今日のみことば


(2019年)

  (文、写真ともT.YOSHIMURA

今日のみ言葉28「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」2019.12.10

闇の中に住む民は

大いなる光を見た。

死の地、死の陰に住む人々に、光が射してきた。(マタイ福音書416


The people that lived in darkness have seen a great light;

and for those who sat in the region and shadow of death light has dawned.


私たちは、闇の内にある。それは政治の世界を日本や世界でみても、また個々の人間についてもだれでも何らかの闇が心にある。日本が自殺大国といわれるのも、その闇がその人間全体を覆ってしまったとき、死に至るゆえに、この科学技術や経済の進展した日本でも、ひとたびその内部を見るときには、深い闇が人々を包んでいるのがうかがえる。いま元気いっぱいはたらいて何の空しさも感じていない人たちも、いずれ闇ー死の中へと向っていく。すべてのものは時が経つとともに滅び闇に沈んでいく。太陽さえも究極的には消えていく。闇は宇宙に満ちている。

このように物理的にも精神的にも至るところに闇がある。

しかし、聖書は、そうした人間や宇宙に満ちている闇のただなかに、光が存在する、しかもそれは太陽や星々の光のように有限でなく、永遠の光であり、しかも人間の魂をもその内奥を照らす光であることを、最初から宣言している。

はてなき闇と空しさの満ちた世界に、神が光あれ!と言われたことによって光が生じた。(創世記13

そして二千年前に地上に生まれたキリストは、その光の具体的な表れであった。

数々の電飾、LED などの発達により、物理的な光がいかにきらびやかに満ちていようとも、それらは人間の深い闇には射し込むことはない。生きることさえ絶望となっているような痛みや苦しみ、悲しみの深淵には、到底入っていくことはできない。

そこに射し込む光、その闇の心に昇ってくる光こそ、キリストだった。

キリストの光は、いかに重い罪を犯した者であっても、兄弟親族からも、さらにどんなに人々から見捨てられ、軽蔑されても、なお心から求めるだけでそこに射し込んでくる。

そしてこのことは、じっさいに体験できることであり、そうした何らかの体験を与えられた人がキリスト者となる。

求めよ、さらば与えられんというキリストの言葉の真実性がここにある。

野草と樹木たちコバイケイソウとミヤマキンポウゲ木曽駒ヶ岳 2019.7.26

 コバイケイソウとミヤマキンポウゲ   木曽駒ヶ岳    2019.7.26

白いすっくと立っている花は、高山の花として広く知られているコバイケイソ

ウ(小梅蕙草)。数年に一度たくさん咲くので、多くの花が咲いて壮観だったからと2年後も訪れたら、ほとんど咲いてなくて付近の景観そのものが

まるでちがって見えたので驚いたことがあります。

(福島県の吾妻山系での経験)

この花の撮影地点は、多くの人が訪れる氷河がけずった平地となっている千畳敷と言われる地域から大分登ったところの標高2800m付近で、厳しい寒さ、風雪にさらされる環境にあり、そこでもこのように大きく育ち、力強い驚くべき生命力を感じさせています。

そして競い合うように、またハーモニーをかもしだすようにして咲いているのが、鮮やかな黄色いミヤマキンポウゲ。キンポウゲ科の植物は、タガラシ、キツネノボタンなど小さい川べりや田の畦道などにもよく見られるものから、オダマキ、シュウメイギク、テッセン、等々美しい花々や、有名なトリカブト、白い十字架の花センニンソウ等々、よく知られている花たちが含まれます。


このミヤマキンポウゲは、平地の野草よリ大型で見る人の心にまで届くような美しい色彩をもって、緑のひろがる急坂に群生していました。

まことに、高山に咲く植物たちは、美そのものであり、厳しい氷雪に耐える強靱さを繊細な美しさのなかに秘めて、しかも人知れず咲く姿は、神の国から澄みきったメッセージを語り続けているのを感じさせます。

(なお、この写真は今夏、北海道の瀬棚での聖書集会からの帰途、長野の集会での途中に登った山での撮影です。木曽駒ヶ岳は、標高2,956m中央アルプスの最高峰です。(写真、文ともにT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 288 人間に従うよりも、神に従う」   2019.11.10

私たちは、人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録529より)

We must obey God rather than men!

