人でも、年齢とともに健康は失われ、また突然予想しなかったような問題が生じることもある。
そのようないろいろの場面にあって、私たちは魂の深いところで潤され、新鮮な力を与えられることを望む。小鳥が、山のあちこちを探しても水がなく、食べ物もない冬に懸命にそれらを探し求めるように、人間もまたこの世という渇いたところに、魂を潤す水と、心を強め、清める霊的な食べ物を求めている。
この世にはどこにもそれはない。職業を持っていても、また辞めても、また家庭があってもなくても、さらに、若くても年老いても、健康があってもなくても、こうした渇きは人の心の奥深いところに残り続ける。
山の一角の、我が家の小さな水槽に来ておいしそうに飲む小鳥たちを見て、これは私たちの姿をも暗示していると感じた。
私たちにとっても、キリストのところ以外には、魂をうるおす水はない。この広い世界にただ一カ所、キリストのところには本当に心を満たすいのちの水があり、誰もがそこに来て飲むことができる。

さあ、渇いている者はみな水にきたれ。(*
金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ書五五・1

これは、今から二千五百年ほども前に言われた言葉である。このようなはるかな昔から、強い呼びかけがなされているのに驚かされる。

*)口語訳で「さあ」と訳されている原語(ヘブル語)は、「ホーイ」という間投詞であって、強い感情を表す語。この語は多くは、人々の背きや裁きを受けることに対する神の嘆きを表すときに使われているが、ここでは、糧(かて)にならぬもの、無用のものを求めてさまよう人々への強い呼びかけの感情が込められている。新しい代表的な英語訳でも、この箇所を、間投詞をそのまま、次のように訳しているのもある。
Ho, everyone who thirsts, come to the waters;
New Revised Standard Version
Oh, come to the water all you who are thirsty;
New Jerusalem Bible


そして、この預言者に記された情熱的な呼びかけは、主イエスの特別な呼びかけにそのまま流れ込んでいる。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・3738

この箇所の主イエスの態度と言葉には特別な力が込められている。祭の最後の最も重要なとき、だれにとも記されておらず、それはあらゆる人々への呼びかけであることを感じさせる。そして立ち上がって、大声で叫ぶように言われたのであった。神は今も声を大にして人間に呼びかけておられるのを、この主イエスの描写で感じることができる。
ここで言われている祭とは、仮庵祭(かりいおさい)のことで、イスラエルの民が、エジプトから解放され、シナイ半島の砂漠地帯を旅していくときその荒野において、厳しい放浪の生活と仮のテントで生活したことを記念するものであった。(レビ記二三・43
このような、荒野の生活は、いつの時代においても、精神的な意味においては続いている。江戸時代は厳しい差別や飢饉、病気に苦しめられた荒野であり、ようやくその縛られた時代が明治の時代になって、一応欧米の人権思想も生れ、自由や差別撤廃の動きも生じたが、相次ぐ戦争によって、また天皇を現人神とする間違った土台が置かれ、厳しい思想統制によってやはり荒野の時代は続き、結局それは太平洋戦争という大規模な戦争となり、数千万の人たちの命や生活が破壊されることにつながっていった。
このような状況もまさに荒野であった。
そしてやっと、平和憲法も作られ、天皇も当然のことながら普通の人間であって、神でないのが明らかにされ、学校教育もほとんどの者が高校教育を受けられるようになった。民主主義となり、自由や平等ということも当然になった。
このように大きく変えられたが、それにもかかわらず、今日の日本の精神の世界には新たな「砂漠化」が進行しつつある。そしてそれが子供の世界にも広がっているのが、いじめの問題である。
このような状況にあって、数千年前の預言者を通して神が熱い愛の心をもって呼びかけ、さらに主イエスを通しても呼びかけられたことは、現代の日本にさらに必要なこととなっている。

人は、周囲の人間から認められることによって満たされる気持ちになる。それゆえ、絶えずまわりの人たちのことが気になり、その評価を求める。認められずに否定されると、次第にその人の心は萎縮して枯れていくことにもつながる。現在の教育の問題では大きなテーマとなっているいじめにしても、認められるどころかその逆の否定されることであるゆえに、学校に行くことができなくなって、時には生きていく希望までも失っていくことになる。
このような状況にあって、いじめてはいけない、というのは当然のことで、本来だれもが知っていることであるが、そのようなことは知っていても仲間にそそのかされ、友達とのつながりを維持して、評価されたいからよくないと知りつついじめに加わる。
いじめられる者も、他の人と同様、周囲の者に認められることを無意識的にせよ心の深いところで求めているから、いじめによっていっそう深い打撃を受ける。いじめられるとは、価値を認めてもらえないということであり、見下されていることだからである。
もし人が、ただ神からのみ魂の水をくみ取り、そこにしっかりと立つときには、理由なきいじめを受けても、受ける傷は小さくてすむであろう。
神は深い愛を持って私たちに呼びかけて下さっている。自然の美しさも、音楽や文学なども、またいろいろの学びなども、みな一種の呼びかけである。私たちが顔をそむけようとするさまざまの問題も、病気や人間関係の難しさなども、みんなそれらを通して、キリストのところへと招き、そこでいのちの水を飲むようにとの神の呼びかけなのである。


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