今日のみ言葉
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2012

カツラ(桂) 十和田湖畔   2008.7.29
カツラ(桂)

 

 今日のみ言葉 222
「迷い出た羊を」  2012.12.12

わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。
わたしはあなたの戒めを忘れないからです。
(詩篇119176)

I have strayed like a lost sheep.
Seek your servant, for I have not forgotten your commands.


この聖句を含む詩篇119篇は、詩篇の中でも最も長い詩で、上記の聖句は、その最後の言葉である。日本語訳聖書においても、10頁にもなる分量で書かれている。しかも、その内容は、一貫して神の言葉に関しての詩であり、ほかに例のないものである。神の言葉がいかなる性質を持っていて、自分と神の言葉がいかに深く結びついているかが、実に多様な表現で繰り返し記されている。
神の言葉に関して次々と泉のようにあふれる内容がそこにはある。その最後の締めくくりとして、上記の言葉が置かれている。このことは、この詩の作者がこの聖句の内容を特に重要だとみなしていたことを示すものである。
それは、人間の弱さを深く知っていたこと、それに対して神の言葉を心に留めることの重要性を知っていたことを示している。
ここで言われている「戒め」とは、「神の言葉」を意味している。この詩篇では、「神の言葉」は、教え、戒め、律法、定め、命令等々さまざまの言葉で訳されている。詩であるから同じ言葉を使わず、より内容を浮かびあがらせるため、こうした用語においても多様なものが用いられている。
私たちは、誰でも本来は迷いでた存在なのであり、ごく一部の人だけが迷える羊なのではない。 正しい道、天の国への道から個人も民族、国家も常に迷いでているのがその
実態である。そしてその迷い出た状態はそのままでは、ついに滅びに至る。 苦しい病気に伏せるとき、また、人間関係で見捨てられ、傷つけられた魂、また若くて体は健康であっても、生きる目的がわからなくなり、生きていけなくなることもあり、そうした人は孤独な迷い出た羊となっていくことが多い。
そのようなことは、何不自由なく元気にすごしていると思われる人にも突然襲ってくることがある。
この詩の作者にとって、み言葉はそうしたときでも最後の頼みの綱というべきものであった。 あなたの戒め―み言葉を忘れないですがっているゆえに、神の助けは必ずく
る、探し出してくださる―どこにも道がない、と思われるときでも探し出して救いだしてくださるというのがその確信であった。
神の言葉がいかに重要であるか、それは、失われた一匹の羊がそこから救い出されることと深く結びついているからである。
この失われた羊の救いに関しては、主イエスが語られたことを思い起こす。この詩の作者は、イエスが語られた神の愛を何百年も昔にすでに実感していたである。

あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。…罪人が一人でも悔い改めたら、天において大きな喜びがある。 (ルカ154)

 


自然の中から 日本海の道 2012.7.18

 日本海の道  2012.7.18

れは、今年の7月、舞鶴港から、北海道の南西部にある瀬棚での聖書集会に参加のため、小樽に向うフェリーで撮影したものです。青い空、そしてただ大海原だけが広がるなかに、真っ白い泡をたてて真っ直ぐに進む船の後にできる大いなる道―この青くて白い大路は、私たちの心を天の国へと導く真っ直ぐな道へと思いを誘ってくれたのです。
聖書には、荒野、砂漠地帯における道について記されている箇所があります。
「…そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。…」(イザヤ書358
神の国への道、それはいかなる人間的な産物もそれを汚すことも壊すこともできない。
神ご自身がそこに敷かれたものだからです。
この大海原にできた道も、そうした清められた大路を感じさせるものがあります。
この世に生きる私たちにとっては、生きる道は、曲がりくねっており、随所で落とし穴や危険な箇所があります。しかし、目に見えないところにおいては、こうした真っ直ぐな道が、神の御計画によって敷かれていると思わされるのです。永遠から永遠へと…。 (文・写真ともT.YOSHIMURA




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今日のみ言葉 221

「主の栄光のからだと同じ姿に」2012.11.20

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、

私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる。 (フィリピ321)

He will change our lowly body to be like his glorious body,

by the power which enables him even to subject all things to himself.

 

私たちは、最終的にどのような存在になるのか、それがここではっきりと言われている。私たちは、死んで無になるのでなく、またさまよう霊になるのでもなく、罪ふかく、卑しい、低められた状態―苦しみと悩みに満ちた*存在でしかないにもかかわらず、最終的にはキリストの栄光のからだと同じ姿に変えてくださる、という。

*)上記の新共同訳などでは、「卑しい」と訳されているが、原語は タペイノーシス tapeinosis で、「低くされること」で、ヤコブ書110には実際にこの語は「低くされた」ことを喜べ、というように訳されている。なお旧約聖書のギリシャ語訳では、この語はほとんど「苦しみ、悩み、貧しさ」などと訳されていて、低くされているゆえの苦しみ悩みを指す言葉として用いられている。例えば「私の悩みと労苦を見て…」詩篇2518では、悩みと訳されている。

これが、神が私たちの前途に約束してくださっていること である。

これは、何というすばらしい恵みであろう。年老いてだんだん体力もなくなり、体はあちこち動かなくなり、知的にも衰えていく。病気が重くなるとき、私たちの前途は薄暗いものになって、漠然とした不安や恐れがつきまとうようになる。

そのような病気や老化で、衰えてみすぼらしくなっていく私たち人間の姿が、なんと、神と同じであるキリストの栄光と同じ姿に変えられるという。キリストは愛や真実で満ちており、しかもそれは永遠に

変わらない本質であり、そうしたあらゆるよきものをもっておられる。それがキリストの栄光である。そのようなものを私たちも持つようになるというのである。

しかもそのためには、ただ信じるだけでよい、どんなに汚れたもの、罪深いものであっても、その罪を知り、そこから主を仰いで赦しを乞うだけでいい。

これは、多くの日本人の宗教的習慣となっていること―

死者の霊を落ちつかせ、慰めて現世の者にたたって来ないようにと、死者に食物や儀式で供養をするという発想とは根本的に異なったものである。

聖書で記されている神は、無から有を生み出される神、そして愛の神であるゆえに、私たちはこのようなことをも信じることができるのである。

そして、地上にある間からすでに、信じるだけでこのキリストの栄光を部分的に受け続けていくことができるのは次のようなキリストの言葉からも約束されている。

「心の貧しきものは幸いだ、神の国はそのひとのものだからである。」(マタイ福音書52)。

神の国とは、神の栄光に満ちた霊的な世界である。いかなる悪の支配をも存在しない完全な真実や愛の御支配にある状態である。

それをただ、高ぶりや自分中心等々の罪を自覚し、それを赦していただいた者―心貧しきものであるというだけでいただけるのである。

私たちが地上の命を終え、復活の時に与えられるそのような栄光であるが、この現実の世においても、「神の満ちあふれる豊かさの中から、恵みのうえに、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1の16)と記されているように、信じるだけですでに神とキリストの栄光を受けて歩めることが約束されている。

 


野草と樹木たち シュウカイドウ (秋海棠 2012.9.27  徳島県小松島市

 シュウカイドウ (秋海棠)

 これは、わが家のもので、もうかなり以前から毎年さいています。きいものは20センチにもなる葉(ここには上部の小さい葉しか写っていないですが)をつけ、9月から10月にかけて、淡紅色の花をうつむきがちに咲かせる花です。