 私たちは常に何かに従っている。幼いときは、両親、とくに母親に従い、学校に行くようになれば、学校の先生に従う。会社に勤めるなら、その上司に…というように、どこに行ってもこの地上に生きるかぎり、私たちの上に立つ人に従うのはごく当然のことである。


しかし、人間はしばしば過ちを犯す存在である。戦前も上に立つ人間ー天皇から政治家、軍人、教師やマスコミ…等々ほとんどは、中国やアジアへの侵略戦争を正しい戦争、聖戦とし、大きなまちがいを犯し、日本軍は、膨大な人たちを殺傷することに至った。

現代においても、政治、学校、職場、などにおいても、繰り返しまちがいが行なわれている。こうしたことからすぐにわかるのは、人間を超えた揺るぎないものこそが、私たちの従うべきものだということである。

それは時代、地域、年齢等々を超えて、あらゆる人間にあてはまる真理であり、歴史上で、その真理を究極的に体現したのはキリストであった。そのキリストにそうした本質を与えたのが神である。その神とは、唯一の愛と真実、そして正しさに満ちた存在である。

ここに引用した言葉は、当時の国で最も権威ある大祭司や宗教的指導者たちが、キリストの復活など語ってはならないと厳命したのに、ペテロたちは、それに従わずにキリストの復活を証しすることを止めなかった。そして、牢にいれられてもなお、屈することなく、人の言うことでなく、真理そのもの、神に従うべきことを主張したのである。

これは、命がけで語られた言葉であり、同様のことは、殉教さえも覚悟してキリストのことを証しし、伝えようとする人たちによって、長い歴史に繰り返し現れてきた。

そのような厳しい状況でなくとも、私たちの日毎の生活のなかで、つねに人に、人間的なものに従うのか、神に従うのか、ということが問われている。

朝起きて まず、人間的な思いにしたがってテレビ、新聞といった人間に関わる出来事を見て、そうしたものに自分の心の世界を従わせるのか、それともまず、神の言葉を思い、祈りによってはじめようとするのか、また大空や星々を見て、そこに神からの呼びかけを感じて従おうとするのかーそれとも何もそこに耳を傾けようとしないで人間的な思いに従おうとするのか…等々。 
 

主イエスも「まず神の国と神の義を求めよ」と言われたことが思いだされる。

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  野草と樹木たち   リンドウ    秋吉台高原にて  2019.11.11

リンドウ    秋吉台高原にて  2019.11.11

毎年11月に、松山を経て九州から中国地方の一部の集会にて御言葉を語らせていただく機会が与えられていて、その途中で秋吉台高原に立ち寄ることができた。

秋吉台といえば、秋芳洞が有名で、秋吉台高原の植物のことはあまり語られないようだ。私にとっては、このリンドウの野生の姿がことに心に残り、いつも心惹かれるところである。

花の色合い、そしてその姿、周囲の高原の様子とあいまって、得難い光景となっていた。野生のリンドウは時折、山道の日当たりのよいところで見いだすがなかなか見られない。

リンドウは、50数年前の学生時代に、京都の鞍馬山からはじめて、一週間近くもかけて、京都北山から丹波山地をの山々を越え、京都大学農学部の演習林を経て日本海側の福井県小浜市を目指したときに出会ったものが思いだされる。その演習林とされた広大な地域は山深く、当時は大台ヶ原(三重県と奈良県の県境にある)の一部とともに、関西では稀な原生林が残されている地域だとされていた。

そこに行くことはどの方面から行っても相当の山道を歩かねばならず、アクセスは相当に困難であった。

重いリュックを背負い、テントでの野宿、山小屋も、店もまったくない奥深い山々の谷を歩き、峠を越え、ときに雨や濃霧で指導標なき道に迷い、五万分の一の地図と磁石を常時手にしつつ、、長くて、遠い山旅をし、ようやく由良川源流に降り立ったときに咲いていたリンドウが、私の野生リンドウとの最初の出会いだった。

そのときに見た青い色とそのすぐそばの由良川の流れ、紅葉などが今にいたってもわすれることのできないものとなって心に刻まれている。

それ以来、野生のリンドウは常に私の心惹かれる花となった。その青い色は、大空や海といった広大なものにも神が用いた色であり、天の清い雰囲気をたたえている。 神はそうした自然の野草の花々によっても、人間に天の国を語りかけておられる。                                 (写真、文ともにT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 286 「神の言葉によって生まれる」                                                   2019.6.10


なた方は、神の変ることのない生きた言葉から生まれた。


主の言葉は、永遠に変ることがない         (Ⅰペテロ12325より)


You have been born again,  through the living and enduring word of God.

