リストボタン「いのちの水」誌 第六〇〇号の感謝

「いのちの水」誌がこの二月号で、六〇〇号となった。
この小冊子の創刊号は、太平洋戦争後十年余りを経た、一九五六年四月であった。それから、五十五年という歳月、「はこ舟」そして、二〇〇五年の一月号から「いのちの水」と改称した後も続いてきたのは、ひとえに神の助けと導き、そして多くの方々による祈りや協力費(献金)であり、またこの小冊子を福音伝道のためにと用いて下さる方々の支えによるものである。
最初の編集者は、太田米穂(編集期間 一九五六〜一九六五年)、次の編集者は、杣友豊市(編集期間一九六五年〜一九九三年四月号)、そして現在の吉村孝雄は、一九九三年四月号から著者・編集者となっている。(編集交代時の四月号のみ共同編集)
私は、一九六八年に京都の大学を卒業して、理科教育をしながらキリストの福音を伝えるという目標を与えられ、そのために高校教員となり、半年後に徳島に無教会のキリスト教集会があるのを知らされて加わった。
初めて参加した徳島のキリスト教集会は、五人前後の人が集まっており、月に一度の集会をしていた。そしてその次に参加したときに杣友さんがひとり言のように言われていたのを思いだす。
…「はこ舟」をもう止めようと思うことが何度かあったが、神様から、止めるな、と言われて続けている…。
自分で自分に言い聞かせるような静かな口調で言われたことが今も記憶に残っている。

私が初めて「はこ舟」誌に投稿したのは、その二年後、24歳のときで、1970年6〜7月号 (第159号)「社会的平和と心の平和」その次の号には「ストア哲学とキリスト教の相違について」などを書いた。
1972年、 転勤した二つ目の勤務高校では、すでに決定していた教務係から強く希望して図書課に変更してもらい、そこで図書紹介というかたちで校内の教職員と私が教えている生徒たちに印刷物を配布し始めた。
その月刊の図書紹介がキリスト教書に偏っているとの批判を受けたために(キリスト教以外の親鸞の書や宮沢賢治、論語、プラトンなどの書も紹介していたにもかかわらず)、自費で輪転機や用紙を購入し、教職員や生徒たちに贈呈するということにした。
そのような定期的な印刷物の重要性をますます強く感じるようになり、1975年5月に杣友さんと話し合って、それまでの「はこ舟」が隔月発行であったのを、毎月発行とし、原稿と費用を杣友さんと私とで半分ずつ負担しあって発行していくことになった。
その時の書いた原稿のタイトルは、「未信仰の友への手紙から」、「憲法および教育基本法の宗教観への疑問」などで、その次の号には、「科学と信仰」、「定時制高校での勤務の中から」などを書いている。
その後、杣友豊市さんと、18年ほど、ともに「はこ舟」にかかわることになる。杣友さんは「はこ舟」誌8頁のうちの半分弱の原稿を書くのに力を注いでおられた。
書いては消しを繰り返し、不要な部分をはさみで切り取ったり、別のところに貼り付けたり、苦心して原稿を書いておられた。 私は原稿を書いてそのまま原稿用紙で杣友さんに渡しておいたら、それを杣友さんが取捨選択して掲載されるという方式だった。編集の苦心は杣友さんが一人でなさっていた。私は一度だけ、杣友さんから「もう少し文章は練って書いたほうがよい」と言われたことがある。私は次々と書いてそのまま大して推敲もせず、文章表現などもあまり考えないでいたので、そのひと言が心に残った。しかし、20年近く「はこ舟」に共に原稿を書き続けて、注意されたのはただその一度だけであった。

「はこ舟」の創刊号には、次の聖句が巻頭に置かれている。

…人われに向かいて、いざ主の家に行かんと言えるとき、我 よろこべり。
エルサレムよ、われらの足はなんじの門のうちに立てり。(詩篇122の1〜2)

とくにこの聖句が選ばれたのは、創刊した「はこ舟」誌が、ともに主の家に行こうとする呼びかけをその使命とするという方針であることを暗示するものと思われる。
キリスト教はつねに共同体として歩むという特質を持っている。互いに愛し合え、互いに祈り合え、互いに足を洗い合え、互いに励まし、教え合え…等々の言葉が聖書に見られる。
ともに遠くからエルサレムに向かって、その神殿にて神と出会うことを願ってはるばる旅をしてきた。そしてようやく到着した、という喜びがこの詩から感じられる。
それと同様に、「はこ舟」誌によって、ともに御国へと歩み、ともに御国の門へと到達できることを願っての刊行だという願いがここに感じられる。
それは言い換えると、救いの船にともに乗り込もうという呼びかけである。そしてこの願いは600号を迎えた現在においても変ることはない。
人間は弱くて力なきものであるが、ひとたび神とキリストに結びつくときには、驚くべき力を発揮する。パウロもキリスト教の真理が分からなかったときにはそれを滅ぼそうと無益な努力をしていたのであるが、ひとたびキリストに受けいれられたときには、世界の歴史に大いなる変動をもたらすほどの力を彼の書いた手紙が発揮したのであった。
神の国とは何かが全く分からなくて人生の荒海で沈もうとしている人、あるいは暗黒の森で迷い込み力なくし、疲れ果ててもう歩けないといった状況の人、あるいは突然の事故、重い病気などのためにそのまま滅びていこうとする人たち、そのような人たちにキリストを指し示し、ともに御国に向かって行きましょうと呼びかけること、それはとても大切なことと思う。
じっさい、当時の主筆であった太田米穂は次のように刊行の目的を最初に書いている。