この花の学名は、ベゴニア・グランディス Begonia grandis といって、大きいベゴニア という意味です。ベゴニアにはいろいろなものが店頭にありますが、これはベゴニアとは言われていないのは、江戸時代の始め頃から中国から伝わり、中国名をそのまま取り入れて親しまれていること、半野生化しているのもあるほど古くからあるからです。たしかに、花屋で見かけるベゴニアの仲間とは、雰囲気のことなる花です。一般のベゴニアは太陽の光のもとで、公園や家庭で いろいろなものが見られますが、この秋海棠は、日影や湿ったところに咲くもので、花もこのように、落ちついた控えめな雰囲気を漂わせています。

わが家のものも、側の苔むした古い水槽のかたわらの湿ったところで毎年咲いています。

県南の山間部の日影の樹林帯で、この花が斜面一面に咲いているところがありますし、かつて京都の山間部の水がしたたり落ちているようなところでも野生化したものを見たことがあります。

葉というのはほとんどが左右対称なのに、この花は左右非対称という性質をもっています。数知れない植物たちは、花も葉もそれぞれに異なる色や形をもっていて、独自の個性を表しています。神はその創造された一つ一つを日影や湿ったところに生育するこの秋海棠のような花、あるいは苔のような地味な植物、あるいは、日当たりのよいところで育つ植物、イスラエルの死海沿岸のようなほとんど水分もない砂漠地帯でも育つアカシア等々、千差万別です。 そしてそれらが神を讃美していると実感できるものがきわめて多いのですが、人間の場合は、さまざまの罪を犯す存在であり、神を讃美するように変えられるには、神の力を受けることが必要なことを思います。

(文・写真ともT.YOSHIMURA
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今日のみ言葉 220  2012.10.7

「苦しみは神の真実のゆえ」

わたしを苦しめられたのは

あなたの真実のゆえです。

あなたの慈しみをもって

わたしを力づけてください。(詩篇1197576

In faithfulness you have afflicted me.

May your unfailing love be my comfort.

 


ここには、深い神への信頼がある。神の愛を信じての信頼である。自分が苦しみを受けているとき、それはなぜなのか、例えば病気の苦しみの場合は自分の不養生、あるいは理由も思い当たらない、また体質だ…等々は思い浮かべるであろうが、その苦しみは、神の真実ゆえなのだ、というように受け取るだろうか。

病気以外にも、私たちが直面する苦しみや悲しみなどは実にさまざまの理由から生じている。まったくの偶然的な災害、あるいは事故、また自分の罪、判断力の欠けたところから、さらに悪しき者たちからの苦しみ…等々。

この詩の作者は、そうしたさまざまの苦しみをも、そこに神が働いていないしるしだと受け取るのでなく、神の真実ゆえに自分に与えられたのだと実感しているのである。

信仰とは、神の愛と真実、そして清さ、変ることなき正しさ等々を信じることである。その真実があるからこそ、私たちがどんなに罪を犯してもなお立ち返るときには赦してくださる。その真実があるからこそ、数千年にわたってそのような神を信じる人は絶えることがない。

私たちが直面する苦難は人によって大きな差がある。耐えがたいような苦しみに会う人もあれば、死にたいとは考えないほどの苦しみで終わる人もいる。しかし、何らかの苦しみや悲しみ、それが大きいほど、私たちはどうしてこんな苦しみがあるのか、しかも祈っても祈ってもその状況が変わらないのか…と信仰も揺らぐことがある。

そのような時にこそ、私たちは神の真実を信じ続けていくことが求められている。この詩の作者は、人の真実は揺らぐことあり、裏切ることはあっても、神の真実は決して変わらないことを確信していた。そのうえで神の慈しみ―愛によって力づけられることを祈り求めた。

私たちの日々も、そして苦しみのときにもこのように神の真実を信じ、その愛を求め続けていきたいものである。

 


野草と樹木たち   ヒガンバナ 2012.10.4 徳島県小松島市

 

ヒガンバナ    2012.10.4     徳島県小松島市

ヒガンバナは、緑の最も濃い9月に時期を定めていっせいに野草とは思えないような華麗な赤い花を咲かせるゆえに、また葉を見せずに咲くというほかの多くの草花とは異なることもあり、また人間には有毒なリコリンという成分を含むということなどから、特に昔から知られてきた花です。

日本全国に分布している花ではなく、東北や北海道では見られない花で、北海道に行ったとき、ヒガンバナは見たことがないと言われた人がいて意外に思ったものです。

残念なことに、ヒガンバナは、日本では間違った知識、言い伝えのゆえに広く愛好されることはなかったといえる花です。

この花が、野草として見られるのは、山でも人家のある付近に多く、ほかの野草のようにまったく人家のない、人のすめないようなところに咲いたりしないために、このヒガンバナは人間の生活とかかわっていたことが推定されています。この花の球根(鱗茎)は、良質のデンプンを含んでおり、水でさらすことによってリコリンが水に溶けて除かれ、デンプンが残って食用になり、冷害などで米ができず飢饉となったときには、それを食用としていたと言われています。また、薬用としても、漢方では、咳止めや去痰、催吐薬に用いるとのことです。

有毒成分を含むといっても、冬に美しい花をよき香りとともに私たちに見せてくれるスイセンもヒガンバナ科であり、やはり同じリコリンを持っています。

以前に、スイセンの葉をニラの葉と間違って食べて中毒を起こしたことが報道されていたようにスイセンも有毒成分を持っているのですが、こちらのほうは全くそのような有毒植物という意識を持たれていないのです。マンジュシャゲとも言うのは、サンスクリット語で、マンジュサカという言葉があり、それは「赤い花」、「天上の花」を表すことから来ているといいます。

ヒガンバナの仲間としては、山に見られるキツネノカミソリや、花の美しいナツズイセンなどがあり、さらにこうした花から多くの園芸用品種が作られ、リコリスと総称され、50種ほどにも及び、ヨーロッパでは、愛好されており、日本でもヒガンバナを道路の中央分離帯の街路樹の根元にたくさん植えている通りを見たことがあり、次第に、愛好する人、庭に植える人も増えています。

私の子どものころは、ヒガンバナに対する偏見、間違った考えがあり、さわってもいけない、などと言われたものですが、それはまったく根拠のないことです。昔は植物に対する正しい知識がなかったため、こうした間違った言い伝えが未だに残ってしまっているのです。

ヒガンバナの球根は深く土中に入り込んでいて、移植ごてなどがないと採取できないものですが、付近の畦道などから採取して庭に植えると毎年鮮やかな花を咲かせてくれます。

ヒガンバナの独特の美しさ― とくに緑一色の山野に咲く姿はほかに類のない光景を生み出すものであり、初秋の美しい彩りとなっているゆえに、この花も神の特別な被造物の一つとして、愛好するようになりたいものです。(写真、文ともT.YOSHIMURA
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今日のみ言葉 219   2012.9.11
「あらゆる力にうち勝つ権威を」

私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た。

蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力にうち勝つ権威を私はあなた方に与えた。

だからあなた方に害を加えるものは何一つない。(ルカ101819

I watched Satan fall like lightning from heaven.

Look, I have given you power to tread down serpents and scorpions and the whole strength of the enemy;

nothing shall ever hurt you.