The Word of the Lord remains for ever. 


 私たちは母親から生まれ、成長につれて言葉も覚え、家庭や学校、職場でのさまざまの体験を重ねつつ、精神的に成長していく。しかし、成長につれて、病気や事故、災害、家族や職場における周囲の人間との問題、さらには老年の孤独や悲しみ…等々さまざまの波風が押し寄せてくる。そしてそこで生きる力や目標を失い、闇の力に押し倒されていく人も数知れない。


そのような困難を越えていくために、私たちは、新たに生まれる必要がある。


それが、神によって、神の言葉によって新しく生まれるということである。 


そうした苦しみや悲しみ、なぜ自分にこんなことが起こるのか、今後どうなっていくのか、死後はどうなるのか、この地球は…といった大きな問題は、この世の勉強や知識、経験などではどうにもならない。 私は、大学に入学してから何年かの精神的なさすらいの後に、私はそれまでのあらゆる経験や学びからは知らされなかった世界があるのを知らされた。

そうした人間世界の根本問題における解決の道は、そうしたいっさいの問題を支配されている全能と愛の神によらねば全くわからない。そのことははっきりと知らされたのが、私の場合は、大学4年のはじめ頃だった。 


それは、神の言葉によって新しく生まれたというほどに、根本的な転換だった。そして私にそのような大きな変化をもたらしてくれたのは、聖書の言葉であり、それは、はるか昔から人類に語りかけてきた生ける神の言葉、キリストの言葉だった。


人の言葉は、うつろいやすい。真実がなく、力がない。現代においても、国家の代表者というべき人が驚くような嘘をつく。いまから70数年前には、普通の人間である天皇を神としてあがめさせ、日本の政治家、軍人、学者、芸術家、教育者、マスコミ等々の圧倒的多数が、中国への侵略戦争を聖戦と称していた。しかし、そうした偽りは必ず明らかになっていく。 


そうした現実のただなかに、星のように光り輝いて、千年も二千年も変わらずその真理を語り続けているのが、神の言葉であり、それが聖書に記されているのは驚くべきことである。


その永遠の力をもって、神は私たちを新しく生まれさせることができる。そうして初めて私たちは、この混乱と偽り、そして悲しみと苦しみの現実の背後にある光を知らされる。


もし、私たちが、命を与える神の言葉を日々受けるならば、私たちは日々新たに生まれることが可能となる。


「外なる人は、衰えていくが、内なる人は、日々新たにされていく」(Ⅱコリント416

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 野草と樹木たち     イワカガミ         秋田駒ヶ岳 2018.07.20

イワカガミ         秋田駒ヶ岳 2018.07.20

秋田駒ヶ岳は、今から50年近くまえに噴火したことのある活火山(1,637 m)で、そこに咲く高山植物が多く、花を愛する人たちが多く訪れる山となっています。

イワカガミは、岩場に生えることがあり、葉に鏡のような光沢があることによります。これは、一般の登山客がほとんど通らない山道で見いだしたもので、青い空と雲が広がる遠くに、駒ヶ岳の頂上も見え、近くの谷川の音と小鳥のさえずりが時折聞こえる静かで見晴らしのよいところです。高さは、1020㎝、その淡紅色の花を花茎の先端につけます。 


高山の大気のなか、ここに見られる花々と山、そして青い空と雲は、互いに溶け合って自然の清い美しさをたたえています。 

こうした清澄なものがたたえられた山の世界こそは、神の清くかつ全能の言葉によって創造されたということを実感させてくれるものです。 

こうした雄大かつ広大な自然のすがたは、いかに芸術の天才といえども、とうてい再現することはできないことです。これらの自然はその一つ一つが、創造主たる神を賛美し、私たちに神の大いなる力と美を語りかけています。 


山々よ、すべての丘よ


主の名を賛美せよ


主の名は、ひとり高く


その素晴らしさは


天地に満ちている。(旧約聖書・詩篇148より)


今日のみ言葉 28「幸だ、見ずして信じる者」        2019.1.10

 

 あなたは私を見たので信じたのか。

幸なのは、見ずして信じる者。(ヨハネ2029より)

 

Because you have seen me, you have believed.

Blessed are those who have not seen and yet believe.