…私どもは、今 ノアの時代にも劣らぬような堕落した世界の中で生活し、この世の人と同じく悪の道を歩いている以上、私どもはどうしても自滅する他に道がありませんが、ただ一つ幸いなことは、イエス・キリストを信じることによってのみ、神さまの前に正しい人であると認められ、その救いのはこ舟に助けあげられることが約束され、この世の終わりの滅亡のときがきても、キリストの恵みによって新天地に住まう資格が与えられるので、私どもはノアのように正しい人でなくとも、ただ、キリストの名を信じるだけで、正しい者と認められる。
これがすなわち、真の福音というのであります。
それゆえ、この救いの「はこ舟」に早く乗り込んで、まさに来たらんとする恐ろしい滅びの世界から救いだされるように、みなさんにお知らせする手紙代わりのプリントの名と致しました。
わたし共はこの新天地に住まうべき望みを確信し、まだ見ぬその事実を確認して、一歩一歩それがまことであることを聖書と日々の生活から体験しつつ、前へ前へと進むのであります。(「はこ舟」創刊号 1956年4月8日発行)
「はこ舟」誌の発刊と関わりのあるのは、矢内原忠雄である。「はこ舟」創刊は1956年4月であるが、その4月の20日に矢内原忠雄が、大学関係の会に参加のため初めて徳島を訪れ(最初で最後の訪問であった)、徳島の無教会集会主催の集会で講話をされた。
「はこ舟」のレイアウトは、矢内原の出していた「嘉信」という月刊の冊子にならって作成されている。そしてその矢内原忠雄の講演を聞いてまず心に浮かんできたことを、書き綴ったと、「はこ舟」の編集者であった太田は、次のように記している。

…はこ舟を造ろう、はこ舟を造ろう!! 一日も早く、一人でも多くのノアが出現すべきだ。そしてこのはこ舟に乗り込むべき人々を探して行こう。…
滅亡から救われねばならぬ時は今である。その救われるべきはこ舟はどこにあるか?
イエス・キリストのエクレシアに、その家族として乗り込む以外に道はない。
もちろん我々は、そのエクレシアのはこ舟に乗り込むことだけで終われりとする者ではない。
この世の滅亡から救われるためには、神に祈ると同時にその十字架を負い、いのちをかけて働かねばならない。(「はこ舟」第2号6頁)
また、この第2号には、杣友さんも短文を書いている。
それは、つぎのような内容である。
…敗戦後4、5年ほど経ったころ、徳島の結核療養所に折々訪ねていた。そのときに数人が病室の一室で聖書の会をしていた。それに加わっていた人が郷里の病院に転院した。その地では信仰の友もなく、また家族も老母を残して次々と失われていたが、とうとうその老母さえもなくなった。
その後、なんとか病気はいやされて仕事につくことができたが、信仰のみちびきがなかった。それで矢内原忠雄が発行していた「嘉信」を何カ月分かを送った。それによって支えられたという。その感謝のしるしとして、はこ舟協力費を送ってきた。
「嘉信」は、8頁の身軽さで社会のすみずみまで入り込んで友なき者の友となり、導く者のない信者をも導いて、一人立ちの地を養ってくれるので有り難く思っている。…

このように、太田さんも杣友さんも福音を何とかして伝えて、初めての人が救いを得るようにと心を砕き、またすでに信仰を与えられている人がその信仰を失わないようにとの主にある配慮をつねになしていたのがうかがえる。
はこ舟はこのように、創刊のはじめから、み言葉を伝える福音伝道ということを主眼としている人たちによって支えられてきた。
それは自分がいろいろな書物を読んで研究したから、それを発表するとか、自分の知的探求を他者に知ってもらいたい、という姿勢とは大きく異なっている。
キリスト教の福音が世界に伝わっていくようになったのは、人間の研究心とか学識によるものではなかったし、単なる人間的決意でもなかった。
そうしたものはしばしば誇りとか、そうしたことができない人たちを見下すといったひそかな心情が伴いやすい。
福音伝道の出発点は、すべての人間的なものが打ち砕かれたときに注がれた聖なる霊にあった。キリストの弟子たちが、主イエスを見捨てて逃げ去り、ペテロは三度も主を知らないといって否定したという大きな挫折から、待ち望んでいた聖霊が注がれることによって初めて福音を伝える力が湧いてきた。
そしてその福音とは、キリストは私たちの罪のために死なれた、そして復活した、という単純なものであり(*)、学識や研究、あるいは人生経験といったものとは関係なく語ることができるものなのである。

