リストボタン出会いの恵み    2008/7
        深山 政治

「天地の四方の寄合いを垣にせる九十九里の浜に玉拾い居り」
皆さんのよく知っている伊藤左千夫がこう詠った九十九里は、内村鑑三の足跡が濃く残っているところです。この地には内村鑑三に連なる大網聖書集会と横芝聖書集会があり、大網聖書集会は百年に近い歴史があります。この二つの集会に関係する何人もの方が天に帰りました。その中に畔上賢造という方がいます。畔上賢造との出会い、それは私にとって生ける福音との出会いでもありました。
「キリスト教は学問ではなく、生命であると信じます」。そう畔上賢造は語っています。
畔上は二八才で、教師の職を辞めて、九十九里の地にある東金に、農村伝道を志してやって来ました。その伝道は日曜毎に村々を巡って数里の道を歩み、内村鑑三を通してキリスト信徒となった農家で、農村の人々を前に福音を語るというものでした。
 その畔上賢造を通して、十字架による罪の赦しが、如何に力ある福音であるかを教えられました。人間は「自己中心でしか生きることができない」。これが罪の姿であると思います。畔上賢造を通して教えられた、罪の赦しの福音の力についてお伝えいたします。
 畔上は八年に及ぶ九十九里での農村伝道を終え、その後、内村鑑三のもとで全力を注いで伝道に励みました。その畔上を四一才の時、大きな試練が襲いました。突如として小学校五年の次女愛子が天に召されたのです。医者が愛子のジフテリヤを扁桃腺炎と誤診したのです。誤診を信じた畔上は軽い病とのみ思って、それ以上の処置をしませんでした。愛子は最後に「神様がすべてをよくしてくださるわね」と一言語って天に召されてゆきました。
 この愛子の死は畔上に大きな衝撃を与えました。愛子に対して、親として詫びても詫びきれない後悔と、愛なる神がどうしてこのような無慈悲なことをするのかという疑問でした。神の愛を説く身であるために、その苦悶は深刻でした。その後、十年経って始めて愛子についてこう書いています。
「お前の父は地獄の火のまえに立っている自分を見た。しかし、とうとう主の十字架が、今までにないところの輝きをもって、目の前にあらわれた。如何なる罪も贖いて余りある十字架である。どんな重い罪であっても、主の十字架にすがりさえすれば、消し去られる。・・・一時は地獄の火の前に立ったが、その火は、なお自己の理知にたよろうとする心をすっかり焼きつくした。おまえの父は更正したように立ち上がった」。
 畔上賢造はそのどん底から、主イエスの十字架による罪の赦しによって、立ち上がることができたのでした。
このことを知ったとき、私は始めて十字架による罪の赦しの本当の力を教えられました。
 ヨハネ第一の手紙一章七節にこういう言葉があります。
『神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』
 「わたしたちが光の中を歩むなら」とあります。私はかって、この言葉を光の中を歩むにふさわしい姿で、神の光の中を歩むものとして理解していました。
しかし、ここで語られていることは、そういうことではないと、ある方から教えられました。神の光の中を歩むとは、神から出ている愛の光の中に、「あなたの今の姿そのままで歩みでなさい。生活の苦しみ・重荷、病の苦しみ、生きることの悩みを負ったその姿のままで光の中に歩み出なさい」、そういうことであると教えられたのです。
神の光の中に歩み出るとき、「交わりを持つ」ことが出来る、そう聖書は語ります。その交わりとは出会いであります。同じ信仰に生きる人々との出会いと交わり。それ以上に、神の光の中で待っていて下さる主イエスとの出会いがあります。その「イエスの血によってあらゆる罪から清められる」と聖書は語っております。
 畔上賢造の姿を思うとき、ここで語られていることが、そのまま実現していることを教えられます。畔上は、親の不注意で最愛の子を天に送った責任に打ちひしがれ、神の光の中に歩み出たとき、「光輝く主の十字架」に出会い、罪の赦しを体得し、新しく起ち上がる力を与えられたのでありました。
 畔上にとり、それはどれほどの喜びであったことでしょう。神の光の中に、私どもが今の姿のままで出て行くとき、主イエスがその場にいまして下さり、すべての罪を赦し、受け入れ、新しく起ち上がらせて下さるということです。畔上賢造の生涯は、私どもにそのことを教えてくれます。そのような出会い、それは何ものにも優る感謝であります。今日はそのことをお伝えできればと思いました。


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