 

この聖句は、ヨハネ福音書の最後の部分にある。ほかの弟子たちが、復活したイエスに出会ったと証言しても、弟子トマスは、その手に触れてじっさいに十字架に付けられたイエスだと確認しないかぎり、復活など信じないと言い張っていた。 

そこにイエスが入ってこられて、手などに触れさせた。そして、イエスは言われた。「信じない者にならないで、信じる者になれ」と。

そのイエスに触れ、直接にイエスからの言葉をうけて、初めてトマスは、イエスは神だ、と大いなる霊的飛躍をして信じるに至った。 

そしてそのあとで、イエスが言われたのが、今日の御言葉である。

これは、昔の疑い深いトマスという弟子に言われた言葉だ、現代の私たちとは、復活のイエスの手に触れるなどないから関係がないと思いがちである。

しかし、ヨハネ福音書はとくに、当時のことを述べていても、それは じつは、それ以後の人間全体にあてはまることが言われているということが実に多い。

 

何か見える証拠を見てから、神にかかわることーイエスが神の子すなわち神の本質と同じ御方であること、復活や、神の愛、真理、神の正義、…等々を信じるのか、それとも、そうしたことの証拠を見ないで信じるのかが問われている。 

ヨハネ福音書の最後の部分にこのことがトマスを用いて強調されているが、それはそのまま現代の私たちへの強調の言葉となっている。

すでに、イエスよりも1700年ほども昔、アブラハムは、神からの呼びかけを受けて、遠い異国ーカナンの地へと行くように命じられた。それが神の言葉であり、必ず祝福の道だと信じてアブラハムは旅立った。 

目的地がたしかにすばらしいところだ、乳と蜜の流れる祝福地であるということの具体的な証拠を見たとか経験したとかいうのでなく、「見ないで信じた」のだった。

そのことから、世界に大いなる祝福の種が蒔かれることになった。 

まだ見ていないこと、 望んでいる事柄を確信すること、ーそれが信仰であると、ヘブル書11章の最初に書かれている。

自分は今後どうなるのか、死んだら消えてしまうのか、自分の犯してきた心の罪、言動の罪はどうなるのか、この世に深く巣くう悪はどうなるのか、この世界は最終的にどうなるのか、永遠の真理などあるのか…等々についてだれもまず証拠を見てから信じることはできない。

神の愛が万事をよくされる、ということを、見ないで信じるかどうかが問われている。  

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野草と樹木たち   クガイソウ           伊吹山      2017.8.28

クガイソウ     伊吹山     2017.8.28

クガイソウ (九蓋草、九階草) とは、輪生する葉が、 階層をなしているのでこの名が付いています。

伊吹山のものは、やや小型で、イブキクガイソウと言われることもあります。 

以前に、東北の鳥海山の中腹でも、見かけたことがあり、徳島県の剣山では、少しだけ変異のあるナンゴククガイソウ  (南国九蓋草) というのが、50年ほど前には、標高1700m付近に多く群生していて美しい光景でしたが、 その後は、鹿などに食べられてごくわずかになってしまって残念なことです。 

四国では、剣山以外の山々にも登りましたが、 出会うことがなかったものであり、初めて見たときの美しい光景は、いまも深く残っています。

高さは、1~1.5mほどになり、剣山においては、周囲の山々を見下ろす景観のよいところに、澄んだ青色の花を悠然と咲かせていたのを思いだします。

四国ではとても珍しい花でしたが、この伊吹山では夏のシーズンには、ルリトラノオ(瑠璃虎の尾) とともに多く、清々しい青い花がよく目立ちます。 

植物は身近な菜の花や、桜のような花の形を多く持つものが多いですが、他方で、このような長さが20センチほどにもなる長い穂のような花もあり、バラのように何層にも重なって咲くものもあり、リンドウのように筒状、あるいは鐘や鈴のような形の花もあり、その色や香りだけでなく、形にも実に多様性があります。 

こうした無限の多様性は、無限の英知を持っておられる神の創造物だからです。

  私たちも、またこうした自然に触れることによって、人間が造るものは画一的なのに対して、樹木や野草の花だけでなくその葉の一つ一つ、茎や幹、樹形等々、さらに、大空の雲や色形の様子等々の驚くべき多様な世界に触れることができ、そこから 神はあらゆるものを生み出し、愛されているゆえに、一つ一つが独自のものとして生み出されているのがわかります。  (写真、文ともにT.YOSHIMURA)