(*)使徒言行録2章24〜33、3の15、4の10、33、5の30、32、10の40〜43 、13の30〜39 他。

この「はこ舟」の創刊に重要な刺激を与えたと考えられるのは、その創刊より6年前の一九五〇年一月に、堤 道雄が徳島にて「真理」というキリスト教の伝道冊子を創刊したことである。それは、堤が徳島学院に赴任して二年がすぎたころであった。彼は、三年近くの間徳島に住んでいたから、一九五〇年十二月までは、徳島の地で「真理」が発行されていたのである。
この「真理」誌が、「はこ舟」創刊のためのさきがけとなったと言えよう。
そして、現在の徳島聖書キリスト集会の原型である「徳島聖書研究会」が、その堤道雄によって一九四九年六月に創立されている。(「真理」創刊号 一九五〇年四月刊による)
この徳島聖書研究会が、堤が3年後に徳島を去ってからも継続され、そこから「はこ舟」も生まれ、「いのちの水」誌となっていったことを思うとき、堤の果たした役割は大きなものがあったのがわかる。それは彼もそのようにして、徳島の地で発刊した聖書冊子が、別の形で生まれ、以後半世紀を越えて継続されていくということは予想していなかったであろう。
神は人間の想定を越えてその御計画を実現されていくのを感じている。

「いのちの水」誌 六百号に寄せて
垣塚 千代子

「はこ舟」(現在は、改称して「いのちの水」)の創刊から、六百号を迎えるという。編集責任の方は三氏にわたるが、一貫して信仰(のみ)による救い、福音宣教の営みが、今日まで半世紀を越えて祝福されてきたことに、驚くとともに大きな喜びを覚えている。感謝一杯!
「はこ舟」創刊は一九五六年であるが、すでにその七年ほど前から「徳島聖書研究会」の名において、小さな群れながら月に一〜二度の集まりを重ねていた。この会の代表は、太田米穂さんで、その補佐は杣友豊市さんー常に二人は一体となって私どもをリードして下さった。
横浜から堤道雄さんの徳島学院長着任と、彼の紹介で政池仁先生や、黒崎先生の来徳などもあり、無教会という名称や、その信仰が徐々に浸透していくスタート間もない小さな群れであった。
そこには、教会員であった人、内村の信仰によって確固たる救いに預かった人、五里霧中の若者たち、といった方々が加わっていたが、リーダーの方々は伝道に並々ならぬ力の入れようで、私どもを手引きしてくださった。
 太田さんはそういう中で、十字架の福音の種をもっと積極的に蒔き、伝道の充実とひろがりをずっとあたためておられたのであろう。その年の二月ごろ、「文書による伝道」をある日の集会の後で提案された。
この時、同席していた杣友豊市さんから、穏やかではあったが、次のような応答があった。
「近頃いろいろと信仰の小冊子が出ているのだが、じっさいに読まれているかどうか、大方はごみ箱に捨てられている、それほどに人は読まないもんです。反故になる心配がありますからなあ…」と。
杣友豊市さんが、そうした月刊の印刷物の創刊に対して反対意見を表明されたのが意外であったことを覚えている。
杣友さんは、大工という職業にたずさわりつつ、休日には徳島市から二十キロ余りの遠い徳島療養所に足を運んで重症の方の枕もとに寄り添い、永生を語り、讃美歌を歌い、病床にある方々に安らぎをもたらそうとする働きを続けていた。
他方、太田さんは、神学を学び公務員を経て英語の塾で青少年に接して福音を述べていた。それゆえ、杣友さんにとっては、太田さんの提案される文書による伝道に馴染み難いとのお気持ちだったのかもしれない。
 しかしお二人は伝道に生涯をかけておられ、一人でも多くの人にイエスの救いをのべ伝えたい、骨身を削ってもという熱意は共通しており、太く堅い結束があり、一致があった。
そして次の集会では、発行に向かって実際上のいろいろなことが話し合われた。誌名は、「はこ舟」に落ち着いた。(創世記3〜9章)
この「はこ舟」のなかに入る者が皆滅びから命へ、祝福にあずかるように、「はこ舟」が多くの人々の救いに役だつようにという願いを託して決定された。
しかし、発行していく予算のメドが立たないうちにスタート、その時杣友さんは「神様が何とかしてくださいます。」と確信をもって発言されたのが印象的だった。
「何とかなります」の言葉は信仰の入口に立ったばかりの私にはその意味がのみこめず、「ガリ版でよければ…」と発言したもので、それで第一号はわら半紙二枚のガリ版印刷の質素な第一号が世に出たのであった。
ガリ版印刷の「はこ舟」は一度きりで、二号からは活版印刷となった。
計らずも東京から徳島県の地方課に出向されて来られた横山正夫さん(矢内原忠雄に信仰を学んだ)が、集会に出席されるようになり、その直後の二号からは横山兄によって担われ、印刷刊行となった。「はこ舟」誌のレイアウトは、矢内原忠雄主筆の「嘉信」に準じるものとなった。
 杣友さんは一度は「はこ舟」の発行の中止を決意した時機があった。しかし、東京の政池仁からの「はこ舟」の継続発行をするようにとの励ましなどを受けて継続されることになった。そして、その後は、二十八年も「はこ舟」誌の編集に心身を捧げ宣教の役割を遂行し、その後、吉村さんに事後を託されている。器に応じて神は用い給うた。
ハレルヤ!
祝されて六〇〇号を記録するー「いのちの水」誌は奇跡的である。
はからずもその創刊に関わっていたとは何という恵みか…。
 神様は、私のようなこの愚かな者をも赦して下さり、主のもと、魂の隠れ場において頂いたことを感謝せずにはいられない。
「パウロは蒔き、アポロは水を注いだ。しかし育ててくださるのは神である。」
今、「いのちの水」誌は、主と聖霊の光の中にきらめいて全国津々浦々に清らかに流れていく。これにいろいろな形で関っていられる方々の、ご愛労、主にあってひたすらなる吉村氏の上にそして「いのちの水」の上に限りない恵がありますように。
〒569-1025 高槻市芝谷町9の2