この世に生きるとき、私たちを苦しめるのは、サタン(悪)の力である。私たちの心のなかに、また家族や周囲の人間やさまざまの出来事のなかに、そして国家間においてもサタンの力は至るところで私たちを苦しめる。それは私たちを分裂させ、苦しめ、悲しみを与え、より大規模になれば戦争という形をとって無数の人たちの命を奪い、苦しめていく。

そうしたサタンの力に対して私たちはどうすることもできない。学校教育がどんなに発達しても、そして平和の重要性が説かれ、さまざまの学問、芸術などが普及してもなお、人間の魂に入り込んで悪へと誘うサタンの力に対抗できずに敗れてしまうことは至るところで見られる。

こうした状況にあって、イエスは、すでにその闇の力(サタン)が、明白に落ちていくのを見たのである。これは啓示である。私たちの周囲では、このようなことは見える現象としてはなかなか見られない。逆に、善きものの力が打ち負かされたり、滅ぼされていくのを数多く見せられている。

しかし、悪の力が現実には至るところではびこっているにもかかわらず、原理的に落ちていった存在であることを神からの啓示として、主イエスは知っておられたのである。

このことが本当に私たちの魂の深きところで確信となっているならば、この世のさまざまの悪しき出来事においても、揺るがせられることはないだろう。

この主イエスの言葉は、たとえ信じる人たちが、命を奪われるような最悪の事態となっても、その人は復活し、神のもとに帰ることができるのであって、私たちを滅ぼす悪の力を霊的に踏みにじり、勝利する力を与えられているという確かな約束なのである。

私たちがそのような悪の力が落ちていくのを見ることができず、逆にしばしば善の力が落とされていくように見えるこの社会にあって、私たちと比較にならない神の目をもって見られたこと―それが、この主イエスの言葉なのである。

 


ニッコウキスゲ(日光黄菅)秋田駒ヶ岳(標高1,637m 2012.7.20撮影

 

ニッコウキスゲ(日光黄菅)    秋田駒ヶ岳(標高1,637m)   2012.7.20撮影

駒ヶ岳という名前の山は全国にいくつもあり、これは秋田県にある山で、高山植物の豊富なことで知られています。この山は、8合目までバスが入るので、バスをおりるともう高山植物が見られます。

今年の夏は体調が十分でなく、この山に登れるとは予想していなかったのですが、盛岡市から山形県鶴岡市の集会に移動する途中の宿舎がこの山のふもとであり、幸いこの日は、体調も山を少しなら歩ける程度に回復してきたこと、しかも、8合目という高いところまでバスが入るということで、終点から少しでも登ってその付近にある植物を調べたいと思ったのです。そして、できれば写真を撮影し、この「今日のみ言葉」で紹介できたらと考えたのです。 ちょうど天候がとても恵まれ、バスの終点から登りはじめると折々に高山の植物が見られるようになり、この写真にある地点ではニッコウキスゲの群落が現れました。

この葉がスゲ属に含まれるカサスゲ*という植物の葉を小さくしたようなものであり、黄色の花を咲かせるということから、 キスゲ(黄菅)と言われ、 最初日光付近の山に多いと思われたこともあって、ニッコウキスゲという名前がついていますが、各地に見られるものです。

*)スゲの仲間は何十種類もあり、そのうちカサスゲ(笠菅)は、その名のとおり、その丈夫な葉を乾かして蓑笠を作るのに用い東北の山の頂上に近いところで、はるかな昔からこのように、清い山の大気を呼吸して咲き続けてきたこの花、それは人間の汚れとは別世界に生きてきた姿を示しており、見るものに沈黙の中から、語りかけてきます。 (写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 218  2012.8.10

「一切のことを知らせてくださる」

その方(キリスト)が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。(ヨハネ福音書425

When he comes, he will explain everything to us.


私たちに一切を知らせてくれるお方がいる、そのようなことがあるだろうか。

これは井戸端で出会ったひとりの女に、キリストが真理を語られたとき、その女が言った言葉である。

この言葉のとおり、キリストが、地上に来られて、宣教をはじめたとき、人間の罪とその赦し、神の愛や真実の深さ、死を超える復活等々、それまでだれも考えたことのないような、あるいはごく不十分にしか知らなかったことを、宣べ伝え、多くの人に知らせることになった。

キリストご自身が、つぎのようにこのことを繰り返し言われたことから、この女の言葉によって神が語られたのがわかる。

「聖霊が、あなた方にすべてのことを教える。」(ヨハネ1426

「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく知らせる。」(同1613

過去、現在、そして未来をみても、至るところに未知のこと、謎のようなことで満ちていて、私たちの生活において直面する不可解なことは、私たちが置かれている人間関係だけを見ても常に生じている。さらに、日々のさまざまのこの世の混乱や悪はいつまで続くのか、去年のような大地震や津波、それに何らかの意味があるのか、まただれでも、何らかの問題や悩みをかかえているが、それは解決できるのか、苦しい病気の人にとっての最大の問題は、いつ治るのか、そもそも私たちは何のために生まれたのか、私たちの前途に何が起こるのか、死の彼方に何があるのか、この地球や地上の生物は最終的にどうなるのか…そのような大きな問題でなくとも、自分自身の心の弱さ、醜さはどうしてなのか…いつの時代でも、いかなる状況にある人たちでもみなこうした問題をかかえ、それはみな深い謎である。

しかし、そうした一切に答えるお方がおられる、というのである。

しかも、学問や科学技術の発達とは全く関係なく、孤独な人、無学な人、病気で苦しみにある人たちにも、その謎に答えてくださるという。

私自身、ふりかえってみて、この世に満ちている謎、不可解な問題が、キリストを信じて私の心のなかに受けいれたとき、たしかにそれらの果てしない謎の一部であるにしても、いろいろなことが明らかにされていき、閉じられていた世界が開かれていったのを実感した。

そして最終的には、私たちはここにあるキリストの言葉が成就する。それは、この私たちを束縛している体を離れて、霊的なあたらしい復活のからだを与えられるとき神の国を受け継ぐといわれ、主と顔と顔を合わせて見るとも言われている。そしてキリストの栄光の体と同じかたちに変えてくださると約束されているからである。この弱き、とるに足らない存在がキリストと同じかたちへと変えられる!それによって一切の謎、不可解なことは明らかにされるであろう。それは信じがたいようなことであるが、そのような大いなる約束を私たちはただ信じるだけで受け取ることができるのである。(フィリピ書3の21


野草と樹木たち アサツキ (浅葱)北海道南西海岸の岩場にて 2012.7.12撮影

  アサツキ(浅葱)    北海道南西海岸の岩場にて  2012.7.12撮影

小樽から、北海道の南西海岸を南に、車で100キロほども走っただろうか。この花の咲いていたのは、絶壁を伴う岩場があり、日本海の荒波が打ち寄せるところでした。ふつうは人が行かないやや危険な場所に咲いていたのがこの花です。咲いていた場所は、冬季には、激しい風雪が吹きつけ、塩分を含んだ海水がたたきつけるようにしぶきがかかるところであり、植物が生きていくにはとても厳しい環境です。それゆえに、薄い紅紫の美しい花をつけているのを初めて見いだしたときには驚きをもって見たものです。

これは、食用のネギの仲間だといえば、うなづかれる方もおられると思います。食用ねぎの仲間なのに、こんな荒波のしぶきが打ち寄せる岩場に生きているのです。

野菜は人間に特別に保護されないと生育できない弱さを持っていますが、このアサツキは最もそのような保護とは縁のないところに咲いています。

ネギの仲間には、ヤマラッキョウも美しい花を咲かせます。ずっと以前、徳島県のかなり深い山中で、ヤマラッキョウに出会ったとき、そのいろいろな草や灌木が生い茂るところだったので、そのような環境にはなじまないような美しさがあって、何十年も経た現在も印象に残っています。

このアサツキという花は、厳しい環境に生き抜いて花を咲かせており、荒波を受け続ける岩の荒々しさとの対象が印象的です。

このような植物の姿は、人生の荒波や厳しさにもかかわらず、あるいはだからこそいっそう清められ、霊的な花を咲かせる一部の人たちのことを思い起こさせ、神の御手がはたらき、守るときには、通常では耐えがたい環境にあっても、なお霊的に育っていくことを感じさせられます。(写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 217  2012.7.10
「望みの港へ」

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと

主は彼らを苦しみから導き出された。

主は嵐に働きかけて沈黙させられたので

波はおさまった。

彼らは波が静まったので喜び

望みの港に導かれて行った。(詩篇1072830

They cried out to the LORD in their trouble,

and he brought them out of their distress.

