リストボタン復活について

春になると、それまで死んだようになっていた冬枯れの木もあるものは桜やトサミズキなどのように、葉よりも先に花を開き、あるものは一斉に芽吹き、みるみるうちに葉も大きくなっていく。
だれでも一番望んでいることは、こうした草木のように自分が新しくされることである。
樹木などは自然に新たな芽が出てくる。しかし、人間は放置しておいて自然に新たなものがその精神に芽生えるというわけにはいかない。死んだようになったときに、そのまま放置されていたら、ますますひどくなる。それゆえに、聖書では復活ということが重要なこととして記されている。
復活とかよみがえりというと、キリスト教の特別なことのように思われる。
しかし、新約聖書の原語である、ギリシャ語では、ごく普通の言葉(エゲイロー)(*)なのである。この言葉は、新約聖書では、起き上がる、目覚めるとかごくふつうの言葉としても使われていて、全体で一四四回も使われているのである。

(*)それは例えば次のような例をみると分る。覚めるとか、起きるなどごく日常的な言葉として使われている。
・…ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり…(マタイ一の二四)
・…起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ…(同二の十三)
・…イエスがその手に触れると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって…(同八の十五)
・…中風の人に、起き上がって床をかつぎ…(同九の六)

このようなごく日常的な言葉が、次のように、「生き返る」とか、「復活する」とも訳されている。
・…死者は生き返り、貧しい人は福音を…(同十一の五)
…イエスは、自分が…多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると…(同十六の21)

このことは、復活と訳されるもう一つの言葉である、アニステーミ についても同様である。これは、英語のstand とも語源的には共通している言葉で、ヒステーミ という言葉に接頭語アンがついている形である。そのため立ち上がる、といったように訳されていることが多いが、先に述べたエゲイローのように、「起き上がる」とも訳されている箇所もある。(*)

(*)例えば、次の箇所である。
・…イエスは、…聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(ルカ四の十六)
・…彼女は、すぐに起き上がって一同をもてなした。(同四の三九)

そしてこの言葉はまた、復活というようにも訳されている。
・…彼らは、人の子(イエス)を鞭打って殺す。そして人の子は、三日目に復活する。(同十八の三三)
このように、復活と訳される二種類の言葉はいずれも、起き上がる、立ち上がるといったように使われるふつうの日常的な言葉なのである。
復活と言えるようなこと、それは、死んだ後に初めておきることでなく、この世において、本来だれでもが体験できることなのである。
復活とは死んだ人が生き返ることだから、そんなことは信じられない、と思って退ける人がきわめて多い。しかし、他方では、愛する子供や家族のだれかが、突然に事故などで死んだとき、それは立ち上がれないようなショックとなることがある。そして、生き生きした力が自分の中から消え失せ、いわば影のようなものになってしまう。
また、自分の心の醜さや過去に犯した大きな罪などを思うとき、精神的に立ち上がれず、前進できないと思われること、そのようなことはだれにでも、生じ得ることである。
それゆえ、死者からの復活ということが、信じられないという人でも、立ち上がらせて下さる神を信じることはできる。
聖書でも放蕩息子のたとえにおいては、罪に沈んで自分がもう死にそうになっていたとき、父のところに帰って悔い改めようと、決心したところがある。そこでは、この言葉が、次ぎのように使われている。

…父のところでは食物がたくさんあるのに、私はここで飢えて死のうとしている。立って 父のところへ帰ってこう言おう。…(ルカ十五の十七〜二十、口語訳)

この息子はじっさい死んだも同然であった。それゆえ父は、息子が帰って来たとき、その兄が喜ばず強い不満を表したので次のように言ったのである。
「お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び楽しむのは当然だ」(ルカ十五の三二)
このように、人間は実は死んでいるようなものだ、というのは、現代の私たちにはとても意外なことに思える。そんなふうに見える人はたしかにいる、しかし生き生きとして活発に働き生きている人も無数にいるではないか。それなのに,どうしてみんな死んだようなものだ、などと言うのか、という反論である。
しかし、このような見方は、決してイエスだけがもっておられたのではない。最大の使徒パウロも、次ぎのように書いている。
「義人はいない、一人もいない。すべての人は迷い出て無益なものとなっている。」(ローマ信徒への手紙三の十〜十二より)
このような表現はあまりにも言い過ぎだと一般的には思われるだろう。しかし、これは人間同士を比較するからであって、神という絶対的な正義と愛のお方を前にするときには、人間はたしかにどんな人でもその心の奥深くまで見るとなれば、このように厳しいとみえる評価が下されるであろう。
これは、別のパウロの書簡でも言われている。

…あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(エペソ書二の一)

このような死んだ状態から、違った状態に造り替えられる、そのために主イエスは来られた。
復活ということは、たんに死んだのちに、生き返るといったことでなく、現在のだれもが悩み苦しむ根源となっている、各自の魂の汚れを清め、そこから新たにされること、生まれ変わることをも含んでいる。

…わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は欲望の赴くままに生活し、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、…(エペソ書二の三〜六より)

このように、聖書のなかには、私たちはみな、実は死んでいたのだ、という考え方があるが、だからこそ、そこからだれにでも復活するという経験が与えられるということもまた記されている。太陽は善人にも悪人にもその光を注いでいる。
それならば、その光によって死んだ状態から復活するような新たな力はまただれにでも与えられると考えることができる。すべての人を招こうとして来られたということは、すべての人を新しい命に復活させようという目的のために来られたということをも意味している。

このような意味での復活ということ、そのことはイースターでなくとも、よく私たちも賛美している。
それは、次の賛美である。

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により、命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいと安し(新聖歌二四八)

この世において苦難に出会い、生きるか死ぬかという苦しい状況に置かれた者、そこから救われたときには、たしかに命拾いした、と実感するものである。死んでいたはずの者、それが生き返ったようになる。
わたしの机の上にアジアンタムというシダがある。去年の夏、北海道に行って帰ると枯れていた。真夏の暑さと窓際のために気温も高く、土もカラカラに渇いていて、枯れてしまったので外に出してそのままになっていた。忘れたころ、その鉢のシダから小さい芽が出ていた。植物でも、枯れてしまいもう生き返らないと思って捨ててあったものが、雨が降って思いがけず生き返ったのである。
生き返らせたのは、雨水であった。もし私が外に出したときに、雨が降らなかったとしたら、本当に枯れてしまっていただろう。そんな何でもないようなこと、しかしそれは私にはあるメッセージを与えてくれた。 死んだと思ってもあきらめないこと、水が生き返らせたことである。私たちにとっても、どんなに苦しくとも、命に至る道は続いていると信じ続けることはできる。
この歌のもとになった旧約聖書の詩がある。

…飢え、渇き、魂は衰えた。苦難のなかから、主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救って下さった。…
闇と死の陰から彼らを導き出し、束縛するものを断って下さった。…
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い
望の港に導かれて行った。(詩篇一〇七の五、十四、二九〜三十より)

死んだようになった者を生かす、その力と働きは聖書に満ちている。聖書の最初にある、闇と混沌のなかにあった状態において、神からの風が吹きつのっていたこと、それはそのような状態のなかからでも新たなものを生み出そうとする神の力を暗示している。じっさいそこには、神の言葉によって光が存在を始めた。
そして、創世記の二章にあるような死の世界にも、水がわき上がっていた。
これも、闇のなかに命を、渇いた死の世界にも命を与えようとする神の働きを暗示するものである。
死とは闇である。そこに神のいのちの光が射し込んでくるときには、その闇は消えて、新たな命の世界となる。それが復活の真理である。
絶えず、生かそうとする働き、死んだもの枯れたものをも生かそうとする力を聖書は言おうとしている。
神の箱の前に、枯れた杖が置かれた。神が選んだものは枯れていたにもかかわらずそこから芽を出したという。(民数17章)
聖書は、復活ということ、死んだものあるいは、死んだようなものを生き返らせるというメッセージに満ちている。
神の言葉そのものが、命を与えるいのちの言葉なのである。
これらすべてにおいて、キリストがその完全なあらわれとなった。
この世は、いかに力を注ぎ、さまざまの教育や政治、経済的な努力をしても、次々と弱くなっていく。特定の国もいかに一時期には大きな勢力をもっていようとも、必ず時が来れば衰えていく。支配者も国家も衰退していかざるを得ない。
地球も太陽すらも何十億年という長い時間の流れの中では、全体として、死に向かっている。
しかし、そうした方向にありながら、聖書が示すのは、いのちへと向かう大いなる力であり、方向である。それは、たしかに聖書の冒頭に暗示されている。暗闇と混沌という死の世界にあって、それでもそこに神の大いなる霊の風が吹きわたり、神の言葉によって光が存在した。それは闇は光に勝たなかったという真理である。
また、草木もまったく生えていない渇ききった大地が広がるなかで、そこには水が湧き出ていたという。これらの創世記の記述は、この世が闇や混沌、あるいは渇ききった死の世界であるが、そこには光あり、水のあふれ出る泉があるということであり、それは、いのちへ向かうものがあることを示している。
こうした、混沌と死から、命へと向かわしめる力は、聖書のなかにも随所に見られる。エゼキエル書はとくによく知られている。
この書物は、ユダヤ民族が偽りに引き込まれ、まちがった方向へと押し流されてついに裁きを受けて国が滅び、多くの民は遠い外国(現在のイラク南部)へと連行された。その外国において、とくに神の言葉を受けた一人のユダヤ人がいた。それがエゼキエルであり、彼は特別な神の御計画を神によって知らされた。
そのなかに、次ぎのような箇所がある。