「いのちの水」六〇〇号に寄せて
杣友博子

主の御名を賛美いたします。
「いのちの水」誌が六〇〇号を迎えたこと、今、静かに感謝の湧き上がってくるのを覚えます。
 誌は福音の使新として、私の身近に、常に新しい力を届けて下さいました。半世紀に亘る御恩恵の中で、私にとって幸いに思うことは、届くメッセージが私の心に具体的に語りかけてくれたことです。難解な書物のようでなく、それは神様の導きの実感でありました。
 今ひとつは、神の福音は何処にいても、如何なる状況に置かれている者の処にも、いのちの水となって、訪れて下さるという恩恵の実感。近年の私はそのことをしみじみ思うのです。
 どうか神様、
「いのちの水」誌を守り祝福して下さり、今後ともに御用いくださいますように。またその労を共に担っておられる恵美子様はじめ兄弟姉妹を覚えて下さるように。お祈りいたしております。(京都市)
〒610-1103 京都市西京区御陵峰ケ堂町 3丁目7の5

「はこ舟」(「いのちの水」誌の旧名)山梨へ
  加茂昌子

 私の手許に、一冊の古びた手帳に記された1966年9月22日付のメモがあります。甲府における、三講師によるキリスト教講演会の内容です。最初の講師は、徳島から山梨県警本部長として転勤されたばかりの横山氏でした。
 この手帳のメモには、「人を愛することが出来ない」、「生きていることも許されない人間」、「希望を求めていた」などと書かれています。そんな状態だった若き日の横山氏は終戦直後の1946年秋、矢内原先生の今井館へ通うようになりました。
 氏は翌年1月26日に先生から、「罪人の救い主」の御話(ルカ福音書7章の罪深い女)を聞かれました。「イエス様は、みんな知っていて下さる。」そして「太陽の光に、氷が溶ける気持」で横山氏は涙を流して己の罪の赦しを体験した、という御話をされました。私は、とても感動しました。
 その今井館で1956年のクリスマスに、罪に悩んでいた私にイエス様の愛と、矢内原先生の愛が一つとなって注がれ、あふれる涙と共に赦しを与えられました。私はこの共通の体験を、その講演会で横山氏にお話しました。
 そのとき氏は私に、一冊の信仰誌を渡して下さいました。それが、徳島の「はこ舟」だったのです。同誌はこのような経緯で、遠く徳島から山梨の地へはるばる運ばれたのでした。同誌は杣友さん主筆の聖霊にあふれた内容で、難しい信仰誌と違って子育てに忙しい私も毎月楽しみに読ませて頂いていました。
 そのうち、母(加藤美代)も友人たちに送りたいと、まとめて送って頂く様になりました。母が召された後も私はその遺志を継ぎ、その方々や更に私の友人ら、集会の方たちにもと、吉村さんに送って頂くようになりました。

 横山氏から伺った杣友さんの印象は、握手して大きな手だったという事でした。その大きな手で、皆さまに愛を配られたのでしょう。杣友さんとは、生前遂にお会い出来ないままお別れしました。
 しかし1999年に、初めて徳島で開催されたキリスト教(無教会)四国集会に参加しました。その折、杣友さんの三男誠三氏の奥様(杣友博子姉)にお会いして、「ここに父がいましたら、さぞ喜んだでしょう」と言われた御言葉に胸が詰まりました。
 吉村さんに受け継がれた「いのちの水」は毎月絶える事なく、わき出る新鮮な水を届けて下さいます。「はこ舟」以来、なんと44年間も、愛のメッセージを毎月送り続けて頂いている事に驚きました。
 全国各地の乾ける魂を潤し、慰め励まして下さいます。吉村さん初め集会の方々の御愛労を、心から感謝しています。こんこんと湧き出る「いのちの水」に、祝福をお祈りして! 
400-0306 南アルプス市小笠原255

「はこ舟」の思い出       藤井文明

私は一九五七年(昭和三十二年)の秋に徳島療養所で肺結核の手術失敗の後、キリスト教のお話を無教会の服部治先生からお聞きし、心の重荷が軽くなったことを、今でも鮮明に思い出します。
 服部先生は当時の療養所の無教会の方たちがお招きした先生とおもいます。
 私が集会に出席しなかったために、杣友さんには、直接お会いしてお話しを聞いたことはありませんでしたが、療養所内で柔和なお姿をお見かけしたがあります。 
 元気になって社会復帰してからは、キリスト教に教派があることも知らず近くの教会で五十年余り過ごし、この度、事情があって教会から退会し、徳島聖書キリスト集会に参加させていただくようになりました。
 このように導かれてきたのも、一九五七年にキリスト信仰へとお導きを頂いた後、服部先生からは「聖書とキリスト」誌、杣友さんからは「はこ舟」、吉村さんからは「はこ舟」、「いのちの水」誌を、長い期間にわたってお送り下さり、キリスト・イエスの十字架の恵みを力強く、鮮明に解き明かしていただいたゆえと感謝しております。
 〒七七六ー○○一三 徳島県吉野川市鴨島町上下島四二九の六