And he commands the storm,

and it is calmed into a gentle breeze, and its waves are still.

They were glad when it grew calm,

and he guided them to their desired harbor.



この世で生きるかぎり、さまざまの予期しない問題が生じてくる。予想していなかった善きことが与えられこともあるが、この世を生きていくとき一人一人が、他の人にはないような苦しい問題が生じてくるということは至るところで見られる。病気や事故、家族、学校や職場等々での人間関係、自分の罪からくる苦しみ等々、他人にはわからない難しい状況が生まれてくる。

そのようなとき、その苦しみがひどいほど人間に向って訴えてもわかってはもらえないし、そこから救いだしてもらうことも難しい。聖書が私たちに一貫して指し示しているのは、この聖句にあるように、そのようなときに訴え、叫ぶ相手がおられる― 神こそがそのお方だということである。神は人間とちがって、目にも見えず、人間同士のように直接にその慰めを聞いたり、愛のまなざしを受けることができない。しかし、私たちの心が真実であって真剣に神に求めるときには、心のなかに、明確ではなくとも、神の御姿をおぼろげながらであっても実感でき、そのお方からの励ましを聞き取ることができるようにと導かれる。

この世のさまざまの苦難は、嵐であり、海のただなかで、大波に呑み込まれそうになる状況と言える。この詩の作者は、そうした現実の嵐に直面しつつ、そこから神に求め続けた。そして与えられた。神がその嵐に働きかけてとどめてくださったという経験を与えられたのであった。そして魂の深い平和を与えられ、目的地である神の国へと導かれていった。

この詩は、「人生の海の嵐に」という讃美になって広く親しまれてきた。「いと静けき港に着きわれは安らう救い主イエスの手にある身はいと安し…」

この世の嵐にもまれ、苦しみの海に沈みそうになっている数知れない人々が、いまから二千数百年以上昔に実際に経験されたこの詩のように、その苦しみや悲しみから救いだされて、静かなる港―神のもとなる憩いへと導かれることを願ってやまない。

 


野草と樹木たち   コオニユリ(小鬼百合)伊吹山(滋賀と岐阜の県境、標高1377m 2010.8.6撮影

 

コオニユリ(小鬼百合)     伊吹山(滋賀と岐阜の県境、標高1377m)  2010.8.6撮影

伊吹山は、1400mに及ばない山であり、かつ9合目まで車道がついているので誰でもが近づける山です。そしてその9合目付近から頂上にかけて、夏には、多くの高山性の野草が咲いて比較的狭い範囲を歩いても変化の多い植物に出会うことができます。

この、コオニユリは、ふつうのオニユリが、堤防や野山に見かけるのに対して、かなり高いところや湿原で見いだされるもので、オニユリよりやや小型で、ムカゴができないということで区別されます。徳島の剣山(標高1955m)につながる1700mほどの山の高原でも色鮮やかに咲いていたのが思いだされます。

写真のものは、標高1000mを越えるところで、山々を悠然と見つめつつ咲いている風情があり、緑一色のなかで、鮮やかなオレンジ色がひときわ印象的です。

新鮮な大気、その澄みきった高山のなかにあって、その大気をいっぱいに吸って喜ばしく咲かせているのを感じます。

人間とちがって、どこまでも純粋な美しさ―それはあらゆる美の根源であり、創造者である神ご自身の創作によるからです。こうした高山での花は、周囲の山々からの呼びかけを聞き、それに応えていっそう色鮮やかに咲いているような雰囲気があります。

主を讃美せよ… ハレルヤ!という語りかけが、聖書の詩篇の終わりの部分に繰り返し現れます。

この写真の風景は、清くあれ、美しくあれ、そして山々のように泰然たれ… と無言の讃美を歌い、私たちにも語りかけてくるものを感じます。(写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 216  2012.6.10

「日々、私たちを担い、救われる神」

主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。(詩篇68:20~21)

 

Praise the Lord,

who carries us along, day after day;

He is the God who saves us.

Our God is a God of salvation,

and to GOD, the Lord, deliverances from death.


私たちの日々は、さまざまの問題が生じてくる。子どものとき、元気にあふれていてこの世の闇を知らないとき、あるいは成人してからも特別な事故や病気、職業上でも困難など起こらない限り、自分の力で生きているように思っていて、自分を担ってくれるものなど考えることもしない。


しかし、ひとたび病気になり、苦しみにあえぐことになったり、家庭の問題が深刻な状況になったり、職場にて耐えられないようなことが生じたときには、生きていけないと感じることが生じる。そうでなくとも、若きときから、すでにこの世の問題や人間関係に悩み、この世の闇を思い知らされたときには、やはり生きることに望みがなくなる。

?
そのようなとき、このみ言葉にあるように、日々私たちを担って下さる神、その苦境から救って下さる神がおられるということを知ることはいかに大きな恵みとなることだろう。自分で自分の苦しみや病気を担えない―老齢になるとこれはいっそう切実になる。自分の犯した罪ゆえに事態がもとに戻らないことを深く思うほど、その自らの罪をも負いきれないと感じることになる。

?
また、家族に難しい病気をもった人、あるいは障がいをもった家族や、介護の困難な高齢者を担う責任のある場合、そのときも、担いきれない重さに苦しまねばならなくなる。


「星の王子さま」という童話に、ある星に酒飲みがいた。王子さまが、なぜ酒を飲むのかと尋ねたら、彼は、「忘れたいからだ」と答えたというところがある。これは、自分自身や周囲の人たちの罪深い現実に日々直面して、それをひとときの間でも忘れて、アルコールという化学物質の力で一時的に陽気になり、重荷などなかったような気持ちになりたいということである。


どんな人でも担えない重荷、それは死の力が迫ってくることだと言えよう。さまざまの内容をもった各人の日々の重荷の苦しみも、それは、その重荷が死に近づかせようとする力をもっているからである。この詩の作者は、日々の重荷を担って下さる神は、人間の最終的な重荷である死ということからも解放して下さるということを知っていた。


主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ福音書1128)と言われたが、この言葉は、上にあげた聖句と響きあうものである。たしかに、キリストは死の力に勝利され、私たちに復活の力を与え、最終的に死の力からも解き放たれることを約束してくださっている。この真理を信じることができるのは何と大きな恵みであるだろう。

 