… 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。…
これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。(エゼキエル書三七章より)

これは、ユダヤの民族としての復活が直接的には言われている。しかし、枯れてもう生き返るなどとは到底考えられないような状況においても、生き返ることができる。復活は可能だというメッセージは、現代の私たちにおいてもそのまま成り立つのである。
この命への大きな流れは、キリストによって決定的となった。それはいわば大河のようなものとなって世界に流れ始めたのである。
創世記の最初にあった光は、キリストそのものであり、それは命の光にほかならない。(ヨハネ福音書八の十二、一の四)
また、創世記の二章で現れるエデンの園をうるおす流れ、それはいのちの水といえるものであったが、キリストご自身が、いのちの水なのである。(ヨハネ七の三七)

こうした大きな流れを決定的にしたのが、二〇〇〇年前のキリストの復活という出来事であった。
死者がよみがえる、それはいかなる絶望的状況となっても、たとえ死に至ってもそれで終わりではないという真理である。この真理のみが、いかなる私たちの直面する困難や悲劇的な事態にも打ち負かされない力をもっている。
そしてその力を与えられるには、ただ主イエスを神と等しい本質をもったお方であり、私たちの心の最大問題であるよくない心を赦して清めるために十字架で死なれたと信じるだけなのである。

…はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞くときがくる。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五の二八)

その声は、しばしば思いがけないところから、やってくる。復活のイエスは、どこからともなくやってきて、二人の気落ちした弟子たちに語りかけた。しかし彼らはそれがイエスだとはわからなかった。なにか不思議な気持ちになり、心が燃えた。それでもわからなかった。彼らがイエスを引き止め、ともにパンを食べようとイエスからのパンを渡されたときに目が開けた。そして復活のイエスだと分った。
また、ヨハネ福音書には、石灰岩をくり抜いた横穴状の墓におさめたイエスが復活して、そこに来たマグダラのマリアにうしろから そっと語りかけた。
しかし、このマリアもまた分からなかったと記されている。ところが、その復活のイエスが、「マリア!」と呼びかけたとき、マリアの目はただちに開けてそれがイエスだと分った。彼女は、 「わが師よ!」と叫んだ。
イエスからのパンをもらうとき―それは現代の私たちにとっては、キリストから吹いてくる霊の風(聖なる霊)を受けるとき、初めて目が開けてすぐ後ろに、また前にイエスがいるのを感じる。
あるいは、魂を静めたときに個人的に聞こえてくるみ声を聞いたとき、私たちはそのお方はキリストなのだと分る。
死んだ者が神の子の声を聞くとき、それはまさに今なのである。そしてその声を聞いた者は生きる、と言われた。 これは復活ということが、死んでから、あるいは世の終わりになって初めて生じるのではなく、今も生じ得ることであり、現に生じているのだと言おうとしている。
死と闇と混沌がいかに周囲に広がっていても、静かな細き主のみ声を聞き取るとき、私たちはそこから神の命を受けて立ち上がることができる。そしてこの肉体が死するときであっても、その命は永遠であって、神のみもとへと帰り、イエスの持っているような栄光を与えられて永遠に存在することになる、それが聖書の約束なのである。
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