「はこ舟」〜「いのちの水」の愛読者として
中川 春美

 私の手元には、「はこ舟」の一九七四年四月の一八〇号からが保存されています。
 私は最初から「はこ舟」の愛読者でした。特に吉村孝雄さんが書かれている内容は、目に見えない信仰の世界がよく分かる言葉で説明されていて、もやもやした疑問が氷解していくのを覚えました。
そして、えもいわれぬ魂の世界の美しさ、清さ、高さが目の前に展開され、その世界の元である神様、イエス様に対する憧れで胸が張り裂けそうにいっぱいになった事もあります。
深い深い感動でした。それを共有する事のできる信仰の友も与えられました。「はこ舟」に触発されてたくさんの信仰書も読みました。
 最初の頃書いて下さった「科学と信仰」「科学者と信仰」(一九七五年七月・八月・十月・一九七七年四月・十二月など、)という内容も私の心を揺さぶりました。
 科学者が信仰をもってどのように現代社会に貢献したかという内容で、科学と信仰は表裏一体のものである事も深く理解する事ができました。そして、信仰は迷信でなく科学と対をなすもので、数学的法則も人間の魂の中で起こる法則も星の軌道の法則もすべて信仰の世界と合致するものであり、この世は神が創造されたので、その法則から外れるものは何もない事を理解する事ができました。何を見ても何を感じてもイエス様と矛盾なく結びつくようになりました。
 また、ベートーベンやバッハなど音楽家の事やミレーなど画家の事、賀川豊彦など信仰を持った社会事業家の事も書かれていたり、植物の事、星の事、宇宙の事、また、君が代や日の丸や憲法問題など、ありとあらゆる分野にわたって教示されていて、興味をもって学べる大学のような読み物でした。
 より内容と目的に合った誌名として「いのちの水」に名前が変わりましたが、「いのちの水」誌は「はこ舟」という名称の時から、こんこんと尽きぬ事なく私の元に三七年間流れて来て、魂と知性を潤し力を与えてくれました。
 この「いのちの水」誌は宝の山だと思います。
 私は以前、癌を宣告されて打ちひしがれている人に是非、復活の命、この世だけの命でない永遠のいのちがある事を知ってもらいたかったのですが、自分ではうまく説明できない事に悩んでいました。そこでこの「いのちの水」誌を持参した事があります。このように自分でうまく言えない大事な事を、相手に伝えるという用い方もできました。
 これからも、この「いのちの水」誌を主が祝福して下さいますようにと祈ります。
(徳島県吉野川市鴨島町上浦1337-15 ケアマネージャ)

尽きないいのちの流れに       宮田咲子

「はこ舟」から「いのちの水」へ、そのいのちの流れは絶えることなく、2月には六〇〇号になるという。この機会にと一九七五年頃のものを読み返していると、そこを流れているいのちにふれてこの私もまた、まことのいのちの喜びを知らされたのだと感謝があふれる。

 主は「人もしかわかば、我に来たりて飲め」と言われた。泉のようにわきでる御霊は、川の流れのようにゆたかになるとのことである。これを信じようとしない者は、浅い水たまりのようなものを飲んで魂のかわきをいやそうとしている。
「主よ私たち及びわが愛する同胞を導いて、尽きないいのちの流れに汲ましめたまえ」
一九七八年四月 二二二号  杣友豊市「かわく者は来たれ」より
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 流れるようでありたい、あなたは生命の水が流れているといわれました。心からのことばがそのままに流れ出るようでありたい、いのちのあふれるままに語り、行動して、それがそのまま、あなたの生命の水の流れの中にあるようでありたい。
 今もいる。どこかに必ずいる。生きる苦しさに打ちひしがれ孤独と絶望の波にまきこまれ、まさに沈んでしまおうとしている魂が。主よどうかそうした魂のもとへ「はこ舟」が流れていきますように、主の手がのぞみますように。
一九九七年三月 二〇九号 吉村孝雄「器」より
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 こんなにも一すじの道がある。一すじの流れがある。よどむことなく絶えることなく歩み続け、流れ続けて、その祈りは六〇〇の実を結んだ。これこそ主の御業に違いない。
589-0004大阪狭山市東池尻1丁目2147ー1〜 1ー114(大阪狭山聖書集会)