野草と樹木たち ウツボグサ シソ科 日峰山(徳島県小松島市) 2012.6.10撮影

 ウツボグサ    シソ科   日峰山(徳島県小松島市) 2012.6.10撮影

野生の花としては、大きく、美しいこの花は、6月になると紫色の花がその特徴ある花穂(かすい)に次々と咲いてきます。この色合いや形の美のゆえに、かつて写真雑誌の表紙に大きく取り上げられていたことがあります。唇形の花びらの下部をよくみると、こまかな鋸歯がついているのがわかります。創造主はこのような小さな部分にもその英知をもってなされているのを感じます。

これは、日当たりのよい山野に自生し、高さは2030cm。野生のものは、あまり見られないものです。このような美しい花は、見つけると抜き取られてしまうことが多いからでもあり、また繁殖は土などの条件が合わないと難しいようです。私が出会ったもののうちでは、徳島県の1500mほどの高丸山の山頂付近に自生していたものや、山形県の月山(がっさん)にて、タテヤマウツボグサという高山性のもの、あるいは、四国最大の河川である吉野川の河口から30Kほど上流のあるところだけに群生しているものとかが印象的に残っています。その他、各地の山を歩いていると、花の時期を過ぎて褐色になった花穂に出会うことは折々にあります。

ウツボ(靫)とは、円筒状の矢の入れ物のことで、この花の花穂がそれに似ているからです。しかし、この花の花穂からは、矢の入れ物とは全くちがって、唇形の花が下から次々と現れる花の入れ物のようです。このウツボグサは、日本以外にも北半球の温帯に広く分布するとのこと、この花穂は花が終わると、次第に褐色となり、夏枯草(カコソウ)とも言われます。これは、生薬として用いられ、利尿剤として知られ、腎臓炎、膀胱炎などにも用いられ、ヨーロッパにおいても民間薬として、結核や胃腸の病に用いたと記されています。

このように体にとっての薬となる野草ですが、さらに、見て美しく、それゆえに心の薬ともなります。その他の植物も、ただ群生しているだけでその緑色の広がりは心をいやすものです。

都会ではこうしたよき植物に直接に接することが難しいですが、万能の神は、求めるものには、心の畑によき花を咲かせることができます。「荒野に水が流れ、砂漠に花が咲く…」(イザヤ書35章)と、聖書の預言者が記していますが、私たちの一人一人の心の荒れ地に神がこのようなよき花を咲かせてくださいますようにと願います。

(写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 215  2012.5.10

「私は道であり、真理であり、命である。」

わたしは、道であり、真理であり、命である。(ヨハネ福音書146

I am the way, and the truth, and the life. 

 

この簡潔な表現のなかに、私たちに必要なすべてがある。「道」がわからない、これはいつの時代にも誰でもが持っている問題である。私自身もキリスト教の真理を知るまでは、歩むべき道がわからなくて、苦しんだ。それは大学に入学していろいろの学びをしても一向に解決できなかったし、友人や大学の先生たちもそのようなことを全く語らなかった。知らなかったからだった。

自分の本能や欲望のままに生きていくのが、自分の道だ、というような主張も昔からある。こういうことは、体が元気で、老年の弱さを経験していない人のいうことである。ひとたび病気や事故のために体が不自由になったり、年老いてくると、そうした自由気ままな生活は当然できなくなっていく。それゆえに、こうした道は必ず破綻する道なのである。

キリストは愛のお方であり、しかも復活して神と同じ存在となっておられるから、キリストを信じてキリストに結びついて生きていくときには、その道は消えることがない。そして病気や事故にあって苦しみのときには、いっそうその道に歩むことを強められ、死を迎えて、この道は、永遠の平和と清い国である神の国へと通じている。

永遠に変ることなき真理、こんなものはあるのか、という疑問を多くの人は持っている。これも、原発大事故で明らかになったように、学者や政治家、裁判官、マスコミなど、実にさまざまの領域の人たちが、原発に関して間違ったことを言ってきたのをみてもわかるように、いったいどこに揺るがない真理があるのか、何を正しいと信じていいのかということが切実な問題として浮かびあがってきた。

これは原発だけの問題でない。この世界のいろいろな出来事、自然の姿などがどんな意味を持っているのか、どうなるのか等々、それらに関しての真理は本来誰も持っていない。あとから啓示されて悟るのである。人間の能力はきわめて限定されていて、例えば、明日、自分の身に何が生じるかも誰一人予見できないし、自分の心や他人の心に何があるのか、それもわからない。

永遠に変わらない「真理」があるのかないのか、そうした真理があるのなら、それに従って生きるということが最も重要なことになるし、真理そのものが持っている祝福の力を受けることになる。自然科学的な真理も重要であるが、病気や家族の問題などで耐えがたい苦しみにあるとき、こうした学問的な本を誰が読むだろうか。大多数の人たちが、こうした学問的真理などまったく無縁であった古代社会から、人間は霊的な真理によって生きてきたのである。それを最も簡潔に表したのが、キリストこそ真理ということである。この真理こそは、私たちが死の淵に近づいても、なお私たちを導く力を持っている。

次に言われている「命」であるが、これが一番大切だという思いは、だれでもが持っているであろう。しかし、その大切な命は、またとてももろく、一瞬の事故で失われてしまう。しかし最も価値あるもの、それは何があっても壊れないようなものでなければならない。このことからも、私たちの普通思っている肉体の命以上のものこそが、本当の命なのだということが浮かびあがってくる。それこそ、ここで言われているキリストの命、神の命である。宇宙を創造し、いまも支えておられ新たなものを常に生み出している神の持っておられる命であるゆえに、それは永遠である。

この永遠の命を受けることこそ、私たちの目標である。キリストが十字架にかけられて死なれたのは、私たちに道を示し、真理とは何かを示すことであり、また私たちにいかなる事故や病気、災害などがあっても、決して壊されない永遠の命を与えるためなのであった。そのために妨げとなっている私たちの心の罪をぬぐい去るということ、それがキリストの十字架での死の意味なのである。

 


野草と樹木たち ハクサンチドリ (ラン科) 黒岳にて(大雪山系標高1984m 2009.7.21撮影

ハクサンチドリ   ラン科   黒岳にて (大雪山系 標高1984m ) ハクサンチドリ   ラン科   黒岳にて (大雪山系 標高1984m )

ハクサンチドリは、中部地方の高山から北海道といった寒い地方の山に咲く花です。最初は、白山* に多いとされたことと、千鳥が飛んでいるのに似ていることかとら、この名前が付けられています。花色は、赤紫色で、下のように、葉に斑入りのものもあります。斑入りのものは、ウズラバハクサンチドリ(鶉葉白山千鳥)と言われます。その葉がウズラの羽のような斑があるからです。上の写真のものからそれほど遠くないところに見られたものです。

* )白山の山域は、石川・福井・岐阜・富山の4県にわたっている。標高2,702m 。日本100名山、花の100名山、日本3名山などの一つとして有名。

これは、ランの仲間で、一般の人には、ランというと、胡蝶蘭やシンビジウムのような園芸店によく見られる洋蘭を思いだす人が多いと思います。これら洋蘭はもともと熱帯地方で見いだされたものをもとにして作られています。

日本では野性状態でのランは、採取されることも多く、なかなか見られないものが多いのですが、最も身近なランの仲間は、芝生や空き地に見られるネジバナです。

この写真のハクサンチドリはシベリア地方のような、氷点下数十度になる地域にも咲くということで、標高も高くて厳しい寒さにもかかわらず、このような美しい花はそれに耐えて生き残ってきたのに驚かされます。