○はこ舟を運ぶいのちの真清水の わきて絶えざるとわの祝福
(ささやかな感謝の印に)
徳島市 内藤静代


「はこ舟」に乗せられて    貝出 久美子

 わたしが徳島聖書キリスト集会場をはじめて訪れたのは、手話の学びのためでした。信仰の話を聞きたいとか、聖書の学びがしたいといのではなく、ただ手話だけが学びたくて、土曜日にある手話の学びの会に参加していたのでした。
 そのころ、ある教会に通っていましたが、心は神様から遠く離れていました。そしてまたそのことに気づいていませんでしたから、聖書を学びたいとは思っていませんでした。でも心は闇で毎日は空虚でした。
 手話の学びの時に「火曜日にある夕拝にいらっしゃい」と、そのころ徳島でおられた杣友博子さんが誘ってくださっていましたが「別の教会に通っているので十分だ」と思っていました。 また吉村さんから「はこ舟」誌を何度かいただきましたが、それもわたしは「別の教会に通っているので十分だ」と思い読む気持ちにはなれませんでした。家に持ち帰り、気にとめずポンとどこかにおいていました。
 そんなある日、ふとしたことから、「はこ舟」が読みたい、という気持ちになりました。でも、どこに置いたかわかりません。探しました。そして見つけました。マザーテレサのことを書いていました。何となく読んでいくうちに、心が引きつけられました。「ここには本当のことが書かれている」と感じました。そして、この真実が実際にメッセージとして聞けるなら聞きたい。もしかしたら、闇のような心が救われるかもしれない、と思いました。「夕拝にいらっしゃい」杣友博子さんの優しい呼びかけを思い出しました。そして、夕拝に出てみたい、と思いました。
 緊張しながら夕拝に行きました。夕拝のメッセージの中で引用されたみことばで、罪の赦しと救いを得ました。一九九七年の十二月。寒い夜のことでした。
 「はこ舟」が、手話の学びしか関心のなかったわたしを、夕拝への参加へと導いてくれました。小さな冊子は本当に舟になって、わたしの心を主イエスへと運んでくれたのだと感じます。(徳島大学病院 看護師)
779-3128 徳島市国府町延命321の3

「はこ舟」誌との関わり 那須 容平

今私の手元には、はこ舟(現 いのちの水)誌 第525号(2004年10月号)があります。 私はこの号から、はこ舟の読者となりました。私にとって記念すべき号です。
私が初めてキリスト教とはなんであるかを本当の意味で知ることのできた号です。
(以下、抜粋)
…神を見るとは神の心を見ることである。人を見るとはその人の心を見ることである。…
神を見ることができるのはどのような人と言われているか、それは心に何も誇ったり、頼るもののない人、聖書の用語で言えば、心貧しき人である。
自分の心にすがる気持ちがあれば神への心が育たない。主イエスが「山上の教え」で、言われた、「幸いだ」という一連の言葉は、後のほうに書かれている神を見るということとつながっている。

ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。神の国はその人たちのものである。
ああ、幸いだ、悲しむ人たち。その人たちは神によって慰められるから。…
ああ幸いだ、心の清い人たちは。その人たちは神を見る。
(マタイ福音書五・3〜8より)
悲しみを深く抱く者、そしてそこから神を仰ぐ者は、それによって神からの慰めを受ける、神の心がみえてくる、神からの励ましの言葉が聞こえてくるのである。…

この文章を読んで、私の心は高く上げられました。その時の私の心は一番低いところにあったのではないかと思います。私は同時期に、2つの致命的な事柄で、希望の無い状態にありました。1つ目は、環境問題の解決は人間が地球からいなくなることであるという事実です。
ヒルティは「偉大な事柄に生涯を捧げても良いと思える覚悟を持つこと」の重要性を教育の秘訣にあげました。
しかし環境問題(主にエネルギーの問題)に純粋に取り組もうとすればするほど、生涯を捧げても良いと思えば思うほど、いかに自分が無力であるか、人類の抵抗がむなしいことかを痛感させられてしまいました。
これは、生涯をかけようとしていた21歳の私にとって深刻な痛手でした。この時の私はヒルティの言葉は知りませんでしたが、偉大な事柄ということを履き違えていたに違いありません。
2つ目は自分の心の汚さです。いくら道徳的に正しくあろうとしても、心の底ではまったく正反対のことを考え、またその考えから抜け出すことができませんでした。だいぶ長く悩まされていました。
もしこの2つの側面の苦しみが同時に起こらなければ私は、なおも自分の力や努力などに頼りすがっていたかもしれません。
そんな時に、私の思いを知らない母が、カナダのオタワにいた私に送ってくれた荷物の中にあったのが、はこ舟525号でした。
「ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。神の国はその人たちのものである。」
感嘆して、幸いだ!という言われている人は、心の貧しい人たちでした。
私は瞬間的に、「心の貧しい人とは『自分の心には良いと言われるものは何も持っていない』と心底知る人のことだ」と直観しました。そしてその人たちが幸いであると、感嘆している。 その人たちは神の国におり、神の国はその人たちのものだと言われている。神の国とは、なんと、自分が考えていたところと違うところなのだろう。
神の国にまで心が高く上げられた思いでした。
はこ舟では、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(新共同訳)という訳し方ではありませんでした。
もっと力強く、あるいは深く感動して、「ああ、幸いだ。」と原語に忠実に、イエスの心のままに表現されていました。
聖書の言葉がはこ舟を通して生きて迫ってきたからこそ、私の心の底に届いてくださったのだと思います。
567-0849 茨木市平田台3の1マンションフォルツーナ206号(高校教員)


堤道雄と「はこ舟」、徳島聖書キリスト集会との関わり

「いのちの水」600号を記念して、ここでは、徳島聖書キリスト集会の出発点となった集会の創立をされた堤道雄のことについて述べ、そのように一人の人間を導き、さまざまのことをなされる神の栄光をたたえたいと思う。
堤道雄は、別稿で記したように、若き日に徳島に来て、わずか3年間であったが後の徳島の無教会のキリスト教伝道において重要な影響を与えることになった。
敗戦後、横浜に帰った堤は、浜松市の戦災孤児収容所などで働いたあと、一九四八年に遠い徳島に渡り、「徳島学院」(*)の院長として赴任し、キリスト教の真理に基づく教育方針で指導を行った。

(*)非行少年(少女)や親が何らかの事情で養育できなくなった子供たちを養育する県立の施設。このような施設は、感化院、救護院などの名称を経て現在は、児童自立支援施設という名称となっている。

堤は、彼のかかわっていた児童救護施設での経験から次のような確信を得るに至った。

…私は救護事業に従事しているものであります。
救護事業とはいわゆる感化院の仕事のことでありまして、不良少年をいかにして善導するかということが毎日の仕事であります。非常に困難で非常に尊い仕事であります。
私の経験はわずかでありますが、社会事業の一端を担って私の得た感想は、信仰をその根本に置かずしては社会事業はあり得ないことであります。
しかし、驚くべし、わが国の社会事業の大半は無信仰、無宗教であります。 これは社会事業に限らず、政治も教育も経済も科学も信仰なくして成長することができないことが解りました。
信仰こそ、すべての根本であること、神の植えたまわないものは皆抜かれること、これは歴史で日々教えるところであります。
ですから、この世において最も根本的なる事業は福音の伝道である、ということができます。
ここに至って、私が学生時代、内村先生の影響を受けて強い回心を経験し、そのとき深く福音の伝道者たらんと決意したことが決して誤りでなかったことを確信しました。
私は社会事業は伝道なりと思って働いています。
けれども、何とかして直接福音の伝道の方法が現在の私にないものかと考えていました。幸い昨年(1949年)6月、徳島無教会主義聖書研究会を作ることができました。…
今度、この小冊子を出すことをふと思いついて始めることにしました。
私は直感を愛し、直感に従って行動することを尊しとします。直ちにわら半紙と原紙を買い、私は原稿を書き、妻は原紙を切って発行することにしました。
ヘブル書には、「信仰によりて、アブラハムは召されしとき、嗣業として受くべき地に出て行けとの命に従い、その行くところを知らずして出で行けり。」(11の8) とあります。
キリスト者の人生は、これだと思っています。
この小冊子の目的は、聖書の真理をいかに純粋に、大胆に、明白に伝えるかであります。世はまさに神の言の飢饉であります。ただ、神の導きのみを祈ります。
(「真理」創刊号の創刊のことば。1950年4月)

堤は、1949年に徳島の地に、無教会のキリスト教集会を創立した。そのとき彼は30歳、ついで翌年の1950年に、伝道誌「真理」を発刊した。その後、勤務先の徳島学院にて、こどもたちの指導に関しての方針がキリスト教だということで、県の教育関係者との意見の対立が生じた。
堤が院長として赴任したのは県立の施設であったが、彼は、キリスト教によって子供たちの心が変えられ育てられることを願って、施設の子供たちと毎朝礼拝をしていた。子供たちは大きな声で讃美歌を歌い、お祈りをしていた。日曜学校もその子供たちとともにやっていたという。
(「真理に導かれて−堤道雄先生追悼文集」166頁などによる。)