このような野草は外見は弱々しいものですが、他方では、氷雪で何カ月も閉ざされているようなところにあっても、枯れることがないという強靱さを持っています。

その不思議な強さとともに、美しさと清さを持っており、それが人の心を惹きつけるのです。神は、野草やその他の植物にはそれぞれに、弱さのなかにも不思議な強さを与えています。

私たち人間も、さまざまの点で弱さを持っていますが、厳しい試練にも耐えるためには、神に求めて、神からの力を受けないと、植物とちがって、悪の攻撃によって内なるよきものが、枯れてしまうのです。それゆえに、主イエスも、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたのです。(マタイ福音書77

人間はこうした植物の清い美しさに接することで、神の国の美や清さを知らされ、霊的な力とともに清めをも求めるように導かれます。(写真、文ともT.YOSHIMURA

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 今日のみ言葉 214   2012.4.12
「幸いだ、悲しむ人々は」

ああ幸いだ、悲しむ人々は。その人たちは慰められるからである。(マタイ福音書54

Blessed are those who mourn: they shall be comforted. (Mat 5:5 )


悲しむ人々が、幸いだ、というようなことは、一般的にはまず言われないことである。聖書においては、こうした予想もしないことが言われていることがしばしばある。

ここで用いられている「悲しむ」という原語は、人から誤解されたり、わかってもらえなくて悲しいとかいった日常的に生じるような悲しみでなく、旧約聖書のギリシャ語訳ではその多くが、愛する者の死を痛切にいたみ悲しむといった箇所で使われているし、新約聖書でも死などに関する深い悲しみをあらわすときに用いられている。

例えば、ヤコブはその愛する子のヨセフが死んだとの知らせを受けて嘆き悲しんだ。(創世記3734

あるいは、イエスの十字架の処刑を人々が嘆き悲しんだ…(マルコ1610)のような箇所である。英訳の、mourn という語も、やはり死や特別な不幸に関する悲しみを表す語である。

このことからわかるように、主イエスがここで言われたのは、私たちの魂が、愛する者の死のような、取り返しのつかないような事態に直面して経験する深い悲しみにある人たちに対して、「ああ、幸いだ」(*)と言われたのである。

*)原文は、makarioi(幸いだ) hoi(冠詞) penthountes(悲しむという動詞の現在分詞形の複数形)― マカリオイホイペンスーンテスで、英訳文は、原文の感じを日本語訳よりもよくあらわしている。まず、幸いだ!という言葉が、間投詞のように冒頭で言われているのである。

それは、とても意外なことであり、このような言葉を聞いた人たちも、とても驚いたことであろう。幸いだ、といえるのは、そのような深い悲しみがないところにある、というのは一般的には、ごく自然なことだからである。なぜ、幸いなのか、それは、そのような深い悲しみのときにこそ、神との真実な結びつきが与えられ、その神から、慰められ、励まされるからである。

ここで、「慰められる」と訳されている原語は、「励まされる」とも訳される言葉で、じっさいにそのように訳されている箇所もいろいろあり(*)、日本語の慰める、といった柔らかな語感にとどまるのでなく、積極的に勇気づける、励ますといったニュアンスを持った言葉である。

*)あなた方はこれらの言葉によって互いに励ましあいなさい。(Ⅰテサロニケ418 )なお、この「励ます」という言葉の原語は、パラカレオー。これは英語訳では、つぎのようにしばしば encourage (励ます、勇気づける)と訳されている。encourage one another with these words.

慰めるという英訳は、confort という英語が多く用いられるが、この語も、もともとは、con fortis(強い、力あるを意味するラテン語)であり、単に、泣いている者を一時的に安心させたりするような意味でなく、力付けるという意味を持っているのである。

このようなことからわかるのは、愛する者の死とか取り返しのつかないような打撃を受けた悲しみにある人たちに、そのことにもうち勝つあらたな力を与えられる道を指し示したものだとわかる。

そのような特別な悲しみがなぜ起こったのか、その理由については自然災害のようなことも含めて、よく分からないことがいくらでもある。なぜ自分だけがこんな目に遭うのか、という疑問である。

しかし、そうした疑問のただなかではっきり言えることがある。それを主イエスが言われたのである。その悲しみのなかから、神を仰ぐ、愛と真実の神、キリストを仰ぐときには、必ず傷ついた魂、絶望的になった魂に新たな力が与えられ、励まし、あるいは慰めが与えられる。その悲しみがなかったら与えられなかった神との深い交わりが生まれるゆえに、幸いだ!と言われたのであった。

ここにおいて、この世のいかなる悲しみにあっても、この単純なキリストのことを信じることによってうち勝つという道が開けているのがわかる。それはだれでも試してみることができる。能力や、過去の罪、あるいは年齢などに関わりなく与えられる究極的な道、万人に与えられる悲しみのなかから新たな力を与えられる道なのである。

 


野草と樹木たち   イブキフウロ 伊吹山 2010.8.

 イブキフウロ  伊吹山 2010.8.6

これは、フウロソウの仲間で、薬草として知られるゲンノショウコもこの仲間です。淡いピンクの花びらの先端が三つに分かれた珍しいもので、北海道や本州中部以北に見られます。伊吹山に見られるものは、日本での西南限となっているとされています。草丈はこれは3050 センチ程度です。伊吹山には、このほかにも、ハクサンフウロや、ヒメフウロ、ミツバフウロなど美しいはな咲かせるものがいろいろあり、四国の剣山にもシコクフウロというのがあります。

これらのフウロソウの仲間のうち、道端にも、よく見られるものは、アメリカフウロソウです。これはごく小さい花で、外来種によく見られる強さ、踏みつけられてもそれに耐えて生きる強さを持っています。また、園芸店によく見られるものは、南アフリカ原産のゼラニウムですが、これもフウロソウの仲間です。

それに対して、この写真にあげたものなどは、寒い地域の山でないと見られないのです。

このようなさまざまの変化形は、何のためにあるのか、不思議に思われます。この花のように切れ込まずに丸い花びらのものが同時に同じ地域に見られるのですから、花びらが切れ込む必要は、この植物が生きていくうえでは何も必要がないからです。それ自身が生きていく上で必要がないにもかかわらず、こうした花びらの形や、色、模様、あるいは、茎に見られる細毛の有無など、いろいろと変化があり、葉のかたちもだいたいよくにていますが、少しづつ異なっています。そして、薬用となるのは、この仲間のうち、ゲンノショウコのみです。

神の創造物には実にさまざまの変化があり、人間においても、さまざまの外見や能力、身体的な特質が異なるのですが、そうしたさまざまの変化ある姿が全体として、創造主の英知と力を表しているのを感じます。

春になると、いっせいに木々は芽吹き、草も成長して葉を広げ、花を咲かせますが、それぞれにみな形や大きさ、色合いなども違っていて、一つ一つの植物がまたそこから出てくる葉もそれぞれに形や大きさも異なるものとして姿を表してきます。

万物の創造の神は、無限の多様性を生み出すお方であり、それゆえに、人間世界においても、いかに人間的な考えでは絶望であり、行き詰まっても、神はまったく新たな道、だれも予想しなかった道を開くことができるのであり、それゆえに、神は、「希望の源である神」(ローマの信徒への手紙1513)と言われているのです。(写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 213  2012.3.10
「主はすべてを喪失した者の祈りを」

主はすべてを喪失した者の祈りを顧み

その祈りを侮られなかった。

天地が滅びることはあるだろう。

しかし、あなたは永遠。(詩篇1021827より)

He will regard the prayer of the destitute, and will not despise their prayer.