このことが、県の当局の知るところとなり、堤は事実上その職を追われることとなって、彼はその年の12月に横浜に帰った。
しかし、彼は落胆失望することなく、翌年、はやくも横浜の父の自宅において、「横浜聖書研究会」を創立した。こうした彼の行動をたどるとき、福音伝道ということを第一に置いていたのが浮かびあがってくる。
また、彼はキリスト教独立学園とも深い関わりを持っている。1970年のクリスマス講演会の講師として参加し、次いで二年後の1972年の建国記念の日の講師として、「建国記念」という休日制定の背後にあるまちがった考え方の本質を知らせ、平和憲法の重要性を学ばせるために信仰のこと、平和、憲法問題などを語ることになり、以後2000年の2月まで28年間にわたって、講師を続けた。
また、北海道の南西部の日本海岸の瀬棚地方においては、1973年から、2000年まで、の27年間にわたって、数日間にわたる瀬棚聖書講習会の講師として奉仕された。
キリスト教独立学園と北海道の瀬棚地方での聖書講話の時期がほぼ同時期であり、体力の続くかぎり、遠距離であっても訪れて、福音と平和を説き続けたのであった。
また、年若い人たちへの伝道にも力を注ぎ、毎年夏の各地での聖書学校(現在のバイブルキャンプ)での講師も続けた。その聖書学校に静岡から参加していた子供たちの父母たちを母胎として、1979年に、石川昌治氏が責任者である静岡聖書集会が開始された。
その石川氏の息子さんが徳島大学に入学されたために、徳島聖書集会との関わりが生まれた。そして、そのこともあって、石川さんが毎年行かれていた熊本の集会に、2000年の12月から、私(吉村孝雄)が代りに行くようになった。
その熊本の集会とは、1985年4月の熊本での集まりのとき、堤が、「熊本でも集会をやりませんか」と勧められて、数人で始めたことに由来するという。(「真理に導かれて」88頁の右田末人氏の文による。右田氏は熊本聖書集会の責任者。)
また、堤が、27年間にわたって夏期の数日間、北海道の瀬棚地方に聖書講話のために赴いていたが、私はその後を継ぐかたちで、2003年から現在まで、8年にわたって瀬棚の聖書集会にてみ言葉を語るように導かれた。
熊本訪問から、大分や福岡、あるいは広島、島根、鳥取、岡山など各地での集会との関わりがひろがり、また北海道瀬棚からの帰途、各地に立ち寄る機会が与えられて、東北、関東、中部、などのさまざまの集会についてもみ言葉を中心としたつながりが与えられていった。
またさかのぼってみるとき、1991年に、地方としては最初の無教会の全国集会が徳島で開催されたが、その無教会全国集会というのは、堤道雄が、無教会の集会に横のつながりが希薄であって、転勤などで各地に赴任した人たちがどこに無教会の集会があるかも分からないといった状況となり、集会に行けないために信仰が衰えたり失ったりすることにつながることを憂慮され、そこからみ言葉の学びとともに全国の無教会のキリスト者たちの交流を強め、そこから福音伝道が強められることを期して、全国集会を提唱された。
その提唱を、無教会で重要な役割を果たしておられた高橋三郎、関根正雄両氏たちも賛同されて、全国集会が始められ今日に至っている。
そのような伝道的視点から始められた全国集会であるが、第4回まで東京で開催、次は大阪で開催という方向であったが、京阪神地域の無教会の信徒の方々は開催する気持ちがなく、私たちの徳島の無教会集会に阪神の一部の方々が参加して全国集会開催は可能だと判断されたことがもとになって、徳島で無教会の第5回の全国集会が開催されることになった。
このように、神が堤道雄をその若き日に、敗戦後の困難な時期においてとくに呼び出し、いろいろな困難を通って、福音を伝えるための僕として立てられた。
それによって、徳島の無教会の集会、「真理」誌の発刊、それに続いてすでに述べたようなさまざまのことが新しく生まれることにつながっていった。
そして、現在もそれらは続けられ、彼の伝道を支えていた「真理の会」は、現在の「キリスト教独立伝道会」となっているし、無教会の全国集会も継続されている。
これらの一つ一つは、だれも予測できたものではなかっただろう。その時そのときにおいて、神が新たな人や集まり、集会を起こし、予想しなかった人が福音のために働くようになって、次々と波及していったのである。
彼は、戦前の若き日、大学の学生時代に内村鑑三を知り、無教会のキリスト者として歩むことになった。
その内村を最初にキリストに導いたのは、札幌農学校に赴任したクラーク博士(*)であり、また彼をキリストの十字架の福音の本当の喜びに導いたのは、アメリカに渡った後に出会った、アマースト大学のシーリー学長であった。

(*)クラーク(1826〜1886年)アメリカのマサチューセッツ農科大学長。新島襄の紹介により、日本政府が、来日を強く要請した。
一八七六年に札幌農学校教頭に赴任。わずか八カ月の在任ではあったが、その残した影響は大きかった。
彼が別れるときに告げたという「少年よ、大志を抱け」の言葉は有名である。神とキリストを信じて「大志を抱いた」人たちが輩出した。
内村鑑三や新渡戸稲造たちが最初にキリスト教に触れたのはこのクラーク博士による。公立の教育施設において最初にキリスト教が公然と語られたということにおいても異例のことであった。
しかも、それはキリシタンが明治政府が厳しく禁じていた命令が除かれてからまだ三年しか経っていない時期であった。

これらの人たちがいなかったら、内村もキリスト者にはなっていなかったであろう。そして、これらのアメリカの人たちもまた彼らの信仰をその先人から受け取ったのである。
このように、さかのぼっていくと、ついにキリストの弟子たちに達する。
この二千年という歳月、このようにして、神は次々と必要な人間をその御計画に従って呼び出し、未知の場所へと導き、そして新たな人物をキリストに出会わせ、その生涯をキリストに奉仕させてきたのであった。
私たちは単に過去の人の歩んだあとを調べたり知ったりするだけでは単にその人の知識欲を満たすだけで、大した意味はない。
そこから、過去を導き、今も生きて働いておられる神とキリスト、そして聖なる霊のはたらきを深く知り、さらにそのような神の霊を受けることこそが重要となる。
それによって、私たちが土の器であってもそこに生けるキリストが宿り、聖霊の力に満たされ、福音をこの世に提供するための器としていただいて、少しなりとも、この世に福音を伝えていくことができるようになる。
偉大なのは人ではなく、弱き小さな人間を滅びから引き出して大いなるわざをなさしめる神である。
新たな働き人となる人よ、出よ! 主よ、どうかそのような働き人を起こしたまえ!


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