The earth and the heavens will perish, but you endure.


私たちを顧みてくださるお方は、その祈りを知ってくださる。祈りとはその置かれた状況が厳しいほど、それは深い悲しみや苦しみ、痛みを訴えるものとなる。だれにもわかってはもらえない、そして魂のその苦しみはだれにも分かつことができない。そのような状況にあっても、なお、そうした状況を知ってもらえてしかも、新たな力を与えられる、それは愛の神、万能の神しかいない。

魂の傷が深いほど、それは血液がからだをめぐるように、その痛みは全身に浸透していく。しかし、そこからの祈りは必ず神は顧みてくださる。

それはいかなる事態になっても、変ることのない愛の神であるから。

はるか2500年以上も昔であっても、この詩の作者は、透徹したまなざしを持っていたゆえに、天地のような永遠とみえるものすら、有限であることをはっきりと自覚していた。この詩人は、それゆえに、また神の不滅の愛に関しても、同じようにはっきりと示されていたのである。

神の永遠、それは単にいつまでも存在するというのでない。その愛と、真実、さらにその万能が永遠だということである。

私たちが本当に必要なのは、そのような不滅の存在であり、そこから求める者、苦しむものに変ることなく手を差し伸べてくださる神の愛の御手なのである。

私たちが、大いなる困難に直面し、これからもその状況は相当期間続くような状況に置かれた時、かつては関心を持った人であっても、時とともに次第にその関心を失っていくであろう。

しかし、いかなる状況にあっても、またどんなに歳月を重ねようと、決して私たちを忘れることのないお方がおられる。それが神であり、キリストである。主は、いかに人知れない苦しみであっても、きっとそれを見て下さっている、―すべてを失った窮乏にあって、その叫びや祈りを聞いて下さっている神を信じ、その神の愛の御手に導かれることこそ、私たちの究極的な救いの道である。

 


野草と樹木たち    カツラ(桂) 十和田湖畔 2008.7.29

 

カツラ(桂) 十和田湖畔   2008.7.29

カツラ(桂)という樹木の名前は、広く知られています。地名としても京都市には、桂があり、私が京都の大学に入学して数カ月下宿していたところでもあり、その桂には桂離宮があって日本史教科書にも載っています。また、人名としても桂小五郎などが知られています。

そのように、名前としては有名ですが、じっさいの桂の木を知っている人は、ごく少ないようです。

わが家の前方8キロに標高800m近い中津峰という山があり、その登山口の渓流沿いに、りっぱな多数の枝分かれした数株の大きい樹木があり、秋になるとその丸い葉は、イチョウのような美しい黄色となり、地面に落ちると付近一面に黄色の絨毯で敷きつめられたようになっていました。

それは、印象に残る樹木だったので、高校時代から知っていたのですが、何という木なのか当時はだれも知りませんでした。それが桂でした。この木は、直径が2m、高さ30mにも及ぶ堂々たる大木となります。この写真のものも、取り囲むのに67人も必要になるほどの大木で、根の近くからいくつもに枝分かれした桂の木の独特の姿をしており、近づけばその力強い姿に引きつけられたものです。

野性のものは、私は、その中津峰山以外では、徳島県内では、剣山(標高1955m)の頂上に近い渓流沿いのもの、徳島と香川の県境の渓流沿いのものなどごくわずかしか見たことがないのです。

この写真の桂の大木は、十和田湖畔で見いだしたもので、ここに至るまでの道沿いにも桂の立派なものがいくつか見られました。桂という漢字のもともとの意味は、中国のモクセイを意味していたとのこと、カツラという名前そのものは日本古来からあったもので(この名前は、香りを出す、つまり香出カヅと関連あるとも)、それを香り高いという共通点から、中国の桂の木に宛ててカツラと読むようにしたと考えられています。中国では、桂という漢字は、香り高い樹木の総称としても使われるとのこと、肉桂(シナモンのことで、日本では、ニッキとして知られています)、月桂樹(ローレル)なども、よき香りある樹木ですが、これらにも、桂の漢字が含まれています。

桂の葉を採取して数時間経つとよい香りを出しはじめ、数カ月は持続します。秋の落葉の季節にこの桂の木に近づくとそのあたりは芳香が漂っているというほかに類のない特質をもった木でもあります。

大木は、その側に立つとき、その樹木が耐えてきた数々の風雪、豪雨など厳しい試練が思われ、いかなる事態にも倒れることなく、数百年という歳月を生きてきたその力強さが伝わってきます。そばにたたずむだけでその力が伝わって来るものです。

こうした大木の不動のすがたは、私たちの心をいやすものがあり、それはその樹木を長年にわたって支えてきた創造主たる神の力を感じるからです。

私が今までに、とくにそのような大木の力を感じたのは、徳島県の奥深い山域にある高丸山(たかまるやま標高1439m)の頂上に近いところに群生するブナの大木たちでした。もう30年以上も前に初めて登ったその山で見たのですが、まっすぐにそそり立つその太い幹はただ黙しているだけで、絶えず私に語りかけて来るものを感じ、それゆえにしばし立ち尽くしたことを思い起こします。

聖書の詩篇に、「神はわが岩、大いなる岩」などとよく歌われているのは、こうした力強い樹木を創造された神の力を、岩のごときものとして感じていたのがうかがえるのです。私たちも、神に祈りをもって接することによって、そのような揺るがぬ力の一端を、日々与えられたいものです。 (写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 212   2012.2.4
「私はあなたたちの老いる日まで背負っていこう」

わたしはあなたたちの老いる日まで

白髪になるまで、背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書464

Even to your old age and gray hairs I am he, I am he who will sustain you.

I have made you and I will carry you; I will sustain you and I will rescue you


神が愛の神、導いて下さるお方であることを、この聖句は親しみやすい言葉で告げている。私たちは一人で老年という時として厳しい状況を歩いていくのではない。必ず神が私たちを担い、背負ってくださるという。

しかも、それは、私たちを創造したのは神であるゆえ、どんなことがあっても、神ご自身が私たちのことを顧みて下さるという。

この短い箇所に、原文のヘブル語文では、「わたし」という神ご自身を指す一人称が6回も使われている。(英訳では原文の強調した表現が反映されている。)

このように、わずか1節のなかで、「私が、私が…」と繰り返し言われているところは聖書全体でもほかにはない。それほどに、ここでは神ご自身が熱心に言い含めるように私たちに向って語りかけて下さっているのである。

人間は途中までしか面倒を見ることができない。どんなに愛の深い人間であっても、その人自身が重い病気になったり高齢化してくると他の人のことを考える余裕がなくなってくるし、遠いところに離れるとか、心が変る、考え方が違って来る、あるいは本当のことを言わなくなるといったことで、かつての親密な関係はひび割れ、失われていくも多い。そしていずれかの死によって最終的に失われていく。

しかし、神はいかなることがあろうとも、私たちのほうで神を信じ続けるかぎりは決して見捨てない。それどころか、私たちを背負って行ってくださるという。

この聖書の言葉には、人間というものが自分の足で歩いているように思っていても、実は神によって担われているのだという深い見方がある。

たしかに、私たちの呼吸ができること、歩けること、食物が与えられていること等々、日常生活ができているのは、自分の力でできていると思い込んでいるが、当然の病気や事故でたちまちそのようなことはできなくなる。

すなわち、自分の力を超えたある力によって支えられているからこそ、私たちは生きていて、日々生活できているのである。神が何らかの目的で、ひとたび捨て去ろうとすれば、あるいは罰を与えようとすればたちまち私たちは生きてはいないのである。

信仰を与えられて初めて、実は神が私たちを支え、担って下さっているのだと感じるようになる。

しばしば荒涼としたこの世にあって、人の世の冷たさや不真実に心を痛め、傷つけられて生きていけないという思いにかられることもある。しかし、そのような時にこそ、このはるか2500年ほども昔に言われた言葉が、新たな輝きをもって迫って来て、それによって支えられた人たちは無数にいるであろう。

病気や老齢化によってついには私たちは歩けなくなり、寝たきりになる場合も多く、そして最後に死を迎えるであろう。しかし、そのようなときでも、神は歩くこともできない私たちと共にいて、その魂を担い、永遠の御国へと伴ってくださるのである。


野草と樹木たち

 ハクサンイチゲ (白山一花) キンポウゲ科

ハクサンイチゲ (白山一花)キンポウゲ科月山にて 2010.7.30

この純白の花は、月山の頂上への急な上りの道に咲いていたものです。付近にはまだ雪渓が一部残っている状態で、この花は、本州中部の高山に咲く野草です。キンポウゲ科の花は、葉がこのような切れ込みのある形をしているのが多く、カラマツソウの仲間や、チシマノキンバイソウ(千島金梅草)、ニリンソウなど美しい花も多くあります。

白山にちなんで名付けられていて、イチゲとは、一花と書きます。

高さは、15cm40cmほど、花の直径は2cm 程度です。雪が溶けるころに咲き始め、大きな群落をつくって咲くのも見られます。全く人間の手が入っていないこのような寒冷地の高山の野草、その白さは、またとくに心を惹くものがあります。

空の星、野の花といいますが、とくにこうした東北の高い山々に咲く花は、人の汚れを全く知らない天の国の清められた純白を感じさせるものがあります。

この月山に登ったときには、雨が降るとの予想で、午後でもあり、登る人もほとんどおらず、静寂のなかでこうした神の直接の御手になる植物たちとの交流を与えられたのです。

周囲の緑の草原状の山の斜面には、あちこちにニッコウキスゲやコバイケイソウ、モミジカラマツなどが見られ、野草たちの声なきシンフォニーが奏でられていました。

そして、どうしてこのような、清くて美しい花々が、はるか昔から、だれも人間が登らないような所でも咲き続けてきたのか、その不思議さにも打たれるのです。

神は、こうして予想もしないところに、まただれも見ることのないようなところにも、その万能の御手によって完全な美をたたえたものを配置されているのです。人間の世界にも、私たちの気付かないところに、神のわざなるそうした清い心を蒔いて育てておられるのだと思ったのです。(写真、文ともT.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 211   2012.1.2
「神の生きた言葉によって新たに生まれる」

あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、
すなわち、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
Ⅰペテロ1の23詩篇91011より)

You have been born anew, not of perishable seed but of imperishable, through the living and abiding word of God.

[

人間を本当に変える力をもつもの、それは人間の言葉や学問、経験、あるいはネットや本などの知識でもない。それは神の言葉である。神は、目には見えないけれどもじっさいに生きて働いておられるお方、その神の永遠性といのちをそのまま内蔵しているのが神の言葉であり、それゆえに人間を根底から変える力を持っている。言い換えれば、新たに生まれさせるほどの力を持っているのである。
私自身が根底から変えられたのは、小学校から大学にいたる学校教育ではなく、友人や周囲のひとたちの経験や言葉でもなかった。それはたしかに、新約聖書に記された短い神の言葉であった。
人間のさまざまの意見、思想、学問などですら、それは「朽ちる種」でしかない。学問が人間の魂を本当に生まれ変わらせる力を持っているのなら、戦前とくらべて現在では、大学・短大の数は、1000を越えるほどに多くなっているのだから、はるかに昔より、生まれ変わっていく人が多くなっているはずである。しかし、じっさいには全くそうでない。
福島原発の大事故もまた、科学技術を学問的に学んだ人たちが偽りの絶対安全論を語り、政治や法律、経済などを学んだ人たちがその偽りの議論を用いて、日本の人々をあざむいてきた結果として生じたのではなかったか。聖書に記されているように、私たちの知識は部分的なものであり、完全なもの(キリスト)が来たときには、部分的なものは廃れる。(Ⅰコリント139-10
パウロ自身、当時のとくに高度な教育を受けて育ったものであったが、なお生まれ変わることはできず、キリストの真理を迫害していく状態にしかならなかったのである。
人間が本当に新たに生まれるには、人間の言葉でなく、「朽ちない種」、すなわち神の言葉が不可欠である。そのような力を持っているゆえに、神の言葉こそ、年をとっていく間にあっても、その魂を新しく生まれさせていくことができる。
「外なる人は衰えても、私たちの内なる人は、日々新たにされていく。」(Ⅱコリント416)と言われているとおりである。
年老いていく人間にあっても、たえず新たなものへと変えられていくことが可能なのである。しかし、記憶力も、判断力も鈍ってくるのにどうしてそのようなことが言えようかと、思う人もいるだろう。
神の言葉によって日々新しくされていくというしるしは、聖書にある、「いつも、いろいろなことについて感謝せよ、絶えず祈れ」という状態により近づいているかどうかでわかる。
私たちが、かつては気にも留めていなかったような、ささやかなこと―手足が動かせること、日々呼吸ができること、見えること、衣食住など、日常の一つ一つに神の愛からのものとして受け取り、苦しいことであってもそこに必ず神がその苦難を用いてよきへと導かれようとしていると信じることができるなら、そのような魂は新しく造られているあかしとなる。
新しい年を迎えて、私たちも朽ちることのない種である、生ける神の言葉を日々受けて、日々新しくされて1年を歩ませていただきたいと思う。


野草と樹木たち

モミジカラマツ    キンポウゲ科     月山にて   2010.7.30

ミジカラマツ キンポウゲ科月山にて 2010.7.30

この野草の名前は、モミジカラマツといいます。高さは2050cm、北海道と、本州の中部から北の高い山にみられるものです。これは、山形県では北寄りにある、標高1984mの月山での撮影です。中央部と右後方の白い部分は、雪渓です。この写真は、730日に撮影したものですが、このように、頂上に近いのでなお雪渓が残っているのです。カラマツソウの仲間にはいくつかありますが、これは、写真でもわかるように、葉が大きなモミジのように分かれているからです。この撮影場所よりも下の地域で黄色のニッコウキスゲが多く見られ、そこにも一部この花が混在していたのです。
雪と野草の花が同居しているといった光景は、関西の山ではまず見られないものです。8月になってもなお残るということは、相当な積雪があることがわかります。その厳しい寒さと重い雪にも耐えてこの植物たちは芽を出し、短い夏に花を咲かせるのです。
雪が消えていくころに咲くこの純白の花は、あたかも雪の清い白色をそのまま譲り受けたかのような感があります。太古の昔から、こうした厳しい状況にあって花を咲かせ続けてきたこの野草は、繊細な美しさと強靱さを併せ持っており、神の御手によるゆえに途絶えることなく続いてきたのだと思わせるのです。
人間のよごれに染むことなく、清い大気のなか、透明な風を受け、厳しい寒さに耐えて咲く白い花々は、あたかも天上の清いコーラスを奏でているかの雰囲気があります。(写真、文ともT.YOSHIMURA